[80]正座の前進


タイトル:正座の前進
発売日:2020/02/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:7

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:40
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
中学三年生の前木コトは部活が盛んな某出井高校を希望しており、第二志望に某瑛高校を塾で勧められた。
某瑛高校はお作法、お茶、お花の正座の授業がありコトはあまり気が進まなかったが、塾で友達のウタが某瑛高校を希望し、第二志望が某出井高校だったことから、一緒に二校の文化祭へ行くことにする。
某出井高校の文化祭で感動したコトは、ウタの付き合いで某瑛高校の茶道体験へ行く。
そこで浴衣姿の茶道部の先輩達に出会い……。

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本文

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 某年一月下旬。
「それでは、この高校の志望動機とこの高校に入ったらどんなことをしたいか話してください」
 静かな教室に面接の先生の声が響く。
 コトは背筋を伸ばし、息を吸う。
「私が貴校を志望校として決めましたのは、中学三年生の九月に文化祭に行った時です」

 某年九月。
 通路を挟んだ教室は今日も三年のほか、多数の中学生が自習をしている。まだ中間テストまでは三週間ほどあり、塾内は常に漂う一定の緊張感はあるものの、追い込み時期のそれに比べれば、まだまだ空気は柔らかい。塾では中間、期末テストの一週間前より塾で設けられた授業時間はその教科の自習時間となり、先生が試験に出そうなところを中学校ごとに教え、生徒はわからないところを質問し、テストに備える。その時期になると、それこそ内申に必須の提出厳守の学校の課題、テストの勉強、それらをこなすための寝不足気味の日々と、受験生はかなりの緊張感を抱えるようになる。
 授業前の教室の一室は、塾長と生徒の面談のため確保されていた。
 三日ほど前より、この塾に在籍している中学三年生を対象に、塾長と生徒との面談が行われている。
 塾では受験生以外にも、入塾して一週間、一ヶ月を経過した生徒や、年度替わりに全員を対象としての面談を行い、そこで塾に通う生徒に負担はないか、塾に対する意見はどうかといった話を聞いた上で、塾長から現時点での成績を見た上での今後の方針が話し合われていく。
 今回の中学三年生を対象にした面談は、九月の新学期開始後の平日の昼間を軸に行われた生徒の保護者と塾長との話し合いで出された結果をもとに、生徒本人の意見を聞き、志望校の絞り込みを目的としていた。
 前木コトは受付で聞いた面談用の教室に入り、向かい合わせにしてある机の前に座り塾長が来るのを待っていた。
 今日はこの面談後に自習をして夕飯前に帰る予定だ。買って来た夕飯持参で自習に来る子がいることを考えると、夜七時過ぎには帰る自分はまだ努力が足りない気もするが、リラックス時間もやはりコトには必要で、基本的には日付が変わる前には完全に就寝したいと思う。塾で授業がある日は帰りが十時を軽く過ぎるので、それが結構難しい。
 ノックの音がし、コトが「はい」と返事をすると、塾長の先生が分厚い高校案内の本とファイルを持って入って来た。
 先生は授業で英語を教えながら、併行して塾生全員のさまざまな面倒を見ている。
 先生は分厚い本とファイルを机に置き、向かいの席に座り「最近はどうですか」とコトに尋ねる。ざっくばらんな言い方だが、それによって、生徒が塾の宿題に関してだったり、部活で塾に行くのが遅れるといった日ごろ気にしていることだったり、はたまた塾の友達同士での些細なもめごとだったりを話しやすくなる。
 コトは、「はい、まあ、自分なりに頑張っています」と答えた。先生は「勉強は大変だと思いますが、大丈夫ですか?」と笑いながら訊く。
「はい、後居さんとか、ずっと塾で同じクラスで、今頑張っているなって見ていて思うので、それで自分も頑張ろうと思うことがあります」
 名前を出した後居ウタは、コトと同じ中学一年の夏期講習から入塾した女の子で、その時席が隣だったこともあり、中学は別だが仲良くなった。塾の宿題範囲の確認や、補習授業の日時の確認など、塾に電話して訊いてもいいが、生徒同士でも確認できる情報をお互いに交換するようになり、近隣の高校で受ける模試も一緒に行く仲だ。
「前木さんも後居さんも頑張っていますね」と先生は笑顔で頷く。
「では、勉強の方はそのまま頑張ってもらうとして、志望校の話をしましょうか」
 先生はコトの模試の結果、学校の内申などの情報が収められているファイルを開く。
「はい」
「前木さんは某出井高校を志望でしたね」
「はい」とコトは再び頷く。
 先生は模試の結果を見ながら、「このまま某出井高校を目標に頑張っていくといいと思います」と言う。
 そして、「それで前にお母さんに来ていただいた時に、お母さんも同じ意見だったのですが、一応ね、選択肢を広げるというか、大丈夫だと思いますが、次の入試での募集要項に変更があったりという可能性もないわけではないので、それに備えるという目的で最終決定の前にほかにも受験できそうな学校があったら知りたいとおっしゃっていたのですが」と続ける。
「はい。うちでも話しました」
「まあ、前木さんからすると、『もう行きたい学校決まっているのに』と思うところだとわかるのですが、お母さんの話も先生は正しいと思います」
「ほかだと、どのあたりになりますか? 一時間以内で通える普通科の学校が希望です」
 これも家でコトが親と話したことだった。一応家でも通えそうな学校はいくつか見たが、いまいち絞り込めていない。自宅から近くても、専門的な勉強をする高校だったり、将来を見据えて英語に力を入れる高校だったりと、それぞれの学校の良さを感じるものの、普通科で勉強して将来を決めようと思っているコトには向かない。学校の進路調査も第一志望の某出井高校は決定しているので揺るがないが、第二志望以降はまだ決定していなかった。
 コトの母親と先生の話し合いの時には、まずコトの希望を聞いていくつか行きたい学校を挙げて、それを今回相談する、或いは候補がうまく見つからなかった場合は先生の方で行けそうな学校を伝えるという結論だったそうで、そのことは事前にコトは母から聞き、今日先生も手短にそれをコトに伝えた。コトは、「自宅でいくつか学校を見たけれどまだ決められていません」と答え、先生はそれに応じて分厚い高校案内を開く。
「市内の最寄り駅から上りですぐの、普通科の学校がありますね。某瑛高校、聞いたことありますか?」
「先生、その学校、女子高ですか?」
 昔、近所のお姉さんが通っていたので、名前は知っていた。
 模試の時に出る射程圏内にたびたび登場している高校でもある。
 某瑛高校に通っていた近所のお姉さんは、お上品できれいな人だったのを覚えている。今は結婚して家を出ているが、高校を卒業後、進学し、就職してからも楚々とした雰囲気が漂い、どこか自分とは縁のない人、という気がしていた。
 あのお姉さんのような人が通う学校なら、憧れはあるが、あまりにきちんとしたお嬢さんばかりの学校で三年もやっていく自信がコトにはない。もっといえば、憧れよりも気遅れの方が大きい。
「もうちょっと、自由な感じの方が……」
 そもそもコトが某出井高校を志望したのも、部活が盛んな高校で、しかも英才教育を受けた一部の生徒のみの入部ではなく、高校からの初心者も大歓迎の上で好成績を収めていることで知られているからだった。コトは、どうしてもやりたい部活が現時点で決まっているわけではない。ただ、門戸の広いその心意気に、学校が象徴されている気がした。そういう自由な学校で三年間学びたいと思った。それを考えると、なんだか某瑛高校は堅苦しい。
「そうか。何年か前に共学になった学校で、もともとある附属の大学への進学が可能なほかに、外部受験対応の授業に大幅に変えられて、進路の幅が広いことでも人気は出てきたけど……」
 先生はそう言いながら、分厚い高校案内の一ページをコトの方に向けてくれた。
 進路の幅が広いというのは、悪くないとコトは思う。
 知っている子で大学附属の高校を受験する子の中には、当初からその大学を目標としていう子も少なくない。
 資料には、高校への主な通学手段や、入学時の部活加入率、海外留学制度の有無、髪を染めるのは可能か、制服はあるか、バイトは許可されているかといった事柄が記されている。そして下方にその高校の特色が短い文章で記されている。某瑛高校の下方欄には、『お作法、お花、お茶の授業あり。全員給食』とあった。
「先生、この学校正座する授業があるんですけど……」
「ああ、そういうのを普通科で勉強しながら習得したいって、この学校に行く子も多いよ」
「私、大丈夫かな……」
 コトはあまり気乗りしないまま某瑛高校の名前を記憶して、面談を終えた。


 翌日、授業の前に面談のあったウタと話し、ウタが某瑛高校第一志望で、一応某出井高校を視野に入れていること、コトが逆に某出井高校を第一志望にし、某瑛高校を視野に入れていることがわかった。そしてその週の土曜日、一緒に某瑛高校と某出井高校の文化祭に行ってみようと話が決まった。第一志望の高校の説明会は親と行ったが、文化祭は友達と行った方が楽しめる。模試のない貴重な週末の一日を文化祭で過ごしてしまうのはどうか、という思いも一瞬過ったが、この後の説明会はほぼ志望校が確定段階に入っている秋から冬だ。それに普段の学校の様子を見られる最後の機会でもある。二人の住んでいる地域からは、某出井高校へは上り電車で二十分で、某瑛高校は上り電車で十五分だった。ウタは、先に遠い某出井高校へ行き、そこから下りで二駅、つまり自分たちの地元に少し近い某瑛高校に行って戻ってこようと提案した。近い某瑛高校に行ってから、某出井高校に足を延ばしてもいいのだが、そのあたりの配慮はやはりウタである。本心としては、某瑛高校に時間を割きたいだろう。コトは、昼食は某瑛高校で食べようと提案し、当日は昼まで寝たいのを我慢し、朝九時十五分に最寄駅改札に待ち合わせにした。
 当日、お互いに時間より少し早く集合したので、予定より一本早い電車に乗れた。
 ちょうど文化祭が開始されたばかりで、二人は受付後、某出井高校の文化祭の中でも注目されているうちのひとつ、水泳部のシンクロの発表に間に合った。案内されたひな壇後方立ち見席で発表を待つ。大音量が響き、部員がプールサイドに走り出ると、観客席の熱気が一気にプール全体に広がる。コトは部員の合図で音楽に合わせてほかの観客とともに手拍子し、それから繰り広げられる熱演に心からの拍手を送った。笑顔で見ているのに、涙が出てきて、それはほかの人も同じだった。
 到着して一時間あまりで、コトは感無量状態になった。
 その後、中庭のチアの発表を見学し、武道場を使った迷路を体験し、某瑛高校に移動することになった。
 ウタは「もっとこっちの高校で時間を使っていいよ」と言ってくれたけれど、そういうわけにもいかない。
 来年、自分がこの高校に来られたら楽しもう、とコトは思っていた。
 再び電車に乗り、下り二つ目で降り、今度は某瑛高校に向かう。
 先生、委員と思しき生徒が、ほぼまっすぐな学校までの道の通過点に立ち、挨拶をしてくれる。コトはちょっと驚いたが、もう説明会に来ているウタは慣れた感じで、丁寧に挨拶を返し、コトもそれに倣った。
 コトは内心、さすが正座の高校だと思った。
 もう某瑛高校を正座高校と自身の中で変換していた。
 受付を済ませると、お昼時なのでそれぞれに焼きそばとお好み焼きを買った。校舎に入ってすぐの休憩スペースでお茶を買い、食事をする。初めての来校で物珍しいコトが周囲を見回すと、なんとなく校内全体が落ち着いている。人が入れ替わり、立ち替わりで食事をするスペースでも椅子やテーブルの配置は乱れがないし、来校者にこの学校の志望者や身内が多いからか、この高校の生徒以外の人も食べ方がきれいで、話すトーンも落ち着いている。
 これは少し気をつけないと、とコトは心する。
 この高校を志望するウタに文化祭とはいえ、迷惑をかけるようなことは避けなくてはならない。
 ウタはタイムテーブルを開く。
 もうウタのお目当ての発表が終わってしまっているのでは、とコトは心配したが、ウタが希望したのは茶道部のお茶の体験と、クラスの劇、それに展示発表だった。劇は特に決めていないので、行きやすい時間のクラス劇をひとつ見たいと言う。四十分後にクラス劇が行われるので、それを見ることにした。二十分ほどでコトとウタは、話をしながら食事をした。塾では話さないそれぞれの学校の詳細や、友達のことを今日は話せたのもコトにはよかった。すでに学校の定期テスト時に提出のワークをウタは二教科終わらせているとか、中学で仲のいい友達はとても勉強ができるので、この某瑛高校から近い進学校の某備意高校を志望していると話してくれた。すでに提出物の準備に入るウタの堅実さは、やはりこの某瑛高校の校風に合っているとコトは思い、有名な進学校を目指す友達がいるということもウタらしいとコトは思った。塾での友達が自分でよかったのか、という疑問は敢えて深く考えないようにした。
 劇の開始十五分前に行った教室の前には結構な行列ができていた。
 立ち見を覚悟していたが、案内係の先輩の手際がよく、おかけで後方の椅子にウタとコトは座れた。
 前方は柔らかな厚めのシートが敷いてあり、そこに座って見るようになっているが、ほとんどの生徒が正座をしていた。
 通常座るくらいのスペースにどの人も正座をしているので、満員の客席もどこか余裕があるように感じられる。それにコトの勝手な考えだが、正座のスペースできっちりつめられているわけではないので、万が一足がしびれた時の心配がないのがいい。このあたりの特に注意を払っているわけではないだろう心のゆとりをも感じさせる、この学校での感覚がコトには心地よかった。
 そして本音を言えば、真面目で面白味のない内容かと高をくくっていた劇は、品を欠くことはないが、かなり面白く、工夫に富んでいた。この某瑛高校は塾の先生が元女子高だと言っていたが、その名残か、女の子が王子様役をやっていて、そのしっかりとした声のトーンや立ち姿がとても似合っていて、そういう女の子に自然となじむ感じの男の子のお姫様役もよかった。
 大きな拍手を送られた劇出演者、そして脚本、音響、大道具といった生徒全員が狭いステージスペースで一斉に礼をする。
 お作法のある学校だからか、この礼の角度もきっちり合っていた。
 その後、ウタとともにコトはにぎやかな発表の並ぶ階から茶室へと向かった。
 打って変わった静かな空間で、浴衣姿の先輩が三人、「茶道体験いかがですか」と声をかけている。
 ウタとコトは「初心者ですけど、いいですか」と訊いてみた。
 先輩三人は「もちろん」と答え、「あと十五分ほどで始まりますけど、時間大丈夫ですか」と訊いてくれた。
 先輩三人によると、今は別の茶道部員による茶道体験が茶道室で行われていて、あと五分ほどで終わり、その後準備をして次の回が行われるらしかった。
 コトとウタは「はい、大丈夫です」と頷いた。
 そして、ふとコトは「私、正座もあまりしたことがないのですが、コツはありますか」と訊いてみた。
 茶道体験が始まってから困るよりはいいと思った。
 先輩たちは少し顔を見合わせた後、「まだ時間があるので、茶道室の方は使えないので、控室で練習しますか」と提案してくれ、頷く二人を奥の『控室』と張り紙された一室に連れて行ってくれた。先輩は軽くノックをしてから引き戸を開け、二人を「どうぞ」と促した。中は絨毯が敷いてあり、制服が畳んで置いてある。多分、ここで茶道部は浴衣に着替えるのだろう。
 三人は「ここでやりましょうか」と適当なスペースを見つけ、教室の隅に積んである座布団を二枚用意してくれた。
 コトとウタは「すみません」と「ありがとうございます」を繰り返した。
 ここまで親切にしてくれるとはさすがに思わなかった。
 二人が正座すると、「スカートはお尻の下に敷いてください。背筋は伸ばして」と言われた。
 思ったよりも本格的に教えてくれるらしい……。
「はい」と、二人は言われた通りにして座り直す。
「足の親指同士は離れないように。大丈夫だね」と、細かに確認しながら次に「肘は垂直におろすように。手は太ももの付け根と膝の間で重ねないで『ハ』の字で。膝同士はつけるか、握りこぶしひとつ分くらいの開きまで」
 正座の仕方を説明しながら、「背筋は伸ばして」と、軽く背に手を添え、姿勢を正してくれる。
「うん、こんな感じだね」
 三人の先輩はそう言って、コトとウタの正座を確認し、頷き合う。
 教えられた正座の状態を維持している間、先輩たちは「茶道は初めてですか?」と質問し、コトが大きく頷き、ウタが一応あるというのを確認した上で、簡単に茶道についても教えてくれた。
 お茶菓子のいただき方などを反芻しつつ、コトは今更と思いながら「私たちのほかにも、一緒に茶道体験する人っているんですよね? 迷惑にならないですか?」と先輩に尋ねた。
 できれば気心知れたウタと二人での体験がよかった。
「心配しなくても大丈夫よ」と先輩は笑って言う。
「入学前から茶道の心得のある人の方が少ないし、入学時初心者でも珍しくないから」
「そう、ですか」
 お礼を言い、座布団を返している間に、廊下の方から複数の人の声が聞こえてきた。
「終わったみたいだね」と先輩たちが言い、全員で控室を出る。
 そこへメイド衣装の優しそうな男の先輩と、執事衣装のしっかりした感じの女の先輩がやって来た。
 すると落ち着いた雰囲気の三人の茶道部の先輩たちが「友くん、いらっしゃい!」と、さっきとは全然違った声で男の先輩のところへ走って行った。男の先輩が三人の浴衣姿を褒めると、溶けそうな勢いで三人の先輩は喜んでいる。
 ほんの僅かな時間の出来事だったが、コトにとっての憧れの印象がやや違って映り、そこは気づかなかったことにした。


 茶道体験が開始されると、三人の先輩が騒いでいた男の先輩の所作は、とても美しく、優しげだった。
 茶道部の先輩が騒ぐのも無理はない、と思わせる、つい見てしまう優雅さがあった。
 そして、やはり三人の茶道部の先輩は、全く茶道体験のないコトから見ても完璧だった。
 わかる人が見れば、もっと褒めるところや、改善すべきところがあるのかもしれないが、正座にすら関心のなかったコトにも、その良さが伝わるのだから、やはり何かが違うのだと、とコトは思う。その上、緊張している様子のコトやウタが焦ったり、不安になったりしないよう、先ほどの説明に加え、さりげなくわかりやすい言葉を入れてくれているようだった。
 先輩たちの指導のおかげで、多くの不安を抱かなくて済んだコトはその分、先輩たちの所作を見られたのだと思い至る。
 言うまでもなく正座は美しいし、その所作も余裕が感じられる。
 ここまでなれなくとも、普段の所作から三人を思い出したいとコトは思った。
 お作法だ、お花だ、お茶だと言われると、難しい気がしていたが、こうして目の前で浴衣姿でお茶のおもてなしのできる先輩方は理屈抜きでコトの心を引きつけた。
 そして、ふとコトは気づいた。
 コトたちほどではないにしろ、執事衣装の女の先輩が緊張していることに。
 きちんと正座をしていたし、所作もしっかりしていたけれど、その表情に緊張が見えた。
 このことに気づいたコトは、某瑛高校にやって来て、今、心の底からこの学校いいなあ、と思った。
 さっき先輩も言っていたが、きっともともとお作法もお花もお茶も得意な人も、そうでない人もこの学校にはいる。
 コトが某出井高校をいいなと思った、生き生きとした部活紹介の中で『半数以上は高校からの初心者です』という言葉を聞いた時と似た感情が心の中に湧き上がる。
 この学校は、校内の空気がとても柔らかい。
 某出井高校の外へ外へと光を発するような勢いとは違うけれど、校内に満ちた柔らかな空気は、こうして訪れただけでも心に浸透する。
 途中で腕章をした制服姿の先輩や、カメラマンがそっと会釈しながら、取材をしていき、その気配までもが高校の文化祭というものをコトに感じさせていた。
 不安だったはずの茶道体験の時間は、まだまだ続いてほしいと思うほどコトにとって居心地のよい時間になった。


 文化祭からの帰りの電車の中で、次第にコトは自分自身の決心に気づきはじめていた。
 考えが変わるかもしれない、と思いながら、どこかでもう変わらない、とわかっていた。
 ウタとは、お互いの第一志望校を「いい学校だったね」と褒め合ったけれど、コトにとってそれはウタへの気遣いではなく、本心だった。
 電車に乗っている時も、駅でウタと別れた時も、帰り道を歩いている時も、コトの中には正座とお茶、そして浴衣の似合う三人の先輩の姿があって、緊張しながら正座をする先輩の姿があった。一緒に写真を撮ってもらいたかった、せめて写真を撮らせてもらいたかった、と今になって後悔するけれど、なんだかあの時はそれどころではなかった。あんなに静かな場所で正座をしていたのに、一種の興奮状態で、それはまだ続いている。いつ終わるのかわからない。
 中間テストが終わっても、コトの興奮は冷めず、コトは親に某瑛高校を受験したくなったと相談し、塾と学校での面談でもそれを伝えた。学力的には差のない高校なので、まず大丈夫でしょう、ということと、面接の練習は年明けからということで話は終わった。
 志望校を変えると伝えるまでは、コトの中で大丈夫だろうかという不安はあったが、親も塾と学校も驚くほどにあっさりとそれを受け入れ、コトの決断を再考するように言う大人はいなかった。そして決定すると、コトの中で新たな安心感が生まれた。
 ただ文化祭に一度行っただけで、説明会へは行っていなかったため、中間テストを終え、期末テストを控えた時期に学校説明会へ行く必要は出てきた。もっとも、この秋から冬にかけて何度か行われる学校説明会は、入試の詳細説明や個別相談が行われるので、その学校を志望する人の多くは参加している。期末テストが終わってからの参加も考えたが、入試での重要事項があるのであれば早くに知っておきたいと気が逸っていることもあり、期末テストまでそれほど余裕のない時期に学校説明会に参加した。
 一瞬ウタと一緒に行くことも過ったが、もう某瑛高校を第一志望と決めているウタは以前から説明会には行っているし、行くのは期末テストが済んだ頃だと考えられた。それに親が一度も某瑛高校には行っていないので、一度一緒に行くべきという結論に達した。
 某瑛高校は説明会の日も同じく先生が通学路に立ち、挨拶をしていた。もう何度も来ているという感じの親子は慣れた様子なのが、なんとなくコトにもわかった。けれど、そうしたコトの内心までをも察したかのように、先生は「説明会の方ですか?」と丁寧に声をかけてくれた。隣で若干顔をこわばらせていたコトの母親の表情が和らぐのが、母親の顔を見る前にコトにはその声や足取りでわかる。多分、コトも同じなのだろう。受付では校内見取り図のついた案内を受け取った後、説明会の行われる会場へ行く途中に「まだ席も空いていますし、お時間もありますのでお手洗いに行かれるようでしたらどうぞ」という細部の気遣いまでいただいた。廊下にはお花の時間に生徒さんの生けたお花がいくつか飾られていた。文化祭でも見たが、発表というより、おもてなしの域だとコトは思った。
 親切に案内をしてもらったのでトイレを済ませ、席に着くとステージに設置されたプロジェクターには、先日の文化祭のものと思われる映像が流されていた。
 コトが見ていない朝の文化祭開始時の風景からはじまり、クラス、部活といった参加団体全てを短い時間で映しているようだった。その中には、コトがウタと行った茶道体験も含まれていて、一緒に茶道体験をした先輩二人の様子も映し出されていた。多分、ウタとコトが入り込んでいない画像を使用したのは、肖像権云々の配慮だと思われる。そしてほかにも、ウタと行っていない発表の数々の楽しそうな様子が順番にスクリーンに映し出される。動画の最後に編集が某瑛高校の映像研究部であることが控えめに記されていた。
「きちんとしているけど、結構生徒主体の学校なのね」という声が後方から聞こえてくる。
 確かに、某瑛高校に行く前のコトは、お作法、お茶、お花の授業のある元女子高と聞いて、真面目で堅苦しい印象を抱いていた。
 けれど、行ってみると、そうではなかった。
 否、確かに真面目な学校だった。
 きちんと挨拶をするのが普通で、部活の発表もクラスの発表も全て滞りなく行われていた。
 けれど、その真面目さはつまらない、退屈というたぐいではなく、むしろコトの中で真面目である、ということの捉え方自体を変えた。
 それは、あまり得意でないであろうお茶の体験に参加したあの女の先輩の、お茶の体験を前におそらくは正座のことを学び、緊張しながら本番に挑んだことが想像できる横顔が根底にあったといってもよかったかもしれない。苦手だと思うことを敬遠せず、突き放さず、極度に疲弊することなく、できる範囲で学び、取り入れる姿勢や、それをごく自然に迎合するあの学校の雰囲気。それは限りなく優しい空間で、少しずつ強くなっていく人間を育む場所だとコトには思えた。
 やがて説明会の時間になり、校長先生が壇上に上がると、受験生へ忙しい時期に某瑛高校に来たことへのお礼、そしてまだ続く受験期間への励ましの言葉が述べられた。その後に「いつもならわが校では説明会の前に文化祭の映像を流さないのですが、生徒から、『説明会に行った時学校の印象が固かったので、もっと楽しい部分も説明会で伝えられませんか』と言われまして、今回から映像研究部の生徒が頑張って作ってくれた映像を流して、説明会の前に『某瑛高校は楽しい学校ですよ』というところもご理解いただきたいと考えました」と、映像を流した経緯を説明した。その上で「この映像は、映像研究部の説明会用の編集ですが、別に編集したものをコンテストに出品するために、今も映像研究部のみんなは頑張っていますよ」と付け加える。
 『学校の印象が固かった』という言葉に、まあ、確かにとコトは思い、そこで周囲から遠慮がちに笑いが起こったことで、同じように思う人が結構いるのを知った。そして、この学校は生徒の声が先生に届きやすい学校であることも同時に知ったのだった。


 ウタが某出井高校を第一志望にしたと知ったのは、某瑛高校の説明会から帰り、塾に自習に行った時だった。
 休日なのに制服を着ているウタと会い、「説明会行ったの? 向こうで会えなかったね」と言い合った後、コトはウタが某瑛高校の説明会ではなく某出井高校の説明会に行ったこと、ウタはコトが某出井高校の説明会ではなく某瑛高校の説明会に行ったことを知った。
「じゃあ、結局志望校は別のままなんだね」と言い合い、同じ高校を受けるつもりでいたのが違ったことを寂しく思いつつ、あの日一緒に文化祭に行ったことは意味があったのだと確信し合った。
「某出井高校、あのシンクロを見た時点でもう、この学校に行くしかないと思っていた」とウタは言い、以前から興味のあったお茶やお花は部活や習い事で学ぶことにしたと付け加える。
 コトは「私は茶道体験の時の先輩たちを見て、あの学校の雰囲気がすごく好きになった」と言った。
 一緒に文化祭へ行った仲なので、お互いの思いは十分に伝わる。
「一緒の高校は無理だけど、頑張ろうね」
 そう約束し、コトとウタはそれぞれの志望校への入学を決めた。
 コトが憧れの茶道部の先輩三人が、「優くん」、「友くん」、「素くん」と悲鳴のような声を上げながら、茶道体験で一緒にいた男の先輩とその友達と思われる二人の先輩を追い、走って行くのを見るのは入学して間もない春の始まりの頃のことになる。


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