[107]座禅もいいけど、正座もね


タイトル:座禅もいいけど、正座もね
分類:電子書籍
発売日:2020/12/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:48
定価:200円+税

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
人生に絶望したアグリは、人生を立て直そうと訪れた座禅も挫折し、正座を教えます」の寺の門を叩く。
出てきたのは、十歳くらいの小坊主かと思うと、彼が寺の住職で、貢献という形で祖母の昌枝が正座を指導しているのだった。
座敷には「美しい正座のための十三か条」が書かれた大きい屏風があり。
その内容は正座とは、まったく関係ないものばかりだったので戸惑うアグリ。
座禅の住職、雪堂まで加わって、合宿生活のようなものが始まる。

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本文

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序    章 

 『正座をするための十三か条』
一 、苗から木を育てる →緑の美しさを知る。
二 、幼少から美しい人の肖像画を見続ける→モナリザから、今ではインスタの〇〇メンとか。
三 、幼少から美しい音楽を聴く。→耳から想像力を養う。
四 、幼少から美しくて本当に身体のための食事をする。→身体を健やかに保つ。
五 、幼少から一流のファッションや小物を使う。→意識が高められる。
六 、幼少から、お上品な子どもと遊んで育つ。→人間には上品さが必要。
七 、幼少から世界中の美しい景色を見る。→逆に、日本文化に誇りを持つ。
八 、幼少から逆立ちや回転運動をよくする。→三半規管が鍛えられる。
九 、幼少からマラソン、水泳を習慣にする。→身体を鍛えると頑強になる。
十 、幼少からマインドフルネスをする。→瞑想状態は身体、心をリラックスさせる。
十一、幼少から世の中へ奉仕活動をする。→奉仕精神を養う。
十二、燃えるような恋をする。→相手に恥ずかしい人間でいたくなくなるので精神向上に繋がる。
十三、そして一番大きな課題、小坊主、いや少年住職の猛斎と恋をする!

第  一 章 「正座の仕方、教えます」

 埃だらけの黒いパンプスが、引きずるようにしてくねくねとした葛籠折れの山道を登っていた。一歩一歩にまったく力が入っていない。
 砂利道に転んだ。手をついた拍子に手のひらを擦りむいた。が、アグリは歯を食いしばって起き上がった。
「ホーホケキョ!」
 木々の間からウグイスの鳴き声がこだまする。
 山は若葉色に輝き、ところどころに山つつじの優しいピンクが混じる。
 ハイキングにでも来ていたなら、心ウキウキする景色なのだが、アグリの心の中は真っ暗だった。
 何の化粧っけもない。
 チャコールグレーのスーツは埃まみれで肩までの髪はひとつにひっつめてあるだけ。パンプスの右の踵が取れてしまった。仕方なくパンプスを脱いでぶら下げて山道を登っていく。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 かなり登ったところで古びた寺の門に行き着いた。アグリは力を振り絞って門を叩いた。
 しばらくすると、門の横の通用口から顔を出したのは、十歳くらいの小坊主だ。
「何のご用ですか、おばさん」
(おばさんと来たか。ま、この子からすれば立派なおばさんだわね)
 アグリは深~くため息をつき、
「ここでいちばん偉いお坊様にお会いしたいのですが」
「どうして?」
「看板に書いてあるじゃないの。美しい正座の仕方教えますって。だからご住職様に取り次いでくれる?」
「ボクが……ここの住職の猛斎です」
 小坊主がすまして言ったので、アグリは飛び上がった。
「あなたがご住職? 正座の先生なの?」
「住職ですけど、正座の先生は別にいます。立ち話もなんですから、座敷でお茶でもどうぞ」
 こまっしゃくれた口調で小坊主、いや、住職は言い、くるりと向きを変えて門前から奥に続く砂利道の参道をスタスタ歩き始めた。白い法衣に腰の黒い法衣。まん丸に丸めた頭が可愛らしい。
(この子がお寺の住職って本当かしら?)
 小坊主にデタラメ言われて騙されてやしないだろうか? だが、大きな建物の入り口から立派な屏風の立てられた玄関口に上がると、ひんやりした空気と共に青年僧が次々と出てきてテキパキと小坊主の世話を始めるではないか。
 山道を裸足で登ってきたアグリの足も、土汚れ、血まみれだった。

第  二 章 寺の奥座敷

 アグリはひとりの青年僧に案内されて、日本庭園を横に見ながら、緑がそのまま映るツルツルに磨きこまれた廊下を滑らないように足元ばかり見て歩いていった。砂利道に裸足だった足が痛む。
「こちらへどうぞ」
 寺の奥座敷だ。正面に床の間と違い棚。ここは大きな濃い赤と桃色の牡丹の花が数本、大きな壺に活けられている。その横に巨大な屏風があり、毛筆で黒々とたくさんの文字がいかつい書体で書かれている。
「どうぞ、お座り下さい」
 床の間を背に座った猛斎少年があどけない声で言った。
 ふかふかで金の刺繍が一面に施された座布団を勧められたが、アグリは座布団を傍らに置いて膝をそろえた。
 正座の専門家からすれば正座のうちに入らないに違いない。
 そこへ襖を開けて初老の婦人が入ってきた。渋い宇治茶色の和装姿だ。
「猛斎住職の祖母、昌枝と申します」
 ロマンスグレイの美しい髪を波打って結い上げた上品な婦人だ。レンズが上半分、紫色のメガネをかけている。
「樹下アグリと申します。正しい正座を教えていただきたく―――」
 アグリが埃だらけの頭を下げると、
「分かりました。まず、これをお読み下さい。アグリさん」
 昌枝が示したのは、屏風だ。

第  三 章 正座をするための十三か条

 屏風には「正座をするための十三か条」が黒々とした墨で箇条書きにされていた。
「一、苗から木を育てる……二、幼少時から美しい人の肖像画を見続ける……三、幼少時から美しい……なんですか、これは? これが正座とどう関係あるのですか? 最初の項目なんて苗から木を育てていては何年もかかってしまいます」
「まあ、最後までお読み下さい」
「世界中の景色……一流のファッション……? 正座ってセレブじゃなきゃできないというんですか?」
 アグリは立ち上がって屏風の前まで歩いていった。
「最後のこれは何です? 『猛斎さんと恋をする』というのは?」
「猛斎住職の本名は、『たけし』と申します」
 昌枝は表情を動かさず付け加えた。
「そんなことをお聞きしているのではありません……。私の年齢で少年と恋をする? それがどうして正座をすることと関係あるのですか」
「もう一度、お座りなさい、アグリさん。最初からこの屏風の十三か条をよく読んで。字面だけ読むのではないですよ。すべて、美しい正座をするための大前提の心得です」
 祖母の昌枝の隣に猛斎が膝小僧を見せてちょこんと座っている。
「少なくとも、猛斎にはこの方法で習得させました」
(本当だろうか)という怪訝な顔を隠さずにアグリは、
「お宅様が相当、セレブな由緒あるお寺だということは分かりました。でも、最後の条件だけが分かりません」
「猛斎と恋をするってこと? 字面だけ読んではいけません、と言ったはずですよ」
「はあ?」
 ますます分からないアグリだ。

第  四 章 ムキムキマンと猫

 祖母が控えていた青年僧に目で合図した。障子を滑らせて入ってきた人物は。
「いや~~、アグリさん、また、会ったね!」
 自信たっぷりの大柄で筋肉が隆々とした男だ。墨衣の腰を荒縄で締め、まるで山の修行僧だ。
(いったい、何者?)
「アグリさん、ボクですよ。あなたが座禅で負けた寺の……」
「あっ!」
 彼を指さして立ち上がった。
「座禅決勝大会で私を負かした筋肉ムキムキの聖職離れした住職! 雪堂!」
「聖職離れしたは、ないだろ。これでも聖職でメシ喰ってるんだから。そんなにムキムキかな」
 筋肉が発達しきった脚で、雪堂はどっかと胡坐をかいた。
「どうしてここに?」
 二度と会いたくなかった男、ナンバーワンだ。
「座禅に負けたからって、そんなに毛嫌いしないで下さい。今度はボクも挑戦者です。座禅の奥義を極めていても、正座では初心者。このお寺で教えていただこうと思いましてね。このラララと」
 そう言って胸に抱いているクリーム色のふわふわ猫にちゅーした。
「座禅専門のご住職が正座に挑戦ですって? どうしてまた」
「いろいろコマーシャルしていかなくちゃ、お寺の存続のためにね。正座でも奥義を極めれば、いっそうハクがつきます。ねえ、ラララ」
 クリーム色の猫が「な~~ご」と鳴いた。
「その猫とふたりで? 猫と正座するの?」
「そう。動物にだって正座できるんですよ。このラララに猛斎くんの恋の虜になってもらうんです」
「わたくし、冗談は嫌いですの」
(これは、強敵だわ。子供は動物が好きだから)

第  五 章 やる気があるかどうか

 いきなり現れた禅寺の住職という雪堂は、可愛い猛斎少年住職と入れ替わったらいいのに、と思ってしまうほどの眼光はギラギラ、岩のような体つきの男で、連れている可愛い猫と似合わないったらありゃしない。
(それにしても、屏風の箇条書き……)
 アグリは猛斎の祖母、昌枝の前へ膝を進めた。
「この屏風に書かれていること殆どが幼少時からセレブでなければできないことばかり。今からどうやって、条件を満たせばいいんですか? 看板に『正座の仕方教えます』って書いてあるのに……。誰でもいらっしゃい、という意味ではないのですか?」
 つい、大声で言ってしまった。
 昌枝は落ち着いて、
「この箇条書きはあくまで理想です。そして挑戦する方に容易にできるものではないということを知らしめるためです。セレブでなければ挑戦できないことはありませんよ。要は、やる気があるかどうか、です。正座に相応しい高尚な精神を持っているかどうか、です」
「やる気……」
 アグリはへなへなとなってしまった。やる気なんて一番ない時だ。
 世の中に大失恋したんだから。

第  六 章 身の上話

「その『やる気』を失くして、取り戻すために来たのです。聞いていただけますか、私の身の上話を」
「はい、少しなら」
「ありがとうございます」
 アグリは座りなおした。心が昂っているから歪んだ座り方になっているに違いない。昌枝が猛斎少年に、
「ちょっとあちらへ行っておいで下さい」
 声をかけた。少年はコクリとすると、おとなしく庭へ出て行った。
「私、騙されたんですわ。大学を出てから十何年。地道に地道に働いてきました。貧しいのに、大学へ行かせてくれた両親に感謝するために。恋などすることもなく、結婚など考えずに日々の仕事に打ち込んできました」
 紺色の男物のハンカチを取り出して、目頭にあてた。
「周りからは、化粧くらいしろよとか、守銭奴(ケチでお金に執着していること)なんじゃないの、付き合い悪いなとか、いろいろ言われました。でも、親への仕送りを削ってまで旅行や、食事会や飲み会やパーティー、映画鑑賞やスポーツ観戦など、娯楽というものは、いっさい無縁でした。あんなものの何が楽しいのか理解できなくて。それに汗水たらして得たお金が消えていくんですよ。理解できないものにお金を使う気にはなれなかったんです」
「すべてお断りして……。アグリさん、あなたは娯楽を断ったんではなく、お誘い下さった方々から壁を作ってしまったんですね」
「そ、そんな言い方って。確かにそうかもしれませんが」
 アグリの汗まみれの手がハンカチを握りしめた。
「ハイ、そこまで!」
 昌枝が手のひらをかざしてアグリの話を止めた。
「もういいわ」
「もういいって」
「恨みを口に出してどうするの。毒吐きなどしたら、邪気を吐くのと一緒よ。周囲の人にまで邪気を振りまいてしまうし、自分はもっとみじめな地獄に落ちるだけよ」
「……」
「とにかく、これ以上の繰り言はごめんです。美しい正座から遠ざかりますよ」
「そ、それは困りますわ」
「では、黙って美しい正座ができるようになって世の中を考えなおすのね」
 昌枝の表情はキリリと明るく、アグリに別の世界を見せてくれそうだ。

 パチパチパチ……
 大胆な拍手が聞こえて雪堂が入ってきた。
「さすが、『正座の母』と言われる昌枝どの。拙僧もラララも感激しましたよ。屏風の十三か条を書かれただけの人だ」
 ふわふわの猫の喉を触りながら、満面の笑みである。
(この人には負けたくない)
 アグリの心の奥に一点の火が灯った。

第  七 章 アグリとたけしくん

 その日からアグリと雪堂は寺に住み込むことになった。雪堂はさっそく猛斎に、猫のラララを懐かせようと抱っこさせたりして必死だが、猛斎は猫に慣れていないらしく逃げ回っている。
 肝心の正座のお稽古はなかなか始まらない。
 イライラが積もってきた。

「猛斎さん」
 夕飯が終わったある日、ラララに追われて廊下の突き当りまで走ってきた猛斎に、アグリは障子の隙間から声をかけた。
「この部屋だったら、猫は入ってこれないわよ」
 猛斎が飛び込んできた。アグリが寺であてがわれた部屋である。
 障子の中は、畳ではなく豪華な洋室になっているので、猛斎は目を丸くした。
「あれ? すんごい豪華な部屋だねえ。他の修行僧の人の部屋は畳の部屋だけで小さい机と布団だけだよ。ここには洋間やピンクのひらひらつきベッドまであるじゃないか!」
「昌枝奥様がご用意してくださった部屋よ。私も落ち着かないんだけど、あの十三か条に合った部屋なんでしょう」
「もうひとりのムキムキマンのお坊さんもこんな部屋に住んでるのかな?」
 アグリは、クスッと笑い、
「さすがに、こういうお部屋はご辞退されて、ご自分のお寺から通われるそうよ。私も高級レストランの出前夕飯はご辞退させていただきました」
「ふうん。あのオジサンなら、本物のレストランでも行ってるのかな」
「さあねえ。猛斎さん、おやつでもいかが」
 アグリがせんべいを勧めると、
「ボク、本当はポテチの方が好きなんだけどなあ」
 などと言いながら昔ながらの草加せんべいをぼりぼり食べている。
「ここのご飯、大根を煮たのとか、菜っ葉を煮たのとかばっかりで、たまにはハンバーグやピザ食べたいよ」
 可愛い青い頭で愚痴っている。
「猛斎さんはお祖母さまとふたりなの」
「父ちゃんと母ちゃんが二年前、車の事故で浄土へ行っちゃったから」
 幼い表情に少し陰りがさした。
「あ、あら、ごめんなさい」
 アグリは慌てたが、
「ううん、いいんだよ。父ちゃんと母ちゃんはこの中にいる」
 ドンと小さな胸を叩き、
「それにお祖母ちゃんがいてくれるしね」
 にっこり笑った。その素直さに、じぃんと心打たれたアグリだった。課題の「猛斎を恋の虜にする」ではないが。悲しいことから立ち直ろうとしている少年の眼差しは健気だ。
「ボクのことは、たけしでいいからね」
「分かった。たけしくん。私はアグリよ」

第  八 章 十三か条の中から

 昌枝が奥座敷にアグリと雪堂を呼んだ。
(やっと正座のお稽古をさせてもらえるのかな)
 ふたりができるだけ背を正して正座すると、昌枝は屏風を示し、
「今日はおふたりに、この中からふたつ選んでいただきます」
「へ?」
 アグリと雪堂は顔を見合わせた。
「じゃあ、十三か条全部をやるということじゃないんですか?」
「もちろんです。不可能に決まってるでしょう」
 アグリと雪堂は、ホ――――ッと胸を撫で下ろした。
 それから屏風の前を行きつ戻りつ、穴のあくほど見つめて悩み悩んだ挙句、
 アグリは、第一条の「苗から木を育てる」と、第十一か条の「世の中の奉仕活動」、雪堂は第四条の「美味しい食事」第五条の「一流ファッションや小物を身につける」をそれぞれを選んだ。
「おふたりとも、それでよろしいのですね。では、痺れない正座の仕方だけは、先にご指導します」
「そりゃ、ありがたい!」
 雪堂が手を打った。アグリも実は、それを知りたかった。最初に教えてもらえるのは本当にありがたい。
「方法と申しましても、これを食していただくだけなの」
 昌枝が懐の真っ白な懐紙を取り出し、広げてみる。懐紙の上には青灰色の金柑ほどのカタマリがあった。
「何ですか? これは」
 ふたりは身を乗り出す。
「我が家に昔から伝わるリュウグウノツカイを干したものを削って丸めたものと聞いています。これを少し削って飲むと足に痺れを感じません」
「これが、そんな効き目を?」
 聞いたことがないので、アグリも雪堂も、ビー玉ほどの青黒いカタマリを眺めるばかりだ。
「ホホホ、そのうちに分かりますわよ」
 昌枝は袂を口元にあてて笑い、そのカタマリを修行僧に渡した。
「さて、十三か条に戻りますわよ」 
 雪堂は猫とふたりで贅沢三昧。ラララのフードも超高級品だ。
 アグリは控えめな活動を選んだ。
 早速、猛斎を呼んで一緒にメタセコイヤの苗を買ってきて寺の庭の一隅に植えた。
「これが、メタセコイヤの苗かあ。まだボクの膝より低いよ」
 猛斎少年がじょうろにたっぷり水を汲んできて、苗に水やりを始めている。
「そうよ。図鑑で見たのと同じでしょう」
 メタセコイヤは原始的な植物で、とても成長が早い。数年すると、数メートルの木に育つだろう。成長が目に見える方が楽しいだろうと、アグリが選んだ。
 ふたりで水やりを終え、微笑みあった。苗の前でしゃがんで合掌。
 雪堂は毛皮の混じったラメのジャケットで猫と共に高級車で出かける。ふわふわの猫ラララも装飾品の一部のようにいつも抱っこされている。

第  九 章 アグリとたけしくん

「さて」
 アグリは手っ取り早い奉仕活動として、街のゴミ拾いをすることにした。猛斎もトレーニングウェアでついてくる。火バサミを持って街でゴミ拾いを始める。
「たくさん、ゴミが落ちてるね~~」
 猛斎は今さらながら気づいたようだ。
「そうよ、紙クズでもポイ捨てしたら、街が汚くなるでしょう。春にだって落ち葉はあるし、あ、ガラスを挟むのは気をつけなさい」
 夕方までふたりで頑張り、たくさんゴミが拾えてスッキリする。
「ただいまあ!」
 寺に帰ると、猛斎はスニーカーを仕舞ってくれる青年僧の世話ももどかしくバタバタと自分の部屋まで走っていき、急いで硯で墨を擦り、半紙に濃く『護美』と書いた。そして、アグリに見せるために走ってきた。
「あら、たけしくん。良い言葉を知っているわね」
「うん。お祖母ちゃんが教えてくれたんだ」
 その日、ふたりは精進料理のご飯も進んだ。

第  十 章 雪堂、悩む

 雪堂は禅の「詫び、寂び」とは、ほど遠い派手なファッションに身を包み、高級レストラン、高級バーを渡り歩いている。おなじみの店も混じっている。
 たまに、バーのソファで正座してみるが、ホステスや客からじろじろ見られるので、長続きしない。お店のキラキラ着飾った女の子たちがキャーキャーと取り巻き、
「雪さんたら、何なさっているの」
「ご年配の方みたいに」
「正座だよ。正座。ま、こんなこと言っても君たちには分からんだろうが」
 金魚鉢みたいに大きいブランデーを舐めながら、
「座禅の奥義を極めていると、世の中に知れ渡っている俺が、正座専門の寺に負けるわけにはいかんのだ」
 ある日、お店通いをぷっつり止め、本堂で座禅を組む、正座する、と交互に始めた。
 本堂のご本尊、釈迦如来像が、神秘的な半眼で雪堂を見下ろしている。
「ご本尊には分かりますか? 座禅と正座とどちらが勝るものか」
 何時間も繰り返し、座禅はスッキリするが、正座には煩悩が残ると感じる。
「だから、十三か条の中の『猛斎と恋をせよ』とあるのを納得。少年を恋するくらいに情熱を持った者でないと正座はできん、ということか。座禅はそういう俗念をいっさい取り払ってくれるもの。似ているようで、対極にあるのかも」
 分かったような分からんような? 座禅を長くやっていても、雪堂には詳しく読み解くことはできない。
 猫のラララは猛斎よりもむしろ、アグリに懐いている。
 猛斎はしっぽをつかんで引っ張りまわすが、アグリは喉を触ったり優しいからだ。
 アグリと猛斎は、相変わらず庭のメタセコイヤに毎日、水やりしながら街のゴミ拾いを続けていた。
(う~~ん、どう見ても、街で飲み歩いている俺より健全じゃないか)
 ふたりを見た雪堂は自分が情けなくなった。

第 十一 章 中間試験

「中間試験を行います」
 昌枝の言葉に慌てるアグリと雪堂。
「あのう、私たち、まだ何も正座の修行をしてませんが、ゴミ拾いばかりで」
「俺もアルコール漬けになってただけで」
 ふたりとも、まっ青である。しかし時を待たず、昌枝は目にも止まらぬ速さでたすき掛けをして、しゃきっと正座した。
「いいですか? 背すじを真っ直ぐにし、かかとの上に座る。その際、スカートやズボンの裾は膝の内側に挟みこむのを忘れないように。そして両手は自然に両膝の上に置くのですよ」
 本堂内の床板に座布団なしで「よーい、どん!」で正座が始まった。アグリは気を引き締め、昌枝に言われたとおりに背筋を伸ばして膝の内側にスカートの裾を折りこみ、かかとの上に座り、膝の上に両手を置き、アゴをひく。雪堂も巨体を小さく固めて正座した。明らかにももの筋肉に負担がかかっている。
 リュウグウノツカイの効果は少しあるようで、痺れは苦にならないのだが。
 昌枝と猛斎が本堂の端っこに座って見守る。
「アグリさん、頑張れえ」
 ふたりが座って半時間。アグリは最初の姿勢を保っている。雪堂は美食で太ってしまったお腹が苦しいらしく、美しく座れないまま突入したので不利だった。でっぷりしたお腹をじゃまそうに持ち上げて、ふうふう言っている。
「ハイッ! そこまで!」
 一時間が経ち、昌枝がストップウォッチを押した。
「アグリさん、失格! 奉仕活動を倍に増やしなさい!」
「ど、どうして? 正座は全然揺れてないのに?」
「形は揺らいでなくとも、心が揺らいでいます。ゴミ拾いに疲れてきたんでしょう。それに比べて雪堂さんは太ってしまったものの、ご自分のために正座を追求する一途な精神が現れた座り方です」

第 十二 章 真実の勝者

「負けてしまった……」
 しょげるアグリに猛斎が駆け寄った。
「大丈夫? アグリさん」
「ごめんなさいね、猛斎さん。応援してくれていたのに。きっと、奉仕活動で街をきれいにしてあげてる、なんて偉ぶった心があったのね」
「そんなことないよ。ゴミの拾い方、教えてくれたじゃないか」
 猫のラララが近づいてきた。雪堂がいくら呼んでもアグリから離れない。
 アグリのしょげ方は半端ではなかった。
「私は何をやってもダメ、人並みの幸せはつかめないの? 恋人には騙されて捨てられるし、正座勝負には負けるし、恥ずかしくて故郷にも帰れやしない」
「アグリさん、人生、山あり谷ありだよ」
 可愛い声で子どもらしくないことを言ったのは猛斎、いや、たけし少年だ。ラララを抱っこしてほっぺを舐めさせている。
「ボクもね。父ちゃんと母ちゃんが死んじゃった時はひとり残されて泣いてばかりいた。ほんとに目が腫れあがって開かなくなるかと思うほど。泣いてばかりいたんだよ。そしたら」
「そしたら? このラララそっくりな猫を抱いてお祖母ちゃんが来てくれたの。ボク、その時、お祖母ちゃんに初めて会ったんだよ。父ちゃんがケンカ別れしていたから。そしてボクをここに連れてきてくれたの。転校したけど新しい友達もできたよ。だから、アグリさんも辛い時の次にはいいことが来るよ。あんなに一生懸命、ゴミ拾い続けたんだもん。これからもやろうね」
「たけしくん……」
 アグリは思わず少年を猫ごと抱きしめた。

 本堂のツルツルの廊下を滑るように白い足袋で昌枝が近づいてきて、美しく正座した。そして深々と頭を下げた。
「アグリさん、心からお礼を申し上げます」
「え、え、何をですか」
「ひとりになって、とても寂しそうだった孫のたけしを、よくここまで心を開かせて下さいました。ありがとうございます」
「え……」
「明日からご希望通り、美しい正座目指してお稽古しましょうね。真の勝者はあなたですよ、アグリさん」
「ええっ!」
 飛び上がるほどびっくりした。
「あなたの正座は植物を育てる素直な心と、奉仕活動で清らかさに満ちているわ」
 昌枝はにっこり笑い、
「これでよろしいわね、雪堂さんも」
 雪堂は鼻の横をポリポリ掻きながら
「しゃーねえなあ、酒池肉林(お酒と女遊び)やってた俺とは大違いだもんな」
「ラララを装飾品扱いしてないで可愛がってあげてちょうだいよ。ルルルの娘なんだから」
「分かったよ、伯母上。俺の完敗だ」
 苦笑いして出て行った。
 昌枝が見送ってから、アグリの方に向き直った。
「あれは、私の甥っこなの。間違いなく禅僧よ。あのね、座禅で正座と対決するなんて言っておいて、本当はアグリさんのことが心配でここへ来たのよ」
「ええ?」
「あなたが座禅に負けた時、あまりにも絶望的な顔をしていたから、気になったそうよ」
「そ、そうだったんですか……。ちゃんとお礼を言わなきゃいけませんね」
 目がぎょろついて、身体も逞しすぎて怖かったし、派手な格好と派手な遊びばかりやってる男と思っていたが。思いやり深い人だったのだ。
「やったね、アグリさん!」
 たけしが万歳して本堂を駆け回り、ラララがその後を追った。
「あら、あの方、ラララを忘れていったわ」
「アグリさん、ラララは、もうボクたちの家族だよ」
「そうね」
 アグリは喜びがこみあげてきた。
「勝った……私が……。もう一度人生、やり直せる……故郷へも帰れる……」
 呆然とご本尊の静かなお顔を眺めるアグリに、昌枝の叱咤激励(きびしく指導すること)が響いた。
「やり直せるかどうかは、あなた次第よ」


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