[29]正座のキミとお茶菓子を


タイトル:正座のキミとお茶菓子を
分類:電子書籍
発売日:2017/12/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:64
定価:200円+税

著者:笹川 チエ
イラスト:時雨エイプリル

内容
常に下を向き背中を曲げて生きてきた僕は、ある日学校の茶室にいる女性に目を奪われる。綺麗な黒髪、背筋、足先で、正座をするその人に。
この学校には「お茶菓子部」というものがあり、彼女はそこの部長らしい。お茶菓子を食べる部活への入部条件は……【きちんと正座をすること】?
美しい正座をしてお茶菓子を頬張る彼女。人と目を合わせられず、俯いてばかりの僕。――正しく座る、ということを。そのときの僕はまだ、知らなかったんだ。

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本文

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 前を向くことが苦手だ。
 人と話すとき。歩いているとき。誰かの近くにいるとき。僕の視線は斜め下に落ちていく。
 人と、目を合わせることが怖い。人に見られることが、怖い。
 人を見るくらいなら、自分の足先を見つめていたい。
 ずっとずっと、そう思い続けて。
 今日も僕は背中を曲げて、下を向いて、歩いている。

―――――はずだったのに。
 足を止めて、僕は顔を上げた。学校には似つかわしくない甘い匂いがする、気がしたから。
「……茶室?」
 自分の通っている学校に茶室があることを、僕はその日、初めて知った。
 その場所は、僕の知らないことばかりがあるということを。僕はこれから知ることになる。
「―――……」
 扉が中途半端に開いていて、中が見えた。畳の上に座るその人も。
「……きれい」
 人の足先を注視したのも初めてで、人を見てそう呟いたのも初めてだ。
 綺麗な長い黒髪。綺麗にそろえられた足先。綺麗に伸ばされた背筋。整った横顔。
 正しく座るという漢字を、僕は思い出している。
 その人が僕を見て。その人の隣に、僕がいることを。
 そのときの僕は、まだちっとも想像できていない。


「おちゃがしぶ」
「そう、『お茶菓子部』」
 変な部活だろ、と僕の担任の先生は言った。先生はまっすぐに僕を見始めるから、慌てて頷くと同時に下を向く。
 あの正座の人を見かけた次の日、放課後。僕は自分から赴いた試しのない職員室に、自分から入った。教室というクラスメイトがいる空間で聞く勇気はなかった。彼らはいとも簡単に会話の輪に入り込んでくる。足を踏み入れてぼくの顔を覗き込もうとする。
「実際は『茶道部』なんだけどな。あいつらがいつのまにかそう呼んでて」
「あいつら?」
「ああ、部員だよ。今は三人だけ。……ああ、あった。ほらよ」
「えっ」
「入部届」
「えっ」
 どうして? 首を傾げると、ん? 先生も同じ方向に傾げる。
「入部したいんじゃないのか」
「い、いやいや、いえいえいえい」
「テンション高いな」
「いいえ……」
 すぐどもってしまうのは僕の悪いくせだ。僕には悪いくせしかない。
 入部とか、本当にそんなつもりじゃなかった。ただ気になって……そう、あの人。茶室で、正座していた、女の人。なぜか忘れられなくて、何度も思い出してしまって。話したこともない。会ったこともない。どんな人なのか、これっぽっちも知らない。ただ一度、ひとめ見ただけの人なのに。
「でも聞いてきたってことは、気になってはいるんだろ」
「それ、は……」
 そうだ。だから職員室にまで来て。あの人があの場所で何をしているのか知りたくて。先生の興味深そうな視線が、どうにも居た堪れなくて。
「桜庭、部活入ってないだろ。ゆるい部活だし、見学だけでもしてみたらどうだ」
「う、ううん……」
「茶菓子がタダで食べれるぞ。入部条件さえクリアすれば」
「茶菓子を食べるだけの部活なんですか……? 入部条件……?」
「まあその辺も部員に聞いてみろって。今日もどうせ集まってるだろうし、行ってみな」
「う、うう」
「入部届けも貰っとけ」
「ううう」
 押しに押されて、僕は入部届けを持って職員室を抜け出した。どっと疲れて溜息をつく。クラスメイトも、先生も苦手だ。人はみんな苦手だ。
 ……それなのに、どうして。
 あの人のことが、頭から離れないんだろう。


 小さな頃からずっとそうだ。人と話すということが、どうにも上手くできない。目を合わせれば緊張して、喋らなきゃという切迫感で更に口が開けなくなる。それでも必死に話せば、どもって、拙くて。場の空気が、人の目が。しらけていくのを身体中で感じて。
 自分でも、何故これほどまでに生きることが下手なんだろうと思う。ちゃんとしなきゃって、思っていた時期もある。それでも、どうしても。
「……着いてしまった……」
 とぼとぼ歩いていたら、茶室の前に到着してしまった。今日はきちんと扉がしまっている。つまり中は見えない。人がいるかもわからない。人がいないかもしれない。今日は誰もいなかったということで、退散しても―――。
 そこでガララと扉が開いた。
「ひっ」
「えっ」
 もちろん開けたのは僕じゃない。小さな悲鳴を上げたのは僕だけれど。きょとんと女の人が僕を見上げた。女の人、だけど、昨日の人ではない。お茶菓子部の一人だろうか。とても小柄で、僕の頭二つ分くらい背が低く見える。
 小柄な人は、僕の足先から頭のテッペンまでじいいと見つめ始めた。僕は後ずさりこれでもかと目を逸らす。その状況が数秒続いて、「あ!」と声を上げられた。
「昨日チャコちゃんをガン見してた人!」
「ひえっっ」
 ガン見は! ガン見はしてない! 見てはいたけれども! …………、チャコちゃん?
 頭の整理が落ち着かない内に、小柄の人は僕の腕を掴んだ。悲鳴を上げる隙もなく茶室へ連れ込まれる。入った途端、畳独特の匂いと―――残り香のような甘い匂いが、鼻をくすぐって。
「チャコちゃん!ヨーちゃん! 入部希望者来た!」
「え!」違います! とすぐに反論すればいいものを、「えっ、えっ」しか言えなくなる。
「お、マジで?」
 中には男の人がひとりいた。この人もお茶菓子部なのか。部員は三人だけだと、先生は言っていた。小柄な人と違って今度は大きい。百八十センチはあるんじゃないだろうか。週刊少年漫画雑誌を読んでいるのに、ぴっしり正座をしている。畳と漫画雑誌と正座がアンバランスで、どうにもコメントできない。
「あ、ああのあの、僕はにゅ、入部希望、ではない、なくてですね」
「え? その入部届け持ってきたんじゃないの?」
「ひい」
 そういえば手に持ったままだった。あっと言うまもなく、小柄な人が入部届けを取り上げる。「あれ?」と首を傾げられる。
「白紙じゃん。書き忘れたの?」
「いい、いえいえい」
「テンション高えな新入り」
「いいえ……!」
「チャコちゃーん。ペン持ってる?」
 チャコちゃん、と呼んで、その人は男の人ではない方向を見た。つまり。
「持ってる」
 凛とした、声。僕は畳に全力で向かっていた視線を思わず、上げる。
 昨日は横顔だったけれど、今日は正面からその人を見つめてしまう。
 小さな顔。大きな目。背はおそらく、小柄な人と僕の間くらい。揃えられた膝。まっすぐな背。白い肌。手。
 人をまじまじと見てしまうなんて、僕の人生にあっただろうか。
「少し待って」
 彼女は正座をしたまま自分の鞄を開き、筆箱を取り出す。その中にあるボールペンを手に取る。その動作すら、きれい、と思っている僕がいる。
 手が。ボールペンが。差し出されて。その指先が僕の方を向いていて。
「どうぞ」
 目が合った。
 まっすぐに、ぴったりに。
 僕は固まる。目が合ったまま。彼女と向かい合ったまま。まるで世界が止まってしまったかのように。
 ……それでも。
「は、い」
 我に返った僕はすぐに俯いた。どもりながら返事して、ボールペンを受け取る。
 その瞬間、指先がほんの少し触れた気がして。僕は思わず足を揃えた。


 小柄の人は秋山 まどか。男の人は新垣 陽一。そして、彼女は西園寺 智弥子―――という名前らしい。みんな三年生だから、僕の先輩にあたる。部長は西園寺先輩で、副部長が秋山先輩らしい。
「陽一くんは『ヨーちゃん』。智弥子ちゃんは『チャコちゃん』。私は『まどまど』でいいよ」
「うっうう」
「後輩いじめんな」
 新垣先輩が秋山先輩の頭をチョップする。ニックネームで呼ぶなんて生まれてこのかた経験がない。「まあ、適当に呼んでくれればいいから」新垣先輩がさらっとそう言ってくれたので、僕は胸を撫で下ろしながら頷く。
 ボールペンを受け取って入部届けを記入したものの、僕は今までの経緯をどうにか説明した。昨日の放課後、初めてこの茶室を見つけたこと。そこで西園寺先輩を見たこと。それで……なんというか、気になって、先生に聞いてみたら『お茶菓子部』という存在を知って―――。あとは、今までの出来事通り。三人はきょとんとして顔を見合わせて、とりあえず座ろうかと座布団を出してくれた。僕は背中を曲げて突っ立ったまま五分ほど一人で話していた。
 三人とも足を崩さずに正座をしているから、僕も習って同じ座り方をする。普段こういう座り方をすることがないので、なんだか不思議な気持ちになる。
「あなたの名前は?」
「え、あ」
 西園寺先輩は、ふいに言葉を発する。この人の声がすると、なぜだかいつも以上に緊張してしまう。先輩の方を見て、視線が交わって、すぐに逸らす。
「さ、桜庭……です」
「下の名前は?」
 秋山先輩の純粋な笑顔に、喉をぐぬぬと詰まらせた。目を泳がせつつ、小さな声で答える。僕は、自分の名前も苦手だ。
「……さくら……、です」
「さくら? 桜庭さくらくん?」
「は、はい」
「サクサクちゃんだ」
「えっ」
「言いづらくないか?」
「ダブルサクちゃん」
「サクでいいだろ」
「じゃあサクちゃん」
 どの辺が「じゃあ」? 呼吸するように自然と何かが決定されてしまった。人との会話ってこういうものだっけ。久しぶりすぎてよく分からない。「桜庭くんは」また突然に西園寺先輩の声。
「はっ、い」
「サクちゃん反応おもしろいね」
「う、うう」
「俺らが取り囲んでるから緊張してんじゃねえの?」
「……そうなの?」
 西園寺先輩が小首を傾げる。秋山先輩は笑顔いっぱいだけど、西園寺先輩は無表情いっぱいって感じだ。それが整った顔立ちと似合っていて、やっぱりどうしても綺麗、って、感じで。なぜ僕なんかがこの人の前に座っているのか分からない。
「い、いえ、もともと人と話すのが、苦手、で」
「コミュニケーション障害か」
「さっきから全然目合わないもんね」
「う、ううう」
 秋山先輩と新垣先輩が顔を覗き込んでくる。二人から攻められると逃げる方向がない。顔を入部届けで覆うと「この子おもしろいねえヨーくん」「わかる」といたたまれない会話がすぐ傍で聞こえてくる。
「………………。この部活は」
 西園寺先輩が、呟くように言った。僕は入部届けからチラリと目を出す。先輩の膝を見る。
「本当は『茶道部』だということは聞いた?」
「は、はい」
「二ヶ月前までは、きちんと『茶道部』をしていたの。茶道の先生が週に一回来て、指導してくれていた。とても厳しい先生だったから、茶道部に入部する生徒は少ないの。今は私たち三人だけ」
「はあ……」
「ただ、その先生が階段から落ちて、足を骨折。今も入院中」
「えっ」
「それでも茶道の道具はあるから、自分たちで練習はしようとしたの。本当に。何度も何度も挑戦したの」
「は、はあ……」
「それなのにね」
「はあ」
「不味いの」
「はあ…………。へ?」
「三人とも。何度やっても出来上がった抹茶が、どうしようもなく不味いの。飲めないくらい」
 ……………………。
 ……しばらく沈黙したあと。
「…………なぜ……?」
「そりゃそう思うよねえ」
「二年間も教わってきたのに、先生に合わせる顔ねえよな」
 秋山先輩と新垣先輩ののんびりした声。「だから」と西園寺先輩が何故を答えてくれずに話を進めてしまう。
「練習はできないけど、部活をお休みしてしまうのはもったいないと思って」
「思って……?」
「お茶菓子を」
「おちゃがしを」
「食べようと思って」
「………………………………。………………な」
「なぜ? と聞かれればね」
「西園寺がお茶菓子大好きだからとしか言えないんだな」
 ねぇーと二人が顔を見合わせる。さっきからよく顔を見合わせているような気がする。仲がいいのだろうか。そんなに目を合わせてどうして大丈夫なんだろう。
「違う。抹茶は作れないけど、お茶菓子をいただくという作法を練習することは出来るから。抹茶なしの茶道を」
「ていう屁理屈を言うんだよチャコちゃんは」
「おもしろい奴だろ、お前の惚れた女」
「ほっ……!?」
「だってサクちゃん昨日ガン見してたじゃん」
 だからガン見では! 惚れた女とは! というか、知っているということは秋山先輩たちもいたということか。僕からは西園寺先輩しか見えなかったのに。
「つまり先生が戻ってくるまで、今はお茶菓子をいただく部活になっているの。それをまどかが『お茶菓子部』と言うようになって、一部の人に広がって」
「顧問もそう呼んでるしな」
「もしかして……」
「お前に入部届け渡した奴」
「ふふん」
 あの先生、顧問だったのか……秋山先輩はどうして誇らしげなんだろう。鼻を高々にしている。
「そういう部活でよければ、あなたにぜひ入部してほしい」
「えっ」
「桜庭くんに、入部してほしい」
 まっすぐな、視線。見なくても分かる。分かるくらい強く、意思を感じる。
 ……いつもなら怖くて、ますます背中を曲げてしまうのに。
 おそるおそる顔を上げる。目が合う。大きな目が、僕を見ている。それだけ。たったそれだけなのに。僕は今すぐに、背筋をまっすぐ伸ばさなければと思う。曲げていた背中を、どうにか直線に戻そうとする。その姿勢が久しぶりすぎて、まっすぐになっているかどうかも判断がつかない。可否を言われてしまいそうな気がして、先輩から目を逸らす。
「ぼ、僕、茶道よく分からなくて……」
「大丈夫。先生はもうすぐ退院されるけれど、療養に入るからしばらく帰ってこない。たったひとつのことだけ守ってくれれば、ほぼ毎日お茶菓子を食べられる生活があなたを待っている」
 とんでもなく素晴らしいと言わんばかりの熱意ある声に、僕はまたもや押し流される。そこは正しいことにして、もう一つの気になる点を尋ねることにする。
「『たったひとつのことだけ』……?」
「そう」
 先輩が、顎を引く。秋山先輩も新垣先輩も、姿勢を整える。膝に添えるように手を置いている。誰も背筋が曲がっていない。正しく座る、という漢字を、僕は再び思い出す。
「―――きちんと正座をすること」
 気づけば、いつのまにか西園寺先輩の手に僕の入部届けがある。
「お茶は点てられないけど。せめて作法だけは、きちんとしたいから」
 先輩の顔を、見てしまう。
「それさえ守ってくれるなら」
 彼女は、笑った。微笑んだ。僕は全身がカチコチになって。
「私たちと一緒に、お茶菓子人生を謳歌しましょう」
 どもることも、目を逸らす暇もないまま。
 ただ、こくりと一度頷いて。
 そこでようやく、自分の足がビリビリ痺れていることに気づいた。


 ―――次の日のお昼休み。昨日は既にお茶菓子を堪能した後だったようで、僕の初めての部活動は次回……つまり今日取り組むことになったわけで。
 ……僕、なんでお茶菓子部に入部することになったんだっけ? 押されて流されて現在地点。思い出すのは秋山先輩の元気はつらつな笑顔と、新垣先輩のゆるい笑顔。そして―――西園寺先輩の、一回だけの笑顔。
「……日本正座協会っていうのがあるんだ……」
 自分の教室で。ひとりで。弁当を食べる。携帯で『正座』を検索していたら、『日本正座協会』というものが出てきた。
 わざわざ何で僕は予習しているのか。……だって、それ以外することがない。友だちがいなければ、教室ですることなんて数が知れている。
 僕には友だちがいない。人と話せないのだから、出来るわけがない。僕以外のみんなが騒がしい。楽しそうに笑っている。一緒にご飯を食べている。僕はそこに入れない。入れてもらったこともある。だけど会話に上手く入れなくて、声をかけてくれても、つまらないことしか言えなくて。だんだん話しかけられなくなっていって……それの繰り返し。
 僕は、人と関わることに向いていない。
「…………」
 入部したことを、早速後悔し始めている。背中が曲がっていくのが分かる。
 みんなの笑い声が、僕をひとりにする。


「桜庭くんの正座はなってない」
「ひへ」
 放課後になり茶室に入った途端、西園寺先輩にご指摘された。先輩たちは既に座布団を敷いて正座をしていた。秋山先輩はニコニコと僕を見上げ、新垣先輩は月間少年漫画雑誌を読んでいる。……漫画雑誌好きなのかな。
「その空いている座布団に座って」
「え、あ、はい、お、おはようございます」
「おはようございます」
「おはようさん」
「おはよーサクちゃん。もう放課後だけどね」
 お疲れ様ですの方がよかったかな……と後悔しつつ、僕は座布団に座る。先輩たちの真似をして正座をした。つもり、だったのだけれど。
「違う」
「えっ」
「背中が曲がってる」
「え、あ」
 確かに正座しても僕の背中は曲がっていて、前かがみになっている。意識をして、背中を伸ばしてみた。それでも「違う」と言われてしまう。
「親指が離れてる」
「お、おやゆび」
「足の親指。重ねるか、触れる程度でもいい。ただ離したら駄目」
「か、かさねる」
「背中がまだ曲がってる」
「せ、せなか……」
「後ろにそり過ぎ。足に負担がかかる。重心は少し前に」
「すこしまえ……」
「背中が曲がってる。背筋は伸ばして、顎を引く」
「せなか…………」
「サクちゃん泣いてない? 泣いてる?」
「初っ端から飛ばすなあ西園寺」
 僕、やっぱり入部を間違えたのでは……。西園寺先輩の厳しい声に打ちひしがれていると、新垣先輩がポンポンと背中を叩いてくる。
「新入りが来て、俄然やる気なんだよ。付き合ってやってくれ」
「や、やる気……?」
 ちらりと先輩の顔見る。相変わらずの無表情。目が合って、その目が、きらきら、きらきらと輝いているように見えて。すぐに目を逸らす。そんな目を、された記憶がない。どうしてそんな目で僕を見るのか、僕には分からない。
「桜庭くん、また背中が」
「うあ、は、はい」
「下を向きすぎ。顎を軽く引くぐらいでいい」
「ん、んん」
「西園寺の視線が怖いんだって」
「……そうなの?」
 至極不思議そうな声色。口をもごもごさせていると、「とりあえず今日はこの辺にしてあげようよ」と秋山先輩が手を上げる。
「私はもう小腹がペコペコだよチャコちゃん」
「……そうね」
 ぐうと誰かのお腹がなった。僕ではない。西園寺先輩が咳ばらいをした。……まさか?
 先輩が傍にあった鞄から、なにかを取り出す。
「昨日からこれが食べたくて食べたくて」
 そう言って、僕たちの目の前に差し出されたのは――――。
「……さくらもち?」
 桃色のお餅に、葉っぱがくるまれたものが八つ。プラスチックの蓋をあければ、和菓子の甘さがほんのりと香る。
「そう、桜餅」
「だと思った! さすがチャコちゃん」
「そりゃそうなるよな」
「……?」
 流れが汲み取れず、ひとり僕だけがウンウンと頷けない。三人が僕の方を見る。なんだか楽しそうな、嬉しそうな目を、僕はつい見てしまう。
「桜庭さくらくん」
「は、はい」
「『さくら』がふたつも付いてる」
「……はい……」
 そう。そんな名前で、女の子っぽい。だから幼い頃は、よくからかわれた。僕は顔を赤くして、黙っていることしかできなかった。
 それなのに。
「―――素敵な名前」
 西園寺先輩は。秋山先輩は。新垣先輩は。
「桜餅食べるっきゃないよねって名前だよサクちゃん」
「ダブルだしな」
 楽しそうな笑い声。揃えられた膝。桜餅。重ねた親指。
「桜庭くんが、来てくれてよかった」
 たったそれだけ。
「桜餅を思い出させてくれた」
 それだけで、この人たちの中に、いられるような気がして。
 それが錯覚だと思いたくないと、思って。
「食べましょう、桜庭くん」
「……あ、え」
「背中が曲がってる」
「うあ、は、はい」
 秋山先輩が菓子楊枝を配る。西園寺先輩が桜餅をふたつずつお皿に分けていく。そのときに、さらりと尋ねられる。
「桜庭くんは、人と目を合わせることが嫌い?」
「えっ」
 嫌い、と聞かれたのは初めてだった。慌てて首を横に振る。
「き、嫌いでは、なくて、苦手、で」
「人と話すことも?」
「は、い」
「桜庭くんは、苦手なことが多いのね」
 喉の奥が何かで詰まる。なんにも言えなくなる。けれど。
「じゃあ、正座を得意なことにしましょう」
 息が、少し通った。桜餅がふたつ置かれたお皿を受け取る。
「あなたなら出来る」
 当然のように、言われて。気づけば桜餅がみんなの手元に配られていて。三人が手を合わせる。僕も同じようにする。
「いただきます」「いただきます」「いただきまーす!」
「い、いただきます……っ」
 楊枝で刺し、桜餅を、食べる。さくらの香りが口中に広がる。噛めば葉のしょっぱさと、なめらかな餡子と、桜のお餅がまざりあう。
「―――おいしい」
 あまい、声。顔を上げると、西園寺先輩がいる。
 とびきりとろけた表情で、桜餅を頬張っている。
 背筋を伸ばして、顎を引いて。膝をそろえて。
「――――……」
「見惚れてるねえサクちゃん少年」
「ほれ」
「ひぃっ」
 新垣先輩が僕の足をつついた。ビリビリが全身をかけめぐり、背中があっというまに曲がる。秋山先輩と新垣先輩はゲラゲラ笑い、西園寺先輩は「桜庭くん、また背中が」と僕を窘める。
 確かに、そう、確かに。
 先輩の言う通り。桜餅はとびきり、美味しかった。


 茶道部はもともと週に一回の活動だけれど、茶道の先生が入院し「お茶菓子部」になってからは、ほぼ毎日集まっているらしい。といっても、お茶菓子を食べたり、漫画を読んだり、宿題をしたり……正座さえしていれば、基本的には好きなことをしていいとのことだった。あれから二週間経ったけれど、先輩たちは思い思いにのんびりしている。新垣先輩は漫画雑誌を読みふけり、秋山先輩はそれを覗き込み、西園寺先輩は多種多様のお茶菓子を食べていた。僕はといえば、あいかわらず正座が下手で、西園寺先輩の指導をビシバシ受けつつも、すぐに足がビリビリになる日々を送っている。
 それが僕の日常へ溶け込み始めていることを、まだ上手に受け止めきれていない。
「あ、あの、秋山先輩と新垣先輩は……」
「二人は欠席」
「え」
 今日も今日とて茶室へ行くと、そこには西園寺先輩しかいなかった。ふたりきりなるのは初めてだ。先輩たちは毎日ここにいるものなのかと思っていたのに。
「デートに行くって」
「で……!?」
「付き合ってるから、あの二人」
「つつつつき……!?」
「桜庭くんの反応は面白いね」
 無表情で言われる。僕は「デート」も「付き合ってる」も言えない意気地なしだ。
「もともと週に一回の部活だから。それ以外は任意なの」
「あ、ああ、なるほど……」
 そうだったのか。つまり、僕も毎日通う必要はなかったわけで。……先輩が用意してくれていたらしい、空いた座布団を見つける。僕は黙ってそこに座る。
「今日のお茶菓子は桜餅」
「お、一昨日もだったのでは……?」
「毎日は我慢してる」
 我慢してるんだ……。「桜庭くんによる桜餅ブームが来ていて」西園寺先輩は、さらっととんでもないことを言ってのける。相も変わらず口をもごもごさせていると、いつのまにか桜餅を取り分けてくれている。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「いただきます」
「いただきます……」
 二日に一度の桜餅をいただく。おいしい。桜の味。餡子の味。小さな頃は、この葉っぱが苦手だったような気がするけれど。今はお餅と混ざり合って美味しく感じる。目の前ですこぶる美味しそうに頬張っている先輩を見ると、より、そう思う。
「桜庭くん、背が」
「は、はひっ」
 すっかり前屈みの背を伸ばす。後ろにそらない。背筋は伸ばして前に。膝は程よくくっつける。親指は重ねる。何度も何度も教えてもらったのに。僕の背筋はなかなかまっすぐにならない。申し訳なくて、ふがいなくて、先輩の目を見れなくて俯いてしまう。
「すみません……」
「どうして謝るの」
「ぼ、僕、いつまで経ってもちゃんと出来ないから……」
 先輩の、じいっとした視線が刺さる。責めるようなものではないと、分かっているのに、責められている気持ちになる。
「桜庭くん」
「は、はい」
「桜庭くんは、普段から背が曲がってる。立っているときも、歩いているときも」
「……はい……」
「それは、人と顔を合わせようとしないからだと思う。桜庭くんはずっと、何かにおどおどしている」
 自分の口を噛みしめる。なにも間違っていないから、なにも言えない。
「私には、どうして桜庭くんがそんなにおどおどするのか分からない」
「それ、は……」
「あなたは、その理由を知ってる?」
 ……知っている。嫌というほど。これでもかというほど。
 どれほど自分が、出来ていない人間なのか、知ってる。
「……ぼく、は……」
 たどたどしい言葉を、先輩は待ってくれる。
「僕は、昔から人と話すことが苦手で」
「うん」
「目が合うと、緊張、してしまって。そんなに緊張する必要ないって、分かってるのに。どうしても、どうしても緊張して。話すことが怖くなって。だから、目を合わさずに話そうとしたんです。だけど、それでも僕、こういう話し方しかできなくて……相手をいらいら、させてしまって」
 俯いて、自分の指をいじる。ずっと、そうしてきた。僕に呆れて、飽きて、離れていく人たちを引き止める勇気もなかった。
「何度頑張っても、僕は僕の、ままで。ちゃんと、出来なくて。人の前にいることが怖くて、人の前に、いると、……自分が、何にもできない、ちっぽけな人間に思えて……だから」
 だから僕は―――僕は苦手だ。
 なによりも誰よりも。僕自身が、僕を好きではない。
 だから、前を向く勇気がない。こんな僕で。こんな僕が。何にもできない、僕は。
 誰かに見られて、自分のちっぽけさを自覚するのが、たまらなく怖い。
「桜庭くん」
 先輩が、僕の名前を呼ぶ。こんな話、誰かにするのは初めてだった。自分語りなんて、つまらなかっただろうか。呆れているだろうか。怒っているだろうか。
「顔をあげて」
「……う、あ、すみません」
「私を見て」
 胃が縮こまる。もし、この人に呆れれたら。飽きられたら。嫌われたら。僕の人生は、ほんとうに、何の意味もなくなってしまいそうで。
 唇を噛みながら、おそるおそる、顔を上げる。西園寺先輩と、目が、合って。
 彼女は、まっすぐに。
 初めて言葉を交わした日と、なにひとつ変わらず。
 僕を、見てくれて。
「背筋を伸ばして」
「は、はい」
「手は太ももあたりに」
「はい」
「顎を少し引いて」
「はい」
「私の目を見て」
「は、い」
「桜庭くん」
「はい」
「私ね、正座が好き」
「……へ」
 好き、という言葉に、ぽかんと口を開く。目を合わせたまま、先輩は続ける。
「背筋をぴんと伸ばすだけで、自分が、ちゃんとしてるって思う。今この瞬間、自分は正しいことをしてるって、思う」
「ただしい、こと」
「それだけで安心できる。自分に何にも取り柄がなくても、これだけは。私、ちゃんと出来てるって」
 先輩、でも。この人でさえ、そんな風に思うのか。こんなにまっすぐで、好きなものにひたむきで、目をきらきら輝かせられる人でも。
 これほど真摯に、僕なんかに声をかけてくれる人でも。
「桜庭くん」
「は、はい」
「私は、桜庭くんといると楽しい」
――――背筋を。
「桜庭くんは、一生懸命頑張ってくれる。私が厳しく言っても、精一杯応えようとしてくれる。それがとても嬉しい」
 曲げないように。まっすぐになるように。
「お茶菓子も、美味しそうに食べてくれる。まどかと新垣くんの話にも、ずっと付き合ってくれる。」
 拳を握る。膝を揃える。
 目を、一度も逸らさないように。
「私は、桜庭くんともっと一緒にいたい。もっと一緒に、お茶菓子が食べたい。もっとたくさん、お話ししたい」
 先輩の言葉を聞いていると、伝わるように。
「だから」
 この人の前で、正しいことを、できるように。
「私の慕っている人を、どうか悪く思わないで」
 まっすぐな視線を、声を、きちんと受け止めて。
「桜庭くんに、桜庭くんを、好きになってほしい」
 ……受け止めて、ぜんぶ、すぐに飲みこめるほど。
 僕はまだ、僕のことを認めることができない。
 それでも。
「桜庭くん」
「はい」
「桜餅食べよう」
「はい……、えっ」
「まどか達がいないから、まだ残ってる」
 いつのまにか今までの話題は終わったらしい。頭と心がごちゃごちゃしたまま、更なる桜餅を受け取る。先輩は先に頬張っている。僕も口に運ぶ。
 食べ慣れた味。桜の香り。さくら。僕を見て、先輩が連想してくれたもの。
「美味しいね、桜庭くん」
 先輩が、僕を見て言う。いつもなら僕は、頷くふりをして俯く。
 ……顔を上げて、先輩の目を、見て。
「―――はい」
 たった一言、応えれば。
 先輩は嬉しそうに、顔を綻ばせる。
 その笑顔を、僕がもたらしたということを、自覚して。
 僕の背筋は、自然とまっすぐ伸びていた。


「今日のお茶菓子は抹茶ロールケーキ」
「……お茶菓子……?」
「たまには洋菓子も食べたくなるよね」
「ぜったい茶道では出ないやつだけどな」
 ……先輩とふたりだった日から、数日経って。僕たちはまた茶室に集まっている。
 今日は秋山先輩も新垣先輩もいた。二人は実は幼馴染で、中学校のときからお付き合いをしているらしい。デートのときは手を必ず繋ぐんだよと、秋山先輩は自ら喜々として話した。新垣先輩は渋い顔をしながら秋山先輩の頬を摘まんでいた。
「そういえば、サクちゃんはお菓子の中で何が一番好き?」
「えっ」
「私はチーズケーキ」
「俺はシュークリーム」
「よ、洋菓子だ……」
「ねえサクちゃんは?」
 僕は思わず西園寺先輩を見てしまう。先輩が首を傾げる。急に恥ずかしくなって、僕は俯いてしまった。まだ、人と目を合わせることには慣れない。それでも、背筋だけはなんとかまっすぐになるようにしている。
 正直、今まで甘いものは好きでも嫌いでもなかった。でも、この部活に入って。この人たちと一緒にいて。
「……さ」
「さ?」
「…………さくらもち…………」
 しん、と辺りが静まり返る。沈黙が痛い。早くも背中が曲がりそうになっていると、秋山先輩が足をツンツンしてきた。
「ひえっ」
「ふふふふふサクちゃん可愛いふふふ」
「く、くすぐったいです……!」
「足痺れなくなってきたなサク太郎」
「さ、サク太郎?」
「ちなみにチャコちゃんの一番は?」
「豆大福」
「えっ!」
 三人ともびっくりして僕を見る。今までで一番大きい声を出してしまった。
「どうして桜庭くんがそんなに驚くの」
「い、いいいいえ、すみませ……」
「チャコちゃんも桜餅だと思ってたんだ」
「うっ」
「西園寺は頻繁に色んなブームが来るからな」
「ううっ」
「今は抹茶味がブーム」
「うううう」
 背中を曲げない代わりに、全力で顔を真下に向ける。西園寺先輩は不思議そうにしつつも、抹茶ロールケーキをもぐもぐ食べ始めた。目がとろんとしている。美味しいらしい。
 僕たちもロールケーキを食べる。美味しいねえと、秋山先輩が新垣先輩に笑いかける。新垣先輩が頷く。西園寺先輩はじっくり味わいたいのか、目を閉じて咀嚼している。
 三人とも、正しく座ったまま。背筋を伸ばして。
 ……結局僕は、特別に何かが変わったわけではない。相変わらず話し方は下手だし、目を合わすのは得意じゃないし、友だちもいないまま。
 それでも。
 この人たちの傍に、いられる僕を。
 背筋を伸ばして、正しく座れる僕を。
 僕は、好きになりたいと思う。
「……先輩」
 こっそり西園寺先輩に話しかける。彼女にだけ聞こえるように。なに、と先輩は目で問いかけてくる。
「あの、僕……」
「……?」
「僕、は」
 ちゃんと、伝わるように。目を合わせて。
「先輩のように、なりたい」
 彼女が、目を丸くする。
「あなたのように、まっすぐに――――」
 僕は話すことがどうしようもなく下手で、苦手で。喋り方が、拙くて。
 それでも、背筋を伸ばして。正しく座って。真摯に誠実に、伝わるように。
「ちゃんとした人になりたい、です」
 丸くなった目が、瞬く。その睫毛が長いことを、僕はそのとき初めて知って。
 その瞬間。
 先輩の頬が、ぽっと赤くなった。
「え」
 先輩は急に僕から目を逸らす。慌てて視線を追いかける。
「すすすすみません僕なにか失礼なことを」
「違う違うのそういうことではないの」
「先輩あの背が曲がって」
「そういうことではないのお……」
「せ先輩なぜ畳に突っ伏して」
「どうしたの?サクちゃん告白でもした?」
「こっ……!?」
「足は決して崩そうとしないのさすがだな西園寺」
「土下座みたいになってるねチャコちゃん」
「だだだめです先輩が土下座なんて土下座なら僕が……!」
「それも何でだよ」
「サクちゃんもチャコちゃんも面白いなあ」
 先輩と同じように突っ伏す。秋山先輩の笑う声。新垣先輩の笑う声。西園寺先輩の赤い頬と耳。
 土下座しているときも先輩の背中はまっすぐで、僕は笑ってしまいそうになる。
「桜庭くんどうして笑うの」
「わ笑ってないです」
「背中が曲がってる」
「すすみません……」
 反射的に謝ると、先輩は小さく吹き出して笑う。なぜか秋山先輩と新垣先輩も土下座の真似をしだして、四人で笑い合う。
 いつか、このときのことを。
 こんなこともあったねと、笑って話せる日が来るといい。
 そのときこそ――――正しく座って。背筋を伸ばして。
 僕が好きな僕を、あなたに見てほしいと。
 心の底から思ったんだ。


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