[137]第15話 作法・建物、どちらがどちら?


発行日:2009/11/22
タイトル:第15話 作法・建物、どちらがどちら?
シリーズ名:やさしい正座入門学
シリーズ番号:15

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
販売価格:100円

著者:そうな
イラスト:あんやす

販売サイト
https://seiza.booth.pm/items/3177727

本文

 幼い頃に、感じたことは無いだろうか。感覚的に感じ取ることしかできない、見えない物への《畏怖》。ある晴れた日、一人、鳥居を見上げてみる。空を背負ったその鳥居は、どこか不思議な雰囲気を醸し出しているように見えた。鳥居から覗いた向こう側は、今見ている景色と同じなのだろうか。それとも、鳥居をくぐる事は、神様の領域へ招かれた事と同じなのだろうか……。


 先日、私は母と共に神仏具展へ取材に行ってきた。14回目の記事にお寺の座布団が椅子に変わっていた事について、何か良い情報はないかと思っての事だった。――と、例の長いすを探して3件ほど回ってみたものの、残念ながらどの店にもお寺で見た長椅子はなかった。どうも、お寺専用らしく、「カタログはあるが実物は無い」との事だった。余談だが、どの店にも正座椅子だけは常備してあった。しかも、どれもコンパクトに携帯できるタイプの型で、既に正座椅子はこんなに普及しているものなのか、と改めて実感するに至った。

 そんなこんなで、「どこかにお寺用の長椅子の置いてある店はないのか!?」とグデグデし始めたとき、母が提案をしてくれた。
母「あ、もう直接お寺に行きましょうよ」
……なるほど! お寺用ということならば、直に行けばいいのだ!私たちは、善は急げと急遽お寺に行くことにした。それから、「お寺、お寺」と口ずさみながら車を走らせて行ったところ、やっと神社に着いた。
母「さぁ、神社に着いたわよ」
私「ありがとう! わぁい、神社だー」
 車を降りて辺りを見回したところで、ふと立ち止まる。さて、私たちの目的はなんだっただろう。思い出した、そうだ、お寺だ!お寺用の椅子を探すこと、それが最初の目的であった。つまり、私たちはお寺と間違えて神社に来てしまったのだ。しかし、なぜか不思議と違和感がない。
私「……まぁ、きっと神社にも椅子はあるよ」
 そんなのんびりしたことを言いながら、柄杓で手を清めたりしていた。しかし、寺と神社を間違えたにしては、どうしてこんなに違和感がないものなのか。推測するに、一つには、鳥居の存在があげられると思う。それについては、最後の方で述べようかと思う。

【神社の様子】

 参拝を済ませ、ふと顔を上げると、拝殿の中に椅子が見えた。コンパクトな印象の、一人掛け用の椅子だった。その光景に「これは!」と思い、私たちは神主さんに直接お話しを伺ってみることにした。受付の巫女さんに、少し話しを聞かせてもらえないかと伺ってみたところ、何人かを経由し、神主さんに辿り着くことができた。いきなり神主さんと話しができると思っていなかった私は、嬉しいと感じると同時にとても緊張していた。でもその心配もなんのその、神主さんは柔和で気さくな方だった。「いきなり押しかけてしまったし、もしかしたら断られるかも……」と内心は心配だったが、今回は特別ということで取材をさせてもらうことができたのだった。これも運かしら!?(笑)
 その後、神主さんは親切に答えてくださり、話も楽しく聞かせていただくことができた。

私「歩いていたら、拝殿の椅子をお見かけしたのですが、以前はやはり座布団だったのでしょうか?」
神主「そうですね。座礼から椅子に変わりました。やはり時代に合わせた合理化でしょうね」

なるほど、やはり合理化。ちなみにこの神社では、8年ほど前から椅子を取り入れているらしい。

神主「最近では、正座が苦手な方が多くなりました。高齢者の方でも、昔より正座に強い方が少なくなってきましたしね。畳のある家が少なくなっている、という事も原因の一つではあるのでしょう」

 私は深くうなづいた。参拝者の事を考えた素早い時代に沿った変更、そして、形式を押し付けず、時代と共に沿う柔軟な思考。これぞ、慈しみのある神職の心だと、私はいたく感激していた。そんな風に感激しながらも、神職に仕える神主さんは、さぞや正座が上手いのだろうな。仮にも正座の記事を担当している私が10分ともたずに足が痺れるなんてことを知ったら、やはりガッカリされるのだろうか……などと考え始めていると、

神主「神主の私でも、20分もしていたら痛いですからね」

そう言って笑っていた。その人間臭くて温かいお言葉に、神職の方も例外ではないのだとホッとすることができた。

 その後も、神主さんは、初心者の私にも分かりやすいように、色々と話し、説明をしてくださった。まず、昭和48年に、初めて「正座の祭式の統一」がされたという。神主さんは、親切に紙とペンを持ってきて、図で説明してくださった。それをコンパクトにイラストにまとめると、こうなる。

【正座の祭礼の統一の図】神主さんは、こんな言葉を教えてくださった。
《進左退右》《起右座左》
これだけ見ると、何かの暗号か入力コマンドかと思ってしまいそうだが、これが祭礼で決められた「礼法」なのである。ここでは、図中のAのように正中から見て神殿が進行方向の基準とされている。正中はその言葉通り一番ではあるが、では左右はどうなのか? 歴史の話しによく出てくるように、神社の礼法でも、左右では右側の位が高いそうだ。(※地域によっては左の方が位が高い所もあります) 今回のイラストでは3人と少ないが、人が何人かいる場合では、神殿に近いほうが上位であり、さらに右にいるものが上位になるという。
 そして、神主さんが教えてくださった言葉の意味はこうだ。

神主「正座から立ち上がる時は、右足から。座る時は、左足から。進む時に出す足は、左足から。反対に退くのは右の足から。」

つまり、神殿のほうへ進み出るために正座から立ち上がる時は、上位である右膝を少し立ててから、下座である左足から歩き始められるようにするのだ。そして、退く時は上位である右足から退き、正座に戻るときは、下位である左足から座る。なんとも覚えるまではこんがらがりそうな作法ではあるが、上(神)に対する謙虚な姿勢を取り込んだ美しい礼法だと思った。いわゆる、下座から行動するという決まり事に則ってできた礼法である。
 ところで、イラストのBさんの向きがAさんとCさんと違うことにお気づきだろうか?これも右のほうが上位という方式に則っているからこその動きなのだ。もし、BさんがAさんと同じように神殿を見ると、神殿は顔の左側にくるようになる。それは「右が上位」の決まりごとに反しているので、イラストのように顔の右側に神殿がくるように調整しなければならない。そして、先ほどの《進左退右》《起右座左》の方法で進んでいく。
 Cさんも同じだ。向いているほうはAさんとは変わらないが、体の向きはそのままで矢印の方向へと進んでいくのだ。少しぎこちなく見えるが、これで自分の右方向にいつでも神殿を感じることができるのだ。

神主「最終的には、神に失礼のないようにする事が大切ということですね」

その尊い精神をいつも心にもって行動すれば、見た目ほど難しい決まり事でもないのかもしれない。何かを思う気持ちが、そのうち自然と行動に出るようになるなんて、なんと素晴らしいことなのだろう。
 他にも「拝殿の出口が右にあるのは、上座ということだからですか?」などと質問してみたが、

神主「出口が右なのは、たまたまでしょう」

必ずすべてが結びつくワケではなかったようだ。偶然もたくさんある……。
 そして、お寺と神社の区別がしっかりついていなかった私に、神主さんは面白いことを教えてくださった。

神主「昔は、今のように回廊もありませんでした。神社は元々、祠なのです。それが、どんどん大きくなって、このような形になっていっただけですので」

それは全く知らなかった事実だった。山や色々な所で祠を見かけることはあったが、それが神社へと進化していくというのは驚きだった。小さな祠が、それを守り崇める人たちの手によってどんどん大きくされていき、その結果神社になる……神社は、神社たるまでのその過程にすごく長い時を経るのだなと思った。そしてその構造上、右に出口があるパターンが多くなった、そういう事のようだった。(特に決まりではなく)
 ちなみに、これは個人的に調べたのだが、足袋も左足から履くのだそうだ。神職とはどこまでも右のようだ。謙虚が一番。日本の礼法というシステム自体が、謙虚に作られているということもあるのかもしれないが。
 たっぷりと時間をかけて話しをしてくださった後、神主さんはこう言ってくださった。

神主「椅子の写真を撮りたいとおっしゃっていましたね。今から、《夕みけ》を行いますので、よろしければその前にどうぞ。そして、どうぞ《みけ》の方もご覧になっていってください」

写真を撮らせていただける、その上《夕みけ》まで拝見させて頂けるとは……なんと……ありがたい事でしょうか。ちなみに《みけ》とは、1日に2回(朝・夕)行う神様へ供物を捧げる祭事で、これから神主さんが行うことは、神楽無しの祈祷を捧げることなのだそうだ。お言葉に甘えて、早速本殿にて写真を撮らせて頂いた。これが、参拝している時に見えていた、拝殿の椅子だ。
【拝殿の椅子】【このようにズラリと……】

正座もして頂きました!

【正座の様子――膝に注目】

 柔和で気さくな印象を受けた神主さんだが、装束に着替え、神具に囲まれ、しなやかに神様に祈祷を捧げるその姿は、凛として神々しさがあった。やはり、神様に仕える仕事とは、こう愛と凛々しさと優しさとに溢れていなくてはな……などと思ってみるが、それもきっと、修行をたくさんされてきた成果なのだろう。私にもこんな優しさが振りまけたらいいな、と思う。いっその事、修行をするべきか。始めるたびに3日で終わる私の座禅に意味はあるのだろうか。
 《みけ》を堪能し、お礼のご挨拶をした後、私はずっとひきたかったおみくじをひいてみた。なんと、大吉であった! こんな日が大吉でないワケがない!  それから私は、神社から駐車場へ向かう帰り道、ずっと母に寄り添って子供のようにはしゃいでいた。神主さんが優しかった。巫女さんも優しくて綺麗だった。椅子や正座以外にも神社のことを色々と勉強をさせてもらい、おみくじが大吉だった。それも良かった。しかし、はしゃいでいる最大の理由は……

私「蚊が多い!(笑泣)」

自然に囲まれた素敵な環境の神社なので、蚊がいるのは当たり前なのだが、虫刺されは痒いので、なるべく回避したいものである。私は不思議なステップを踏みながら神社を後にした。

 帰りもまた、鳥居の前に来た。「お寺に来たかと思ったら神社だった」……最初に私が混同してしまった理由を調べてみると、平安時代から江戸時代(他説では奈良時代)にかけて、お寺も神社も1つの境内に同居していることがあったそうだ。それにより、双方に鳥居があったり、仏塔が建っていたりし、私たちは混同してしまうということが起きるのだとか。これについては、また機会があったら掘り下げて調べてみたいと思う。

 鳥居の端を歩き、くぐった。神社を出た後は、いつもよりも清々しい気分であった。たまにはこうして、神社に顔を出してみるのも、魂が洗われる気がして良いかもしれない。特に、記事作成時に、《写真》を《邪心》と何度もタイピングし間違えた私には、積極的に行くべきだ。実にそんな気がしている。(笑)

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