[16]ヨロシク! 正座研究部
タイトル:ヨロシク! 正座研究部
分類:電子書籍
発売日:2016/12/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:228
定価:400円+税
著者:砂川 なこ
イラスト:鬼倉 みの
内容
入学式も終わり、晴れて高校生になった私。なのに、初めてのオリエンテーションでまさかの正座。みんなが痺れて立てないなか、三神くんだけはサラッと立ち上がった。すごーい! カッコいい! なんだか急に気になり始めた三神くん。
そんな彼にはある秘密が……。その秘密のせいで時代をさかのぼって過去へ行ってしまった私と三神くん。そして、私たちは正座のルーツを探ることに。
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一、高校生活の始まり
どこからか奇妙な音が聞こえた。ん? おおっぴらに顔を動かすことはできないから、反射的に動かしたのは目だけ。でも、みんなの神経もその音の方に集中している。犯人は誰? そう思っていたら、また聞こえた。明らかに誰かのおなかが鳴ってる。きっと先生にだって聞こえているはずだけど、この場で笑ったら入学早々目を付けられるのは必至。だから、誰も笑わない。けど、みんな笑いを抑えている。だって、ほら、この空気。顔はもう笑ってる。声が出るのを我慢しているからふっふっふと鼻から息が漏れている。
でも私だってもうおなかペコペコ。けどそれよりお願い。もう終わってほしい。チラッと時計を見たら、かれこれ三十分以上経ってるじゃない。おなかもヤバイけど足の方がもっとヤバイ。もう感覚が全くなくなっていて自分の足がどこにあるのかさえわからなくなってるんだから。初めの十分位はまだお尻を少し左右に動かしてみたりしていたけれど、今となってはそんなことは意味がない。それなのに、和尚さんの話のペースは未だ衰える気配がないときてる。
「もう無理だぁ」
私は大声で叫んだ。いや、叫べるものなら叫びたかった。けどそんなことは許されるはずもない。だから叫んだのは心の中。何が楽しくて、高校に入学するなりお寺で正座してるわけ? 意味不明。新入生のオリエンテーションがお寺で和尚さんの法話を聞くなんて、そんなのアリ?
「ちょっと、私、限界。てか、もう限界過ぎてる」
隣に座ってる明日香が私の脇腹をちょんちょんと突いてきた。
「私もだよ。もうどこが足だかわからなくなってるもん」
明日香は同じ中学の出身で、唯一同じクラスになった女子。柔らかなロングヘアの見た目とは裏腹に男勝りなところがある。中学では部活もテニス部で一緒だったから、明日香がいるだけで高校生活も楽しくやれそうって思える。けど、まさかこんな始まりとはね。そうこうしているうちに、他のみんなもなんとなくざわざわしてきた。さっきの誰かのおなかの音でちょっと空気が緩んだ感じ。
ようやく和尚さんも場の空気に気づいたのか、元々の予定が終了したのか、とにかく法話にやっと終わりが見えた。
「それではみなさん、他者に感謝の気持ちを常に持って自分を甘やかさないで有意義な高校生活を送ってください」
法話はようやくこの言葉で締めくくられた。代わりに前に出て来たのは学年主任の山辺先生。あー、早く終わって。
「今日は住職様には大変ためになる貴重なお話をしていただきました。みんなぜひ自分に何ができるかを考えて、これからの三年間に生かすようにしてください。それでは後ろの人から順に外に出なさい」
山辺先生のこの言葉にふーっとみんなの溜息が漏れ、ざざざざーっと一挙に倒れ込む。
「足、痛っ。立てるわけない」
「うわぁ。やっと終わったぁ」
「誰か助けて」
悲鳴やら歓声やらで本堂は一気ににぎやかになった。私もやっと足を崩して伸ばそうとしたけど、すぐには伸ばせもしない。当然立てっこない。絶対に無理っしょ。指で足をトントンと触ってみても自分の足だと思えないんだから。でも、みんなもそうみたい。うめき声や笑い声はするものの誰もまだ立たない。いや立てない。早く感覚を戻そうと今度はパンパン足を叩きながら、みんなの様子を見ていた。
その時、少し離れたところで、誰かが何事もなかったかのようにさらっと立ち上がった。
「先に行ってっからな」
うそ! 信じられない。誰? 三神くん? なんで立ててるの? みんなが苦しむ中、彼にはそんな苦しみなんて全く関係ないように見えた。倒れ込んでいるみんなの隙間を縫うようにして出て行く。
「カッコいい! カッコよすぎる」
アニメのヒーローみたい。他の男子はみんなへなちょこで彼だけが輝いて見える。そのまま本堂を後にしようとしているその後ろ姿は、逆光で濃い影となって神々しいくらい。彼が出て行ってから、ようやく何人かが立ち上がった。その後はみんなぞろぞろという感じで外に出て行き始めた。明日香が「行ける?」と聞いてきたので、私は「たぶん」と答えて立ち上がってみた。良かった、何とか立てた。
「それにしても長かったよね。場の空気読んでほしいよね、和尚さん」
明日香は小声でこう言ったけど、もうさっきまでの和尚さんや先生のことは今の私にはどうでもよくなっていた。歩きながら考えていたのは、さっきの三神くんのこと。
「ねぇ、明日香、さっき誰かがさっさと立ち上がったでしょ? 見た?」
「えっ? あぁ、うん。あれって三神だっけ? あいつ、正座すんの平気なのかな。しらーっと立ち上がって行ったよね」
「めちゃカッコよくなかった?」
「うーん、あれをカッコいいと言うんならカッコよかったかもだけど、タイプじゃないしね。えっ、何? もしかして美波はタイプ? 恋に落ちたとか言ったりするわけ? ズッキューンってキューピットの矢が突き刺さってしまったとか?」
明日香にそう言われて急に顔が火照った。真っ赤になっているかもしれない顔に気づかれたくなくて、ちょっと足早に明日香の前を歩いた。
「まさか! そんなこと言ってないって。みんながひっくり返ってるのに、平気で立ち上がって行くからスゴイってビックリしただけだもん」
明日香とは親友だけど、からかわれそうだからこれ以上は言えない。さっき、三神くんのことをカッコいいと思ったこと、なんで言ってしまったんだろう。軽々しい発言に猛反省。
私たちが外に出た時には、もうほとんどの生徒が本堂から出て来ていた。そして私は知らないうちに三神くんの姿を探していた。一番に本堂から出て行ったんだから、もうこの辺りにはいないかもしれない。人の波の中に視線をめぐらせる。あっ。私の視線は松の木の傍で数人の男子と話をしている彼を捕まえた。一瞬心臓がドクンと波打つ。
「美波ったら、聞いてる?」
「ん? 何?」
「クラスごとに学校に戻るんだって」
うん、うんと頷いたけど、どうしても三神くんに視線がいっちゃうって、ヤバイよ、私。
教室に戻ってからも、つい無意識に三神くんの姿を追ってしまっていた。そんなだから何度か目が合ってしまった。気づかれなかったかな、私がずっと見てたこと。でも、気になる、気になる。三神くんの存在も、スッと立ち上がれたワケも。
次の日もその次の日も三神くんとは話をする機会が全くなかった。同じクラスなんだから声を掛けようと思えば掛けられるんだけど、まだなんとなく女子は女子、男子は男子で集まってる感じだから、人見知りしない私でもさすがにちょっと無理。割り込んでいけない。なんとかならないかなぁ。人は信じていなくても困った時や上手くいかないときには、神様にお願いするもんだよね。助けてくれるんじゃないかと思って。今がその時。三神くんと話すことができますように。あぁ、神様お願い!
そんな私の願いが通じたのか、とうとうチャンスがやってきた。それは学級役員を決める話し合いでのことだった。
「学級委員から決めるけど誰か立候補ありますか。委員長、副委員長のどっちでもいいんで」と、日直がとりあえず司会を始めた。三十三人もいるのにシーンと静まり返っている。顔を下に向けている者や窓の外に目を向けている者、どこかわからない空中を見つめている者など、みんなこの場から逃れたいようだった。もちろん私もだけど。私は前の席の男子の背中の一点を意味なく見つめていた。誰か名乗りを上げてくれないかな。でなきゃこの先めんどくさいことになるかもしれない。そう、くじ引きになることを恐れていた。
「じゃあ、誰か推薦はありますか」
あ、くじ引きの前にまだワンステップあったのかぁ。けど、ホッとなんかできるはずない。推薦するほど、まだみんなのこともわかっていないし。今度はざわざわし始めた。もちろん勝手に推薦なんかしようものなら、後で恨まれるに決まってる。たいてい罠にハメられるようなものだから。でも廊下側の男子たちが誰かの名前を挙げる気配だった。一人の男子がにやにやしてる。
「玉井くんがいいと思います」
「えっ。オレ? ムリムリムリムリっ。人見知りなんで絶対にムリっす」と言って、推薦した男子の肩をコイツっと押していた。結局、決まらないので、案の定くじ引きになってしまった。仕方がないと担任の坂上先生が出してきたのは、神社のおみくじのような細長い棒だった。それを箱に入れて引いていくらしい。ちゃんと用意してあるじゃない。ま、こうなることはお決まりだってことか。
「じゃあ、窓側の一番前と廊下側の一番前のふたり、ジャンケンして。勝った方から順に一本ずつ引いていく。当たりは二本。赤い印が委員長、青い印が副委員長。はい、ジャンケン」
ジャンケンに勝った窓側から引いていくことになったんだけど、ドキドキ感ハンパない。
「うおーっ」
「よっしゃー」
「お願いっ」
順に一本ずつ引いていく。全員の視線を手もとに浴びながら。
「あっ! 最悪―っ!」
その時、窓側から二列目の川上くんが赤を引き当てた。教室がどよめく。でも、他のみんなは少しホッとしている。私も。でもまだ青が残っている。ドンドン近づいてくる。息苦しくなってきたじゃない、大袈裟だけど。そして私の番。
「お願いしますっ」
目を閉じて一本引く。あ、何にも印はない。良かったぁ。運よく青を引かなかった私は、その後みんなの様子を落ち着いて見ることができた。そして明日香の番。明日香も目を閉じて一本選んだ。
「うっそー!」
えーっ。明日香ったら引いちゃったの? 運悪すぎ。明日香が青を引き当てたから、くじ引きはそこで終了となった。残った人たちに安堵の空気が広がる。明日香には気の毒だけど、これでめでたく学級委員は決定。
「はい、川上と滝川、前へ来て。この後の進行よろしく。日直と交代して」
坂上先生から言われて、二人は渋々黒板の前に立った。まだ風紀委員、放送委員、美化委員、図書委員、保健委員、体育委員を決めなければならない。そんなにあるの? 委員、多すぎじゃないのと溜息が出る。
学級委員に時間がかかったから、これからは急がないとチャイムが鳴ってしまう。先生に急かされて、みんな決める気になった。きっと大役が決まったからだ。
「じゃあ、図書委員しまーす」
「体育委員してもいいです」
なんて立候補してる。さっきまでとは大違い。明日香が大役になっちゃったし、私も何か引き受けてもいいんだけどなって考えていたら、玉井くんの声が聞こえた。
「三神、お前、中学の時放送部だったんだから放送委員やれよ」
へぇ、そうなんだ、三神くんって放送部だったんだ。と思って聞いていたら「じゃあ、他に誰も希望がなかったらやります、放送委員」って言ってる。急に心臓の高鳴りが復活してきた。ここで私も放送委員になればきっと三神くんと話ができる。けど、どうしよう。私が迷っている間にも、意外にもすんなり他の委員は決まっていっていた。誰かが放送委員をするって言えば、もう終わりだって思った瞬間、私は手を挙げていた。そして、こう言った。
「やったことないんですけど、もしよかったら放送委員やりましょうか」なんて提案っぽく。結局決まった。だから思惑通り三神くんと同じ委員になれたってこと。これって大きな進歩だ。ちょっと学校が楽しくなりそう。
その日の帰り、私とは対照的に明日香は自分の運のなさを大いに嘆いていた。
「もう、こんなことになるなんてさぁ。ほんとツイてないよ、私。よりによってあの川上とだよ。ないわぁ。委員長ってガラじゃないし、あいつ。ま、私もそうだけど。あぁ、やんなっちゃう。この先思いやられるよ。めんどくさぁい」
「わかる、わかる。明日香が青のくじ引いた時、私だって驚いたんだから。やっちゃったって。なんかあったら協力するからさ」
「もう頼んだよ、美波。ちなみに、美波は放送委員だっけ。まあ、あの中ではマシな方だったよね。無理やり他の委員になるくらいなら放送委員は正解だったと思うよ。あ、もう一人は誰だっけ?」
「ん? 誰だったかな。三神くんだったかも」
「ふぅん、そっか。明日、委員会あるし気が重いなぁ」と明日香は足元の小石を蹴った。この前、三神くんのことをからかわれたけど、もうそんなことは忘れてるみたい。一安心。
「ねぇ美波、アイス食べてから帰んない? 気分転換しないとやってらんないわ、私」
「わかった、わかった。付き合いますって。行こ、行こ」と私は明日香と肩を組んだ。でも、歩きながら頭の中に浮かんでくるのは三神くんのこと。本堂でさらっと立ち上がったあの時の姿。なんであんな風に立てるんだろって今でも思う。
二、第一回企画会議
翌日の放課後は初めての委員会活動だった。昨日、明日香が散々気が重いと言っていたのがそれだ。学級委員は視聴覚室、風紀委員は家庭科室とそれぞれ集まる場所が決まっている。放送委員は音楽室に集合だった。
「私、もう行くからまた明日。終わるのってそれぞれだから今日は一緒に帰れないと思うしさ。あぁ、なんかちょっと緊張してきたぁ。めんどくさいけどー」
なんて明日香は言い残して先に出て行っちゃった。私は先輩達に会う緊張より、興味は三神くんと一緒にそこに行くこと。音楽室に行く前にいつ声を掛けるべきかとタイミングを計りながら荷物を鞄に入れてたら、不意打ちをくらった。
「遠山、そろそろ行く? 音楽室だったよな」
頭の上で声がしたから顔を上げたら、三神くんがもうそこに立っていた。ち、近い。ちょっとそこ、もうプライベートゾーンなんですけど。
「えっ、あ、うん。そうだね、そろそろ」
要領を得ない受け答えをしながらも、心の中を悟られないようにいかにも平静を装う私。教室を出て二人で音楽室に向かう。彼が先に歩いて行くからその後をついて行く。へぇ、三神くんてヒョロっとしてると思ってたのに意外とがっしりしてるんだ。目の前の背中を見て思う。
音楽室の扉を開けて中に入ると、もう多くの生徒が集まっていた。音楽室はかなり広くて平面ではなくホールのように座席に段差がある教室だった。中学校にはこんな教室はなかったなぁと眺めていたら、三年生らしき人に「一年生? こっち」と手招きされた。席は学年ごとに分かれていて、クラス順に決められていた。映画館のように一つずつ下ろして座るイスだったけど、木製だしクッションがついているわけじゃないから座り心地はあんまり良くない。三神くんと並んで席についたけど、なんとなく落ち着かなかった。彼の隣に座ってるからなのか、やはりこの場の雰囲気からなのか、それともその両方からなのか。先輩たちは顔を合わせると「おう、お前も放送かぁ」とか「わぁ、また一緒だね」なんて言い合って楽しそうに笑っていた。みんな仲が良さそう。あちらこちらにそんな様子が見えるからキョロキョロしてしまう。
「お前、落ち着きないなぁ」って三神くんに言われてしまった。
「そんなことないよ。ふつうですぅ。それより、三神くんの方こそ、男子のくせになんでそんなに落ち着いてるのよ」
「はぁ? 男子のくせにって。それこそふつうですぅ」
「だってさ、この前だって一人さらっと……」と言いかけて止めた。オリエンテーションの日のことがバレてしまう。
「なんだよ、さらっとって」
「何でもないよ。忘れた。思い出したら言うよ」
「変なやつ」
全員が揃って、顧問の先生の紹介の後、簡単な自己紹介をした。顧問の先生は谷口先生。そこは大丈夫だけど、他の人たちの名前までは一回では覚えられない。たぶん、そのうち覚える、つもり。それより、結構やることが多いことに面食らった。朝の放送、お昼の放送、下校の放送とそれぞれ順番に回ってくるらしい。ということは、朝早く来ないといけない日があったり一番遅い下校になったりするってことかぁ。あんまり深く考えてなかったから、そこは想定外だ。意外と大変なんじゃないの!? 保健委員や風紀委員の方が案外楽だったかもって今になったら思える。そう思うけど、そもそも私が放送委員になったのは、三神くんと話せるからっていう理由なんだから、この際大変でも仕方がない。けど、お昼の放送は自己紹介を兼ねて一年生から順番に回す、なんてことになってしまった。さっそく何を話すか決めて提出しなきゃいけないなんて、そんなの反則だ。それにしても、こんなに私が動揺してるのに三神くんったら相変わらず平気そう。どーなってんだ、この人は。
でも、委員会が終わって一緒に学校を出たから自然と三神くんと帰ることになって、内心「やった」って喜んじゃってる、私。
「みんないい人ばかりで良かったね」
「うん、今のところはな」
「なんか意味深」
「いや、別に意味はない。仲が良くてもモメる時はモメるってことさ」
「まぁ、そうだけど。それにしても、朝もお昼も放課後も放送あるなんて知らなかったなぁ」
「マジで? お前、放送委員って意味わからなくて立候補したってこと?」
「いやー、そういうわけじゃないけど。なんとなくって言うか、わかってはいたんだけど、ちょっと予想外だったっていうか」
「わけわかんねぇー。つまり知らなかったってことだろ?」
「そうとも言う」
「ま、俺の場合は中学で放送部だったから少しはわかってたってこと。でも、いきなりネタを考えるとはさすがに思ってなかったけどな」
「でしょう、でしょう。びっくりだよね」
なんか初めて意見が合った感じで心が弾む。けど、私たちの放送当番は二番目で、来週中に何か企画を考えて委員長に出さないといけなくなった。のんびりしてはいられない。
「ねぇ、早く作戦練らないといけないんじゃない?」
「そうだな。じゃあ、明日、俺んちで第一回目の作戦会議するかっ」
「明日? 三神くんちで? うん、いいよ」
「今日は稽古があるから無理なんだ。悪い、明日」
「稽古?」
「そう、合気道。じいちゃんが道場やっててさ、やらされてるってことよ」
「へぇ、そうなんだ。じゃ、明日の放課後ね。家、教えてね」
「あぁ。ここから右に曲がってコンビニを通り過ぎたらすぐだけどな」
そっか。そっちに行くんだ、と道の向こうを眺めた。中学の時は一度も同じクラスにはならなかったからどの辺に住んでるのか全く知らない。けど案外近いかも。
「じゃ、俺はこっちだから。んじゃ、またな」
「うん。また明日」
三神くんて合気道やってるんだ。だから、後ろから見た時に意外とがっしりしてたんだ。それに道場をやってるなんて、どんな家庭なんだろう。正座があんなに平気なんだから、もしかしたら、畳の部屋ばかりの時代劇に出て来るようなお屋敷だったりして。そんなお屋敷あの辺りにあったかなと考えてみる。でも、確実に彼の存在が近くなった気がする。明日が楽しみ。いや、楽しみ過ぎる。
翌日は、朝、登校してる時から放課後のことで頭がいっぱいだった。公園の前で明日香と待ち合わせて一緒に歩いていても、意識はそこにはなかった。三神くんの家に会議をしに行くのに、さすがにノープランでは変に思われちゃうから、何かちょっとくらいは考えておかないと。でもハッキリ言って何一つ思いついていない。放課後までにはなんとかしなきゃって、そのことが私の脳みその中をぐるぐる渦巻く。
「ねぇ、美波、どう?」
「ん? えっ、ごめん、なんだっけ」
「もう、三回目だよ。さっきから返事だけしてなんにも聞いてないんだから」
「そんなことないよ。ちょっと委員会のことが気になってて。ごめん」
「美波、やってきたのかなって思って、英語の自己紹介のこと。だって私、自信ないんだもん」
「えっ! まさかの、忘れてたっ。なんでもっと早く言ってくれなかったのよ」
「いやいや。だから、さっきから言ってますって。自分がうわの空なのにこれなんだから」
早く一日が過ぎてほしいと思ってるのに、英語の授業でいきなり指名されるし、日本史の先生は自己紹介で突然歌い出すし、古典の先生の口癖に笑いを必死で堪えなきゃいけないし。今日の神様は本当に意地悪だ。一日の進む速度がこれほど遅いとは。
六時間目の終わりを告げるチャイムをどれほど待ったことか。いやぁ、長かった。でも、昨日、委員会に一緒に行って、帰りも一緒だったから三神くんとの距離をもうそんなに感じなくなっていた。「何か企画考えて来たか」なんて声を掛けられてもテンパることもなく自然に話ができるようになっていたもの。でも相変わらず休み時間にはつい目で追ってしまうけど。
「終わった、終わった。お疲れ」
明日香が帰り支度をしてやって来た。
「今朝、明日香に言われて思い出したけど、もう最悪だったよ、英語。よりによっていきなり当たるしさ」
「うん、笑った。けど、案外ちゃんと言えてたよ。良かったって」
明日香に軽く慰められていたら、ふと視線を感じた。振り返ると三神くんがこっちを見ていた。窓から射し込んでいる傾いた日差しが彼の横顔を照らしていた。そのせいで表情はよく見えないけれど、真っ直ぐにこっちを見ているのはわかった。
「遠山、五時にコンビニの前にいるから。企画会議よろしく」
こっちには近づくことなく、そのままの位置からこう言うと、三神くんは教室から出て行った。
「何? 何?」
明日香が瞳をキラキラさせて聞いてきた。
「あ、別に、何か特別なことがあるとかじゃないからね。あれだよ、あれ。放送委員でやんなきゃいけないことがあってさ。急いで話し合わなきゃなんないのよ。やんなっちゃう、もう」
なぜか少し動揺してしまった。この前みたいに、三神くんに特別な感情を持ってるって思われたら大変。けど、この否定の仕方がまたいけなかったみたい。
「美波、変だよ。何で慌ててるのよ。あっやしい」
やっぱり。そう思われたかぁ。しくじった。
「あ、怪しいわけないじゃん。だから、今日は三神くんの家で話し合いをするの、それだけだよ。変に思わないでよ」
「いいから、いいから」
明日香は少し茶色い瞳にいたずらっぽい光を携えて不敵な笑みを浮かべている。何がいいから、いいから、なのよ。絶対にまだ疑ってる。
「五時に遅れちゃ大変だよ。帰ろ、帰ろ。美波、行くよ」
なんで明日香に急かされてんのよって思いながら、私たちは教室を出て靴箱に向かった。
「ただいま」
「おう、おかえり」
食卓で弟の淳史がポテトチップを食べていた。それも割り箸で。手でそのまま食べた方が美味しいに決まってるのに。それにしても誰かが食べてるのを見ると食べたくなるのが人の常。
「一ついただき」袋に手を突っ込んだ。
「うわっ、俺が自分で買ったんだぞ。それに先に手洗えよな」
「いいじゃん、一つくらい」
ポテトチップスを一枚口に放り込んでそのまま二階に上がった。五時までにはまだ時間があるから、ちょっとはそれらしき企画案を考えとかなきゃ。制服をハンガーにかけて着替えてから、ベッドに寝っころがった。六帖の部屋にベッドと机、そして本棚という名前の何でも入れる棚。自分で使いやすいように工夫はしている。ただ女子力には若干欠けてるかもしれない。寝っころがって何気に見ていたら、天井に少しシミがあるのに気づいた。いつからあったのかな、なんてぼんやり考える。おっと、今はそんなことを考えてる場合じゃないんだったと気づく。えーっと、えーっと。自己紹介をして抱負なんて言ってもありきたり過ぎて面白くないし、二人で漫才とか小噺とか……ないな。でもやっぱ、パーソナリティって感じでカッコよくやりたいよね。あ、読んだ本の話をして、それにまつわる曲をかけるとか……いいんじゃない? 読んでないけど本なんか。きっと三神くんが読んでるはず。決めた。とりあえず私の案はそれにしよ。思いの外すんなり決まった。
コンビニには五時五分前に着いた。店の前にまだ彼の姿は見えなかった。まだ来てないんだと思っていたら、駐車場の端っこの車止めに座って三神くんは缶コーヒーを飲んでいた。もう来てたんだ。学校で見る姿とイメージが違う。制服だとヒョロっと見えるのに、ジーンズに長袖Tシャツの三神くんは細身だけどやっぱり筋肉質だ。私が近づくと、彼は「おう」と手を上げて立ち上がった。
「ごめん。待った?」
「ちょうどコレ飲み終わったとこ。グッドタイミング」とコーヒーの缶を空き缶入れに向かってポイッと投げた。缶は迷うことなくカタンと音を立てて中に入った。なかなかやるじゃん。
「こっち」
私が空き缶入れから目を移すと三神くんはもう歩き出していた。慌てて彼について行く。ここから近いって言ってたっけ。駐車場を出て左側に進むと眼科と薬局があり、そこの路地を入って行く。家からそんなに遠くはないのに、この辺りのことは全くわからない。学校や駅とは反対方向だからめったに来ない。たまに薬局に行くくらい。はたして、お屋敷なのかどうか、興味のあるところ。路地に入って一、二分で彼は立ち止まった。
「ここ」
彼が指差した家はいたって普通の一軒家だった。白い壁に緑色の屋根。手入れの行き届いた庭木。ただ、裏に別の建物が見えるからかなり大きな敷地なのは間違いない。あれが合気道の道場なのかな。でも時代劇のお屋敷とは何ら関係なかった。三神くんは特に私を誘導するでもなく、門を開けて玄関の扉を開けた。私も彼について中に入った。中はすっきりと広くて靴箱のうえに一輪の花が置かれていた。
「上がれよ」
「おじゃまします」
彼について廊下を進む。突き当りの扉を開けて「帰ったから」と声を掛ける三神くん。私も挨拶しなきゃと思い、そっと中を覗く。
「おじゃまします。遠山です」
中はリビングになっていて、ソファには年配の男性がいた。そして手前のキッチンには年配の女性がいた。
「あら、こんにちは」丸顔の女性は思いっきり目を細めてニッコリ笑った。
「入学早々に彼女ができたか」と男性も笑って言った。
「えっ、いえ、違います、違います。あの、私は三神くんと同じ委員会で、その、企画を考えなきゃいけなくて、だから、今日は、あの、話し合いっていうか会議っていうか、そんな感じなんです」まるで意味不明な私。
「じいちゃん、やめてくれよ。遠山が困るだろ、そんなこと言ったら。全然違うんだって。これっぽっちもそんな気ないから。委員会の打ち合わせをするだけなんだからさ」
そう言うと、三神くんは部屋をあとにして階段を上って行った。私も少し頭を下げてから扉を閉めて二階に上がった。三神くんのおじいちゃんとおばあちゃんかな。合気道をやってるっていうおじいちゃん。いきなりあんなこと言うから、ほんとパニくっちゃった。けど、三神くん、あんなに否定しなくてもいいのに。これっぽっちも、なんて。
「はい、どうぞ。適当に座ってて」
階段を上がって右の部屋のドアを開けると、こう言って彼はまた一階に下りて行った。
「え、うん」
ここが三神くんの部屋かぁ。大きなテレビが目を引く。そして私の部屋よりすっきり片付いてる。ベッドもきっちり直してあるし、机の上も整理整頓出来ている。整い過ぎてなんだか男子の部屋っぽくない。弟の淳史の部屋なんて足の踏み場もないのに。ぐるっと部屋を見渡してみると、本棚に合気道の本が何冊か並んでいる。やっぱり合気道は頑張ってるんだ。それに驚いたのは時代小説らしき本がたくさん。中でも司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は私も聞いたことはあるけど、全部で八冊もある。まだまだ他にも色々。けど、ミステリーやコミック漫画も並んでるから、そこは普通の男子らしくて少し安心した。でも、時代劇のDVDが結構あって、ほんと意外な感じ。それにしても立派なテレビ。私の部屋のテレビなんてこれの半分以下の大きさなんじゃないかな。カーペットが敷き詰められた部屋の真ん中に丸いテーブルが置いてある。私はそのテーブルの傍に座った。三神くんて、もしかしたら、いつもここに正座で座ってるのかな。私はとりあえずここは女の子らしく横座りをした。
「お待たせ」
彼はオレンジジュースとポテトチップスを運んできてくれた。
「これ食べながらやろうぜ」
「さっきさぁ、弟がポテチ食べてて、一枚もらったんだけど、ちょうど食べたい気分だったんだ。サンキュー」
彼はグラスを手に取りジュースを飲んで、私はポテトチップスを食べた。
「さっき下で会ったのがおばあちゃんと合気道を教えてもらってるおじいちゃん? 二人とも優しそうだね。お父さんとお母さんはお仕事?」
「そう。さっきのがじいちゃんとばあちゃん。優しそう? ばあちゃんはまぁ優しいかな。じいちゃんは道場にいるときには厳しいからなぁ。優しくはない。バカなこと言うしな。初めて会ったのに、さっきもあんなこと言っただろ? ま、気にすんなよ。悪気はないからさ。それに、ここはじいちゃんの家で俺と姉ちゃんとの四人で住んでる。父さんと母さんはロサンゼルス。仕事で向こうに住んでる。俺と姉ちゃんも向こうにいたんだけど、姉ちゃんが高校に入学する五年前に日本に帰って来たんだよ。いずれ帰国するんなら、将来を考えて高校入学のタイミングがいいだろうって。それで父さんとじいちゃんが話し合って、ここに住むことになったってわけ。まぁ、それはいいんだけど、ついでっていうか、じいちゃんが道場やってるから、お前もやっとけってさ。初めは無理やりでさ、嫌で嫌で仕方なかったんだよな。でも、今はそんなでもない。もう慣れたよ。やってて良かったって思うことも結構あるし、そこはじいちゃんのお蔭ってとこかな」
「へぇ、全然知らなかった」
三神くんがアメリカに住んでたなんてびっくり。じゃ、英語はペラペラなのかな? 羨ましい。もうこれはテスト前には教えてもらうしかないね。けど、アメリカだったら、正座とはぜんぜん縁がないじゃない。子どもの時から時代劇に出て来るようなお屋敷で正座をして育ったのかと思ったら、全く違ってた。ミステリーだ、これは。
「あのさ、三神くんってアメリカにいたのに、どうして正座するのが平気なの?」
「はっ? 正座?」
「ほら、この前。オリエンテーションの時だよ。お寺で法話聞いたでしょ。あの時。やっと終わって、みんな足が痺れて倒れ込んでたのに、三神くんだけすんなり立ち上がって出て行ったでしょ? 私もすぐには立てなかったしさ。どうして、痺れてないのか不思議で不思議で。いつか聞いてみようって思ってたの」
「あぁ、そのことかぁ。俺、合気道やってるからだよ。武道は礼に始まり礼に終わるっていうの聞いたことない? 絶対に正座はついてくるんだよ。初めの挨拶、終わりの挨拶。やらないわけにはいかないんだって。俺も最初からできたわけじゃない。日本に帰ってくるまで正座なんてしたことなかったんだからな。じいちゃんに無理やりやらされて……ま、努力はしたかな。それに……」
「ん? それに?」
「……いや、なんでもない。努力のたまものですかね。あ、それより、そうか。お前さぁ、俺のこと見てたよな。あん時。本堂から出て外にいた時」
「えっ? はっ? ん? 見てたっけ? よく覚えてない」
「ジロジロ見たら今度から金取るからな」
「はぁ? よく言うよ、何様? そもそも見てないし」
気づかれてた。焦るなぁ、もう。カッコいいなんて思ったことは口が裂けても言えないな。けど、さっき、何か言いかけたことは何だったんだろう。正座ができることに何か秘密があるの? なんでもないって言ったけど、絶対に何かある。間違いない。
「こんなこと言ってないで、企画案考えよう。とっととやっちまおうぜ」
三神くんはもっともらしく言ったけど、明らかに話を変えたのがわかった。でも、とりあえずは今日の目的を果たさないわけにはいかない。いったん、休戦。
「じゃあ、提案。読んだ本の話やエピソードなんかを話して、それに関係するような曲をかけるっていうのはどうかな」
「ふーん。いいじゃん。お前意外と頭いいな」
「意外とって何よ。意外とって。失礼しちゃう。で? じゃあ、三神くんは?」
「俺? そうだなぁ」
「そうだなぁって、偉そうに言うのに考えてなかったんだぁ」
「そんなわけねぇだろ」
「じゃあ、何? どうぞ」
「もし、お前の案がクソみたいなやつだったら、俺の出番だなって思ってたけど、予想に反して使えそうだからソレで行こう」
「なにそれ。絶対考えてなかったんだから。ズルイ、ズルイ」
そう言って私は腰に手を当てて立ち上がると部屋の中をぐるっと歩いた。そして本棚の前まで来て言った。
「じゃあさ、提案は私がしたんだから、それにするなら本の紹介はそっちだよ。よろしくっ」
「なんで俺が本を紹介するんだよ。あんまり読んでないし」
「ダメ。そっちの番ですぅ。それにいっぱいあるじゃん、本。ほら、時代物とかミステリーとか」
「はぁ。わかったよ。何か決めとくから、それからの曲決めは手伝えよ」
「はいはーい」
「調子いいな」
三神くんはポテトチップスをバサッとつかんで口に入れた。よしっ。これで今日の目的は終えたんだから、探りに入りますか。どこから攻めれば秘密を暴けるかと考える。わしわしと口を動かしている彼を見つめる。その食べっぷりは意外と男っぽい。
「何?」視線を感じたのか、次の一つまみを口に入れながら彼は言った。
「三神くんて結構渋いよね、趣味。時代物の本がたくさんあるし、DVDも時代劇があるし、そんなの見てるんだ」
「別に。じいちゃんにもらった物ばかりだよ。それより、なんかお前の言い方って気になるな。なんか魂胆あるだろ?」
「魂胆? まさか」
そうは言ったけど、なかなか鋭い。迷う。もしかしたら今がチャンスかも、なんだけど……。思い切って言ってみる。
「さっき、何か言いかけたでしょ。正座のことで。言いかけたこと教えてよ」
「あん? 別に何もないって。お前こそなんでそんなことにこだわってんの?」
だって、こだわるでしょ!? オリエンテーションであんなオーラを見たんだし、アメリカ育ちって聞いてしまったし、それで途中で話を止められたら気にもなりますって。ちょっと違う切り口で行くしかないかと考える。
「あのさ、私、正座が全然ダメでさ。足は痛くなるし痺れるし立てなくなるしで大っ嫌いなんだ。だから、この前の三神くんの姿を見て、ちょっと教えて頂こうかな、なんてね」
「へぇ、変わってんな、お前。けどま、正座に興味があるってことは悪いことじゃないしな」
いえ、ほんとは正座に興味があるわけではないんですけど。ここはひとまずそれでもいいかと折れておく。
「俺さ、さっきも話したけど、ロサンゼルスから戻って来てじいちゃんに合気道を習うようになって、一番苦労したのが正座なんだ。あんな座り方するのって日本人くらいだろ? 五年生の俺は合気道はいいけど、それが嫌でさ。そしたら、ある日、じいちゃんが部屋にでかいテレビを買ってくれたんだ。あ、それがコレ。合気道の稽古の様子や普通に正座をしている時代の様子を見ることができるDVDと一緒に。これを見たら正しい座り方や良さが分かるはずだって言ってさ。なんていうか、イメージトレーニングっていうのか洗脳っていうのか。きっとそんなとこ。仕方なく、それを見て渋々練習してたらさ……」
「ん? してたら?」
「いや。まっ、とにかく練習すればできるようになるってことよ。慣れだよ、慣れ。昔は子供だってみんな正座してたんだから。どうしてもって言うんなら、今度、見せてやるよDVD」
「ほんと? いつ? いつ?」
「お前、ほんとに変わってんな。じゃあ、俺が企画に合わせて本を決めるから、その後に曲決めするだろ? そん時にちょっと見る?」
三神くんは少し呆れ顔だけど、柔らかく笑ってる。
「うんうん。見る見る」
あれ? 意外とあっさりな展開になんだか拍子抜けな感じ。でもまだ今は何にも掴めていないから、次回、絶対に掴んでやるんだから。
「あのさ、お前、風呂の中で正座してみろよ」
三神くんはひょいっと正座をしてみせた。長い脚がきれいに折りたたまれてる。
「お風呂? で、正座!?」思いもしない場所だった。なんでまたお風呂でなんか。
「湯船の中でだよ。浮力があるし、楽にできるから練習にはもってこいなんだ。血行も良くなるから体にも良いしさ」
医者か、キミは。なんて思ったけど、ここは素直に聞くことにした。
その夜、お風呂の中で今日あったことを思い出していた。三神くんがアメリカ帰りだってこと、合気道で正座ができるようになったこと、それも、おじいちゃんからもらったDVDを見て練習したこと。でも、そこにはまだ何かありそうだってこと。そして、今度の曲決めの時に、正座に関係するDVDを見せてくれるってこと。妙なもので本当に正座ができるようになりたいって願っているような気がしてきた。だから、三神くんの言葉を思い出す。「お前、風呂の中で正座してみろよ」って。湯船の中で膝を立ててゆらゆら動かしていたけれど、よしっと正座をしてみる。ふーん。お湯の中でね。ん? 痛くない。確かに楽かも。意識しなくても背筋がピンと伸びてるから不思議。お湯を手ですくって肩や腕にかけながら、自分の体を眺めてみる。お風呂で正座なんてビジュアル的には若干変じゃない? ま、誰かに見られているわけでもないしね。でも、ちゃんとできてるじゃん、私。ちょっと嬉しくなった。それにしても、三神くんと私じゃ随分違うよね、育ちが。お父さんの仕事の都合で、なんてカッコよくアメリカで育った彼に比べて私はどうだろ。お父さんもお母さんもずっと日本にいて、外国になんか行ったことないんじゃないかな。あ、新婚旅行でハワイに行ったって言ってたっけ。でも、私の知る限りでは外国に行くことなんて一度だって家族の話題に上がったことがない。そして、私はこの国から出たことがない。幼稚園から今までずっとこの家に住んでて、二つ下の淳史とは、仲は悪くはないけどしょっちゅうケンカしてる。中学の時は明日香と一緒にテニスに明け暮れてた。朝、学校に行って、放課後は部活をして、くだらないおしゃべりをしながら夕方家に帰って来る。晩ごはんを食べながらバラエティ番組や歌番組を見る。でも、毎日、楽しいって感じるからそれで十分だって思ってた。けど、高校に入学してから、どういうわけか正座になんか興味を持って……いや、違う。興味を持ったのは三神くんになんだけど、なんでこんな風になったのかは不明。今は昔とは違って、どこの家でもそんなに正座をする機会はないんだから、できなくて当たり前なんだよね。だからみんな正座が苦手。それにできなくても普段は困らないもの。誰かの法事でお寺に行ったときくらいでしょ。それでも、この前はイスが置いてあったしさ。おばあちゃんちの仏壇がある部屋は畳だから、そこでみんなが集まるときは正座をしようと思えばできるけど、誰にも強制されたことはない。そもそも昔の日本の座り方でしょ。イスとテーブルが当たり前じゃなかった昔の。今でもお茶やお華をやっていれば、そこは畳だし正座しなきゃいけないんだろうけど。あ、それか三神くんみたいに武道とか。だから彼が普通じゃないだけ。けど、その普通じゃないところが何故だかカッコよかったってことなんだけど。うーん。私は何を結論づけたいんだろ。自分でもわけわかんない。そんな風に色々考えてたら、やっぱりなんとなく足が痛くなってきた。
「今日は初日なんだから、これで十分でしょ」
ずっとお湯に浸かっていたらのぼせちゃうよ。われながら自分に甘いかもとは思うけど、いい、いい。でも、少しは達成感もある。
三、第二回企画会議
あの日以来、私はもう数日間、お風呂での正座を続けている。素直だなって自分で自分を褒めながら。お湯の中では随分平気になってきて、普通に正座ができる人になったような錯覚に陥る。けど、部屋でやってみるとそんなに進歩はしてない。でも、しっかりわかったことは、正座は圧倒的に姿勢が良くなるってこと。三神くんが姿勢がいいのもきっとそのせいだ。だから、余計にすらっとカッコよく見えるのかもしれない。今でも、太陽の光に向かって歩いて行く本堂での彼の後ろ姿を思い出す。記憶の中の彼は日に日にオーラを増しているようにも思える。ちょっと美化しすぎじゃないかって自分でも思う。けど、その分、学校ではあんまり気にならなくなってきた。たまにチラッと見るくらい。普通に話せるようになったからかも。話しかけられても、もう動揺なんてしないし。
でもクラス全体では相変わらずまだ女子は女子、男子は男子で集まってるって感じ。だから、まだクラスの一体感はない。中学の時とは違って高校はそうなのかも。けど、明日香はそれが気になるみたい。
「ねぇ、うちのクラスってさ、仲悪くはないけど、まとまり感に欠けてると思わない?」
「うーん、どうかなぁ。まぁ、女子は女子、男子は男子って感じだけど。明日香、学級委員だし気になるんだ」
明日香に言われるまで、別にそのことが問題だとは思ってなかった。
「全体の学級委員会がこの前あったでしょ。あのとき、クラスに何か問題があるかって聞かれてさ。川上も私も特にないですって言ったら、三年の先輩に言われたのよ。男子と女子が分かれてないかって。それをまとまりがないって言うんだって」
「へぇ、そうなのかなぁ。別に仲が悪いわけじゃないのにね」
小学生みたいに男女一緒に仲良く遊ぶってわけにはいかないでしょって思ってしまう。明日香は机に頬杖をついて目線はどこを見るともなく窓の外に向けている。頬にかかる前髪がちょっと大人っぽく見える。そんな明日香の顔を見ると、なんだか別人。
「何かクラスをまとめる方法を考えなきゃいけないの?」と聞いてみる。
窓の外から目線を戻した明日香は、まだ頬杖をついたまま私の顔を見つめた。
「そうなんだけど。もうすぐクラス対抗で体育大会があるじゃん。先輩の話では、男女がまとまってないと絶対に勝てないんだって。でね、それは学級委員のやり方次第だって言うの。だから、責任重大なのよ」
「ふーん、そうなんだ。私は逆に体育大会でみんながまとまる感じがするんだけどな」
「でしょう。私もそう思ってたんだけど、どうも違うらしくってさ。川上ったらさ、そのうちまとまるとか言っちゃって、何にも考えようとしないし。あいつ、マジ使えない」
明日香は机を右手でトントン叩いている。
「あっ、体育委員もいるんだし一緒に考えたら? 私も何か考えるし」
「そっか。体育委員ね。その存在を忘れてた。そうする、そうする。サンキュー、美波」
「明日香、なんか学級委員らしくなっちゃってさ。素晴らしい! 私、ついて行きまーす」
「もう、美波、私のこと、バカにしてるでしょっ」
「してない、してない。心から尊敬してますって」
「じゃあ、その心とやらを出して見せてみっ」
「それは、ムリムリ」
いつもの明日香に戻った。アンニュイな感じも悪くはないけど、明日香はやっぱこうでなくっちゃ。
そして、翌日には学級委員のふたりは体育委員と相談して、体育大会に向けてクラスの応援旗だけでなく横断幕も作ろうって提案していた。男女ミックスでチームを組んで、チームごとの横断幕を作る。これはまとまりそうな気がする。種目も男女混合のものはチームで話し合って、走る順番を決める。いかに男子と女子がお互いに助け合うかにかかってるって感じ。これを決めただけでも結構まとまった気がする。明日香、やるじゃん。
こんな風に体育大会のことに気を取られていても、放送委員のことを忘れているわけではない。ただ、三神くんはまだ本を決めていないのか、合気道が忙しいのか、私にはまだ何も言ってこない。そろそろ進めなきゃ。よし、あとで言ってやろう。そう考えてたのに、今日の放課後、早速チームごとに集まって体育大会の話し合いをすることになってしまった。どんな横断幕にしたいのか意見を出し合って、紙に案を書きながら、こんな感じで、ここはこうして……と大まかなところをまとめることになったのだ。でも、話し合いをするのは今日で良かったのかも。みんな、色々と考えを言い合ってまとめることができた。
話し合いが終わって明日香と靴箱に行ったら、三神くんが何人かの男子と一緒に帰るところだった。
「あ、三神くん、本はどうなったのよ」
追いかけるように声を掛けた。
「あ、もう決まってるんだけどさ。悪いっ、明日」って言い残して他の男子と一緒に行ってしまった。案外いい加減なヤツかもしれないなんて思ってしまう。それとも、普通の男子だったってことなのかな、やっぱり。私が勝手に作り上げ過ぎてたのかな。三神くんには別に秘密なんてないのかもしれない。
「もうっ。早くしないといけないんだからね!」
叫んでみたけど、男子たちの後ろ姿はすでにグラウンドの中に小さくなっていた。だから聞こえたかどうかは不明。明日香もグラウンドの男子たちの姿を見送りながらこう言った。
「三神になにか頼んでるの?」
「うん。ほら、この前、三神くんちに行くって言ってたでしょ。企画会議。あの日、企画は決まって、本と曲を決めるんだけどね。で、次までにあいつが何か本を決めておくって言ったの。だのに、結構日にち経ってるんだよね。その本に合わせて曲決めしなきゃなんないのに」
「そうなんだ。そりゃ、もっと追い詰めなきゃダメだな。明日って言ってたから、明日は逃げらんないように捕まえないと。ヨシ、明日香様に任せときなさい」
「うん、よろしくぅ」
三神くんに何か秘密があるらしいことはまだ明日香には言えない。DVDを見せてもらうことになってることも。明日香に話すと、なんだか話が大きくなってしまいそうだもん。
翌日は授業が始まる前に三神くんの方から声を掛けてきた。今日の放課後に第二回目の会議をしようって。そして、学校の帰りに三神くんの家に寄ることになった。だから明日香の出る幕がなくなって、明日香はすごく残念がってた。とっちめてやろうと思ってたのにって。私は真相を確かめられる日がようやくやって来たと思うと、あまりの期待に息苦しくなる。あまり期待し過ぎるとガッカリするかもしれないって思うんだけど、コントロールは不可能。放課後、私はチームの横断幕作成もあったけど、今日は委員会のことがあるからって言って、少しだけ参加して早めに学校を出ることにした。明日香はまだ残ってたけど、例の会議の事は十分にわかってる。だから帰り支度をしてる私と目が合うと、片目をつぶって手を振ってくれた。三神くんの姿はもう見えなかったから、きっと先に帰ったのだろう。
彼の家はコンビニからそんなに遠くなかったから、この前の記憶をたどって歩いて行ったらすぐにわかった。インターホンを押すと、そのまま玄関の扉が開いて三神くんが迎えてくれた。今日も学校でのイメージとは違う。グレーのスウェット上下で、ものすごくくつろぎムード。まだ制服姿の私とはギャップあり過ぎ。
「ようっ。意外に早いじゃないか」
「うん。体育大会の方は途中で抜けてきちゃった。こっちが優先」
「おじゃましまーす」と声に出してから靴を脱ぎ、彼について二階に上がった。相変わらず部屋は片付いている。この前来た時と何も変わってないように思えるくらい。そして、この前と同じように私は丸いテーブルの傍に座った。でも、今日はちょっと正座をしてみた。そんな私に三神くんはすぐに気づいた。
「おうっ、今なんで正座してんの? お前」
「えっ? いや、ちょっとしてみようかなって思って。あ、そうそう。お風呂での正座、私やってるんだからね」
「へぇ。まさか真面目にやるとはな」
「どういう意味よ。やってみろって言ったのは三神くんでしょ。気分悪―い。なんなのよ。いつもいつもバカにしてさ。『三神くん』なんて呼ぶのがバカらしくなってきた。あんたなんか『圭吾』って呼び捨てで十分」
「いや、ごめん、ごめん。きっとやらないだろうなって思ってたからさ。怒るなって。どう? 効果あっただろ?」
「うん。少しはね。でも、湯船の中だと確かに楽だった。姿勢が良くなるってこともわかったわよ。『圭吾』のおかげでね」
「だろ? 痺れるのがちょっとあれなんだけど、正座って案外良いことがたくさんあるんだって」
私は彼のことを三神くんとはもう呼ばない。圭吾って呼ぶことにした。ひょんなことでこうなったけど、内心ちょっぴり嬉しい。
「圭吾って不思議。正座のことを力説する男子って初めて会ったよ。なんか時代劇も趣味みたいだしさ」
「趣味なんかじゃないさ。時代小説はじいちゃんが勝手に部屋に持ってきたんだよ。テレビと一緒に。それに、合気道の礼儀を理解しろとか正座の心を学べとか言って、そのためにコレを見ろって、DVDも持ち込んで来たんだよ。だから、本棚には並べてあるけど、全然趣味じゃないし」
「ふーん、そうなんだ。高校生らしくない渋い趣味だと思ってた。じゃあ、見てないの?」
「いや、見たけど」
なんだ、見てるんじゃない。私は正座の秘密を暴くために、この前、今度見せてくれるって言ったDVDのことが気になって仕方ないけど、直球ではなかなか言い出すチャンスがない。ここは、放送の企画の本について先に聞いて、それから落としていこう。
「さて、会議、会議。決めたんでしょ? 本」
「あぁ、決めたよ。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』」
「知ってる。それってテレビで福山雅治がやってたやつでしょ」
「それは『龍馬伝』」
「えっ、それって一緒じゃないの? 坂本龍馬でしょ?」
「龍馬の漢字が違うんだ、気づかない? それに司馬遼太郎の方はあくまで小説で、龍馬伝の方は事実に近いんだ。その二つには、いくつかの違いがあるから、それを話そうと思ってる」
「めっちゃいいじゃん。私もそれ聞きたい」
「で、曲なんだけど」
「そりゃ、福山でしょ!」
「そう来ると思った。いいよ、福山で。選曲は任せる」
「OK! 任せなさい」
さっき時代小説は趣味じゃないって言ったけどウソ。めっちゃ知ってるじゃない。でも、いい感じになってきた。企画はほぼ決まり。福山の曲なら好きなのを選べそうだし。で、それから? ってことなんだけど。
「これでほぼ決まったから安心だね。でさぁ、じゃあ、この前言ってたあれは?」
「ん? まだ何かあった?」
「……ほら、あれ。見せてくれるって言ったよね。DVD」
「えっ? もしかしたら、正座するために?」
いや、だから、ほんとは正座をするためっていうわけじゃないんだけど、まぁ、それでもいいからさ。何か秘密があるんでしょ? 見るだけで、あっという間に正座ができるようになるDVDを持ってるとか。圭吾が使った秘密を知りたいわけよ。
「ひとつはこの前言ったあれだよ。風呂で練習するっていう、あれ。まぁ、じいちゃんの受け売りだけどな」
「そっか。それはわかったから。次」
「お前ってなんでそんなに正座に興味あんの? いいところとかわかってないみたいなのにさ」
「いいところはわかってるよ。姿勢が良くなる」
「てか、それしかわかってないんだろ」
またバカにしたような口ぶりで言う。そもそも私は正座に興味があるわけじゃないんだから。みんなが痺れて立てなかった時に圭吾だけが何事もなかったかのように立ち上がったから、その秘密が知りたいのよ。何をどうすればあんなカッコよく立てるのか。今世紀最大の謎。そしたら合気道だって言ったけど、何か隠したじゃない。いくら鈍い私でもそれくらいわかるわよ。隠されれば知りたくなるでしょ。それが自然な流れというもの。というわけで、もうそろそろ教えてくれてもいいんじゃないの!?
「あのさ、今の日本って昔と違って西洋文化が入って来てからはイスの生活がほとんどだから、正座をする機会がすごく少なくなってしまっただろ? だから、正座が苦手で当たり前なんだよ。痺れて当たり前。てか、慣れてたって、まぁ、痺れにくい座り方はあるんだけど、痺れるときは痺れるしな。だから、そんなに無理することじゃないんだ。ただ、武道や華道、茶道の世界では正座の背筋が伸びた姿勢が美しく礼儀にふさわしいってことなんだけど。でも、それは、正座によって精神が充実したり集中力が高まったりすることがその道理に適ってるからなんだ。それに脳の血流が増すから眠気も覚めるし、足腰の筋肉が鍛えられるし、インナーマッスルも鍛えられるんだ。ただ座っているだけでこんなに体に働きかけることって他にはないだろ? だから、足が痛くなるまではする必要はないけど、毎日することは体にとっては良いことなんだよ。正座が当たり前だった頃の人達は現代人より足腰が丈夫だったんだしな」
「圭吾、なんかすごいんだけど、その解説ぶり」
圭吾って一体何者?
「ま、全部じいちゃんの言葉そのまんまだけどな。けど、昔は大人も子供も普通に正座をしてて、毎日の暮らしの中で自然に鍛えられてたんだから、正座を意識していたわけじゃないしね。今は、普段はなかなかする機会もないから、いざというときに少しできればそれでいいんじゃないの?」
「普段できないんだから、いざというときになんかできるはずないじゃん」
「だから毎日の生活に取り入れて練習するしか方法はないってことさ」
練習のみ? そんなの当たり前すぎない? そんなこと、誰でもわかるっちゅーの。秘密の技は、どーしたのよ。
「あのさぁ、それ以外にあるでしょ? DVD見たら急にできるようになるとか」
「おまえ、アホか。見るだけでできるんなら全員できるだろ。まぁ、正しい正座の仕方はわかるかもしれないけど。たとえば江戸時代なら寺子屋で子供らが読み書きそろばんを習って礼儀作法も習ってたから、そこではみんな正座をしてたけどな」
えらく昔の話を引っ張り出して来てさ。そりゃ、してたでしょ、正座。昔なんだから。
「じゃあさ、みんなが平気で正座をしてる様子とか、正しい正座の仕方とか、とりあえず見せてよ、DVDで」
「はぁ、しょうがねぇなぁ」
ようやく圭吾は本棚をゴソゴソ探し始めた。やっと本題に入れそう。いくつかのDVDを手に取ると順に中を確認していたけど、ひとつをプレーヤーにセットする。
「じゃ、とりあえず、寺子屋が出てくる江戸時代の話」
「坂本龍馬の頃じゃん」
「へえ、少しはわかってるんだ。ま、龍馬の時代より少し前だけどな。それから、言っとくけど、少し離れて見ろよ」
は? なんで? 離れたらよく見えないでしょ。一応、頷いといたけどさ。ほどなくドラマか映画かわかんないけど、時代劇が始まった。龍馬伝以外の時代劇を見る趣味がない私は、早く見せろとヤイヤイ言ったけどストーリーには全く興味がなかった。だから、肝心なシーンがまだかまだかと思うばかりで、話の流れなんか追ってはいなかった。
「飲み物持ってくるから、画面に近づくなよ」
そう言い残すと、圭吾は急いだ様子で一階に下りて行った。何度もテレビに近づくなって、親が小さい子に言うみたい。ちょっと違和感あるけど、本当にいつも偉そうに言うんだから。そんなことを考えながら見ていたら、寺子屋のシーンになった。おー、ここ。確かに、子供たちは正座をしているらしい。けど、足元がはっきりは見えない。ちょっ、ちょっ、そこ、そこが見たいんだけど。一時停止……はどこだ? テレビに近づいてボタンを探した。
「お、おい。何してるんだよ。離れろって」
背後からあまりに大きな声がしたから振り返ろうとした時、画面に少し手が触れた。
「アーッ」と言う声と引きつった圭吾の顔がチラッと見えた。と思うと同時に圭吾が私の手を握った。何? 何? いきなり手を握るなんて展開早すぎって思ったのは確かだけど、その後のことはよくわからない。
四、まさかのここは江戸時代!
気づいたら私たちは川辺に立っていた。圭吾と手をつないで。思わず手を離す圭吾。その仕草にはちょっと心外。だって、いきなり手を握ってきたのは圭吾なのに、そんな風に離されたらなんか違うって感じる。それより、ここはどこ? 圭吾が大声出したから振り返って……なんで着物なんか着てるの? 私、制服を着ていたはずなのに。あーっ、圭吾も着物を着てる。なんだこりゃー。
「圭吾……どうなっちゃったの? 私たち」
圭吾がはぁっと大きな溜息をつく。
「近づくなって言ったのにお前が言うこと聞かないで、テレビを触ったりするからだろ」
お言葉ですけど、その言い方にはちょっと語弊がある。だって、言うことを聞かなくて近づいたわけじゃない。正座の足元が良く見えないからさ、ちょっと一時停止しようと思っただけじゃない。それに、テレビに触るつもりなんてなかったし。圭吾が大声出すからでしょ。だから振り返る時にちょっと触れただけだし。
「俺がお前の手を引かなかったらどうなってたと思うんだよ。本当に、お前ってヤツは」
舌打ちまでして、なんでそんなに私ばかり怒られないといけないのよ。
「どうなってたかなんて、そんなの知らないわよ。知ってるんなら説明してよ。てか、今だって大概どうにかなってるわよ、この状況。なんなの?」
圭吾の部屋にいたのに、どこだか知らない川辺にいるしさ。DVDで江戸時代の正座を見せてくれるんじゃなかったの? なのに、これってイリュージョン?
「あのさ、たぶん、ここ江戸時代。さっき見てたのがそうだからさ」
「ん? なんて?」
「だからぁ、お前がテレビに触ったから入って来たんだよ」
私がテレビに触ったから? 入った? この人、頭おかしくない? 何言ってるの? 全然理解できないんですけどぉ。
「お前に言ってなかったけど、DVDの中に入れるんだよ、あのテレビから」
「えっ、えっ、えっ、えーっ!!」
「バカ。でかい声出すなって」
いや、いや、出すでしょ、でかい声。もし私の聞き間違いでなかったら、テレビの中に入ったってこと? いや、DVDの中に入ったってこと? テレビの中から出て来る『貞子』は映画で見たことがあるけど、逆バージョン? 映画は怖かったけど……これだって負けないくらい怖いじゃない。急に心臓がドクンドクンと大きく打ちだした。
これは現実の話ではない。アメリカ帰りの彼にでも見るだけで身に着くスゴイDVDを持っているのかと思ってたけど、そんなレベルの話じゃない。あまりの衝撃で笑えないんですけど。
「俺さ、日本に帰って来て合気道を始めた時に、じいちゃんからDVDとテレビをもらって合気道のために正座の練習をしろって言われたって話したよな。じいちゃんは自分で学べって言って、アメリカ帰りの俺に手取り足取りなんて教えてはくれなかった。だから俺は嫌でも合気道のために自分で練習しなきゃいけなかったんだ。そしたらある時、よく見ようとテレビに近づいて手を触れた途端、吸い込まれるように中に入ってしまったんだよ。そのDVDのシーンの中に。だから俺は、正座が当たり前の時代の中で、その時代の人と一緒に正座をして、正しい正座を教えてもらったんだ。それで、また現代に戻ってからもそのやり方を実行してみたり。それを繰り返しながら、合気道の稽古をして、だんだん正座が身についたんだよ」
こんな内容の話をさらっと話す圭吾を信じられないと思うのは、きっと私の今までの常識のせいだ。私の常識がいつも正しいわけじゃない。圭吾がウソをついてるとは思えないけど、すんなり受け入れられることでもない。これは映画で見たタイムリープ?タイムトラベル?どっちかわかんないけど、でも、まさしくそんな感じ。そんな凄い事になってるのに、相変わらず圭吾には慌てる様子はない。その性格にはホント驚く。
「どうすんの、私たち……」
「どうすんのって、そもそもお前が正座を見たいって言ったんだからさっ。ここで余計なこと喋ってても仕方ないだろ。こうなったら、あそこの橋を渡ってあっちの方に行ってみようぜ」
「う、うん。で、どこに行くの?」
「もう江戸時代に来てしまったんだから寺子屋を見に行くしかないだろ? あっ、はぐれんなよ、絶対」
「わかった」
圭吾は私がよほど正座に興味を持っている女子だと思い込んでる。今さら、オリエンテーションの時に圭吾のことをカッコいいと思っただけ、なんてことは絶対に言えない。ここは、大人しく圭吾の言うことを聞くしかない。
橋の方に歩き始めた圭吾のすぐ後ろについて歩く。夏祭りの浴衣くらいしか着物なんて着たことないから、歩きにくいったらない。ちょこちょこしか歩けないしさ。それに、靴じゃなくて、これ、草履? 合理的じゃないよ。階段の一段飛ばしなんて絶対にできっこない。
「圭吾、もう少しゆっくり歩いてよ。なんで、そんなにさっさと歩けるわけ?」
圭吾は後ろを振り返って私を確かめたけど、ニヤッと笑っただけで何も言わなかった。またバカにしてる。橋の傍まで来たら、随分人が増えて賑やかになってきた。橋を渡ってそのまま真っ直ぐ道なりに進んで行く。どこかで見たことがある風景。風呂敷包みを持って足早に歩いて行く女の人。桶やカゴを肩に担いでいる男性。笠を手に下げて行く人。歩いている人はみんな忙しそう。でも、家の角でお喋りをしている女の人たちもいる。女性はいつの時代もお喋りなのは変わらないんだなって思う。みんなそれぞれに自分たちのことに集中してるみたいだから、あんまり見られている気はしない。知らん顔、知らん顔。でも、私たちってこの時代に馴染んでるのかな。
「ね、圭吾。私たちってここにいても不自然じゃないの?」
「さぁな。不自然でなくはないけど、まだ気づかれてはいないってところかな。だから、とっとと寺子屋を見つけないと」
圭吾は右に左にと辺りを見渡している。その様子、見てると若干怪しい。
「ちょっとここで待ってな。俺も久しぶりだからよくわからないんだ。たぶん、向こうだと思うからさ、見て来るから絶対にここから動くなよ」って言うと、走って行っちゃったじゃない。圭吾、あの、私、まだ待ってるとも待ってないとも返事してないんだけど。大声で圭吾を呼ぶわけにもいかない。もうっ、離れるなって言ったくせに自分から離れてるしさ。私は細い葉っぱが垂れている木のそばで仕方なくそのまま待つことにした。江戸時代って武士があちこちで斬りあいをしてるイメージだったけど、意外と平和だ。私が先入観を持ってただけみたい。でも、そんなことを考えてまだ二、三分しか経ってないかもしれないのに、すでに少し心細くなってきてる。圭吾が帰って来なかったらどうしよう。そんなことが頭をよぎった途端に心臓がヤバイ。ドクドクドクって、道行く人に聞こえるんじゃないかってくらい激しく動き出した。
「お嬢ちゃん、ひとり?」
突然、後ろから声を掛けられた。なんかだらしない着物の着方をしている男子がふたり。なに? なに? これってナンパ?
「いえ、ひとりじゃないです。友達を待ってて……」
目を合わせないように木の上あたりを見上げて答えた。あからさまに動揺してる。それにしても、江戸時代にもチャライ男子っているんだ。もう。圭吾のバカ。早く帰って来いっつーの。
「一緒に遊ぼうよ」って手を引っ張ろうとする。いつの時代もやり方は同じだ。
「触らないでください。警察呼びますよ」
「はぁ? けいさつ? なんだそれ?」
あ、まだ警察ってないのか、この時代には……えっと、えっと……。この時代に警察の役目をするところって、なんて言うんだっけ? 必死に思い出そうとしていたら、やっと圭吾が走って戻って来た。
「遠山、こっち」
「遅いよ」
圭吾は私の手を引いて走り出す。
「なんだ、こいつ。俺たちがそのお嬢ちゃんと遊ぶんだぞ」
チャライ江戸男子が追いかけてくる。こんな着物と草履で走ることになるなんて。かなり無理がある。向こうは慣れてるわけだし。圭吾に必死でついて行ってるだけで、どこをどう走っているのかわからない。
「圭吾が遅いからこんなことになるんだよ」
「何言ってんだよ。お前があんな奴らと話し込んでるからだろ?」
「話し込んだりしてません! 私に離れるなって言っておきながら自分はさっさと離れてさっ」
「うっせいな。ごちゃごちゃ言わねえで、とにかく逃げるんだよ」
「もう、絶対に圭吾のせいだからね。それに、追いかけられて逃げるのって、映画やドラマのお決まりの流れだし」
「しょうがねえだろ。DVDの中なんだからお決まりの流れになったって不思議じゃないんだよっ」
「あーん。もう。ちょっと……足がもつれる」
路地を曲がって、長屋が続いているところに入って……突然、圭吾が戸を開けてどこかの家の中に入った。そして急いで戸を閉めてしゃがみこむ。もう息もできない。私の心臓、これ以上速く動くことはきっと無理。それほど激しく鼓動を打っている。背中を向けている圭吾の肩も大きく揺れている。
「たぶん、もう大丈夫だろ」
そう言うと圭吾は大きく息を吐いた。けど、ここはどこ? てか、ここ、よその家みたいだけど、いいの? 勝手に入っちゃったけど。こんなところにいる場合じゃないんじゃないの? 寺子屋はどうなったのよ。
「ねぇ、肝心の寺子屋は?」
「あのなぁ。お前のせいでこうなったのに、急かすなよ。ちゃんと見つけてるっつーの」
「はい、はい」
うるさいから、とりあえず、今は同意しとこう。と思った瞬間、さっきのチャライ江戸男子の悪夢が蘇ったかと思った。なぜなら、また背後から声がしたんだもの。
「あの……そこどいてほしいんだけど」
振り返ると真後ろに小学生くらいの男の子が立っていた。その子は不思議そうに私たちを見ている。
「おう、悪い、悪い」なんて、圭吾は驚きもしないで立ち上がった。慌てて私も立ち上がったけど、ホント圭吾のその度胸が信じられない。良く言えば頼りになるとも言えるんだけど。
「今から手習いに行くから、そこどいてほしいんだけど」もう一度その子が言った。
「あ、手習いかぁ。ちょうど良かった。俺たちも行くところなんだ。一緒に行こうぜ」
「うん。いいよ」
はい? そういう流れ?
「圭吾、手習いに一緒に行くって……寺子屋はどうすんのよ」
「お前、中学の時、日本史サボってたろ? 寺子屋って総称して言うけど、江戸じゃ手習いって言うんだよ、普段は」
「そんなこと知らないし! それにサボってなんかないし。また、バカにするんだから。だいたいさっきまで寺子屋って言ってたじゃない、圭吾だって」
「くだらないこと言うなって」
もう! ホント、ムカつく。そんな私の気持ちにはお構いなしに、圭吾はまたその子に話しかけていた。
「俺は圭吾……乃介。コイツはみな。お前はなんて名だ?」
「やすすけ」
「やす、か。よろしくなっ」
ちょっとあんたよくまぁ、すらすらとそんなこと言えるわよね。『圭吾乃介』に『みな』ってか。ちなみに私は『みなみ』で『み』が足りませんけど。
「圭吾ったら……ちょっと」
「いいから任せとけって」
圭吾の口から出まかせのせいで、圭吾乃介とみな、で通すことになりそう。
やすと圭吾と三人でしばらく並んで歩いて行くと、それらしき家に着いた。
「お師匠様、こんにちわ」とやすが丁寧に挨拶をして入って行く。私たちもやすについて入った。中には何人もの子供達がいて、文字を書く練習をしているようだった。お師匠様と呼ばれている人、たぶんそれが先生。入口に近いこの部屋の中にやすは座ったけど、奥にも部屋があって何人かの子供がいるようだった。おー、やすはちゃんと正座している。見ると他の子もちゃんと正座して筆でお手本を見ながら何か書いている。中には、教科書かな、本を読んでいる子供もいる。いよいよ、正座かぁとちょっと気合が入る。圭吾が目配せしたから、一番後ろの席に並んで座った。よっこらしょっと正座をしてみる。
「おや、見かけない顔だね」
その時、お師匠様に声を掛けられてしまった。うわ、うわ、と言葉を探そうとしていたら、またしても圭吾はすぐに答えた。
「はい。親戚の家にお使いに来ました。少し手習いをさせてもらってから帰ろうとこちらに寄りました。圭吾乃介とみなと言います」
はぁ、圭吾のやつ、そんなセリフまで考えてたのかぁ。おぬし、やるな。私は完敗というところ。お師匠様は「良い心がけじゃな」と言っただけで、特に突っ込んだ質問などはなかったから良かった。子供達の書き物をひとりずつ順に見てまわって、教えているようだ。丁寧に見ているのがわかる。小学校低学年くらいの子もちゃんと正座で練習している。私と圭吾は『東海道往来』という教科書のような物を渡された。圭吾がそれを見て書き写していくから私も真似をした。もちろん正座で。
「いいか。集中するには、きっちりかしこまることが大事じゃぞ。そのようにかしこまることで、背筋を伸ばして精神統一ができ、美しく正しい文字が書けるようになる。礼儀をわきまえた大人になるために何より大切なことじゃ。親指を重ねるなどして上手に座れば、すぐに足が痛くなることはないのだからな。どうしても痛くなったら、静かにやめればよろしい」と、お師匠様はみんなの正面に戻るとこう言った。
「ねぇ、かしこまるって正座のこと?」
圭吾に耳打ちした。
「あ、そう、そう。言い忘れてたけど、まだこの時代には正座って言葉がなかったみたいなんだ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、いつ出来たんだろうね、正座って言葉」
こんなことをブツブツ言ってたら、圭吾に睨まれた。今そんな話をしていたら変だろって。確かに。再び、周りに目をやる。なるほど。ここにいると、なんだか練習しやすいのはわかる。厳しすぎないし優しすぎないこの空気がいいのかな。けど、そう思ってはいても、私の足はそろそろ悲鳴をあげそうだ。まもなく痛くなろうとしている足をモソモソしてしまう。子供達はすごいなって思って見ていたら、やっぱりそこは子供だ。「痛てぇ」と言いながらお師匠様から離れている席の子供達は足を崩し始めた。
「私もリタイアするわ」
「もう?」と圭吾。足を崩した子供達はガサガサし始めた。先生のいる場所から離れている生徒がその目を盗んで悪さをするのは、どの時代でも同じなんだなって笑える。自分たちの書いた文字を見せ合いっこしては、ふざけ合ってる。
「なんだ、この字」とやすも隣の子にからかわれている。ちょっとちょっと、やすはまだ頑張って書いてるんだから、と首を突っ込みかけたら圭吾に腕を引っ張られた。
「遠山、余計なことすんなよ」
なんだ、よく見てるんだから。でも、やすを囲んでけっこう騒いでる。大丈夫かな。普通なら、そろそろ先生がカミナリを落とすはずなんだけどな。
「これこれ、騒がしいのう。終わった者は帰りなさい。家の手伝いもあるじゃろ」
お師匠様の声にようやく静かになって、何人かの子供達は立ち上がって帰って行く。やれやれ。ふと見るとやすは、うつむいたまま墨のついた手で目をこすっている。目の下がもう黒い。やすの目からポトっと涙が落ちた。
「どうしたの?」
顔を覗きこんでも首を横に振るだけで何も言わない。
「あっ」
見ると、やすの書いた文字が破れている。さっきの子達だ。あいつらぁ。一生懸命、正座して書いたのに、これじゃ涙も出るよ。そうだ。私は今日の放課後のことを思い出した。体育大会の横断幕を作った時にセロハンテープを使って、そのままポケットに入れてたはずなんだけど……。両手で着物のあちこちを触って探してみた。あった! ちゃんと着物のたもとに入っているじゃない。テープも一緒にこの時代にやって来ていた。
「私、いい物持ってるんだ。ちょっと貸してね」
そう言うと、やすの破れた半紙を裏返した。やすは涙を溜めた目で私の手元を凝視していた。私はピピッとテープを引っ張って適当な長さに切ると、裏から丁寧に貼っていった。
「ほら、これで元通り。泣かないで」
私はちょっと得意気にウインクした。と同時に耳元でささやき声が聞こえた。いや、ささやいてはいるけど、ささやきとは言わない怒りの声。
「何やってんだ、バカ。早くしまえよ。なんでそんな物持ってんだよ、お前」
やすのために破れた半紙を直してあげたのに、褒められるならわかるけど、なんで怒るかな。納得のいかない顔をしている私に圭吾が続けて言った。
「あのな、ここがいつか分かってんだろ? そんな物、ないんだよ、この時代には」
はっ。今、気がついた。そう言われれば、そう。江戸時代にはセロハンテープなんてないんだ。スーッと血の気が引くような感覚。やすが目を丸くして見ているのも当然。
「でも、可哀想だったんだもの、やすが。仕方ないじゃない、セロハンテープが勝手について来てたんだから。それに、そんなこと言ったってもう使っちゃったし。やすも喜んでるしさ、ビックリしてるけど。ねぇ、やす」
「いいから、早くしまえって」
私は急いで着物のたもとにテープを入れた。やすがやっと笑ったのにさ。運よくお師匠様にはこの事は気づかれなかったから、とりあえずは一件落着。もう一度正座にチャレンジしようかと思っていたけど、やすが帰り支度を始めたから私たちも片付けることにした。やすはさっきの半紙をもう一度裏の方から見て、私の顔を見るとニコッと笑った。
「みなちゃん、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
ほらね、と声に出さないで口だけ動かして私は圭吾の顔を見た。圭吾も声に出さないで、バーカと言った。でも、寺子屋を出て三人で歩いていたら、不思議と幸せな気分だった。
「圭吾乃介、みなちゃん、ちょっと家に来てよ」
やすが私の着物の袖を引っ張って言った。顔にはさっきの墨がついている。なんだか可愛い弟のような気がしてきちゃった。うちの生意気な弟の淳史とは大違い。圭吾の顔を見て反応をうかがった。一瞬目が泳いだ気がしたけど気のせいかな、迷ってる様子ではなかった。
「じゃあ、ちょっとだけな」
いつだって圭吾の決断力と行動力、そして冷静さには脱帽だ。やすは「やったー」と平成の時代の子どもと同じように喜んで先に走り出す。こういう時の子どもはみんな同じ。私も小さい頃はそうだった。お父さんに遊園地でボートに乗りたいとおねだりしたときに「いいよ」って言ってもらったら、こんな風に走ったっけ。圭吾はアメリカでどんな風に過ごしていたのかな、なんて頭の隅っこをよぎる。
私たちが勝手に戸を開けて中に入り、チャライ男子から身を隠していたやすの家に戻ってきた。
「おっかぁ、ただいま」
やすが奥に入って行く。すぐに奥から一緒に出て来たのはやすのお母さんだった。着物にエプロン、というスタイルに温かみを感じる。
「手習いで一緒だったんだってね。どうぞお上がんなさいな」
優しい声で言ってくれたから、妙に安心した。さっきの寺子屋といい、やすの家といい、現代から江戸時代にやって来ても何にも怪しまれたりしない。そう思った。「おじゃましまーす」と上がらせてもらったけど、そこはまたしても畳。やすはあぐらをかいているけど、私たちはそうはいかない。やっぱり正座をするしかない。なるほど。ほんとに正座が当たり前の時代だ。
「ふたりとも見かけない顔だね」
こう言われたのは二回目だから、もう私は慌てない。
「私たち、親戚の家に来たんです。それで、少し時間があったから手習いに行ったんです」
圭吾より先に言ってやった。なかなかうまく言えた。どうよ、と言わんばかりに圭吾の顔を見たら、呆れ顔でこっちを見ていた。
「そうかい。それは感心だね。まだいいんだろ。ちょうどお団子があるから食べておいき」
「圭吾乃介とみなちゃんと一緒にお団子だーい」とやすははしゃぎながらお母さんの後について行った。ふたりの姿が完全に見えなくなったのを確認してからこう言った。
「ねぇ、私たちってかなり江戸時代に溶け込んでるんじゃない? 親戚の家に来たっていう圭吾の説明の言葉、私も習得したしさ」
「ほんとにどこまで能天気なのかね、お前って」
能天気? それは褒め言葉と受け取っていいのかな。だって、それこそ私の長所だもの。
すぐにやすがお団子を運んできた。江戸時代の子供はよくお手伝いをするものらしい。さっきの寺子屋のお師匠様も、手習いが終わったら家の手伝いって言ってたし。これは現代っ子は見習うべきだね。私を含めてだけど。少し遅れてお母さんがお茶を煎れて来てくれた。
「さぁ、どうぞ。あらあら、かしこまらないで楽にお座りよ」
待ってましたとばかりに「すみません」と言うと私は足を崩した。隣から圭吾が肩を叩いてきたけど気にしない。そのままだと、オリエンテーションの時のように立てなくなるのが目に見えてる。江戸時代のお団子はほんのり甘くて素朴な味だった。お茶も高級なものではないと思うけど、お団子に合っていてとても美味しかった。何より、江戸時代の食べ物を食べて、お茶を飲んだという事実にわくわくするものを感じた。その時、やすがお団子を置いて、「おっかぁ、これ見て」と嬉しそうに寺子屋で書いた半紙を取り出した。これはマズイかも。さすがの私もこの状況にちょっと緊張が走った。だって、さっきあれだけ圭吾に怒られたところだもの。横目で圭吾の表情を見るけど、首を動かしてないからよく見えない。けど、たぶん彼のことだからオドオドなんてしていないはず。でも、心の中は穏やかなはずがない。
「おっかぁ。みなちゃんってすごいんだよ。マツとリョウに引っ張られて破れた半紙を元通りに直してくれたんだ。ほら、これで」と、半紙の裏を見せている。お母さんは、セロハンテープで貼ってあるところに顔を近づけて、怪訝そうに手を触れて見ていた。
「いや、あの、スゴイって言うか、たまたまなんです。全然スゴクなんかないんです」と、何も言わない方が良かっただろうとすぐに後悔するようなことを言ってしまった。
「あんたたちはどこの町からおいでだね? 親戚の家はどのあたりかね?」
やすのお母さんは探るような目で見て言った。それから、「まぁ、ゆっくりしておいき」とその様子とは裏腹な言葉を残して奥に姿を消した。
「おっかぁ、もっと喜んでくれると思ったのにな」と、やすはポツンと言った。そう、やす以外の三人の心は、それぞれにかなり波立っていたのだ。
「遠山、ヤバイぞ、これは」
「わかってるって」
その時、奥からやすのお母さんの声が漏れてきた。
「おっとう、おかっぴきの旦那に知らせて来ておくれ。あの子達、怪しいんだよ。おかしな物持っているみたいだし」
声を抑えて言ってたけど、確かにこう聞こえた。それと同時に私の腕を引っ張って、圭吾が立ち上がった。また、引っ張るんだから。けど、おそらく今はそんなことを言ってはいられない。
「走るからな」
「わかった」
慌てて草履を履く私たちを見て、やすが「どうしたの、どうしたの」と言っている。
「ごめんな、やす。ちょっと急に帰らなきゃいけなくなったんだ。元気でな」
圭吾はやすの頭をなでた。それから、行くぞっと言うと戸を開けて走り出した。
「けいごのすけぇ、みなちゃーん」とやすの声が聞こえる。それにかぶさるように「おっとう、早く」と叫ぶ声も聞こえた。
またしても私たちは走って逃げている。
「圭吾、どこに行くの?」
「どこにって、もう帰るんだよ。てか、逃げ切れたらの話だけどな。だいたい、お前があんなもの持って来たりするから、こんなことになるんだよ。来た時は来た時で、変なやつらに追いかけられるしさ」
「それは圭吾にも責任あるでしょ。私を一人残して行ったんだからさ」
「いいから黙って走れよ。元来た川辺まで行くんだから。それに時間だってヤバイかもしれないし」
「時間がヤバイって何のこと?」
時間のことなんて、そんなの聞いてないし。
「お前のせいで突然こっちに来ちまったんだから、時間のことまで言えるわけねえだろ。ちゃんと帰れたら説明するから」
これ以上話し続けたら、本当に息切れして走れなくなる。それに、何人もの人にぶつかりそうになりながら走っているから、みんなに見られている。急がないと。ようやく初めに立っていた川辺が見えてきた。そこに着いた時には、口の中がカラカラだった。でも、喉が渇いたなんて言ったら、圭吾に何を言われるかわからない。けど、一体どうやって戻るの?
「いいか。川に飛び込むから手を離すなよ」って、そんな大変なことをスンナリ言い過ぎでしょ。ちょっとくらい噛みなさいよ。なんて思っている私は意外と冷静かも。いやいや、普段冷静じゃないのに、こんな時に冷静でどうすんのよって、自分に突っ込む。と言う間に圭吾と一緒に川に飛び込んでいた。溺れる……とその文字が頭の中に浮かぶ。
目を開けると、天井が見えた。床に寝っ転がってる。横を見ると目を閉じている圭吾がいた。ここは圭吾の部屋。
「良かった」
今度は私の方から手を離した。
「なんだよ、お前。嫌そうに手離すなよ。俺が連れて帰って来てやったんだからな」
起きてたんだ。戻るなり偉そうに言うね。けど、私ひとりじゃとても戻れたとは思えない。そこは悔しいけど、圭吾のおかげだと感謝するしかない。それに、思いがけなく本物の寺子屋になんか行っちゃって、実際に自然な正座を体験できたことも。
「おっと。もうDVDが終わるとこだ。間に合って良かった」
圭吾は起き上がると、スイッチを押してDVDを止めた。そうだ、それを聞かなきゃ。さっき走っている時に言いかけたこと。
「ねぇ、さっき、時間がヤバイって言ったでしょ。今、間に合って良かったって言ったのがそのこと? DVDが終わったらダメなの? どうなるの? もしも間に合わなかったら」
ちょっと考えるように、一呼吸おいてから彼は答えた。
「間に合わなかったことがないから、俺もわからないんだけど、おそらく戻れないんじゃないかと思ってる」
圭吾はDVDのケースから一枚の紙切れを取り出して目の前に差し出した。ノートの端キレのような紙に『話が終わる前に必ず戻ること』と書いてある。裏を見ても何もなく理由らしきことは書かれていない。でも、圭吾が言うように、これを守らなかったら戻れないんじゃないかっていう気がする。けど、このメモがあるってことは、この事を知ってる人がいるってことだ。
「でも、誰がそれを書いたの? おじいちゃんからもらったDVDなら、おじいちゃんじゃないの?」
「それが違うんだよ。じいちゃんにDVDにメモが入ってたって言ってみたんだけど、全く反応がなかったんだ。友人から譲ってもらった物や、どこかの店で中古品を買ったからわからんって。そんな紙はもう必要ないだろうから処分しとけって言ったんだよ。だから、たぶんじいちゃんじゃないんだよ」
ふーん、それなら誰が……。それに本当に戻れなくなるのかどうか。けど、それを確かめるのはあまりにも危険。だから、圭吾だって確かめられずにいるんだろうし。それにしても、今の今までこの事を黙っていた圭吾にはかなりの責任がある。
「こんな大事なこと、よくも黙っていられたもんだわ」と、わざとほっぺたを膨らませて言った。
「だから、さっきも言ったけど、突然向こうに行っちまったんだぜ。それに、あんなややこしいことになるなんて思わなかったんだし。お前が色々問題を起こすからだろ」
「また私のせいにする。そこ、悪いとこだよ、キミの」
けど、こんな風にバカな会話ができるのも無事に戻れたからだ。でも、江戸時代に行ってみても、正座がいかに良いかってことまではよくわからなかった。お師匠様は礼儀や精神集中とかって話をしていたと思うけど、具体的にどう体にいいのかなんてお話はなかったし。時代が時代で、昔だから、そういう生活だし正座をしていたってことだけなんじゃないのかな。確かに正座が当たり前の世の中にいると、今の暮らしの中で練習するのとは違う感覚になれるってことはわかるけど。
「ねぇ、圭吾は今までにも、寺子屋に行ったことがあるっていうこと?」
「うん、そう。初めはたまたま行ってしまったわけだけど、行ってみたら自然な正座がそこにはあって、俺はロサンゼルスからこっちに来て間もなったし、合気道をやってる友達もいなかったからさ。だから、寺子屋に練習に通うっていうイメージだったのさ。けど、三回くらいしか行ってないけどな。あとは、じいちゃんが何となく精神論みたいなことを言ってたし、そのうち、そんな苦痛でもなくなってきたしさ。まぁ言ってみれば、ひとつのキッカケだったってことかな」
「じゃ、私もこれをキッカケにひたすら自分で練習して習得すればいいだろってこと?」
「もちろん」
「何がもちろんよ。なんかごまかされてるような気がする。そもそも、正座ってさ、大昔からの日本人の座り方でしょ。遥かずーっと昔の、紀元前からの。かどうかは不明だけど、でも随分昔から。外国の文化が入って来るまでの間。だから昔の人はできて当たり前なのよ。古い座り方なんだからさ。で、昔の人は足腰が丈夫だったって言いたいわけでしょ」
なんだか今までこだわってたのが、ちょっとバカらしくなってきた。昔の人はできて当たり前。私は現代人なんだから。けど、その後、圭吾の口からは意外な言葉が出てきた。
「あのさ、それなんだけど、正座って大昔からの日本人の座り方じゃないみたいなんだよな」
「うそっ。どういうこと?」
「今日行った江戸時代だって、正座はしてたけど『正座』とは呼んでなかったし。お前、社会科の教科書の写真覚えてる? たとえば、卑弥呼の時代とか紫式部の時代だとかの絵や彫刻。正座してたか?」
またちょっと上からの発言。けど、卑弥呼の時代? 紫式部の時代? どうだっけ。社会科の挿絵は……頭の中に教科書のページを思い浮かべてみる。薄い映像が頭の中に少し見えてきたけど、なんだか正座ではないような気もする。
「はっきりわからないけど、正座……じゃない気がする」
「そうなんだよな」
「じゃあ、いつから日本人は正座を始めたの? それに、どうして?」
「それは俺だってわからないよ。そもそも俺はそんなルーツを探るのが目的じゃなかったんだから。ただ自分ができるようになればそれで良かったんだしさ。ま、じいちゃんの話では、ある時期に広まったらしいけどな。でも、その時は健康に良いからという理由で広まったわけじゃないらしい。だから、そのメリットはずっと後でわかったことなんじゃないかな? まあ、合気道では、礼に始まって礼に終わるっていうことで礼儀から正座を取り入れたわけだから、精神統一や集中力がアップするっていうことは、その時にはわかってたんだろうけどね」
また私の常識が崩れた。大昔からの座り方じゃなかったなんて。このことで、再びフツフツと興味が湧いてきた。
「いつからなのか、知りたくない?」と上目使いで探りを入れてみる。
「別に。知りたかったら図書館にでも行けば?」
なんなのよ。ノリが悪いんだから。でも、何だか急に疲れが押し寄せてきた。これ以上圭吾と言い争う気力がない。
「お前、疲れてないの? あっちに行ったら、かなり疲れてるはずだから今日は早めに寝た方がいいぞ。俺、前もそうだったし、今もこの後そうとう疲れがやって来そうだからさ」
「私、もう来てるよ」
とりあえず、その日の予定は終了ということで家に帰った。気分的にはまだモヤモヤしてたけど。
夜、お風呂の中で今日あった事を思い出していた。もちろん、湯船で正座をして。それにしても、なんかすごい事を体験しちゃったってことだけは確か。まさかの流れだったけど。目を閉じると江戸時代の町並みが浮かんでくる。青い空はいつの時代も同じだった。いくつかの雲が流れて行く様子も変わらない。町行く人達を思い出しても、思いのほか平和だったことに安心する。まぁ、予想外によく走ったけど。けど、あの時代には当たり前の正座が、もっと昔には当たり前じゃなかったかもしれないなんて信じられない。圭吾の秘密を知りたいっていうことがそもそもの始まりだったけど、それは知ることができた。まだ圭吾は私が正座ができるようになりたがってると思ってるけど、そんなことはどうでもいいこと。そりゃ、少しはできるようになればいいなとは思ってるけど。とりあえずの目的は果たしたのに、新たな目的が登場しそうな予感。正座のルーツ。いつから、どうやってできたんだろう。
「ちょっと、姉ちゃん、生きてる?」
突然の淳史の声に目を開ける。
「なに?」
「俺、待ってんだけど、風呂。あんまり静かだから死んでるのかと思った」
「あいにく生きてる。わかった、わかった。今出るって」
湯船の中での正座には完全に慣れた。もう何とも思わなくなったから大進歩。かなり長湯しちゃったから、早く寝なきゃ。
五、茶婚式って最高
翌朝、アラームが鳴ったことに気づいてはいたけど、なかなか体を起こすことができず完全に寝坊した。夕べ、圭吾が言ってたようにやはり相当疲れていたのかもしれない。体が岩にでもなったんじゃないかと思うくらい重たい。でも、これ以上、もたもたしてはいられない。ゾンビのように足を引きずりながら二階から下り、キッチンへ向かった。淳史がちょうど学校に行こうとしているところで、チラッと私を見ると「おそよう」なんて声を掛けてきた。言われなくても遅いのはわかってますって。これでも急いでいるんだから。明日香との待ち合わせの時間だってもうとっくに過ぎてる。鞄にお弁当を入れて、後はとにかく顔を洗って歯を磨いたら行くしかない。
「行ってきまーす」
洗面所からそのまま玄関に向かう。私がバタバタと走るもんだからキッチンからお母さんが顔をのぞかせた。
「行ってらっしゃい。あ、それから、今度の土曜日、覚えてる? 和彦君の結婚式だからね。友達と約束なんてしないでよ」
「ん? うん、わかってる」
靴を履きながら返事をすると、もう振り返らないでそのまま駆け出した。そうだった。この前、お母さんから言われたんだった。いとこの和兄ちゃんの結婚式。お嫁さんの地元が金沢で、そこで結婚式があるから土曜日の朝早く新幹線で行くって。ちょっと珍しい結婚式だってお父さんとお母さんが話してた。でも、結婚式って言ったら、テレビで見たことがあるけど、教会から新郎新婦が腕を組んで出て来て、みんなが二人に花びらをかけて、それから花嫁さんがブーケを投げるんだよね。実際には見たことはないけど、何となくイメージは湧いてくる。走りながらここまで考えてたら、公園の前で明日香が待っているのが見えた。
「遅―い」明日香がこう言うのは当然。
「ごめん。寝坊しちゃって。ホントごめん」
「もう、あと二分遅かったら先に行ってたんだからね」
私、昨日から走ってばっかり。でも、明日香が怒ってなかったのと、まだ走れば間に合う時間だってことが救いだ。二人で走っていると、後ろからタッタッタッタと私たちよりテンポ良く誰かが走って来た。
「よっ、おっはー。やっぱり寝坊したな」
圭吾だ。後ろから来たと思ったらもう前を走ってる。
「やっぱりって何よ。圭吾だって寝坊でしょ」
背中に向かって叫んだ。でも、ずっと走ってるから息も乱れてて、叫んだうちには入らなかった。圭吾も聞こえなかったのか、聞こえたけど知らんぷりをしたのか、とにかく、そのまま走って行ってしまった。
「美波、いつのまに三神のこと圭吾なんて呼ぶようになったの?」
明日香が走りながらニヤニヤしている。こういうことにはホント敏感なんだから、明日香って。いつも油断している時に限って、不意打ちされる。
「あ、昨日、昨日だよ。あいつの家に企画会議に行ったでしょ。そしたら、もうあいつ、何かと偉そうに言うんだもん。だから『三神くん』なんて呼ぶのがバカらしくなっちゃってさ。もう呼び捨てで十分でしょって」
これはもっともらしく聞こえたはず。
「そうそう。男子なんてみんなそうなのよ。すぐ調子に乗って偉そうに言うからね。だから、私なんて初めから、みんな呼び捨てにしてる。川上に三神に、玉井に山田。それに、山辺に坂上。あっ、こっちは先生だけどさ」
学校に着いたときには、もう足が笑っていた。でも、なんとか滑り込むことができたから諦めないで走り続けて正解だった。ただ明日香には付き合わせちゃったから本当に申し訳ない。圭吾はというと、私たちが教室に入った時には、涼しい顔で席についていた。とても走って来たとは思えない様子で、ずいぶん前から教室にいたかのように。
昼休みに明日香へ今朝のお詫びにと売店でプリンを買って来た。ちょっと奮発して『贅沢プリン』っていうのを二つ。
「明日香、ホントごめん。コレお詫びのしるし」と机の上にプリンを置いた。
「なんだ、気にしなくてもいいのに。でも、これは頂きます。美波が来るまで待ってて良かったぁ」
二人でお弁当を食べた後に、贅沢だぁって言いながらスプーンですくう。とろっとしている舌触りがいつも食べる焼きプリンとは全然違う。やっぱり高級感がある。
「ねぇ、美波、部活どうする? テニス部入る?」と明日香が聞いてきた。プリンのカラメルソースを最後まで味わおうとスプーンですくいながら。私は色々他に考えることが多すぎて、部活のことは考えないわけでもなかったけど、後回しにしていた。
「まだ考えてなかった。放送委員のこともあるしさ。何だか余裕がなくて。明日香は?」
「私もそう。またテニスをやってもいいかなって思うんだけど、学級委員なんてのやることになっちゃったしさ」
高校生活はまだ始まったばかりだから、焦ることはないという結論に私たちは達した。だから、もう少し落ち着いてから考えることにする。そして、私は圭吾にまた偉そうに言われないためにも、部活のことよりも先にさっさと曲を決めなければならなかった。放送日も来週の月曜に迫ってきている。福山雅治の曲にした方がいいのか、龍馬伝の主題曲にした方がいいのか……。どっちにしても龍馬伝から離れていない私。
けど、昨日の余韻だってまだ残ってる。あの事は学校では絶対に話すことができないから心にしまってるけど、圭吾とその続きを話したい気持ちでいっぱいだ。もしかしたら、彼の方は昨日の一回でもう完結してるのかもしれないけど。戻った時にそんな口ぶりだったしなぁ。曲のことを考えたり、正座のことを考えたりで私の頭の中は超忙しい。
明日香に相談したら、曲はやっぱり福山雅治の方がいいんじゃないかって言われた。龍馬伝は見てない人にしたら、その曲を聞いてもピンとこないかもって。確かにそうかも。やっぱり持つのは友達だね。一人の頭では考えが至らなくても二人だと正しい答えを導き出せる。二人でも文殊の知恵だ。あとは、どの曲に決めるかだからもう少し頑張ればOKってことで、明日香が学校の帰りにうちに寄ってくれた。そして、スマホでこれはって思うのを幾つか二人で聞いてみた。いい曲ばかりで迷ったけど、先輩たちも新学期だし、私たち一年生はこれからの三年間の希望の気持ちを表す曲にしようって意見がまとまった。だから、前向きになれる曲。そして、結局、ちょっと懐かしいけどアップテンポでノリがいいってことで、明日香の一押し『HELLO』に決まった。あとは、放送する内容の流れをレポート用紙に書いて終了。これで明日、圭吾に見てもらって、てか、たぶん、いいんじゃないかって言ってちゃんと見ない気がするけど。とにかく提出する。
「明日香のおかげで出来たぁ。ありがとー。これで圭吾のやつに偉そうに言われなくて済むよ」
集中してたから終わった途端に急に喉が渇いてきた。ちょっと待っててと明日香に言って、キッチンからジュースとクッキーを持って来た。絶対にコップ一杯では足りないと思ったから、二リットルのボトルも一緒に。
「はい、どうぞ」
ジュースを一息で飲み干すと、お代わりを入れる。空になった明日香のコップにも注ぐ。
「けどさ、美波、この放送委員のおかげで三神と急接近っで感じだね。『圭吾』なんて呼ぶようになったしさ」と、二杯目のジュースのコップに口をつけながら明日香が言った。
「急接近だなんて、そんなんじゃないって。ホント、あいつって偉そうだから。明日香が三神って言うから、私は下の名前で呼び捨てにしてるだけ。二人揃うと、フルネームで呼び捨てじゃん」
もうこの話題はいいんだって。何か話題を変えようと考えていたけど、明日香が続けて言った。
「でも、二人で企画会議なんて言ってもどうせ会議らしくなんかなりっこないって思ってたけど、意外にちゃんと話し合って決めてたんだね。そこは尊敬する。三神がそういうとこ真面目だとは思わなかった。なんかいつもひょうひょうとしてるからさ」
「うん、そこは私も意外だったよ。てか、あいつ、アメリカ帰りなんだよ。知ってた?」
「マジで?」
ほおばったクッキーが口から出そうになるくらい驚く明日香。
「お母さんとお父さんはまだロサンゼルスにいて、あいつはおじいちゃんとおばあちゃんの家に住んでるのよ。お姉ちゃんも一緒に」
「じゃあ、美波が行ったのはおじいちゃんの家なんだ」
「そう。それに、おじいちゃんが合気道の道場やってて、あいつも合気道やってるんだって」
「へぇ。意外だねー。三神ってなんかヒョロッとしてるからそんなのやってそうに見えない」
そう。ヒョロッと見えるのよね、一見。でも、実は筋肉質な感じだってことは内緒にしておく。
「けどさ、きっと英語ペラペラだと思うから英語のテストの前にはいいんじゃない? 三神、使えるかも」
これは、私と同じ発想。やっぱり私たちは似た者同士だ。でも、いつも明日香は私より一枚上だなって思うけど。
「じゃあ、三神ってアメリカ帰りなのに、この前みたいに正座ができちゃうんだぁ。そのへんのこと、聞いたの? 美波、気になってたんでしょ?」
「あ、うん。なんかね、合気道やってるからみたい。武道って礼に始まり礼に終わるって言うじゃない?」
「ふーん」
明日香の「ふーん」が納得しての返事なのか、納得してないからの返事なのかわからないけど、そこはスルーしておく。
次の日の昼休みに圭吾を呼び止めて、「曲決めたし、見て」と流れを書いたレポート用紙を渡した。
「いいんじゃない」
予想通りだ。予想通りじゃなかったのは、それをそのまま私に返そうとしたところ。それは甘いだろ、と思う。
「圭吾が委員長に提出しといてよ。本の内容とか質問されても私、困るしさ」と、レポート用紙を押しつけて走って逃げた。圭吾が何か言ったかもしれないけど、昼休みの雑踏の中に紛れた私には聞こえなかった。あとは、圭吾が何を話すか考えて当日うまく話してくれればいいわけだし、私の仕事は当日にCDを持って行くだけだ。楽ちん、楽ちん。
土曜日は和兄ちゃんの結婚式だった。午前十一時からの式だから七時過ぎには東京駅出発の新幹線に乗って、金沢まで行かなければならなかった。お母さんとお父さんが何時から起きていたのかは知らないけど、私と淳史も五時過ぎに起こされた。こんなに早く起きるなんて滅多にない。今日の前は一体いつだっただろう。中学の修学旅行の朝だったか、部活の地方遠征だったか、そんなところ。とにかく、思いっきり久しぶりだ。それも、結婚式なんだからジャージで出かける部活とはわけが違う。ワンピースに着替えて髪をセットしてアクセサリーもつけなくちゃいけない。淳史は中学生だから制服だろって言われていたのに、ダサい制服が嫌だと言ったらしくいっちょ前にスーツに着替えている。けど、スーツ似合わなすぎ。言ってやろうかと思ったけど、淳史にかまっている暇はなかった。
ようやく落ち着いたのは、新幹線に乗ってからだった。お母さんはバッグから招待状を取り出して眺めている。
「和彦くんがこんなに早く結婚するなんて思わなかったわね」と温かい目をして。
「それにしても『茶婚式』って書いてあるけど、どんな結婚式なんでしょうね」と、お母さんはお父さんに招待状を見せていた。
「ちゃこんしき?」
初めて聞く言葉だった。そもそも結婚式自体が初めてなんだから、お父さんやお母さんにわからないことが私にわかるはずがない。お父さんの予想では、結婚式で使うお酒の代わりにお茶を使うんじゃないかと。お母さんは、よくわからないけど、今まで聞いたことがないから、かなり珍しい結婚式だということだけは確かだと言っていた。お茶と聞くと、どうしてもペットボトルのお茶を想像してしまう私には、どう考えても結婚式とは結びつかなかった。
二時間半の新幹線の旅はあっという間だった。爆睡していた淳史を起こして、私たちは金沢駅に降り立つ。駅ビルから一歩出ると、そこには東京とそんなに変わらない景色が広がっていた。高層ビルが立ち並んでいるし、大きなホテルがいくつも見える。もっと田舎をイメージしていたから、私の予想は完全に外れた。
駅からタクシーに乗って結婚式の会場へ向かう。タクシーの運転手さんが「結婚式ですか」とお父さんに話しかけていた。なんでも今日はとても結婚式が多い日らしい。私たちを乗せた車は大通りを進んでいたけど、途中で細い道に入って行った。さっきまでの駅前の景色とはガラッと変わって、細い路地がいくつも交差して続いていた。そして、みるみる昔からの古い建物ばかりになってきた。こんなところに結婚式場があるのかと不思議に思う。お父さんも同じように感じたらしく、運転手さんに「このあたりは駅前と違って、ずいぶん趣がありますね」と言っていた。本当にタイムスリップしたような景色。見たことあるような気がするって思ったら、この前、圭吾と行った江戸時代の風景によく似ている。
「はい、着きましたよ」と、運転手さんに言われたけど、そこには私が想像していた結婚式場なんてどこにもなかった。だって、テレビで見たことがある白いチャペルを想像していたんだもん。けど、その想像が大間違いだったということは、周りを見渡せば十分理解できた。お父さんとお母さんも少し戸惑い気味だったけど、目の前の古い料亭が結婚式場だとすぐに気がついたのはさすがだ。
「ここね。名前が書いてあるわ」
お母さんが指差す方に目をやると、お雛様の段飾りにあるような桃色のぼんぼりに和兄ちゃんの名前が見えた。横に書いてある「奈津美」というのがお嫁さんの名前だね。この建物を見上げると、まるでこの間の江戸時代の続きを見るような気がする。
中に入ると、玄関に一番近い部屋でみんな待っていた。お父さんとお母さんが親戚の人達に挨拶に回るから、私たちも一緒について回った。「見違えるくらい大きくなったね」とか、「美人になって」などと言われたりしたけど、誰だかわからない人も多かったから、一応頭を下げるけど、あとは曖昧な笑いを浮かべるしかなかった。これから親戚になるお嫁さん側の人達にも一緒に挨拶に行った。こっちは明らかに知らない人達だから、かえって楽だった。問題はそのあと。そんな古い建物だから当然、部屋は畳。大勢の人がいるから、待っている間、必然的に場所を取らない座り方、つまり正座になってしまう。聞くところによると、この建物は、本当に江戸時代末期のものらしい。今の私は江戸時代という言葉にすごく反応してしまう。もちろん、そんなことは誰にも言えないけど。しばらくすると、淳史がモジモジし出す。ははぁ、痺れてきたんだなとわかるから、ここは負けるわけにはいかない。このところ、お風呂で練習してるんだから成果が出てるはず。まだもう少しは我慢できそうと思っていたけど、親戚のおじさんが淳史に足を崩すように言ったから、私もその言葉をきっかけに横座りに変えた。正直言って、内心はほっとしていた。でも見ると、部屋にいる女の人のほとんどがまだ正座を続けていた。あの人たちは普段から正座をしてるのかな。私も大人になったら、いざという時にはちゃんと正座ができる女性にならなくっちゃ。そう思って周りを見ていたら、私は一人の女性に目を奪われた。入口の近くで淡い黄色の着物を着ている女性。背筋がスッと伸びて、凛とした美しさがあった。きっと金沢の人だろうと何の根拠もないけど、そう思う。あまりに素敵すぎて憧れにも似た気持ちでいっぱいになる。そんな気持ちになるなんて、自分自身がちょっと不思議。そしてその時、正座は痺れることを除いたら、ひとつの部屋に沢山の人が座るには一番合理的な座り方なんだとも実感した。
いよいよ『茶婚式』が始まる。二階に上がって左側、二間続きの畳の部屋が結婚式の場所だった。音楽が流れてくると、和兄ちゃんとお嫁さんが入って来て、床の間の掛け軸を背に座る。両側にそれぞれの両親が座っている。もちろん、正座で。もう一つの部屋に私たち親族は座った。さすがに今は足を崩す人は誰もいない。だって結婚式だもん。今こそが、『いざ』という時なんだってつくづく思う。私は今日の『いざ』にどこまで耐えられるかな。けど、姉としては淳史のことの方が心配だ。
正面には、華やかな刺繍が施された着物姿の花嫁さんと紋付き袴の花婿さんが座っている。こんな風に和服で並んでいる姿ってテレビで見たことがあるような光景。私が想像していたチャペルでの結婚式とは全く違っていたけど、和服の和兄ちゃん、カッコいい。お嫁さんの奈津美さんもとっても綺麗。ふたりの少し手前で若草色の着物を着た女性がお抹茶を点て始めた。お茶を点てる茶筅の音が部屋の中に静かに響く。一杯目のお茶は花婿さんが口にしてから花嫁さんへ。そのあと二杯目は、花婿さんが花嫁さんのお父さんへ手渡し、お父さんからお母さんへ。三杯目は、花嫁さんから花婿さんのお父さんへ手渡し、お父さんからお母さんへ。こうして両家がお茶をくみ交わす。こんなの初めて見た。けど、とっても日本らしい。『茶婚式』って伝統的な茶道の結婚式だったんだ。金沢は茶の湯文化が息づいている町だって駅のポスターに書いてあったのを思い出す。
「姉ちゃん」と、ほんの少しこっちに体を寄せて小声で淳史が言った。
「何? 足が痺れたの?」
どうせそんなことだろうと思って、足を触ってやった。
「うっ。何すんだよ、バカ。痺れてるに決まってんだろ。あのさ、茶婚式って、抹茶を飲む結婚式だったんだね」
「そうだよ。あんたどう思ってたの?」
私も全然わからなくて、ペットボトルをイメージしてたなんて淳史には死んでも言えない。
「金婚式とか銀婚式とかって聞いたことあるけど、茶婚式なんて聞いたことないからさ。茶色い物に囲まれて結婚式をすんのかと思ってた。だから、こんな昔の建物なのかって」
「バカじゃないの」
これは、私の比ではない。完全に負けました、バカさ加減では。まぁ、姉の面目保てたから良かったんだけど。けど、ウケる。いや、呆れる。
「この後、なんかご馳走食べれるんだよね。茶色い物って言ったら、ハンバーグとかステーキとか? んで、チョコレートケーキとか?」
まだ言ってる。これは救いようがない。
淳史のおバカな会話に付き合ってるうちに、結婚式は終盤になっていた。そして、隣の淳史は黙ったかと思ったら、今度は右に左にと体の位置を変えている。これは相当足にキテるな。でも、私も膝が悲鳴を上げそう。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせてちょっとお尻をずらしてみる。
その時、私はスゴイことを閃いた。今いるココは明らかに正座の文化。正座のルーツって『茶道』にあるんじゃないの? そうだ、絶対にそうだ。そこから探ればきっと何か掴めるはず。やったね、私。それだったら、学校に茶道部あるじゃん。なんだか扉が開いた気がする。金沢まで来た甲斐があった。和兄ちゃん、ありがとう! 『茶婚式』最高!
帰りの新幹線では、お父さんもお母さんも「いい結婚式だったね」と言っていた。そして、『茶婚式』って茶道を取り入れた日本の伝統を重んじる結婚式だったんだねって。日本の良さをあらためて感じることができる式だったとお母さんは喜んでいた。何よりふたりが本当に幸せそうで良かったって、お父さんは言ってた。私は『茶婚式』の素晴らしさがわかったことより、このあいだからの疑問が解決できそうなヒントを得られたことの方が嬉しかった。けど、しばらくすると朝が早かったからか、東京に着くまでの間、四人とも完全に眠り込んでいた。
六、茶道の歴史を探れば……
月曜日、明日香と一緒に登校しながら、放課後に茶道部に行ってみようと考えていた。もちろん、正座のルーツを探るために。顧問の先生に聞けばきっと何かわかるかもしれない。でも、その前にやらなきゃいけない大仕事があった。そう、だって私たちが放送を担当する日なんだもん。
「いよいよ今日だなぁ、放送。明日香と一緒に決めた曲は持って来たし準備OK。あとは本番だっ」
「そっか。がんばれー」
「てか、圭吾だけどね、頑張るのは」
圭吾のことだから、ちゃんと話せるようにしてくると思うけど、登校したらちょっと話をしてみないとね。一応の段取りとか。それを無事に終えることができたら、放課後は次の目的に向かうことができる。
「あ、明日香、今日は先に帰っててくれる?」
「うん、わかった。何かあるの?」
明日香は、歩きながらポケットからリップクリームを出して塗っている。
「何かあるってわけじゃないんだけど、放課後、ちょっと茶道部に行ってみようと思って」
「茶道部!?」
右手にリップクリームを持ったまま固まる明日香。
「ちょ、ちょ、ちょっと。美波、もしかしたら茶道部に入る気?」
「んなわけないでしょ」
「だよね」と言いながら、リップクリームをポケットにしまう。
「じゃあ、なんでまた茶道部に? 美波が大の苦手としている正座が、てか私もなんだけどさ、それが絶対条件みたいなところに」
明日香はそうとうビックリしたのか立ち止ったまま話してる。必然的に私も立ち止まることになってるから、明日香の腕を軽く引っ張る。だって、このままずっと立っていたら遅刻してしまう。
「あのさ、それだよ、それ。正座。ルーツが茶道にあるんじゃないかって思って。先生に聞いてみようかと思ってるの」
「えーっ! 美波ってまだ、正座がどうのこうのって言ってんの? 三神が正座できる理由はわかったんでしょ。言ってたじゃん、合気道やってるからだって。だのに、まだ、続いてんの?」
明日香の言うとおり。自分でもよくわかんない。いつの間にか圭吾本人というより、正座のミステリーっていうか、そっちに興味が湧いてきちゃった感じ。江戸時代になんか行ってしまったばかりに。いや、圭吾が「正座は大昔からの座り方じゃないみたいだ」なんて言うからだ。けど、今ここで明日香に説明するには時間がない。というより、江戸時代の話ができないから、説明するにはかなり高度な技術が要る。
「あのね、親戚のお兄ちゃんの結婚式で金沢に行って来たんだけど、それが『茶婚式』っていう茶道の結婚式だったのよ。向こうでずっと正座でさぁ。足が痛かったのなんのって。茶道って必ず正座するみたいだから、ちょっとだけ聞いてみようかなって。いざという時に役に立つように楽に座れる秘訣とか」
とりあえず今はこんな感じの理由にしておいた。足が痛かったのは事実だし。
私たちが教室に入ると圭吾はもう来ていて、何人かの男子と昨日のお笑い番組の話をしていた。誰かの大喜利が最高だったとか笑いすぎて呼吸困難になったとか。あんな風に他の男子と話をしている姿を見ると、圭吾も全く普通の男子で、あんな秘密を持っていることなんかこれっぽっちも感じられない。
「おっはー」と誰に言うわけでもなく声を掛けて机に鞄をかけると、圭吾に視線を送った。けど、背中を向けてるから気づく様子はない。もう仕方ないなぁと近づいて行く。前に回って圭吾の視界に入ると、ようやく彼は私を見た。
「ようっ」と軽く手を上げる圭吾。けど、それだけ? また、川上くんたちと話し始めてる。あまりの反応の悪さに、彼がちゃんと今日の準備をしてきたのかどうか不安になる。ちょっと、ちょっと、と私は手招きをした。
「今日のお昼だよ。覚えてる?」
「決まってんだろ? どうやったら忘れられるんだよ。喋るの俺だしな。委員長に企画書提出したのも俺だし」と、やっぱり上から言う。
肝心なこと忘れてるんじゃないの?
「あのねー、企画を考えたのは私だし、企画書を書いたのも私ですからっ。今日がその日だって、覚えてるんならいいわよ、それで」
「俺はね、どんなに疲れてたってやることはちゃんとやるんだよ。とんでもない事につき合わされてもな」
何よ! その言い方。ホントに腹が立つ。
「あー、今日、終わったらやっとのんびりできるよ。今日は稽古もないし、パラダイス、パラダイス」と、両手をヒラヒラさせている。
「はいはい、どうぞ、ゆっくりなさって下さいな。じゃ、とにかく四時間目終わったら放送室に集合だからねっ」
「あいよっ。曲、持って行くの忘れんなよ」
きーっ、ムカつく。忘れるわけないでしょ。
圭吾が抜け目ないことは知ってるんだけど、いつも慌てることなく平穏な顔をしているから逆に心配になる。結果的にそんな心配はいらなかったんだけど。
四時間目が終わって昼休みになった。いよいよ本番。全学年の教室、職員室、食堂も含めて校舎中に私たちの放送が流される。先輩たちから「傍にいるから安心して」と言われたけど、さすがにマイクの前に座ると緊張してきた。喋るのは圭吾だから、私は相槌を打つくらいなんだけど。
「なんか緊張するね、やっぱり」と圭吾の肩をポンポンと叩いてみた。
「何にもしないお前がなんで緊張すんだよ。それに、なんか楽しそうだしよ」
そう言われれば、楽しくなくはない。ちょっとワクワクしてるかも。
「はい、じゃあ、本番」
先輩が片手を上げて、指を一本ずつ折っていく。そして、グーになったらスタート。テーマソングが流れる。
「こんにちは! ランチジャンプの時間です。今日は一年二組の三神圭吾と……」
「……遠山美波がお届けします」
自分の名前は自分で言うんだってことを忘れてて、一瞬焦った。若干間が空いたけど、気にしない気にしない。
「さて、今日は僕が読んだ本の話をしようと思います。生徒の皆さんの中でも、好きな人は多いと思いますが、坂本龍馬を題材にした本です。以前、『龍馬伝』というドラマがあったから、その内容を覚えている人もいるのではないでしょうか。実は、『龍馬伝』以外に司馬遼太郎という人の『竜馬がゆく』という小説があります。実はこの二つには、同じ坂本龍馬の物語なのに、内容にかなり違いがあるんです。それを今日はお話ししたいと思います……」
悔しいけど、あまりにも圭吾がすらすらと話すから尊敬しちゃう。隣に座っていながら、ついその横顔を見つめてしまって、カッコいいとさえ思ってしまう。ん? ヤバイ。圭吾のこと、カッコいいって思ったのってこれで二回目だ。
「このように重要な役割をする二人の女性、お田鶴さまと平井加尾の役まわりには大きな違いがあり、また勝海舟との出会いにおいてもかなり異なる点があることは本当に興味深いことです。この二つの物語にある数々の相違点を比較しながら読んでいくとまた違った面白さがあり、楽しめると思います。ちなみに僕が個人的にどっちが好きかっていうことは、この場では伏せておきたいと思います。興味のある人はぜひ読んでみてください。そして、良かったら一年二組にいるんで、話しに来て下さい」
お見事としか言いようがない、と完全に観客になっていたら、圭吾が肘で突いてきた。ん? 何?
「きょく」と声に出さずに口を動かしたから、アッと気がつく。
「それでは、一曲聞いてください、福山雅治で『HELLO』、どうぞ」
マイクがオフになって曲が流れだした。終わったぁ。
「いやぁ、危なかったねぇ」と、圭吾に何か言われる前にちょっとおどけて言ってみた。
「危なかったねぇ、じゃねえだろ、ほんとに。よくまぁ、この場でボーっとしてられんな、お前って。尊敬するわ」
「ごめん、ごめん。あまりにも圭吾ちゃんが上手に話すもんだからさ」
「バカ。誰が圭吾ちゃんだよ。気持ち悪い」
「ちょっと、気持ち悪いって何よ。乙女に言う言葉? せっかく褒めてあげたのに」
ま、私が悪いんだから、ここは何と言われても仕方がない。けど、無事に終わってヨカッタ、ヨカッタ。
教室に戻る廊下を「うおーっ、今日はのんびりするぞー」と圭吾は伸びをしながら歩いていた。私もずっと抱えていたこの大仕事が終わったから、正直ホッとしてる。けど、すでに次の案件に気持ちは向き始めていた。放課後のことに。そうだ! イイことを思いついちゃった。
「ねぇ、圭吾、ついでっちゃなんだけどさ、放課後、茶道部に一緒に行かない? 今日、稽古ないって言ってたでしょ。ちょうどいいじゃん。暇なわけだし」
「はぁ!?」
今朝の明日香と同じリアクションだ。圭吾も立ち止まった。
「茶道部? なんで俺が? てか、お前もだけど」
「あのさ、この前言ってたでしょ。日本人は大昔から正座をしていたわけじゃないって。でね、私、土曜日に親戚の結婚式に行ったんだけど、茶道の結婚式でさ、変わってるでしょ、で、その時ずっと正座してて閃いたのよ。正座のルーツは茶道にあるんじゃないかって。どう? そう思わない?」
「そう思わない? って言われてもなぁ。俺、そんなこと考えたこともないし。だいいち茶道なんて興味ねえし」
「私だって茶道に興味があるわけじゃないし。でも、茶道部の先生に聞いてみたら絶対に何かヒントがあると思うのよね」
「そんなに知りたいんならお前ひとりで行ってくればいいだろ? 俺は今日はゆっくりするんだからさ」と、先に歩き出す。冷たいんだから。
「お茶でも飲んでゆっくりすればいいじゃない。それに絶対に正座をすることになると思うからさ。圭吾、得意じゃん、正座。茶道も合気道もどっちも『道』がつくんだしさ」
「『道』は『道』でも全く違うだろ? あのなぁ。巻き込むなよ、俺を」
「ムリムリ。元はと言えばそっちが巻き込んだんだから。そういうわけだから、放課後よろしくっ」
私はそう言うと、もう何も聞きませんとばかりに耳を両手で押さえて小走りに教室に向かった。正座の得意な圭吾が一緒なら心強い。いざとなったら圭吾に座らせておけばいいんだから。よっしゃっと小さくガッツポーズをすると、教室の扉を開けた。明日香が私の姿を見て、真っ先にすっ飛んできた。
「美波、めっちゃ良かったよ。なんだか坂本龍馬の本、読んでみようかなっていう気になったもん。『HELLO』もバッチリだったしさ。あれ? 三神は?」
「あ、もう来るよ。私、先に走って来ちゃったから。でも、そう言ってもらえたら嬉しいなぁ」
他のみんなもすごく良かったって言ってくれて、ちょっとしたアイドルみたいに囲まれてたら、圭吾が戻って来た。そしたら、そのままアイドルの波は圭吾へと向かう。まぁ、それは当然と言えば当然。あくまで圭吾の役割が大きかったんだもの。圭吾もまんざらでもなさそうで嬉しそうな顔してる。あいつ、いつも心の内を見せないけど、この日のために案外神経を使ってたのかもしれないと思う。
六時間目の授業が終って、待ちに待った放課後になった。圭吾を逃がしてはいけないと思って行動を気にしてたけど、意外にも覚悟を決めて一緒に行く気になってるみたいだった。なぜなら、他の男子に手を振って、そのまま席から動く様子がなかったから。急いで帰り支度を済ませて、圭吾を確保するために声を掛ける。
「ちょっと待ってよ。先に安藤さんに声を掛けてみるから。絶対に動かないでよ」
「はい。はい。動かねえよ。十秒だけな」
この言い方は、もう完全に私の味方になってるから大丈夫。さぁ、茶道部の安藤さんに声を掛けなきゃ。
「安藤さん、あのさ、今日って部活行く?」
安藤さんは帰り支度をしていた手を止めて私の顔を見た。ほとんど話をしたことがない私に急に声を掛けられたから、戸惑ってるようだった。あまりにも真顔でこっちを見続けるから、私は大袈裟なくらいの笑顔を彼女に向けた。すると、やっと安藤さんも頬を緩めて答えた。
「行くよ。今から。何?」
「いやぁ、ちょっとね。茶道部にくっついて行ってもいいかなって思ってさ」
「えっ、入るの? 茶道部」
「いや、入るっていうわけじゃないんだけど……ちょっと茶道について聞きたいことがあってさ。三神くんがね、正座はできるんだけど茶道のことがわからなくてさ。あ、私も茶道は一回見ただけだから偉そうには言えないんだけどね。ちなみに私は正座も苦手なんだけどさ」
「おいっ」と圭吾は立ち上がっていた。怒らない、怒らないと私は片目をつぶってみせた。安藤さんは要領を得ない顔をしていたけど、とりあえずは私たちが入部希望ではないってことはなんとなくわかってくれたと思う。
「じゃ一緒に行こう。やってみて、もし気に入ったら入部すればいいんじゃない?」なんて言われてしまったけど、なんとかなるでしょ。というわけで、安藤さんについて行くことになった。
「行くよ、三神くん」と立ち上がったままの圭吾に言う。わぁ、そんな顔で見ないでよね。
「いきなり俺の名前出すなよな」と小声だけど怒り満載の声で言う。
「仕方ないでしょ。なりゆきなんだから」
安藤さん、私、圭吾と縦一列に並んで茶道部の茶室に向かう。圭吾の視線が背中に突き刺さる。でも、怒って帰ったりしないでちゃんとついて来るところが圭吾のイイところ。
茶室に着くと、中に入る前に上靴を脱いで靴箱に入れなければならなかった。そっか。畳だからかぁ。扉を開けた安藤さんに続いて中に入った。すでに中には五、六人の生徒が座っていた。おー、正座だぁと心の中でつぶやく。生徒たちは、私たちの姿を見ると一斉にパッと明るい顔になったのがわかった。完全に入部すると思われてる。けど、それにしても、この部屋って……床の間があって、花も活けてある。何やら墨で書かれた掛け軸もある。こんな部屋が校舎の中にあるなんて驚き。そう言えば、音楽室だってホールみたいな形だったものね。高校はやっぱり中学とは違う。
「はい。お待たせしました」と中に入って来たのは顧問の山口先生だった。私たちを「あれ?」という顔で見た。
「いらっしゃい。一年生?」と嬉しそうな顔で声を掛けられてしまった。誤解される前にちゃんと言わなきゃ。
「はい、一年二組の遠山美波です。あ、こっちは……」
「同じく一年二組の三神圭吾です。遠山がどうしても茶道部に行ってみたいって言って、仕方なく付き合わされて来たんです。だから、僕は単なる付き添い人なんで気にしないでください」
しまった! さっきの事があったから先手を打たれてしまった。圭吾を全面に押し出す計画だったのに失敗した。そのうえ、安藤さんが追い打ちをかける。
「先生、遠山さんたちは後で何か聞きたいことがあるそうです。それと、とりあえず一回やってみてから入部するかどうか決めるそうです」
なんだとーっ! そんなこと言ってない、言ってない。勝手にそんなこと言われても、困るんだから。ちょっと聞きたいことがあるとしか言ってないのに。安藤さんを甘く見ていた。圭吾は今にも炎が出そうな目をして私を見てる。私のせいじゃないってば。
結局、私たちは他の部員の人たちと一緒に並んで座ることになった。当然、正座で。ここはとにかく乗り切るしかない。初めに二年生の人がお茶を点てることになった。これをお点前と呼ぶらしい。この前の結婚式でこのお点前を見たから、あぁこんな風に点てていたなって思い出す。そう思ってたらお茶を点てている先輩が「お菓子をどうぞ」と言った。お菓子? 思わず圭吾の方を見て笑ってしまった。
「バカ。喜ぶなって」
何よ。自分だって嬉しいくせに。お茶にお菓子がついてくるなんて知らなかった。結婚式の時にはお菓子なんてなかったんだもん。お菓子は端っこの人から順番に取っていくようだ。山口先生が「みんなと同じようにやってみてね」と言ったから、前の人達の様子をジッと見る。
「お菓子をちょうだいします」とお茶を点ててる人に一礼をして、それから隣の人に「お先に」と挨拶をしてから取るみたい。隣に座ってる圭吾の番になり、圭吾は初めてとは思えないほどスムーズにやってのけた。私もなんとか見よう見まねで一つ取った。でも、このお菓子が見たことのないお菓子で、とてもかわいらしい。それはピンクや黄色でお花の形をしていた。昔、おばあちゃんの家にあったお花の角砂糖にちょっと似ている。
「もう食べた?」と圭吾に聞いてみる。圭吾は自分の口を指差した。相変わらず何をするにも迷いのないやつだ。私もそっと口に入れた。すーっと溶けてすごく柔らかい甘さだった。こんな食感は今まで経験したことがない。先生によると、抹茶はカフェインが強いから先にお菓子を食べて胃の負担を軽くするんだって。そしてお菓子で甘くなった口をお茶がスッキリしてくれるらしい。だからお菓子を食べた方がよりお茶の美味しさが増すんだって。この話を聞いただけで、まだ飲んでもいないのにお茶に関してはもう十分な気がしてきた。でも、これからが本番で、順番にお茶が回ってくるみたい。また、前の人がするのを見て真似をすればいいのかと思って見ていたけど、さっきより数段難しそう。声を掛けてお辞儀をして、また声を掛けてお辞儀をする。それからお茶碗を手に持って……そこで回す? それから飲む。えっ? ズズズーって音を鳴らすの!? こんなの覚えられっこない。一人目の人を見て、二人目の人を見て、頭に入れようとしてるんだけど、ん? もう一回挨拶をするんだっけ? あぁ、なんだか足も痛くなってきたし。
「遠山、お前って挙動不審だな」と耳元で圭吾が言う。
「だって、足も痺れてきたしさ。それに覚えられないじゃない。圭吾はやり方わかってんの?」
「わかってなんかないけど、初めてなんだから教えてくれるだろ、たぶん」
確かに。仮に間違ったって、私たち部員じゃないし。そうだよ。何を焦ってんだろ、私。そう思ってたら、先生から頼まれて安藤さんが私たちに近づいてきた。
「私が言うからその通りにやってみてね」
「わかった。ありがとう」と私が答えると、圭吾は小声で「ほらな」と言った。最初に圭吾が安藤さんの助言のもとにお茶を飲んだ。ふーん。安藤さんの言う通りに挨拶をすればいいのね。そして飲んだら、お茶碗を指で拭いて、その指をこの紙で拭くってわけか。わかった、完璧だ。あとは、足だけがヤバイよ、そろそろ限界かも。「ガンバレ、美波」と自分で気合を入れる。そして、いよいよ私の番。完璧だと思っていたのに、いざやってみるとアタフタする。お茶碗を手に取って飲もうとしたら「回して、回して」と安藤さんが後ろから言った。回す? あっ、そうか。飲む前にお茶碗を回さなきゃいけないんだった。慌てて回そうとしたら、なんだか勢いがつきすぎた。
「あ、あ、あ、あーーーーっ!!」
お茶碗が生きてるかのように私の手から離れて行った。うっそー。一瞬、畳一面が緑色になった映像が頭に浮かんだ。やっちゃった。けど、意外にも畳は緑色にはならなかった。
「大丈夫?」と声が聞こえた。
「すみません、大丈夫です」と答えたけど、すぐにその質問が私に向けられたものではないことに気がついた。なぜなら、隣に座っていた圭吾が前のめりの変な恰好で座っていたというか、横たわっていたというか、とにかく止まっていた。手にお茶碗を持って。
「ちょっと遠山、これ持てよ」
「あ、ごめん」と私は圭吾の手からお茶碗を受け取った。かなり足は痺れているけど、今は痺れているなんて言えない。
「三神くん、大丈夫? ケガしてない?」と山口先生が圭吾を起こした。
「大丈夫です。畳が汚れなくてヨカッタです」といやに爽やかに言ってる。他のみんなも私が飛ばしたお茶碗を圭吾が手で受け止めたことに大絶賛だった。畳にお茶のしずくがほんの少し飛んだだけで、被害は最小限に抑えられていた。そして、それはすばやく拭き取られた。完全に圭吾がヒーローで私は悪役という雰囲気になってしまっていて、私はただひたすら、すみませんと謝るしかなかった。
「初めてなんだから緊張するわよね。気にしなくていいのよ」と先生に慰められたけど、全く立場がない。穴があったら入りたいっていうのは、まさしくこんな気持ちを言うんだと思った。その後は、後ろの方で圭吾と一緒に稽古が終わるのを待っていた。
「やらかしてくれたな。有難く思えよ」
「うん……ありがとう。今日だけはホント感謝するよ」
「今日だけは? 今までも何度もあっただろ、感謝すること。ほんとにお前には呆れる」
「まぁ、そう言わないで。あんなに素早くお茶碗を受け取れるなんて、合気道やっててよかったじゃん」
「お前なぁ!」と圭吾が大きな声を出したから一斉にみんなの視線が集中して、私たちはペコンと頭を下げた。わかってるって。いくつも借りがあることぐらい。
ようやく稽古が終わって、先生と話ができる時間になった。
「今日はどうだった? 初めてだからわからないことばかりだと思うけど、初めはみんなそうだから心配しなくていいのよ」と話す山口先生は、まだ私たちが茶道部の体験に来たと思っている。そこのところはあまり否定するのも印象が悪いと思うから、なんとなく濁しておく。そしたら、サッサと聞けよとばかりに圭吾があごで合図を送ってくる。
「先生、私、先生に教えてほしいことがあるんです」
「何? 茶道のこと?」
「茶道のことと言えばそうなんですけど。実は正座についてなんです。あの、私たち、正座についてちょっと調べてて、現代と違って、昔は正座が一般的だったと思うんですけど、でも、大昔から日本人は正座をしてきたわけじゃないらしいんです。平安時代とかの様子を描いている物を見ると、どうも正座じゃないみたいなんです。茶道って絶対に正座をするじゃないですか。それに茶道には古い歴史がありますよね。だから、茶道の始まりが正座の始まりなんじゃないかと思ったんです。それで、先生にその歴史っていうか、ルーツを教えてもらえたらなって思って」
ここまで一気に喋ったのに、圭吾が余計なことを付け加えた。
「あ、コイツ、私たちって今、言いましたけど、主にコイツだけのことなんです。俺は別にルーツなんかわかってもわからなくても、どっちでもいいんで、コイツに話してやってください」
山口先生は少し首をかしげて考えていた。
「正座のルーツねぇ。確かに現代では茶道に正座は欠かせないけど、それは女性がたしなむようになってからかもしれないわね」
「えっ、どういうことですか? 茶道って言ったら、女性がすることなんじゃないんですか? だって、茶道部だって女子ばっかりだし」
「今はね。現代では女性がするものって思われていることが多いけど、昔はそうじゃなかったのよ。ほら、日本史で茶道を確立したとして名前が残ってる人って覚えてる?」
出た。日本史。急に聞かれても、答えに困るのよね。ここは圭吾の出番でしょ、と目配せをした。付き添いならちゃんとフォローしなさいよ。
「村田珠光とか千利休とか」と、圭吾が答える。うん、うんと私は頷く。
「そう。他にも何人か挙げられるけど、みんな男性ばかりなの。元々、茶道は男性のものだったのよ。女性がするようになったのはずっと後なのよ。明治時代になって女子教育に礼儀作法として茶道が取り入れられて、それから女性に一気に広まって現代にいたるってところかしら。着物姿の女性がするとなれば当然正座ってことになるものね。今では茶道と言えば、正座で女性がたしなむものだって多くの人が思っていると思うんだけどね」
「ふーん。ということは、茶道で正座が確実なのは明治時代からってことなんですか?」
「そうなるかしらね」
「意外。じゃあ、その前はどうなんですか」
でも男性がやってたとしても、そこは茶道なんだから正座をしてたんじゃないの? って思うけどな。
「先生も詳しく知らないのよ。千利休は正座をしてなかったという説もあるみたいなんだけど、映画やテレビではちゃんと正座をしてるしね。そういうことはあんまり調べられていないのかもしれないわね」
そうかぁ。茶道が男性のものだったっていうことが驚きだけど、その時代がカギかも。ちょっと真相に近づいた気がする。
「わかりました。色々ありがとうございます」
「あんまりお役に立てなくてごめんなさいね。日本史の香川先生にもちょっと聞いてみるわね」
そう言いながら、山口先生は茶室の戸締りを始めた。
「ありがとうございました。失礼します」と挨拶をして私たちはその場を後にした。
帰り道、案の定、圭吾に茶道部でのことを散々言われた。
「お前みたいに茶碗投げるヤツ、見たことない。俺がいなかったらどうなってたと思うんだよ。畳一面お茶まみれだぜ」
「もうっ。投げたんじゃないし。たまたま飛んで行ったっていうか。悪気はなかったしさ。それに、そのことは感謝してるって、さっき言ったじゃない」
「そう思うんなら、もっと有難がれよな」
「はいはい。いつもいつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします」
「はぁ、高校生活、始まったばかりなのに、この先思いやられるよ」
「でも、茶道部に無理やり引き込まれなくてヨカッタと思わない?」
「アホか。あんなことしといて、引き込まれるわけないだろ」
そりゃそうだ。けど、考えようによっちゃ『怪我の功名』って言うんじゃないの? これって。無理に入部を勧められなかったんだからさ。
「でもさ、茶道でも昔から正座をしてなかったかもしれないなんて、超ビックリした」
「そうだな」
ん? あんまり興味なさげな返事。
「ねぇ、ねぇ、千利休のあたりが怪しいと思わない?」
「そうだな」
なんだ、その返事。さっきの返事をリピートしてる。
「ま、調べるなり考えるなりすれば? 俺、のんびりするはずだったのに、お前のせいで大幅に予定ずれ込んでるしな。じゃあな」
圭吾はそのままあっけなく背中を向けて行ってしまった。もうっ! と思ったけど、まぁ、今日は一人で行くはずだったところを付き合わせちゃったんだし、許してやるか。
「バイバーイ」とその背中に叫んだ。圭吾は振り向かないで手だけを振ってそのまま帰って行った。
家に帰って鞄を置き、制服を着替えるとすぐにベッドの下の箱を引っ張り出した。処分しそびれていた中学の教科書。その中から社会科の教科書を取り出してベッドの上に置いた。そしてまだ新しい高校の日本史の教科書も本棚から持ってきた。人物の写真を探してみる。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代。あー、よくわからない。足元が見えない物もあるし、細かすぎて人物がよくわからない物も多い。着物や袴で隠れていて正座なのか違うのかが判断できない物がほとんどだし。でも、どうもあぐらのような気もする。明らかに立膝の絵もある。それに、茶道のことは室町文化、桃山文化に茶の湯って書いてあるけど、正座については何にも書かれていない。茶の湯を大成したのは『千利休』ってそこは太文字になってる。やっぱり大事だから太文字なんだよ、利休さんが。ということは、男性ばかりの茶の湯を調べたら、正座のこともわかるに違いない。でも、正座をしない茶道なんてイメージできないんだけどな。だって、あぐらで茶道なんて、お行儀悪すぎじゃない? ていうか、絶対に怒られるでしょ。あー、わからない。もう無理だぁ。なんだか眠くなってきた。教科書の睡魔を誘う威力は凄い。
七、カギは千利休
次の日の朝はいつもより一時間早く目が覚めた。それもそのはず。夕べ、教科書を見ていて眠くなって、そのまま朝まで寝てしまったんだから。寝ているうちに落ちたのか教科書はベッドの下にあった。とりあえずその二冊を机の上に置いて、そのまま一階に下りる。キッチンのテーブルには昨日の晩ごはんのハンバーグが置いてあった。ごはんも食べずにお風呂にも入らないで寝てしまったから。おなかが空いてるけど、先にお風呂にしよう。でも、ゆっくり湯船に浸かってるほどの時間はないから、さっとシャワーで済ますことにした。
熱めのシャワーを首筋にかけると、スーッと覚醒していくのがはっきりとわかる。髪を洗いながら、昨日のことを考える。そして、山口先生の言葉を思い出す。『茶道は男性のものだった』って。
「やっぱり、絶対にそこだよね」
昨日、教科書を見ても、茶の湯といえば千利休、千利休といえば茶の湯だった。やっぱり、もう、これしかない! 完全に目覚めた私は心も決まり、急いで体を洗うとお風呂から出た。そして、ささっとドライヤーで髪を乾かしてからキッチンへ戻った。
キッチンには、お母さんと淳史がいた。
「パンが焼けてるわよ」とお母さんが声を掛けてくれた。
今日は淳史もいつもより早いんじゃない? もうトーストをかじってる。と思ったら、そのパンの上に乗っかってるのは、何!?
「ちょ、ちょ、ちょっとー。そのハンバーグ、私のでしょ!」
ありえなーい。淳史が食べてるなんて。
「なんだよ。食べてないからいらないのかと思ったんだよ」
「シャワー浴びてから食べようと思ってたのよ」
「まだ、残ってるじゃん。どうしてもって言うんなら返すけどさ」
もうムカつく。食べかけなんて返してほしくありません。「もういい」とだけ言って、トーストをお皿に乗せた。
「ごめんね。お母さんが淳史に食べてもいいんじゃないのって言ったのよ」と、お母さんは申し訳なさそうに紅茶のカップを置いてくれた。
「もういいって」
せっかくいい気分でシャワーから出て来たのに。仕方なくテレビを付けて、残りのハンバーグを食べる。今日の運勢が始まった。かに座は七位。なんとも中途半端な順位。
「おー、最悪の運勢だぁ」と淳史が叫ぶ。あんたなんか最悪で十分。
「お母さん、ラッキーメニューは麻婆豆腐だからね。じゃ、お先に」と言って鞄を肩にかけると淳史は出て行った。
「お母さん、麻婆豆腐なんて作らなくていいからね」
私のラッキーメニューは青梗菜炒めだった。なんだか食欲そそらない。お母さんは呆れ顔で笑ってる。でも、そろそろ私も行かなくちゃ。さっきのお風呂での気持ちに戻ろう。そう、そう。心は決まったんだった。解決するかどうかわかんないけど。
登校しながら、昨日の茶道部での話をしたら、明日香ったらめちゃ笑ってた。見たかったなぁって。それと、もちろん、今朝の淳史の事件も。でも、それは『兄弟あるある』だった。明日香には三つ下の弟がいるから同じようなことがしょっちゅうあるって言ってた。油断してると何でもすぐに食べられてしまう。
「ホント、ムカつくよね。弟って自分のことしか考えてないからさ」
これは私と明日香の共通の意見。明日香は冷蔵庫の飲み物やプリンに、自分の名前を書いておくんだって。私も今朝のハンバーグのラップに名前のメモを貼るべきだった。でも、明日香と一緒に弟の悪口を言ってたら、なんとなくスッキリして、学校に着く頃にはいつも通りの気持ちに戻っていた。
今日は圭吾と昨日の続きを話して私の心が決まったことも話したかったけど、昨日迷惑かけたし、私なりにやっぱりちょっとは悪かったかなとも思うから、少し気が引けて話しかけるチャンスを逃してしまった。
家に帰ってからも、また教科書をパラパラとめくってみて悶々としていた。晩ごはんを食べてから自分の部屋に戻ったけど、このままでは気持ちが収まらない。やっぱり圭吾に会いに行こう。
「お母さん、ちょっと三神くんちに行ってくる。聞きたいことあるから」と声を掛ける。
「今から? もう二十時前よ」
「すぐ帰ってくる」
ガレージの奥から自転車を出して飛び乗る。こぎ出すと夜風が頬を流れて行って、圭吾の家までの数分が心地よかった。家の前に自転車を停めるとインターホンを押してみる。今日は来ることを言ってないから、びっくりするかも。それより、圭吾が家にいるのかどうかもわからない。玄関先の電燈が点いて、「はい」と女性の声がした。
「あの、三神くんの同級生の遠山です。三神くん、いますか?」とインターホンに口を近づけて話した。
「ちょっと待ってね」
圭吾が出て来るのかと思ったら、ドアを開けてくれたのはすらっとしたショートカットの女の人だった。
「圭吾なら今、道場なのよ。あの子、稽古のこと忘れて約束してたんでしょ」
「いえ、そうじゃないんです。私が勝手にっていうか、思いつきで来たんです。ちょっと聞きたいことがあって。あ、だから、いいです。また明日にでも学校で聞きますから」
「もう少しで終わると思うから、良かったら道場に行ってみる? そこから真っ直ぐ家の横を進んで行ったら裏にある建物が道場なのよ」
そう言うと、その人は、こっちというように指差して先に歩いて行った。この人が圭吾のお姉さんだ。五年前の高校入学のときに圭吾と一緒にアメリカから帰って来たっていう。どことなく圭吾に似ている。道場には何人かの人がいるらしく外まで声が聞こえていた。お姉さんは扉を開けると、「どうぞ」と言って中に案内してくれた。
「適当に座っててね。もう終わると思うから。じゃ、私は戻るわね」
「ありがとうございました」
お姉さんが出て行ってから、私は道場の中にまで入って来てしまったことを後悔した。隅の方に座ったけど、自分がここにいることがあまりにも場違いだと感じる。稽古をしている人達がちらちらと私を見る。もちろん、圭吾も見てる。けど、圭吾は稽古中だからか、いつものようになんだかんだ言ってはこない。それに、合気道の道着姿の圭吾は私の知ってる圭吾じゃない。なんだか近寄りがたい。しばらく迷っていたけど、「今日はやっぱりこのまま帰ろう」と立ち上がった。でも、その時、圭吾のおじいちゃんが近づいて来た。
「こんばんは。この前遊びに来ていた圭吾の同級生の……」
「遠山です。遠山美波です。すみません、稽古中に入って来たりして。もう帰りますから。おじゃましました」と言って帰ろうとしたけど、おじいちゃんに引き留められた。
「せっかく来たんだから帰らなくてもいいよ。もう少しで終わるから。圭吾に何か用事があったんだろ?」
「いえ、たいした事じゃないんです。明日、学校で聞きますから」
できることなら本当にもう帰りたかった。こんなところまで厚かましく来ちゃって、それも約束もしてないのに。圭吾になんて言われるかわからない。
「まあ、まあ、慌てなさんな。合気道は見たことがあるのかい?」
おじいちゃんは稽古中なのに、こんな風に私と喋っててもいいのかな。よけいに気が引ける。と思っていたら、他の大人の人が今は指導しているみたいだった。だから、そこはちょっとだけ安心した。
「見たことないです。何となくイメージはあったんですけど」
「じゃあ、遠慮しないで見ておいき。合気道は他の武道と違って試合がないんだ。相手は自分自身なんだよ。だから、女性や子供にも向いている。自分の身を守ったり、自らの精神を鍛えたりすることが目的だと言えばわかりやすいかな」
試合がない武道? 武道って言ったら、戦って勝ち負けを競うものなんじゃないの? えー、知らなかった。
「ほら、そろそろ終わりだ。最後は正座をして黙想をし、そして感謝の気持ちで挨拶をするんだよ」
おじいちゃんの言うようにみんな正座をして並んでいる。初めは嫌で嫌で仕方がなかったって言ってた圭吾の言葉を思い出す。
「あぁ、あれが例の正座なんですね」
「例の? 圭吾が何か言ってたか?」
「あ、いえ。初めは正座が苦手だったって。それで、おじいちゃんからもらった本やDVDを見て練習したって」
「そうか。そうだったな。アメリカから帰って来て、友達もまだいなかったから、あいつはあいつなりに苦労したかもしれんな」
その頃の事を思い出している様子のおじいちゃんは、とても優しい目をしていた。合気道の道着を着てるその姿もこの前リビングで見た姿とは別人のように見える。
「どうだ。遠山さんも合気道をやってみたら?」と、おじいちゃんが思いもかけない言葉を投げかけてきた。
「え、あ、いえ。あの、私、こう見えても正座がものすごく苦手で……」
こう言ってから、「こう見えても」という日本語は使い方を完全に間違ったと思った。けど、それを弁解している場合じゃなくて、おじいちゃんの言葉をうまく交わすことの方が今は大事だ。
「まあ、現代では正座が得意な人の方がずっと少ないのが現状だよ。普段あんな座り方をしないんだから当然と言えば当然。ただ、正座は人間の体にとってはとても良い座り方なんだよ。背筋が伸びるのはもちろんだが、足腰の筋肉や内臓の筋肉まで鍛えられる。ダイエットになるとも言われている。また、精神統一ができて心が落ち着き、頭がすっきりするんだ。痺れるのが難点だが、正しい座り方をすれば、それはずいぶん緩和される。まぁ、それでも痺れは来るけどな。無理をせずに続けることで健康を保つことができるんだよ。だが、そんなことより、正座にはもっと大切なことがあるんだよ。それが何かわかるかな?」
「もっと大切なもの?」
「それは、相手を敬う心なんだよ。形だけ正座をしていても心がなければ相手に伝わるものはない。敬う心があってこそ礼儀として成り立つんだ。そのことが理解できれば、たとえ痺れるものだとしても正座の本当の良さがわかるというものだ。だから、礼儀や精神統一を重んじる『道』がつく武道、華道、茶道などには正座が欠かせないものになってるんだよ」
「相手を敬う心。そうかぁ。茶道のルーツにも……」と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「おう? 遠山さんは茶道をやってるのかな?」
あちゃー。ここは突っ込まれて聞かれたくない。
「いえ、そうじゃないんですけど。確かに茶道も正座するなぁって思って。この前、学校でちょうど茶道部の様子を見たばっかりだったんです。だから、そういう心が大事だったんだなって。あ、そうそう、三神くんも正座が体にいいって言ってました。おじいちゃんから聞いたって。それで、お風呂で練習すればいいって教えてもらったんです。だから、あの、私はいきなり合気道っていうより、とりあえず、お風呂で練習をして相手を敬う心も身に着けようかな、なんて思ってるんですよね」
「遠山、何しに来たんだよ」
圭吾が稽古を終えてやって来た。良かった。とにかく、今は圭吾が来てくれて助かった。
「何しに来たはないだろ。せっかく来てくれたのに」とおじいちゃんがフォローしてくれる。けど、私はこれ以上墓穴を掘りたくないから、おじいちゃんと会話するより圭吾に怒られる方がマシだ。
「あ、いいんです。私が勝手にこんなところまで押しかけてきたのが悪いんですから」
「圭吾、家に戻ってあっちで話をしておいで」
おじいちゃんはそう言うと向こうへ行った。圭吾はというと、首を傾けて呆れたというようなジェスチャーをしていた。
「行くぞっ」と圭吾が道場を出て行くから、私もついて出た。そのまま一列に並んで玄関まで進んだ。今から圭吾に話をするかどうか迷う。
「それで? 上がってく?」
圭吾はタオルを首にかけて、額の汗を拭きながらこう言った。道着を着ている圭吾を間近に見ると、ちょっと目のやり場に困る。だって、胸元は軽くはだけているし、細身なのにしっかりついてる筋肉がわかる。タオルを持つ腕もほどよく盛り上がっている。
「もう二十時半だしさ。やっぱり明日にするよ。何も言わないで来た私が悪いんだから」
「そうだよ。いきなり寝込みを襲われたようなもんだぜ。明日でもいいならそれでいいけど、でも何?」
「あのさ、茶道部で聞いた話の続きなんだけどさ。茶道の始まりが正座の始まりじゃないみたいだったじゃん。それで、考えてみたんだけど、やっぱり千利休がカギだと思うのよね」
「ふーん。まぁ、茶の湯を確立した人だからな。茶道とは切っても切れない人物だけど。それで?」と、足を伸ばしたり腕を上げたりしてストレッチをしている圭吾。
「やっぱり少しだけいい? ちょっと見せてほしいものがあってさ」
「見せてほしいもの? お前さえいいんなら今からでもいいけど」
「うん。一時間だけ」
「ははっ。一時間ときたか。お前らしいな。少しだけって言ったら普通十五分とか三十分とかって言うんじゃねえの?」
「だって三十分では無理かもしれないしさ、余裕を見てってことだよ」
いちいち細かいんだから。男だったらそんなことは気にするなって、もうっ。
「じゃ、まあ、どうぞ」と、圭吾が玄関の扉を開けて入って行く。
「おじゃましまーす」と、続いて玄関を上がる。廊下を進んで階段を上がろうとしたら、正面の部屋の戸が開きおばあちゃんが出て来た。
「あら、いらっしゃい」
「すみません、遅くにおじゃまします」と頭を下げる。その間にサッサと圭吾は階段を上がって行ってしまった。ちょっとくらい待っててくれたっていいでしょーが。私も後を追いかける。
部屋に入ると、やっぱり今日もきれいに片付いている。突然来てもこんなに片付いているってことは、本当にきれい好きなんだな。礼儀を重んじるっていう合気道の影響かな。稽古の様子を見たら、なんだか納得できるようにも思える。
「それで、何を見たいわけ?」
いきなり直球と来たか。けど、違う話をされるよりはいい。私も早く真実が知りたいし。
「私さ、茶道部で話を聞いてから家で歴史の教科書を見てみたのよ。そしたら、山口先生の言う通り昔の茶道はやっぱり男性しかやってなかったみたいなの。それも初めは武士や将軍。茶の湯って言って利休とか、あと他にもいたけど、とにかく茶人がその時代の重要な役割をしてたみたいなのよ。どう? なかなか頑張って調べたと思わない?」
「はぁ」と圭吾は大きな溜息。
「何よ、それ」
「それさ、調べたって言わねえだろ。教科書にも載ってるし誰でも知ってる」
「そんな言い方しなくても」
せっかく、ここからが大事なところなのにテンション下がるなぁ。デリカシーのカケラもないんだから。
「それで?」と圭吾。
「あ、そうそう。それがさ、茶道のことは載ってるんだけど、正座をしていたかどうかはどこにも書いてないの。利休の絵があるんだけど、それを見ても足は着物の中でハッキリとは見えないし。でも、なんとなく正座ではない気もするのよね。だからさ、千利休がどうやって座ってたかってわかるような本を持ってないかなって思って。歴史の本いっぱい持ってるじゃない」
「そんな本、持ってないわ」
「じゃ、DVDは?」
「あのさ、たぶん、茶の湯の歴史に正座をしていたかどうかなんて関係ないんじゃないの? 今まで読んだ本でもそんな話は記憶にないし、歴史上、茶の湯は大事だけど、座り方なんて問題にされてないんだろ、きっと」
興味ないと言わんばかりの言葉だけど、こんなことで引き下がるわけにはいかない。
「けどさ、関係ないにしても、茶の湯をやってたんだから、どんな形にしろ座ってたでしょ。それに茶道なのに正座以外は考えられないじゃない。千利休がどんな座り方をしていたかを知りたいの。もし、利休が正座をしてたら、やっぱり茶道の歴史とともに正座の歴史があるんじゃないのかな。だからさ、千利休が出てくる、そう、茶の湯が出てくるDVDがあったら見せてよ。お願い!」と、手を合わせて拝みこむ。
「しょうがないなぁ。豊臣秀吉の話で千利休も出てくるのがあったと思うけど、どれだったか覚えてないし。それに、それを見たところでそんなことわかんのかよ」
口ではそんな風に言ってるけど、圭吾は真剣に探してくれてる。
「あった。たぶんこれだ」
「やったぁ。ありがとー」
ケースから出すと、圭吾はプレーヤーにセットする。
「これ、全部見てたらだいぶ遅くなるから、途中早送りした方がいいかもな。あ、それから、もうわかってると思うけど、絶対にテレビに近寄るなよな」
「わかってますとも。この前、あんなことに巻き込まれたんだもん。近寄らないって」
「あのなー! 巻き込まれたのはこっちだろっ」
「いいから、いいから」
「何がいいから、いいからだよ。ほんとにわかってんのかよ」と言いながら、再生ボタンを押す。
始まったのは、『これぞ時代劇』というような映像。馬に乗って大勢で攻めて行くところみたい。何? 銃で撃ってるよ、あの人達。
「昔の人って刀じゃないの? なんで銃なんて持ってるの?」
「はぁ? すでにこの時代にはポルトガルから鉄砲が伝来してるだろ? これ、小学生レベルだけど」
「何よ、そんな言い方しなくてもさ。ちょっとド忘れしただけじゃない」
「はい、はい。黙って見れば?」
わぁ、いきなり斬りかかってる。昔の人は本当にこんなにすぐに鉄砲で撃ったり、刀で人を斬ったりしてたのかな。あまりにも短気というか……「最近の若者はキレやすい」なんて言われてるけど、昔の人の方がずっとキレやすいじゃない。残酷だしさ。画面では、今度は武士たちが集まって何やら相談してるし。本当にここに茶の湯が出てくるのかな。
「ねぇ、こんなに攻めて行ったり、人を斬ったりばかりなの?」
「時代が時代だからね。しょうがねえんじゃない?」
「ふーん。こんな人たちが茶の湯をしていたなんて想像できない」
「戦国時代だからこそってことらしいけどな。お茶に心の安らぎを求めたと言われてるけど、茶室での密談や商談、相手との腹の探り合いなんかがあったとも言われてるしな」
密談なんて聞くと、どうも茶道の本筋からは外れているように思える。千利休もそんなことをしていたのなら、この時代の茶道って疑問。そう思っていたら薄暗い部屋の場面に変わった。あっ、誰かがお茶を点ててる。これが千利休? それと豊臣秀吉? と、もう一人は誰?
「ねぇ、ねぇ、これだよね、茶室って。お客さんは……見て! 正座じゃないよ! あぐらなんじゃないの? 利休は? あーん。よく見えない。ちょっとぉ、ズームしてほしいのはそこじゃないのに」
「遠山、ほら、近づくなって。わかってる? ここ、戦国時代なんだぜ」と、圭吾に腕を引っ張られた。けど、よく見えないじゃん。
「わかってるって。けどさ、もうちょっと下。ほら、圭吾、そこ見て」と、つい画面を指で触ってしまった。
「おいっ」と叫ぶ圭吾。
「あ、あ、あーーーーっ」
八、時代は戦国の世
気づいたら、川辺に立っていた。着物を着てる。えっ、まさか。また、やっちゃった? 圭吾は? そう思うと同時くらいにパッと手を振り放された。
「お前なーっ。何やってんだよ。いい加減にしろよ」
ちょっと、耳元で大きな声出し過ぎだよ。
「圭吾、もしかしたらここって戦国時代だったりする?」
「そうだよ。その、もしかしたら、なんだよ。あれだけ言ったのに、お前ってヤツは。アホか、マヌケか!」
「だったら、大声出したらヤバイじゃん。どこかの武士に見つかったりしたらどうすんのよ」
「お前にそんな忠告されたくないわっ」
「私だって悪気はなかったのよ。ちょっと見えにくかったからさ、そこが見たいって圭吾に言おうと思って指差したら、どういうわけか触っちゃったみたいなのよね」
「みたいなのよね、じゃねえだろ。ほんと頼むよ。さ、ほら」と圭吾が手を出す。
「何?」
「戻るんだよ、すぐに」
「えっ、せっかく来ちゃったのに?」
アクシデントだとは言え、すぐに戻るのはもったいない。だって、本物の千利休に会えるかもしれないのにさ。DVDでよく見えなかったんだから、その現場をもし直接見ることができたらはっきりわかるじゃない。こんなチャンスはないでしょ、と圭吾の顔を見る。
「開いた口がふさがらないとはこのことだな、全く。さっきも言ったし、家でも言ったはず。ここは戦国時代。だから、ものすごく危険なんですっ!」
「ねぇ、気を付けるからぁ」と両手を擦り合わせてみる。こうなったら、ちょっとでいいからこの目で見てみたいじゃない。
「お前、わかってんの? この状況」
「はいっ、わかってます」
「はぁ」と溜息をついてから、周りを見ている圭吾。今のところ、何も争い事なんてないし、平和そうな感じだ。
「じゃ、ほんとに少しだぞ。つーか、この前、話したけどDVDが終わるまでに絶対に戻らなきゃいけないんだからな。もし、ここから戻れなくなったら死んだも同然だぜ」
「うん、わかった」
お前の「わかった」は信用できないんだよって口の中でブツブツ言いながら歩き出す圭吾。私はその後について行く。圭吾は気持ちが決まると、迷いがなく即、行動に移す。そこは、いつもながらとても男らしい。ぱっと見た圭吾は、ヒョロッとしてる高校生って感じで、とても頼りになるとは思えない風貌だもん。だから、いつも「意外にも」って私は思ってしまう。それに、ここって向こうに橋が見えるから、この間来た江戸時代の川と同じような気もするけど違うのかな。
「圭吾はこの時代も知ってるの? それと、ここはこの前と同じ場所?」
「こんな時代、知ってるわけないだろ。それに、ここはたぶん京都。この前は江戸。川辺だってことが同じだけだろ。だから、様子をうかがいながら探すしかないんだぜ。さっ、行くぞ」
でも、探すって言ってもどうするんだろ。私には同じような町並みに見える。とにかく圭吾について行こう。けど、江戸時代の時と同じで、着物と草履が歩きにくいったらないのよね。昔の人って、これがすごいよね。みんな、普通にこれで仕事もしてるし、走ったり物を運んだりしてるんだもん。私だって二回目だから初めてじゃないし、この前も散々走ったし、ちょっとは慣れてるはずなんだけどね。でも、歩きにくい。圭吾は今回もスタスタ歩くねぇ。それでも案外すぐに橋のところまでやって来た。橋を渡って町の方に向かって進んで行く。この道の先に人が行き来しているのが見える。もう少し歩かないといけない。けど、この前も思ったけど、川の流れや青い空や太陽はやっぱりいつも変わらない。それだけを見ていると、そんな昔に来てるなんて思えない。
「ねぇ、どうやって探すの? この前みたいにひとりでどこかに探しに行ったりしないでよ」
「わかってるって。てか、思うんだけど、お前のために俺がひとりで探し回るってのもどうかってね」
私のせいって言わんばかりなんだから。そういうことじゃなくて、女の子をひとりぼっちにすることが問題だって言ってるのにさ。女心がわからないやつだ。
「じゃ、一緒に探そっ」
「そうだな。とりあえず、向こうまで行って誰かに聞いてみるか」
人々で賑わっている方へ向かって歩いていると、道端の木陰に誰かが座っていた。ちょっと、ちょっと、この人。信じられない光景だ。大きな木の陰だとはいえ、こんなところでゴザ敷いてさ。一人で茶の湯とは……。
「圭吾、見て。お茶点ててるよ。もしかしたらこの人、千利休?」
「いきなり利休に遭遇するなんてことあるか? うーん。それに、教科書に載ってた利休の絵とは全く違うし、服装からしたってどう見ても別人だろ」
こうなったら聞いてみるしかないな、と圭吾の肘を突いてからアゴで合図を送る。圭吾は「はっ、俺?」と自分の顔を指差した。私は、うん、うん、うんと何度も頷く。
「すみません。あのぉ、そこでお茶を点ててるんですか」と尋ねる圭吾の背後から私はそれを見守る。
「そうじゃよ。ちょっと一服しよう思ってな。良かったら一緒にどうじゃね?」
「いいんですか?」と満面の笑みで前に出た私を圭吾がグイッと後ろへ押しやる。何すんのよ、もう。
「遠慮なんかしなくて良いからな。今、点てるから、さあ、さあ、お座り」
見た目はおよそ茶道なんてしそうじゃないおじいちゃん。それも、すごく田舎から出て来たって感じ。でも、こんなに言ってくれてるんだから、遠慮する方が失礼でしょ。というわけで、圭吾と並んでゴザの上に正座した。
「何をかしこまっとるんじゃ。そんな緊張した座り方じゃ茶を味わえんじゃろ。楽にお座り」
正座をしなくていいの? しかも、おじいちゃんもお茶を点ててるけど、正座をしてない。立て膝だ。けど、道端だし、木の下だし、ゴザだし。さすがにこのゴザでは足が痛くて正座を続けるのは無理と言えば無理だよね。
「おじいさんは茶人なんですか?」と圭吾がちょっと斬り込んだ質問をした。
「わしか? 茶人といえば茶人だな。わしは『へちかん』と申す。ま、自由人と言った方が合っとるかな」と言うと、大きな声で、はっはっはっはっと笑った。その様子はまるでアニメを見ているようだ。この人なら安心できそうだから私たちも名乗ろう。例のように。
「私はみな。こっちは圭吾乃介。へちかんさんは、同じ茶人の利休っていう人を知ってますか?」と尋ねてみた。
「利休か。利休は良く知ってるが、わしと利休では立場がまったく違う。利休は天下人に仕える身だから苦労も多いだろうよ。わしみたいに自由気ままにとはいかんだろう」
うっそー! 利休と知り合い? こっちに来て早々そんな人に会っちゃうなんて、こんなラッキーなことってある? ビックリするくらいツイてる。
「さ、出来た。一服、お飲み」
「ありがとうございます」
茶道部の時みたいなヘマはもうしない、とつぶやく。けど、「回すんだよね、飲む前に」と心の中で自分に確認する。チラッと圭吾を見ると、圭吾は少し回していた。やっぱりね。少し回してみよう。でも、そんな私の様子をへちかんさんにしっかり見られていた。
「よい、よい。こんなところじゃ。何人かで順に回して飲むわけでもなし、好きに飲むがいい。茶とは楽しむものなんじゃよ。余計なものはいらん。重たいだけじゃ」
お茶碗を回しかけたけど、そう言われて、もうそのまま口にした。苦味が少なくて軽くて飲みやすい。ふーん。へちかんさんの茶の湯は、キッチリとした礼儀作法なんてなくて、なんだかすごく自由なんだ。けど、それでいてすごく温かくて居心地がいい。
「ご馳走様でした。とっても飲みやすくて美味しかったです」と圭吾が先にお茶碗を返した。
「私も今、そう言おうと思っていたんです。美味しかったです。ご馳走様でした」と私も言う。またしても圭吾に先を越された。
「そうか、よかった。向こうの方から歩いて来られた様子だったから、喉が渇いていたらあっさりめの方が良いじゃろうと思ってな」とへちかんさんは目を細めて笑った。
「さ、そろそろ行くかな」とへちかんさんが茶道具を片付け始めたから、私たちも立ち上がって片付けを手伝った。
「あの、お知り合いの利休さんに会える場所なんて、もしかしたら知ってたりしませんよねぇ」と片付けながら聞いてみた。
「わしは今から北野天満宮に出向くんじゃが、利休ならそこにおるじゃろ。今日は関白殿主催の大茶会だからのう」
「えっ、マジで!?」と私。利休に会えるかもしれない。
「それって、北野大茶会だ」と圭吾。それって有名な茶会なの? 私は知らないけど、圭吾は知っているらしい。
「そなたらも一緒に行くか? 今日の茶会は武士や将軍だけでなく、誰でも参加できるんじゃ。商人でも農民でも。関白殿が茶の心得のある者なら誰でも来てよしとお声を掛けられたんだからな」
茶の心得がある者なら誰でも? うーん。私たちにはその心得というものがあるのかどうかが疑問だけど、この前茶道部に行って教えてもらってるし、そういう意味では心得ってあるよね。きっと。圭吾の顔色を見たら、大丈夫だ。圭吾もガッツポーズをしていた。
「へちかんさん、この大きな荷物は俺が持ちますよ」と言って、圭吾はその荷物を持ち上げた。何、それ? 三メートルくらいもある大きな傘らしき物。何かの写真で見たことがある、広げると赤くて大きな傘? 一人ではバランスが取りにくそうだから、私も端の方を持って運ぶのを手伝う。
「ありがとうよ。わしは高級な茶道具は持っておらん。だからな、せめて、その朱塗りの傘を広げて、その下で茶を楽しんでもらえたら風情があるかと思ってな」
「わぁ、ステキ。すごくいいじゃないですか」
「高級な茶碗なんかより、その方がずっと喜ばれると思います」
私も圭吾もへちかんさんの意見に大賛成。けど、ここには正座のカケラもない。やっぱりこの時代にはまだ正座って広まってなかったのかな。江戸時代では子供も正座をしていたから、それまでには広まっていたはずなんだけどな。
圭吾と私はその傘を持って、へちかんさんについて行く。へちかんさんがいるから誰かに道を尋ねて怪しまれることもないし、道に迷うこともない。やっぱり神様っているね、と都合のいい時だけ私は神様を信じている。しばらく歩いて行くと、急に人が増えてきて賑やかになった。緑が多くて広い公園のようなところだ。あちらこちらに茶道具を手にした人達がいて、人であふれているといった印象だ。へちかんさんは、そんな大勢の人からは少し離れた場所にゴザを敷き始めた。
「ふたりともご苦労様だったね。ありがとう。もうここでいいから傘を置いておくれ。あとはもうわし一人で大丈夫じゃ。向こうへ行けば、利休もおるじゃろ。くじ引きで当たれば関白殿や利休の茶が飲めるはずじゃ。行っておいで」
「くじ引き?」
私も圭吾もびっくりした。くじ引きで当たったらって……学級委員を決める時と同じじゃん。いつの時代も最終的にはくじ引きかぁ。
「あ、それからそなたらは茶道具は持っておらん様だから、これだけ持っておいき。傘を運んでくれたお礼じゃ」と、へちかんさんは袋から何かを出して私たちに手渡した。ん? おせんべい?
「茶を飲むときの菓子じゃ。道具は持ってなくて大丈夫じゃが、菓子は持っていた方が良いからな」
「そうなんだ。ありがとうございます」
私たちは何から何まで助けてもらったへちかんさんと別れて、もっと人が集まっている場所に進んで行った。
「いよいよだね」と、私は胸が高鳴る。周りの人たちからも笑い声が聞こえてくる。もうワクワクが止まらない。人をかき分けて進むと、そこが抽選会場だった。「おう、やったぞ」とか「ありがたや」とか、人々は抽選の結果に声を上げている。見ると、一等が秀吉、二等が千利休、三等が津田宗及、四等が今井宗久と振り分けられていた。秀吉と利休以外の茶人もこの前歴史の教科書で見かけた名前だ。ここは勝負だ。正座をしているのかどうかを見たいんだから、本当は誰でもいいはずなんだけど、そこはやっぱり秀吉か利休のお茶を飲んでみたいでしょ。
「じゃ、抽選するか」と言う圭吾と共に列に並ぶ。並びながらみんなソワソワしている。考えてみたら、天下の豊臣秀吉が点てたお茶を一般人が飲むことなんて普通はありえないんだろうし、そりゃソワソワもするよね。私だって落ち着かない。けど、圭吾はいつも通りだ。こいつ、本当に本番に強いというか、平静を保てるんだよね、いつも。抽選は筒から一本の棒を引き出す。とうとう順番がやって来た。まず、圭吾が引く。抽選係の人が棒を見て読み上げる。
「一等、関白殿」
うぉーと周りがどよめく。関白殿って秀吉だよね、圭吾、やったじゃん。次は私。神様、お願い。一本引いて渡す。
「二等、利休殿」
マジで? マジで? す、すごい! 秀吉なんかより私にはこっちが一等なんだよ。やっぱり神様は都合のいい時だけお願いしても言うことを聞いてくれる。神様、大好き。
「圭吾、どうしよう。嬉しすぎるよ」
「ほんとにお前って、いい加減に生きてるわりに、ここっていう時に運がいいよな」
「それは、褒め言葉?」
「はい? そう思うんならそうだろよ。ポジティブと言うのかなんと言うのか」
けど、抽選結果が秀吉と利休に分かれたということは、ここからは圭吾と別行動になるってことだ。ちょっと心配。いや、すごく心配。
「圭吾、ここから離れることになるよね」
「そうだな。じゃ、先に終わった方が終わってない方の様子を見に行くってことでどう? 万が一、何かあったときにも相手の方に素早く移動する。利休はそこだし、秀吉はあそこだから、遠くはない」
「うん、わかった」
私と圭吾は抽選会場で別れてそれぞれの場所へ移動した。二等の利休の場所にもかなり多くの人が集まっていた。すでに茶席は始まっていて、みんな順番を待っている。私もへちかんさんにもらったおせんべいを握ってその列に加わる。見ると確かにお客さんでさえ圧倒的に男性が多い。目立たないように伏し目がちに順番を待つ。みんなの視線が私に来ませんように。でも、利休がどんな風にしてお茶を点てているのかは気になるところ。そっと顔を上げて何気に覗く。利休は立膝? いや、でも、正座らしき座り方もしているし、いくつかの座り方を組み合わせてる? 私の番になればすべてがわかるはず。利休の様子を見たり、茶席に上がってからのことを考えたりしていると、待っている間も意外と退屈しない。もう少しで順番が回ってくる。ドクンドクンドクンと心臓が鳴り出す。もうちょっと静かに鳴ってよ。落ち着け、美波。その時、肩をトントンと叩かれて、私は振り向いた。
「圭吾、どうしたの?」
「あっちは休憩なんだよ。秀吉がさ……あっ、関白殿がお疲れでさ、ちょっと休憩なんだって。でさ、そのまま待ってるのも暇だし、こっちに来てみたってこと。こっちはどう?」
「へぇ、関白殿は休憩ですか。気ままだね~」
「あんまり大きな声で言うなって。悪口言ってると思われたら打ち首もあり得る」
「まさか……」
「いや、まさかの世の中だからな」
「おー怖っ。こっちはもう少しで順番が来るよ。楽しみ過ぎて心臓が踊ってるよ」
「んじゃま、暇だし、付き添うとするか。お前は何するかわからないしな」
「何よ、その言い方」
けど、圭吾が一緒だと心強い。とうとう、私の番になった。数段の階段を上がるとその上に畳を敷いて茶席が造られている。私に続いて圭吾も上がる。
「すみません。俺は、あ、わたくしは関白殿のお茶をいただく予定なんですが、今、休憩されているので、ちょっとコイツの付き添いで。だから、気にしないでください。ここにいるだけなんで」と、いち早く言い訳をしている圭吾。ぬかりないな。それに、なんだか丁寧というか、この時代っぽく喋ってるし。
「よろしい。お座りなさい」
静かに話す利休。本物だ。オーラが違う。
「あの、私たち茶道具がなくて、これだけしか持ってないんです」と手の中のおせんべいを見せた。
「わかりました。茶碗や道具はこちらにありますから大丈夫ですよ。お菓子を持っているのなら、それで十分です。付き添いと言わず、そなたも一服おあがりなさい」
利休は落ち着いた声で言った。そして、私たちが正座をしているのを見た利休の瞳の奥が、一瞬キラッと光ったように思えたのは気のせいだろうか。私は食い入るように利休の所作のひとつひとつを見つめた。そして利休は今、正座をしている。周りの人々の声や木々の鳥の声は聞こえるけど、私たちがいるこの空間は別世界のように静かだ。その時、利休がお湯をすくいながらポツンと言った。
「あなた達は、この時代の人間ではないな」
「……」
言葉を失った。バレてる。この言葉の意味をあれこれ考える。どこかのスパイだと思われたのか、だとしたら打ち首になるのか。ほんの二秒か三秒だったと思うけど、頭の中にはどう言い訳すればいいのかと色んな言葉が浮かんだ。でも、どれも使えそうにはなかった。
「どういう意味ですか」とようやく圭吾がかすれた声で聞いた。
「何のために未来からやって来たのですか? 私は他の者たちに気づかれないように低い声で話しますから、あなた達も何事もないように平静を保って答えて下さい」
ここまではっきり言われれば答えないわけにはいかない。「圭吾」と肘で突いたけど、圭吾は「はぁ?」と口を開けて眉間にしわを寄せた。そして、お前だろと言わんばかりに肘で突き返してきた。もうっ、いいわよ、自分で答えるから。
「私たちは平成の時代から、正座のルーツを確かめるためにやって来たんです。それで、正座の歴史には茶道が関わっているんじゃないかと思って。だから、茶の湯が広まったこの時代には正座をしていたのかどうかを知りたくて、そして利休さんがどんな座り方をしていたのかを見たくてやって来たんです。ていうか、たまたま来ちゃったんですけど。それにしても、利休さんはどうして私たちが未来から来たってわかったんですか?」
利休は私たちの方には目を向けずに二人分のお茶の準備をしている。
「そうですか。私はあなた達を見てすぐに三次元の未来から来た人だとわかりました。なぜなら、私は西暦二七〇五年、五次元の世界からやって来た人間だからです。三次元の世界からは五次元の世界は見えません。そして、三次元と五次元では時間の進み方も全く違います」
えっ! なんですって? 利休が未来からやって来た? それも五次元の世界から? それってどういうこと? 私は圭吾のほっぺたを思いっきりつねってみた。
「痛っ。何すんだよ」
「もしかしたら夢じゃないのかと思って。とても現実のことだと思えないじゃん」
「バカッ。普通は自分のほっぺたをつねるんだよ」
圭吾がそう言うところを見ると、これは夢じゃない、現実だ。というより、そもそも私たちがここにいること自体、本当なら現実だとは思えないことなんだから。利休はお茶を点てながらこう続けた。
「茶道と正座とは本来融合しているものです。私の時代、五次元の二七〇五年では古き良き物として茶道も正座も受け継がれています。相手をいかにして心地よくもてなすか、そして、敵対する気持ちを一切持たず、相手を敬い一歩先に相手の気持ちを察する。その考えこそが茶道と正座に共通するもので、その二つは融合されるべきことなのです。しかし、残念ながら三次元の世界では茶道も正座も発祥しないまま未来へ向かって進み始めていたのです。正座には、心の面以外にも人間の健康に関わる優れたことが沢山あります。未来へと歴史を繋いでいくうえでは、決して忘れてはいけないものなのです。しかし、いつまでたっても三次元の人間はわかろうとしなかったのです。このままでは三次元の未来に悪影響を及ぼすことは目に見えています。そして、その誤った歴史を改善するべく私たち五次元の人間が三次元の過去に来て、その歴史に新たな道を作ることになったのです。いくつかの時代に分かれて我々は降り立ちました。そして、私が役割を担っているのが、この時代なのです。しかし、この時代はまだまだ下剋上の時代で、武士が争い天下人になって国を自分の手の中に治めようとする時代です。とても相手を心から敬うということが難しい時代です。それでも、武士のストレスから心を解放できるものとして茶の湯は広まってきました。しかしながら、茶室が武士同志の腹の探り合いの場になることもあり、また戦のための密談の場になることもあります。正座は精神を落ち着かせますが、すぐに立ち上がることが難しく、またどうしても痺れが伴うものです。いざという時に刀を抜いて相手に斬りかかる、または斬りかかられる場合が起こり得るこの時代には全く向いていない座り方なのです。なので、茶道と並行して広まることはできなかったのです。正座が広まるためには、もっと平和な環境が必要なのです。今はまだ上級武士に下級武士が忠誠を表す形でしか正座は広まっていないのです。ですから、この時代の茶の湯では、すぐに動くことができる座り方がほとんどなのです。座り方に決まりなどないのです。つまり、あなた達がさっき正座をしたということこそ、平和な時代からやって来たことの証でもあるのです」
私たちが知っている正座も茶道も五次元の未来から伝えられたものだなんて……。そんなこと教科書にはどこにも載っていないこと。信じられないって思うけど、利休のさっきの説明はすごく理解できる。
「さ、お茶が出来ましたよ。お飲みなさい」と、利休は私たちの前にお茶を置いてくれた。
私たちは慌ててへちかんさんからもらったおせんべいを食べて、それからお茶を飲んだ。なんだか心に沁み渡る味だった。
「ありがとうございました」と、私たちはお茶碗を置いた。
「ここは命の危険と背中合わせの時代です。長くこちらにいることは良いことではありません。せっかく平和な時代に生まれているのですから、あなたたちの時代で正座の良さを存分に味わえば良いのです。痺れるけれど良いことが多い。良いことが多いけれど痺れる。そんな正座を無理をせず楽しめば良いのです。さぁ、もうお行きなさい。帰り道はこの北野天満宮の入り口付近にへちかんという者が茶席をしているはずですから、そこで近道を尋ねなさい」
利休はこう言うと、空いた二つのお茶碗を自分の手元に動かした。そして、次の人のために準備を始めた。
「へちかんさんなら知っています。来るときに会ったんです。利休さんがここにいることを教えてくれたんです」
利休は軽くこちらに顔を向けたけれど私の言葉には触れず、「お気をつけて」と目を合わせないままつぶやいた。圭吾と私はお互いに目を見て頷くと、立ち上がりその場を離れた。
「遠山、もういいだろ? 急いで戻ろう。利休の言う通り、ここは長くいる所じゃない。それに、俺たちの時間もそろそろ迫ってきてる」
私も圭吾の意見と同じだ。いつまでも、ここにいちゃいけないんだっていう気持ちでいっぱいになってきた。その時、向こうの方から呼び声がした。
「関白殿が茶席を再開されまする。ただちに席に戻り自分の順番を待ちなされ」
「圭吾、どうするの? 呼ばれてるよ、向こう」
さぁ戻ろうというこの時に、タイミング悪く秀吉が茶の湯を再開すると言っている。今から秀吉の茶席に行ったりしたら、DVDが終わるまでに戻れないかもしれない。
「もういいよ。今さら順番なんか待ってられるかい。あっちが悪いんだろ、勝手に休憩なんかするからさ。行くぞ」
「わかった」
私たちはもと来た道を引き返すことにした。
「おい、そこのお方。関白殿が茶席を再開されるんだぞ。どこに行く? 戻られい」
「ヤバイ。俺のこと覚えてやがる。走るぞ、遠山」
「えーっ! また走るの?」
「そんなこと言ってる場合じゃない」
わかってるけど、いきなり、こんなことになるなんてさ。もしかしたら、また追いかけられたりするの?
「関白殿ぉ。怪しい者がおります」
ちょっとぉ、そんなこと叫ばないでよ。別に怪しくなんかないのに、私たち。けど、今、そんなことを言い訳できる余裕も時間もない。それに、ほんとに追いかけられるじゃない! やだーっ!
「待たぬかぁ」
振り返ると数人の武士がこっちに向かって来てる。
「圭吾、追いかけて来るよー」
「バカ。後ろなんか振り返ってる暇があったら前を向いて走れよ」
「そんなこと言ったって、気になるじゃん」
とにかく川辺まで戻らなくちゃ。北野天満宮の入り口をめざして走っていたら、へちかんさんの茶席の前にやって来た。利休が言ってたよね、へちかんさんに道を聞くようにって。
「へちかんさん、ここからさっきの場所、へちかんさんに会った所までの近道ってわかりますか?」
もう神頼みという気持ちで尋ねた。
「おぉ、近道かい? ここから林の小道をまっすぐに抜けたら、さっきのところに出るじゃろよ。追われてるのかい? こっちへお行き」
「ありがとうございます」
へちかんさんにお礼を言うと、くるっと方向転換して林に向かう。林の中に入る道があり、へちかんさんの言う通り小道が続いているようだった。いつもの私ならこんな林の中の道なんて虫がいっぱいいるに決まってるから絶対に歩いたりしないけど、今日は特別。虫が気持ち悪いなんて言わない。それにひとりじゃないし、圭吾が手を引いてくれてる。
「ねぇ、圭吾、道、わかる? ここを真っ直ぐ行けばいいんだよね」
「のはず」
今回だけは圭吾も険しい顔をしていて穏やかではない。
「怪しい者、どこに居る?」と遠くで叫んでいる声がする。とにかく走らなきゃ。必死で圭吾について行く。こんな風に今まで何度、圭吾の背中を見て走ったことか。と思ったとたん、何かに躓いた。
「あ、あ、あ、あーっ」
圭吾が手を握ったまま振り向く。
「何してんだよ」
「ごめーん」
もう少しで派手に転ぶところだった。圭吾が私の手をしっかり握っていてくれたから危うく難を逃れた。見ると、木の根っこが大きく地面に張り出している。これに躓いてしまったんだ。
「よく見て走れよな」
「わかったよ。ごめん」
再び走り出そうとしたら、何かが変だ。圭吾? 圭吾の足がおかしい。
「痛ぇ」
「どうしたの?」
「ヤバっ。捻挫した」
「えっ!? さっき、私を支えてくれたから?」
どうしよう。私のせいだ。私が躓いたりしたから圭吾にケガをさせてしまった。
「行くぞ」
そう言うと、圭吾は再び走り出そうとする。でも、圭吾の足は言うことを聞いてくれない。完全に引きずっている。
「圭吾、私の肩につかまって」
圭吾の腕を肩に掛けようとしたけど、圭吾はつかまろうとしなかった。そして、そのまましゃがみこんだ。
「遠山、お前、この道を真っ直ぐ行けよ。たぶん、もう少し走ればこの林から抜け出せると思うから。DVDの時間が迫ってると思うからさ。俺と一緒じゃ間に合わない。先に行って、お前は戻るんだよ。川辺に着いたら、戻ることだけを考えて川に飛び込むんだ。わかったな」
「何言ってんの。嫌だよ、一人で戻るなんて。圭吾はどうするのよ。見つかったら殺されるかもしれないじゃない。もし、見つからなくても戻れなくなったらどうすんのよ。そんなのダメだよ」
「とにかく、お前は戻れって。お前が戻ってDVDをまた初めから再生してくれれば、きっと俺も戻れると思うからさ」
「本当に?」
「たぶん、だよ。今までこんなことなかったんだから、俺だってわかんねえよ。けど、このままじゃ二人とも戻れなくなるかもしれない。だから、とにかくお前は戻るんだよ。今なら間に合う」
「嫌だよ」
「そんなこと言うな。怒るぞ。早く行けよ」と圭吾は私を突き放す。涙で圭吾がぼやけてくる。私が躓いたからだ。それよりも、この時代に来た時、圭吾が戻ろうと言ったのに、私が少しだけ見たいって無理やり頼んだからだ。それよりも、圭吾の部屋でテレビに触るなと言われていたのに触ってしまったからだ。何もかも私のせいだ。
「早く!」と圭吾が怒鳴る。その時、私の目の前に突然誰かが立ちはだかった。
「じいちゃん……どうして?」
何が起きたのかわからない。でも、そこにいるのは、たしかに圭吾のおじいちゃん。
「圭吾、わしの背中に乗れ」
「無理だよ。じいちゃん」
「わしを誰だと思ってるんじゃ。合気道を何十年やってるか知らんのか。さぁ、時間がないぞ。早く背中に乗らんか」
圭吾は立ち上がると「ごめん」と一言言って、おじいちゃんの肩に手をかけ背中に乗った。おじいちゃんは圭吾をおぶって歩き出した。いや、これって歩いているスピードじゃないでしょ。速い! 速い! 走っているのかと思うくらい速い。私もその後について走る。どうして、ここにおじいちゃんがいるんだろうと考えながら。
やがて道の先が明るくなり、ようやく林から抜け出すことができた。あ、ここは、へちかんさんにお茶をご馳走になった場所。ここから川辺までは近い。この道を下って橋を渡ればもうすぐだ。
「じいちゃん、ここまで来たら大丈夫だよ。もう少しだから歩くよ」
おぶさっていた圭吾がおじいちゃんの背中から下りようとしたその時だった。
「あっ、あそこにいたぞ」と声がした。ウソでしょ。ここまで来て見つかるなんて。
「圭吾、しっかりつかまるんだぞ。遠山さん、走るからついて来なさいよ」
再び圭吾をおぶったおじいちゃんと私はもう振り返ったりしなかった。追いかけてくる声が近づいていることを感じながら、それはもう必死で走った。私は心の中で、躓いちゃダメっと自分に言い聞かせていた。それにしてもおじいちゃんはスゴイ。圭吾をおんぶしてるのに、こんなに走れるなんて。けど、今、そんなことに感心している私はどうかしている。こんなに危険が迫っているっていうのに。
「こらぁ。待たぬかぁ」
「待て」って言われて待つ人なんていないのに、必ず「待て」って言うのよね、こういう時って。
「待つはずないでしょー」
やっと川辺に着いた。おじいちゃんの背中から下りる圭吾。
「よし、早く手を繋いで」とおじいちゃんが言う。おじいちゃん、圭吾、私の順に手を繋いだ。
「じゃ、一、二の三で飛び込むからな。一、二の三っ」
私たちは勢いよく川に飛び込んだ。遠くに「待てぇ」という声が響いていた。あー、溺れる。やっぱりそう思った。
九、ヨロシク! 正座研究部
目を開けると、天井が見えた。ここは? 私の部屋の天井じゃない。ハッと、起き上がる。圭吾の部屋だ。
「戻れたんだ」
横を見ると、圭吾も起き上がろうとしていた。
「間に合った。あっ!」
圭吾の声にテレビを見た。DVDが終わっている。間に合わなかったの? でも、ここに戻れてるんだから間に合ったんだよね。おじいちゃんは? おじいちゃんの姿がない。
「じいちゃん……」
圭吾が慌てて立ち上がろうとする。
「痛っ」と足を押さえる圭吾。やっぱり捻挫してる。
「圭吾、待ってて。私が下に行っておじいちゃんがいるかどうか見て来るから」
「あぁ、頼む」
トントントントンと階段を駆け下りてリビングのドアを開けてみた。
「おぅ、遠山さん、まだいたのかい。家の人が心配するよ。今日はもうお帰りよ」
おじいちゃんはソファーに腰掛けてテレビを見ていた。どうなってるんだろ。確かに向こうで圭吾をおぶってくれたのはおじいちゃんだったはずなのに。
「あのぉ、おじいちゃん、さっき三神くんの部屋に来ませんでしたか?」と尋ねてみる。
「行ってないよ。ごめんよ。もっと早くに声を掛けてあげたら良かったかな。ちょっとテレビに夢中になっていたもんでな」
「いえ。いいんです。すみません、遅くまでおじゃましてしまって。もう帰りますから」
こう言って二階に戻った。おじいちゃんも家にいるんだから、安心と言えば安心なんだけど、でも、どうして? 部屋に戻ると、圭吾が心配そうにこっちを見た。
「大丈夫。おじいちゃんはリビングでテレビを見てたから。でも……ずっとテレビを見てたって言ってたよ。じゃ、さっきの人は誰?」
「そうかぁ。でも、じいちゃんに間違いないよ。不思議だけど。あぁ、三人とも戻れて良かった」
「うん。本当に」
「本当に、じゃねえんだよ。お前のせいだぞ、お前の。だいたい、いつもお前ってやつは俺の忠告を聞かねえから危ない目に遭うんだぞ」
「はい、はい。全部私が悪いんです。もう二度と繰り返しませんから」
「当たり前だ。繰り返されてたまるかよ」
こんな会話ができることが今は本当に幸せだと思える。
「圭吾、ありがとう。私、帰るね。きっとまたどっと疲れが来ると思うから。ちょっと遅くなっちゃたから、お母さんが心配してると思うし」
「お前のせいで今日もヘトヘトだ。ま、気を付けて帰れよな。話はまた明日だ」
「うん。じゃあね」
自転車に乗って来て良かった。そう思いながら夜風を切って走る。家に帰って時計を見たらもう二十三時前だった。お母さんに遅すぎると叱られたけど「はーい、ごめんなさーい」と軽い返事をして二階の部屋に行った。そしてタンスから着替えを出すと、お風呂に直行した。
湯船に浸かってると、今、ここにいることのありがたさが身に沁みてくる。圭吾のおじいちゃんがいなかったら、私たちはどうなっていたんだろう。おじいちゃんは何も知らない顔をしていたけど。それにしても、千利休が未来から来ていたなんて思いもしなかった。利休から聞いた話をもう一度頭の中で整理してみる。そもそも、三次元の私たちの過去には正座も茶道も生まれなかったってことなんだよね。だから、利休がそれを伝えるために五次元の未来からやって来た。だけど、まだあの時代は正座を受け入れることができない世の中だった。正座は相手を敬う気持ちを持つことができるもっと平和な世の中にならないと広まらない。そうなって初めて茶道との融合ができる。こういうことだったんだよね」
頭の中がすっきりした。正座の歴史と茶道の歴史は共通じゃなかった。千利休は同時進行を望んでいたけど、結果的には無理だったってことで、茶道が先に浸透したんだ。そうなると、山口先生が言ってたように、明治になって初めて茶道と正座が融合したってことなのかもしれない。高校に入ってからまだ一ヶ月半しか経っていないのに、私は今までに経験したことがないことをいくつも経験してしまった。そして、私が正座に興味を持つなんて想像もしなかったこと。それも、過去の時代に行っちゃうなんて、こんなこと信じられる? あれもこれも、圭吾と知り合ったからだ。オリエンテーションの時に圭吾の姿を見た時からすべてが始まったんだから。でも、今まで正座なんて大キライだったけど、今はそうでもない。もちろん、まだ好きではないけどさ。でも、人間にとって良い点がたくさんあるんだってことは、なんとなくわかった。けど、まだ頭の中で理解しているだけで、身をもってわかったわけじゃないから説得力には欠ける。正座のルーツもだいぶ解明できたけど、完全ではない。まだまだ研究の余地あり。この先、足が痺れない方法なんていうのが見つかれば最高なんだけどな。けど、それは、五次元の未来でも発見されていないみたいだったから当分無理かも。そうだ! イイこと思いついた。いいじゃん。いいじゃん。私って冴えてる! 明日、明日香と圭吾に話そう! さ、今日はもう寝なきゃ。
「美波、いつまで寝てるの? もういいかげん起きないと遅刻するわよ」
ぼんやり目を開けると、目の前にお母さんの顔があった。
「ん?」
「ほら、ほら。知らないわよ、もう八時過ぎてるのよ」
「八時過ぎてる……え、え、えーーーっ! なんでもっと早く起こしてくれないのよ」
完全に目が覚めた。スマホ、スマホは? ヤバイ、ヤバすぎる! ベッドから飛び起きたけど、あまりに慌て過ぎて何から始めたらいいのかがわからない。とりあえず、明日香に電話した。
「ごめーん。寝坊したぁ。明日香に一番に話したいことあったのにさ。先に行ってて。すぐ追いかけるから」
階段をこれ以上速く下りられないというくらい速く駆け下りた。それから、歯を磨いて顔を洗って、あとは何をどうしたか覚えていない。とにかく行かなきゃ。あれ? キッチンに淳史の姿が見えた。
「淳史、なんでそんなにのんびりしてるの? 私がこんなに慌ててるのにさ」
「今日は創立記念日なんだよなぁ」とパンをかじりながら優越感に浸っている。創立記念日? それって、ラッキー。
「ちょっと、お願いがあるんだけどさ。帰りにドーナツ買ってくるから、自転車で学校まで送ってよ」
「えー!? せっかくゆっくりしてんのに、ヤだよ」
「そんなこと言わない。弟は姉を助けるもんでしょ。小学校一年の時なんかどれだけ助けてあげたことか」
「また、それ? はぁ、わかったよ」
「わかったんなら、早く!」
「ほんと、人使い荒いんだから」
「恩にきるよ」
おー、今日もツイてる。淳史の自転車の後ろにまたがる。スカートのことなんか気にしない。学校に近づいてから横乗りにすればいい。重いなぁと文句を言いながらも淳史はそれなりに勢いよくこいで行く。小学生の時と違ってちょっとは男らしくなったってことだな、なんて淳史の成長を感じたりする。これなら、なんとか遅刻はまぬがれそうだ。そう思ってたら、前を歩いてるのは圭吾だ。
「圭吾、おっはよー」
「おっ、なんだお前、ずるいぞ」
「この時間に歩いてるなんて、圭吾もまた寝坊したってことだね。急げよ」
「お前のせいだろ、ほんとに。それに足が痛くて急げねえんだよっ、誰かさんのせいで」
あぁ、それは申し訳ないと思う。けど、歩けてるんだから少しは大丈夫そう。淳史にちょっと止まってもらう。
「圭吾、あのさ、私、イイこと思いついたんだ。正座の歴史も少しはわかったけど、まだ謎も多いし、体に良いっていうことはなんとなくわかってるけど、はっきり理解できたわけじゃないからさ。だからね、『正座研究部』を作ろうと思うの。正座の研究だってみんなですれば楽しいし、健康のためにも何か色々体験できればいいかなって思って」
「正座研究部? ふーん、色んなこと考えるな、お前って」
「だからさ、次の放送当番の時に、圭吾がみんなに呼び掛けてみてよ」
「はぁ? 俺が?」
「そう、そう。圭吾ってアナウンス上手だしさ、正座も得意だから質問があっても説明できるじゃん。歴史の向こう側にも行っちゃったことだしさ」
淳史に「行って」と合図をして、圭吾を抜いた自転車の後ろから、私はウィンクをして見せた。
「あ、それから、『正座研究部』の部長は圭吾だからね。よろしくー」
「はぁー!?」
圭吾を残して淳史の自転車はどんどん進んで行く。圭吾が何か私の背中に向かって叫んでたけど、そんなことはもう聞こえない。私はいざという時にすんなり正座ができる素敵な女性を目指すんだから。もちろん、人を敬う心を大切にして。
「あっ、明日香だ。淳史、急げーっ! 明日香ぁー」