[268]正座の勉強会


タイトル:正座の勉強会
掲載日:2023/12/19

シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:28

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容:
条子は女子中出身の某善位高校二年生。球技大会に向け、野球部の馬戸究に指導を頼む。
野球部の二年生は親切に条子たちを指導してくれた。
お礼は何がいいかと訊くと、勉強を教えてほしいと言う。
特別コースで二年の間に高校三年間のカリキュラムを終える予定の条子たちはそれを快諾。
学校の和室を借りて冬までの期間一緒に勉強することにした。
様子を見に来た野球部顧問の先生に言われ、自ら正座をしていた条子は正座の指導をする。



本文

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 某善位高校秋。
「まず背筋を伸ばしてください。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度で。脇は締めるか、軽く開くくらい。手は太ももの付け根と膝の間にハの字で。足の親指同士が離れないように。スカートはお尻の下に敷いてください」
 そんな説明がエアコンの効いた和室で行われた。
 皆言われた通り、居住まいを正す。
「本当はこのままがいいのですが、慣れるまでは、無理せずつらくなったら足をくずしてください」
 暫くはそれでも皆、正座をしていたが、二十分を経過した頃から、少しずつ足を崩す生徒が出た。
 それでもだんだん、慣れていく、と品高条子は思った。

 事の発端は、夏休み明けだった。
 野球部の二年、馬戸究が演劇部のお代官様役で特別出演したのを見た条子は、思い切って球技大会の野球指導を究に願い出た。
 演劇部に協力するなら、うちのクラスにも、というような勢いだったが、無理でも仕方はない、という駄目元での願い出だった。
 条子は二年の特別コースに在籍している。
 某善位高校はスポーツ推薦のクラスのほかに、工芸科、学力上位の三十名を集めた学費免除の特待生コース、それに次ぐ特別コースがある。
 特別コースは学費免除制度がないが、毎日の小テスト、定期的に行われる模擬試験、課外授業があり、かなり手厚い学習指導が行われている。多くは公立中学校出身者の学力上位の生徒である中、条子は中学校はそこそこ倍率の高い中高一貫の女子校からの入学であった。小学校の頃からさほど努力しなくとも勉強はよくでき、誰に教えられずとも品行方正であったことから、小学校高学年から通い始めた塾でその女子校を勧められ、めでたく合格を果たした。この女子中での三年間はとても楽しく充実していた。留学体験をし、日本の伝統文化もカリキュラムに含まれ、お作法、お茶、お花は一通り学んだ。浴衣も中学生ながら自分で着られるところまで習得した。何もかもが条子のためにある学校のようで、全てにおいて条子は優等生であった。だが、ふと、外の世界に出てみたくなった。条子の高校は、中学校の生徒はそのまま高校にエスカレーター式に進学できるが、高校からの入学は中学校よりも狭き門であった。ここで内部進学をしないのは勿体ない、というのが周囲の意見だったが、条子は予備校に通い、そこで難関校クラスに在籍し、勉強に励んだ。そうして晴れて、某善位高校に入学した。
 お上品なあいさつなどない学校ではあったが、中学時代の習慣で同校の生徒と通りすがりに「こんにちは」と言うと、その生徒は直立の姿勢からお辞儀をし、「こんにちは」と、大層通る声で応じた。後に、それが野球部の馬戸究であり、運動部、特にスポーツ推薦クラスの生徒のあいさつは徹底的に教育されていると知るのだが、この時のなんとも言えない新鮮さを条子は忘れなかった。
 条子の学年は、条子が知る限り、校内の学業成績は、特待生コース、特別コース、普通科での順位が大きく揺らいだことはなかった。
 だが、翌年入学した通常のクラスのひとつが何やら成績を上げようと頑張り始め、学年全体が受ける模試で、数名の生徒が特待生コースの順位にくい込み、何の科目だかは忘れたが、平均点が特別コースを抜いた、という話はあっという間に広まった。
 これで特待生コースや特別コースが叱責を受けたとか、担任が厳しい注意を受けたという話は聞いたことはないが、逆に特待生コースや特別コースの生徒が学校行事で優勝を目指そうではないか、という声が上がるようになった。学校全体がぎすぎすせず、盛り上がる、というところがこの学校のよさだと条子は心密かに思った。そうして、クラス全体で、というほどの力はないが、自分の参加する女子野球で優勝とまでゆかずとも、三位入賞くらいは目指したいと考えた。条子と同じ考えであった野球参加予定の女子は、入賞を目指すからにはただ気合を入れるだけではなく、効率的な練習をしたいと言った。確かにその通りで、ただ試合前に頑張ろうと言い合っても、それだけでは心もとない。もともと敷地の広い学校なので、ほかのサッカーやバスケ、バレーボールも、完全に整備された場所でと言わなければ、練習場には事欠かない。できる範囲での時間に練習をすれば、一回戦、二回戦くらいはいけるのではないか、という算段であったが、その先を目指すとなると、メンバーの中に経験者がいるとか、現役の部員がいるというクラスが断然有利である。その試合への突破口として、経験者のいない自分たちのクラスでは、経験者を指導者として呼べばいいのではないか、という結論に達した。


 指導者を呼ぼうと話がまとまり、そこからが問題であった。
 野球部顧問の先生は、某善位高校に長年いる先生で、その存在感はこの学校の主とでもいうのか、とてもとても素人の野球指導を頼める雰囲気ではなかった。また、副顧問の先生は数学の授業に入っており、教え方は無駄なく、大層わかりやすいのだが、授業のこと以外は口数が少なく、独特の圧のようなものも感じられ、頼むのを断念した。
 そうなると、残るは野球部である。
 クラスに中学まで野球部だったという男子もいたが、今はテニス部でそっちの活動が楽しくて仕方がないようだし、第一に野球で入学した生徒がいるのであれば、その生徒に指導を仰ぐに越したことはない。
 いざ、スポーツ推薦クラスへ、と条子とその友達は勢い込んだが、なにせ特待生コースや特別コースというのは、勉学に集中できるようにという配慮からか、自習室、図書室にほど近い、要はエントランスを入って階段を上がればすぐのところに教室があって、ほかの学科、クラスの前を通ることがなく、渡り廊下の先にあるそうした教室へ行ったのは、中学生の時の学校見学以来一度もなかった。
 確かこっちだったよね、と言いながら、独立して何棟も建つ校舎の渡り廊下から、グラウンドや屋内練習場に一番近いスポーツ推薦クラスのある教室に辿りついた。
 教室前にあるロッカーの上には、学校名がローマ字などで入っている各部の指定バッグが並んでいた。
 中を覗くと、体操部と思しき大層ほっそりと手足の長い、女子高生の大半が憧れそうなスタイルの女の子がおしゃべりしていたり、恐らく百九十センチ近くあるだろう長身のバレーボール部と思われる男子が黒板の前で時間割の確認をしていたり、ラグビー部と思われるがっしりとした体格の男子が朝練の疲れからか机に突っ伏して寝ているのが見えた。
「ねえ、あの人たちじゃない?」
 友達に袖口をそっと引っ張られ、その視線の先を追うと、そこには大きなおにぎりや、タッパーに入った弁当をひたすらに食べる男子の集団がいた。
 確か今は、一限開始前の八時過ぎである。
 まあ、条子のクラスでも、コンビニで買ってきたサラダとか、パンとか、お菓子を食べている子はいる。
 だが、条子たちの学校で唯一摂る昼食よりも本格的というか、明らかに量のある食事を朝の八時過ぎ、スポーツ推薦クラスであれば朝食はよほどの寝坊などがなければ済ませているであろう人たちがひたすらに食べている姿は、初めて見るものであった。もうこのまま教室に戻ろうかとも思ったが、そこに、唐揚げを実においしそうに食べ、タッパーの蓋を閉めた人物を見た時、「あ」と条子は小さく声を上げた。
 ただ一度であったが、あいさつを交わした男子だった。
 名前は馬戸究。
 中学生に向けた部活紹介で演劇部に特別出演して、お代官様を演じた人物である。
 友達もすかさず、「あれ、野球部のお代官様だよね」と条子に確かめる。
 正確には、演劇部でお代官様を演じた野球部の馬戸究くんだが、訂正する余裕なく条子は小さく頷き、けれど、そこから先を考えていなかった。
 私としたことが……、と心の中で呟く。
 難関の女子中に合格し、そこでは男子が委員長、女子が副委員長などということはなく、女子校であるから言うまでもなく、全ての役は女子が担った。ほかのクラスとの放課後の校庭使用をめぐる交渉とか、校則改善を訴えるために職員室に行くとか、そういうことは経験を積んでいた。海外留学の際にも、物おじせずにホストファミリーと、話せる範囲の英語力でさまざまな意見交換もした。
 その私が、校内の生徒に野球指導を頼むだけで、どうしてこんなに動揺するのか……。
 条子は一度友達の袖を引っ張り、廊下の端へ移動した。
「あの人たちに頼もう」とまずは言い、そこで友達も条子も押し黙った。
「……どっちが声、かける?」
 暫し、沈黙が流れる。
「じゃんけん」
「……そうだね」
 同時に振りだした手は、条子の敗北を一瞬で決定した。
 はあ、と条子はため息をつく。
 そうしている間にも時は流れる。
 早くしなければ、と思うが、全国レベルの生徒の集まるスポーツ推薦クラスというのは、独特の神々しさとでもいうのか、まだ十代半ばで大きな進路選択をし、更に高見を目指す人たちというのは、自分たちと同じ高校生ではあるが、この休み時間中のリラックス状態にあってもその身体の伸びやかさと厳しさを受け止める精神が滲み出ている。そういうのを眩しい、というのだと条子は思った。
 その時、空のタッパーを手にした究が廊下に出て来て、エナメルの大きな野球部のバッグにそれを放り込んだ。
 今しかない……。
「あの、」と条子は声を発した。
「はい」と、訝しがる様子もなく、しっかりとした返事とともに、究は真っ直ぐにこちらを見ていた。
 長身で見上げた究と目を合わせると、どう言ったものかと言葉が出てこない。
 見兼ねた友達が「私たち、特別コースの二年です」と条子の手を取って言い、「実は、今度の球技大会で野球に出るんですけど、指導をお願いできませんか」と切り出した。
 究は「え、」と驚いているようで、後頭部を掻いたり、首を傾げたり、手をポケットに入れたりしている。
「個人的には全然いいんですけど、野球部としてっていう立場だと、先輩とか顧問の先生に相談しないといけないんで、それからの返事でいいですか」
 困惑していた割には、しっかりとした返答ではあった。
「じゃあ、連絡先教えてもらっていいですか」と友達が携帯を出し、連絡先を交換する。
 隣で手持無沙汰の条子が究の背後を見ると、弁当箱やおにぎりを手にした野球部員と思しき男子が連なってこちらを見ている。
「究、何、告白? 彼女?」と、顔を見合わせては究や友達、条子を凝視する彼らを条子は見ていた。


 野球部による球技大会前指導は、一応野球部顧問より職員会議で伝えられた。
 要は校内の生徒同士の交流という範囲で、特にこれに制限もつけない代わり、あくまで校内での公の事例、つまり極秘に条子たちのクラスだけが特別指導を受けるという作戦は阻止された。この点はなんとも歯がゆかったが、究だけでなく、究の友達数人が条子たちのクラスの指導に当たってくれると連絡があり、それについては先手必勝といったところだった。
 校内でどれくらいの生徒が指導を頼んだり、それが受け入れられたり、無理だったりしたかは定かではないが、朝練から放課後練習、土日の練習に試合と忙しい究らが時間を取れるのは昼休みだった。その昼休みもアスリートである彼らには、大事な体作りのための食事の時間だが、究ら数人の野球部員の中から何人かが顔を出してくれることになった。それに備え、条子たちは体育の先生に許可を取り、バットやグローブ、ボールを用意し、体操着に着替え、校庭で彼らを待った。
 まずは条子たち、野球に出る女子がボールを投げ、それを打つところから始まり、野球部の男子がそのフォームを直したり、アドバイスをしてくれる。
 野球部の男子は皆優しく、決して厳しい言葉を口にしない。
「バットを振る時は、こういう感じで」と、言いながら、「ちょっとごめん」と前置きし、条子の後ろからバットの振りを手を添え直してくれる。
 毎日野球に徹している彼らは、間近で見ると長身なだけでなく、身体の軸から爪先に至るまで揺るぎがなく、しっかりとしていた。
 外野の女子がボールを取り損ねても、何も言わず拾って渡してくれる。
 そして足を肩幅ほどに開いて、できるだけ上半身のみ力まず下半身の力を使うのなどの、バッティングフォームの基礎的なことなどから、「最初は難しいかもしれないですけど」と前置きし、面倒を見てくれる。
 この親切さに、正直なところ、彼氏のいない女子の大半は参ってしまった。
 つまりは、野球部の誰かしらに好意を抱いてしまったのだった。
 そうなるともう、野球指導はかなり和気あいあいと、そして熱心に行われるようになり、初めは小テスト前の昼休みに野球練習の参加を渋っていた女子も、朝のうちに小テストの勉強を済ませ、身だしなみをしっかりと整えて舞い上がるように校庭へ向かうようになった。ほかの競技に出る女子もその様子を見て、私たちも指導を頼もうと言い出したり、更にそれを見ていた男子までもが、じゃあ僕らはバレーボールを女子バレーボール部に指導してもらおうなどと声を上げ、次々にスポーツ推薦の教室へと向かって行く。これではスポーツ推薦クラスに迷惑になるのではないか、と条子は内心気を揉んだが、そのあたりはしっかりと練習を積んできたアスリートで、受けられることは了承し、無理なことはその理由とともに簡潔に断る術を身に付けているようだった。
 そうして周囲が浮足立ち始めた頃、条子たち野球出場の女子と究たち野球部男子は着々と練習の日を重ねていった。
 練習成果が徐々に表れ始めたのとともに、これまで勉強に専念していた女子が翌日に眉を揃えてくるようになったり、前髪をセットしてくるようになったり、新しいリップを買ってきたりと、さりげないけれど確実に変化を見せた。
 砂埃の舞うグラウンドには、整髪料などの香りが漂い、明るく楽し気な笑い声が絶えなかった。
 彼らは毎日野球三昧であるはずが、会話が豊富で、とても面白い。
 何よりも明るく前向きで、ちょっとフォームがよくなれば、「~さん、野球部入れますよ」などと言って、褒めて場を盛り上げてくれる。
 練習に参加している女子一人一人の野球に関することも覚えていてくれて、「~さん、この前より肩や手が力まなくなりましたね。その感じでいけば、打ちやすくなりますよ」などと、その進歩した点も気づいてすかさず褒めてくれる。
 条子は究に、「構えの感じがすごくいいけど、何か運動していた?」と訊かれ、首を傾げ、中学校の時にお作法の授業で正座をしていたことを思い出したが、高校でほかの子にお作法の授業の話をして、そうなんだ……、と聞き慣れない内容に相手も少し戸惑っていたことがあったので、「中学の頃、毎日満員電車でつり革にも掴まれずに転ばないように立っていたことくらい」と言うと、「すげー、俺一回も電車通学したことないや」と笑って言った。「今も?」と訊くと、「うん。自転車。リトルリーグの時から、市内の練習試合は結構自転車が多かったよ。遠いと車出してもらったけど、七歳くらいの頃からコーチとか上級生が面倒みてくれて、自転車で行ってた」と言う。究は条子が私立の中学から再度受験し、某善位高校に入ったことに話の流れで気づいたようだが、深くは訊かなかった。深く訊かれて困ることでもなかったが、特別コースでの自己紹介で出身中学を言う際に、やや教室がざわめいた。わざわざあの中学からどうして? という疑問もあったのだろうし、条子が高校受験をしなければ通っていた予定の女子校を受験したという話を後でする子もいた。けれど究の周囲には、それこそ推薦入学で遠方から入学し、寮生活を送っている子もいるからか、もともとの究の性格からか、条子のクラスメイトのような違和感は抱いていないようだった。究以外にも、そうした反応の人はいたはずだったが、条子はとても嬉しくなり、そうして野球に幼い頃から打ち込んでいる究の話に思いを馳せる。
「自分のやりたいことがあって、それが認められて進学するって、すごいことだよね」と言った条子に「ありがとう」と究は人の好い笑顔で答えた後、「こうして好きなことをやるのは自分の意志だけど、自分の意志だって気づくかどうかの時から周りのたくさんの人のお世話になっているってことは、この高校入る時に思ったな」と、素朴な口調で真剣な目をして続けた。
 究や、ここにいる野球部の人たちの優しさや明るさは、しっかりとした意志や感謝を持って続けた努力の上にあるのだと条子は納得した。
 それは、それぞれ表現は異なるものの、条子以外の女子も感じ取っているようだった。
 野球を教えてもらい、気を遣ってもらっている立場である条子たちは、誰が言い出すともなく、何かお返しがしたいと考えるようになった。
 某善位高校は、体育祭や合唱祭、球技大会などの行事で、上位三位以内に入ると学校の食堂で使える食券がもらえる。当初は頑張って三位入賞を目指し、その勝利品をプレゼントしようと考えていたが、今の段階から何かお返しがしたくなった。
「おお、上手、上手」と、この日の昼休みも、実に根気強く、優しく条子の打席でのフォームを見てくれていた究に、条子は「私たちでできるお返しって何かありますか」と訊いてみた。
 究はふと首を傾げた後、「僕とか、今ここにいる友達とかも、大学進学を考えていて、多分野球の推薦になると思うんですけど、やっぱり今から勉強をしっかりやっておきたいとは思ってるんです。だから、勉強を教えてもらえると助かるっていうか」と切り出した。
 ……なんだ、そんなことか、と条子は拍子抜けした。
 万が一にも焼肉食べ放題などという希望が出たら、駅前にできた時間限定の格安コースで手を打ってもらおうと考えていたところだった。
「そんなことでいいなら、全然。私たちのクラスは二年まででほぼ高校三年間のカリキュラムを終えて、三年からは受験のための勉強になるから、二年までの勉強はだいぶ終わっているし、英検を受けるなら、その面接の練習の相手とか、いろいろできることはあると思う」
「本当に?」と究は大層感激している様子だった。
 究たちのようなスポーツ推薦での進学の詳細は条子にはわからなかったが、指定校推薦での進学の場合、英検何級以上を取得していると有利であるとかいう大学の話を聞いたことがある。
 究に野球部の勉強の現状を聞くと、そろそろ模試や夏期講習を考えている部員もいるが、毎日の練習に休日は試合も入り、なかなか自主学習の勉強以外は難しいらしい。
 先輩はどうしているのかと訊くと、三年の秋から猛勉強を開始しそのまま受験本番まで勉強漬けの日々を送り難関と言われる大学の進学、野球推薦で大学進学、専門学校進学、浪人といった進路だと言う。
「まあ、できることは、早めにやっておいた方がいいよね」と条子は言い、球技大会終了後、今年の冬までを目途に自主勉強に昼休み付き合うことを約束し、これに野球参加の女子全員が賛同した。


 球技大会で条子たちの野球チームはヒットを連発し、なんと優勝してしまった。
 その試合の傍らには、審判を務めている以外の野球部員たちが来て、「いつもの調子で」とか、「頑張れ」と声援を送ってくれた上、バッター席に立つ子それぞれの好きな歌を歌ってくれるサービスまでしてくれ、大いに勇気づけてくれたのだった。
 相手側は、もともとそれほど練習を重視していなかったというのもあったが、準決勝、決勝のあたりでは、野球部員の歌につい笑ってしまい、力の抜けたボールを投げたり、野球部員の応援に気を取られ、外野がボールを取り損ねた、ということがあったらしいが、相手側もクラスメイトや部活の先輩が応援に来ていたので、そこはおあいこ、ということだと条子は思うことにした。
 この学校に来て以来、初めての球技大会優勝に、担任は大喜びしていた。
 もちろん、条子たちも泣くくらいにうれしかった。
 これまで模試に比べ、軽視し、正直なところは面倒に捉えていた球技大会でこんなに感激できる日が来るとは思わなかった。
 とにかくこうして球技大会が終わり、今度は野球部との勉強会が開始された。
 昼食後に勉強会となると、どうしても時間が少なくなる。
 条子は塾の自習室でかつて飲食可の部屋があったことを思い出した。
 学年の副主任である担任にそのことを相談すると、PTAで年に何度か使用する和室を使っていいと許可が出た。
 この和室は湯沸しのポットや湯のみもあり、もともとPTAで、行事のある日や年に一度か二度ある会議の際に来校した保護者が軽食を取ったり、屋外活動の後に休憩したりする目的でも使用されているので、飲食もきちんと後片付けをすれば問題ないだろうとのことだった。
 条子たちは大抵が予備校通いの経験があり、勉強の合間に食事をすることに慣れていたが、野球部の部員も勉強のために昼休みを利用することが決まると、休み時間に昼食用の弁当を食べ、昼休みには休み時間用に作ってもらっているおにぎりなどを持参して来ていた。
 初めはそれぞれ自習のような流れであったが、そこから次第に野球部員が質問をし、条子たちが答えるようになっていった。
 古文の係り結びの使われている箇所、英語のよく出る熟語、地理の気候グラフの簡単な覚え方、歴史の主要人物と、次々と学ぶことが出てくる。
 そのうちに条子たちは以前使用していた参考書などを持参するようになり、究たちもこれから勉強したい英検の本などを用意して来るようになった。
 時折先生が様子見ついでに、勉強を見てくれることもあった。
 野球部の副顧問の先生には、条子たちも数学を教わった。
 そうした中、野球部の老年の顧問の先生が、「姿勢を正した方が身体に負担もかからないし、集中できる」と言った。
 身長の高い野球部員は集中するほどに背を丸め、足を投げ出し、大層窮屈そうに条子にも見えていた。
 野球部の顧問の先生は、「品高さん、ちょっと正座の指導をしてくれますか」と条子に言った。
 ふと周囲を見渡せば、正座をして勉強していたのは条子くらいであった。
 女子校時代に教わった日本文化の影響で、和室では自ずと正座をする習慣が条子にはあった。
 野球部顧問の先生に言われ、条子はおずおずと立ち上がり、皆を見た。
 「まず背筋を伸ばしてください。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度で。脇は締めるか、軽く開くくらい。手は太ももの付け根と膝の間にハの字で。足の親指同士が離れないように。スカートはお尻の下に敷いてください」
 そんなふうに説明をし、それを追って皆が正座をする。
 確かに先生に言われたように、座り直した今の方が身体は楽そうだ。
 その様子を見た後に、つらくなったら足をくずすように伝える。
 顧問の先生は小さく頷き、「本当に皆頑張っていますね」と言うと、「お土産です」と言って駅ビルに入っている百貨店で売っている焼き菓子の詰め合わせを皆にくれた。
 個包装のパッケージを開けると、香ばしいバターの香りがした。
「いただきます」と皆で手を合わせる。
 こうしてみると、座り方を改めただけで、ずいぶんと印象が違うものだと条子は思った。
 その後も昼休みの勉強の際には、自然と正座をするようになり、足がしびれれば、足をくずす、という無理のない範囲での正座が行われるようになった。


 この日、条子は究とともに、武道場で正座をしていた。
 スカートをお尻の下に敷き、膝はつけ、靴下を履いた指の親指同士が離れないように気をつける。
 究も背筋を伸ばし、手は太もものつけ根と膝の間でハの字に置き、脇は軽く開く程度にしている。
 二人が静かに応援しているのは、剣道の試合だった。
 剣道は部活推薦の生徒の在籍する部ではなかったが、そこそこの成績を修めており、今日は剣道強豪校との練習試合を行う日であった。
 球技大会の練習以来、校内ではスポーツ推薦の生徒と他の科の生徒との交流が盛んになり、様々な部の大会の応援への参加率は各段に上がった。以前は学校行事の一環というような捉え方が大きかったが、今では友人、知人の応援という意識である。
 ただ、スポーツ推薦のクラスの生徒は普段自分の練習があるため、まずそうした応援には駆け付けられない。
 それを究が言った際、条子が「だったら、校内でやる練習試合を応援しよう」と提案した。
 いつも応援される側の究は妙にそわそわと落ち着かず、緊張している様子だったが、試合が始まればさすがアスリート、正座のまま身を乗り出している。
 もうじき秋から冬へと季節は移ろうとしている。
 今日は究の英語検定三級合格のお祝いも兼ねて、二人で会った。
 ここから英語検定の準二級へと勉強を進めていくが、まずは最初の検定での合格のお祝いがしたかった。
 英語検定の一次試験はこの学校でも受けられるため、究が考えていたよりも簡単に先輩や顧問の先生の許可が取れた。そうはいっても、引退した三年生ではない立場で、これまで一度も練習を休まなかった究にとって、例え一日放課後練習に遅刻するだけでもずいぶんと当初は迷いがあったようだ。それを後押ししてくれたのは、仲間や先輩だったという。仲間のうちの何人かは究と同じように英語検定に挑戦し、また別の何人かは漢字検定に挑戦した。こうした検定に関しては、スポーツ推薦クラスの生徒も随時受けられるようにしていこう、と職員会議で発言したのは、野球部の副顧問の先生で、それに学部長先生やほかの部の顧問の先生も賛成し、これからは学校説明会の際にもできる限り学校側もどの科のクラスの生徒に対しても学力向上のバックアップをすることを伝えていこうということになったそうだ。
 そうして究は一次に合格し、市内の大学で行われる面接の試験の日には部活の準備もしていき、それが済んだらすぐに学校へ戻り、練習に参加したのだという。
 条子としては検定に集中してほしかったが、そこはこれまでの集中力と切り替えを身につけてきた究で、検定に合格できた。
 剣道の試合の後は、事前に調べておいた地元で美味しいと有名な定食屋さんに行く予定だ。条子も行くのは初めてだが、大きくて柔らかなチキンカツ丼が絶品なのだとか。調べている時に、条子としては、その近所にあるケーキ屋さんに興味があったが、それはまた別の機会に友達と行けばいい。
 この後は期末テストの準備に入り、究との接点はなくなる。
 そのことは寂しいが、最後にお礼をしておきたかった。
 二人で会うのは他の女子に対し、後ろめたい思いが条子にはあった。
 だが、野球の指導をしてくれる中で誰がいいかという話の時には、「お代官様はいい人だけど、恋愛対象じゃないよね」と言う声を幾度となく聞いた。周囲をけん制するための作戦ではと条子は睨んだが、それは条子の深読みのようだった。気づいた時には、何人もの女子がこれからも仲良くしたいと思う野球部員と二人で会う約束を取り付けており、究はそうした中、誰からも個人的な誘いは受けていないと、さわやかで裏のない、ついでに言えば悲哀の欠片もない笑顔で答えたのだった。条子は安心して、「じゃあ、英検のお祝いに時間を取ってもらってもいい?」と確認すると、究は仲間の何人かがすでに女の子との約束に充てている部活の午後休みの日を指定し、それなら学校でまず剣道の試合を見学しようと条子は提案したのだった。
 初めて見る剣道の試合に条子は緊張していたが、隣で身を乗り出している究も試合の行方を追い、緊張している様子だった。
 だが、その足はくずさぬままで、御代官様役で正座は一度できるようにしたと言っていたが、勉強を一緒に開始した初日は正座をしていなかった究が今は自然と正座をし、そのままの状態を維持できるようになっている。短いようだけれど、結構長い期間でもあったんだな、と条子は思う。
 静かな体育館には両名の甲高い声と、竹刀の音が響き渡る。
 条子でもわかる接戦の末、某善位高校が勝利した。
 この学校との試合での勝利は初ということで、剣道部員一同大層喜んでいた。
 応援に来ていた生徒にもこれから打ち上げを兼ねた昼食にと声をかけてくれたが、お礼とお祝いを言い、丁重にお断りした。
 条子が究に「お昼、私の行きたいところでいい?」と訊くと、すぐに究は了承してくれた。
 いつも究は七時まで部活があるので昼間こうして一緒に校門を出るのは初めてだ。
 この日は条子との約束があるからと、究は朝自転車ではなくバスで来たと言う。
 駅に着く手前の商店街にある定食屋に二人は入った。究は引き戸を開け、先に条子を通してくれた。
 昼食時を過ぎていたので、店はお勘定をして出て来るお客さんが多く、厨房にいる老年の店主から「お好きな席へどうぞ」と声をかけられた。
 少し迷い、奥の座敷の二人掛けの席に着く。
 これまでの習慣で、どちらも背筋を伸ばし、正座をしていた。
 どれにしようか、という相談もそこそこに究はオススメと書いてあるチキンカツ丼を頼み、条子はチキン南蛮の定食にした。
 注文を取りに来た老年に差し掛かった女性はお茶を出し、去り際に「まるでお見合いのようですね。そんなふうにきちんと正座される若い学生さんだと」と柔らかく笑い、究と条子は同時に違いますからとか、いえいえとか言ったが、考えてみれば初めから向こうも見合いだとは思っていないと気づく。厨房からは揚げ物をする心地よい音が聞こえてきた。
 究はキチンカツ丼を大層喜び、あっという間に平らげた。
 そして進められるままに、条子の手をつけていないチキン南蛮も三切れあっさり片付けた。
 それぞれの分を支払うと思っていた究は、「お祝いだから」という条子の言葉に大層驚き、「え、でも」と迷った様子だったが、条子がそこは「いいから」と言って支払いをした。
 外へ出ると、究は九十度の礼をして「ご馳走さまでした」と言う。
「いや、お祝いだから」と条子はやや困って先に歩き出す。
「あの、こんな時に言うの、どうかと思うんだけど」と究はすぐに条子に追いつき、条子より更に困ったような顔で切り出す。
 条子は究を見上げ、もしや付き合おうとか、そういう話? とやや動揺し、でもどこかでそういう話を待ってもいた、と思い、視線を泳がせる。
「もし、よければなんだけど。あ、もちろん、無理なら無理って言ってくれていいんだけど……」
 ものすごい緊張が条子を支配する。
 これは、やはり……!
 どうしよう。
 お友達から?
 いや、そんな呑気なことを言って、今度入学する一年生の間で馬戸くんの人気が出たら?
 馬戸くんは多分来年の秋には受験が終わっているだろうけど、私は二月まで? いや、国立は三月までで、卒業式も欠席になる? ああ、私が欠席の卒業式で馬戸くんに告白する下級生でもいたら? それどころか、お代官様って、恋愛対象外のように言っている子の中に実は言葉通りではなくお近づきの口実だという子がいたら? 条子はぐるぐると迷走する。
「あの、品高さん?」
 我に返り、条子は顔を上げる。
「……疲れているなら、やっぱり今度に……」
 今度? ここまで言って?
「大丈夫! 全然疲れてない。元気あり余ってるくらい!」
「ああ、そう?」と究は人の好さそうな顔で眉を下げた。
「じゃあ、この近くのケーキ屋よかったら一緒に行かない? 今度は自分がお礼したいから」
 究を見上げた条子は数度瞬きし、ようやく究の言わんとすることを理解した。
 留学先の英語を早口でも一度で理解できた自負があったというのに、今の私は何をやっているのか……。
「うん、ありがとう。嬉しい」
 条子の想中を知らず、究は安心したように「行こう。品高さんが好きかなと思って、調べておいたんだけど……」と言いながら歩き出す。
 究の行った先は、条子が行きたいと思っていた店だった。
 さっきと同じように店の入り口で扉を開け、究は条子を先に通してくれた。
 店では秋の限定マロンスイーツが数種類出ていた。
 究の手前、抑えたつもりだが、それでも条子は美しく仕上げられたスイーツに見入り、散々迷ってパフェを頼み、究はモンブランを選んだ。
「期間限定か……」と条子はテーブルを見つめ、ため息をつく。
 春にはストロベリー、夏には甘夏だろうか、メロンだろうか……。
「もしよかったら、また来る?」
 条子はふと顔を上げる。
 究は相変わらず人の好い笑顔だ。
「顧問の先生二人が職員会議や、中学生の進路相談なんかに出向く時は半日練習になるから。その後、自習室で勉強して解散なら、遊んでいるだけってことにはならないし、どうかな?」
「行く!」と条子は即答した。
 お代官様役が当たり役だった究と、進学校の中学から入学したしっかり者と称される条子が野球部と特別コースとで付き合い始めた第一号と校内では公認であることを、二人だけがまだ知らない。


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