[275]お江戸正座2


タイトル:お江戸正座2
掲載日:2024/02/17

著者:虹海 美野

内容:
おふみは戯作者の娘である。父に弟子入りした文左衛門にしかけたちょっとした意地悪が元で、文左衛門は食事の席で足をしびれさせて、失態をおかし、家を出てしまった。
そのことを友達のおように話すと、おようは動揺し、文左衛門の新たな住まいを尋ねた。
おようの文左衛門への想いに気づかなかったおふみは、文左衛門の元を訪れるおようのことが心配になり、後をつける。
すると、そこでおようは文左衛門の正座の仕方を教えていた。

本文

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「背筋を伸ばしてみてください。柱に背をつけてみると、どのくらい普段背をかがめているかわかると思うのですが。それから、脇をしめるか、軽く開く程度で、膝もつけるか、握りこぶし一つ分開くくらい。穿いているお召し物は広げずに、お尻の下に敷いて、足の親指同士が離れぬように。手は膝と太ももの間に、履物の鼻緒のような感じで指先同士が向かい合うような形で置いてください」
 ここまで家の外でおようと文左衛門のやり取りを聞いた、正確には盗み聞きしたおふみは、まあ、この二人は今ここで大それたことはしないだろうと踏んで、そっと二人のいる小さな家から離れたのだった。 

 おふみの父は戯作者である。といっても、江戸中に名を轟かせる売れっ子の域には及ばぬようである。まあ、それでも母に娘のおふみと妹とが庭のある家で生活し、三度の食事に困らず、おふみと妹とはお稽古事にも通えるだけの収入は得ている。そんな父に、少し前に弟子入りしたいという男が現れた。文左衛門というご大層な名の、茶葉を売る店の末っ子である男は年は十九。教養があり、性格も穏やかで、常に身ぎれいにしており、酒は嗜む程度、洗濯や炊事を担う母には礼を言い、時折菓子なども買って来る、まあ、弟子として家で面倒見る分には申し分ない男であった。更に心配性なのか、過保護なのか、義理堅いのか、とにかくその男の実家から、うちで世話になるからと、そこそこの額まで託され、男はそれをそっくりうちに渡した。結婚する時の持参金でもあるまいし……。否、持参金とて全て差し出すとは限らぬ。どこまでお人好しなのか、世間知らずなのか……。年下のおふみの方が心配になる。
 とにかく、父の初弟子が、おふみの家にやって来た。
 子どもの頃より、父の仕事関係であるとか、その人の友人であるとか、まあ、いろいろな人が家にはやって来た。突然やって来て酒を所望する人もいたし、江戸に来た間の宿代わりにした人もいた。
 まあ、そうしたご縁で少なからず、父には仕事が舞い込んだ。
 そうして今の戯作者としての父があり、おふみたちの生活がある。
 それは、子どもの頃より承知である。
 だが、期限つきでなく、十九の男が常に家にいるというのは、想像以上に心を疲弊させるものである。
 これまで、暑い日に浴衣の帯を緩めてだらりと横になったり、たらいに水を張って行水することもあったが、それらは全てできなくなった。行きたい時に何も考えずに行った厠(お手洗い)も、うっかりすれば戸の向こうで他人の男が用を足している。これまで妹や母、父であっても、早くしてと急かしたり、そこまでしなくとも、扉のすぐ前で待ち構えていたりしても、何ら差し支えも摩擦もない。それが、他人の男となると大層気まずい。
 おまけにその男がちょっと鈍感で、何も考えずに厠から出てくるくらいなら、こっちもやりやすいのだが、大層済まなそうな顔をされると、まるでこちらが悪いような気がしてくる。
 次第に男は何でもないことでも済まないような顔をするようになり、それが更におふみを疲れさせ、苛立たせた。
 特にこれからお友達が来る時などは、なるべく男にうろついてほしくない。
 つい、すれ違いざまに嫌味を言ってしまう。
 言ってから、ああ、やってしまった、と後悔するが、その後悔は反省にはならず、ただただ心に溜まるばかりだった。
 そうしてある日、つい、男が食事の席に着く前に、いつもより膳の場所をずらし、男の場所を狭くした。そこまで悪意があったわけではない。こちらの居心地の悪さを少しわからせてやりたい、というくらいの思いだった。
 だが、その日に限り、父は新たな戯作への思いがみなぎり、長々と話し続けた。男が時折眉をしかめているのがわかる。恐らく足がしびれているのだろう。かくいう、おふみも足がしびれていた。
 しかし、父の話は続き、その途中で席を立つのはさすがに憚れた。
 そして、自業自得ともいえる、ささやかな事が起きた。
 男が膳を持って立ち上がった時、しびれた足がもつれ、おふみを巻き込んで倒れ、そのまま障子もろとも庭に転げ落ちた。
 巻き添えを食らい、自身の足がしびれているままに、おふみは、ざまあみろ、と思った。
 男はそれから間もなく、おふみたちの家を出て、町外れの古い小屋のような家に引っ越した。
 ささやかな罪悪感を覆うように、おふみはそのことを面白おかしく、友達のおように打ち明けた。笑うとばかり思っていたおようは、文左衛門と重なるように倒れたというところで表情を硬くし、文左衛門が家を出たと言ったところで、「今はどこに?」と即座に尋ねた。
 おようの家は裕福で、習い事仲間ではあるが、やはりお嬢様であるせいか、この手の話はうけないのだとおふみは、半ば鼻白んだ。
 いつもは一緒に楽しく話すおようが、なぜこの時だけ、と思い至ったのは、帰宅後、男の出て行った我が家で、悠々自適にくつろいだ頃である。やはり人間、緊張感から解放されると、考えも柔軟になるらしい。如何せん、男がいたころは、うっかり煮豆を転がしたりはしないかと箸使いに注意し、お稽古事での失敗なども話さなくなり、くしゃみやあくびも堪えた。他人がいるというのは、そういうことである。
 それらから解放され、おふみは、ここでようやくおようの文左衛門に対する想いに気づいた。
 おようはおふみの家に来ると、それとなく文左衛門のことを尋ねた。
 おふみはそれが、おようが文左衛門に気兼ねして、家でおしゃべりなど控えるようにしているのではと誤解し、おようが来る日には文左衛門が部屋から出てこぬよう願ったものだった。
 だが、それは全て杞憂だった。
 おようは、寧ろ文左衛門に会いたくて、おふみの家に寄っていたのではないか。品のない行いをしないお嬢様であるおようは、そのような素振りはおくびにも見せなかったし、あからさまに、文左衛門さんに会わせてとは口にしない。そんなおようの慎ましやかな性格に、すっかりおふみはおようの望みを見誤っていた。
 戯作者の娘だというのに、この洞察力のなさはどうしたものか……。否、おふみは戯作者にならないので、そこまで悲観することもない。そう自身を励ましつつ、長らく親しくしていたおようの心に気づけなかった己を不甲斐なく感じたのだった。


 そうして、案の定、おようは文左衛門の元を訪ねた。
 おようのようなお嬢様が、町はずれの男一人の家へ、とおふみは焦ったが、あの文左衛門という男、一緒に暮らしていたから、いかに人を気遣い、心根が優しいかはわかる。
 そう、それがおふみを苛立たせたが、おようには違って見えたということなのだろうか。
 とにかく、文左衛門は、おふみや妹が着替えなどの際、一度も文左衛門を警戒する必要がないほどに、細心の注意を払い、無遠慮におふみや妹の寝起きする部屋に近づかなかった。
 おふみを恐れていた、というのは否定しないが、それを差し引いても、文左衛門という男、娘たちに自身が不快に感じさせぬようにしていたのは確かだ。
 おようの意に染まぬことをする男でないことは断言できる。
 おようは、先日仕立ててもらったという着物に、珊瑚の玉簪を挿して、風呂敷に包んだ重箱を胸にしゃなりしゃなりと出かけた。
 そのおようを、おふみは見かけた。
 見かけた、というよりは、文左衛門の新しい住まいを聞いた翌日、お稽古事のないおようが文左衛門の元へ行くと踏んで、それとなく通りに目をやり、後をつける準備をしていた。
 おようとおふみは同じ年の十六で、世間では誰かと一緒になる娘もいる。
 つまりは、文左衛門とおふみが特別な仲になっても、何ら世間的に問題はなかった。まあ、家のつり合いやらなんやらという事情はあるだろうが、それはまた別のことで、恋する二人の仲を探るとは野暮である。
 そこは承知であったが、おようはおふみの大切な友達であるし、もう何日かしたらお武家様の元へおようは奉公に出る。
 お武家様の元へのご奉公は、縁談でより条件のよい人の元へ嫁ぐための箔であるというのが、世間一般的な考えである。おようの家も裕福であるし、お武家様の元に奉公し、箔がつけば、器量よしで頭もよく、おしとやかなおようには、それこそ人がうらやむ縁談が多く舞い込むであろう。
 そんなおようがここで万が一にも文左衛門と、ということになったり、それが誰かに知られたら、ということは避けなければならないし、そうなったとしたら、その責任の一端、否、大半はおふみにある。
 それは困る、とおふみは思った。
 自己の保身ばかりではない。
 おふみはおようが大切だし、文左衛門とて、一緒に暮らしている頃は本当に嫌だったが、距離を置けば、文左衛門も父の大切なお弟子さんであり、いい人だとは思う。
 その二人に望ましくないかたちで噂が立ち、将来の妨げになるのは阻止したかった。
 だから、後をつけた。
 文左衛門はおようの突然の訪問に驚いた様子であったが、重箱のご馳走に釣られ、ほいほいと、おようを家に上げてしまった。
 だが、やはり大それたことはせぬ性格。
 隙間だらけの小さな家の引き戸は半分ほど開けたままにしていた。
 中の様子が気になるおふみには好都合である。
 そうして中で交わされた会話は、なんとまあ、正座についてであった。
 二人きりで、ほかに話すことはいくらでもあるでしょうに、と思いながら、それを危惧していたおふみは胸を撫でおろし、そっとその場を去ったのだった。
 帰り道、おようが文左衛門に教えていた正座を、頭の中で反芻した。
 背筋を伸ばし、脇は軽く開くかつける、手は太もものつけ根と膝の間に草履の鼻緒のように指先同士が向かい合うように。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度。足の親指同士が離れないように。穿いている衣服はお尻の下に敷いて。
 まあ、やってみるか、と思い、その日の夕餉におようが文左衛門に教えていた正座をしてみた。
 背筋を伸ばす。
 脇を軽く開く程度か、閉めるというのを意識すると、食事の所作もきれいに行える気がした。
 母が「おふみもずいぶん行儀がよくなったこと。おようちゃんのおかげかしら。おようちゃんがご奉公に出ると寂しくなるわね」と言った。
 文左衛門が出て行くことを決めた折、父は文左衛門のこれからの暮らしが立ちゆくよう面倒を見たようだった。そのことについては、家族中の暗黙の了解であり、また、そのことに意義を唱える者は誰一人いなかった。つまり、一緒に暮らすのには互いに適さなかったが、文左衛門自体をおふみの家族の誰も否定していなかった。
 食後の茶は、文左衛門が実家から持って来た上等な茶葉である。
 誰ともなく文左衛門を少しばかり思い出す時間でもあった。
 母と妹とが席を立つと、父がゆっくりと茶をすすり、「おようさんは、文左衛門がここを出たことを知っているのかい?」とおふみに尋ねた。
 僅かにおふみは瞬きし、湯のみの茶を見つめ、「はい」とだけ答えた。
 父は「そうか」とだけ言った。
 ……父は、おようの文左衛門に対する想いに気づいていた。
 一体いつ、どんなところで気づいたのだろう。
 十代半ばの娘の秘めた想いを察する初老の男というのは、世間的に見ればやや気持ち悪いが、そこは心だけは澄んだ目をした童と同じくらい無垢であると主張し、それを矜持に執筆する父である。
 おようの心に気づいて、それを本人に言ったり、冷やかしたりすれば下衆だと鼻白むところだが、おふみの父は、決してそれを口外しなかった。ただ、そっとおようの心を慮り、最小限の言葉でおようを案じた。
 ここは一人の人間として見習いたく、また後学のためにも心に留めておきたい一件であった。
 そうして、おふみは、父に「正座は背筋を伸ばして、脇はしめるか、軽く閉じる程度で、手は太もものつけ根と膝の間で履物の鼻緒のように指同士が向かい合うかたちで。膝はつけるか、握りこぶし一つ分開くくらい。穿いているものはお尻に敷いて。足の親指同士が離れないように」と、伝え、席を立った。
「どうしたんだ」と訊く父に、「お武家様のご奉公に行くおようちゃんの教え」と答えるに留めた。それをおようが、誰にどんな場面で伝えていたかは割愛した。


 翌日、お稽古事の後、おようがおふみに「ちょっと寄り道しない?」と茶屋へ誘った。
 普段あまり寄り道をしないおようの誘いは意外だったが、もう一緒にお稽古事に行ったり、家の行き来もできなくなることを思うと、おようなりに、おふみと暫く会えなくなる前に設けてくれた機会なのだと感じた。
 二人とも団子と茶を頼み、ゆっくりと外の長いすに座った。
 もうじきこの界隈では祭りがあり、いつもならおよう、おふみに、ほかの友達を誘って行っていたことを思い出す。
「おふみちゃん、文左衛門さんの家を教えてくれてありがとう」とおようは長いすのすぐ横にそびえる木を見上げ、言った。
「教えるくらいなんでもないよ。おようちゃんは信用できる友達だもの」
「私、おふみちゃんに話してなかったけど、文左衛門さんを想っているの」
 きっと、おようはとても、とても勇気を出して打ち明けてくれている。
 それがわかって、おふみは「うん」とだけ答えた。
 団子と茶が届き、お礼を言って二人は湯呑を手に取った。
「このお茶は、文左衛門さんのところのではないわね」とおようちゃんは言った。
「いつも、文左衛門さんはおふみちゃんのおうちに、とてもいい茶葉を届けていたから、遊びに行かせてもらって、お茶をいただいている間にその味や香りを覚えてしまった」
「うん」とだけ、またおふみは答えた。
「この前ね、おかずを詰めて、文左衛門さんのところへ行ったの」
 知っている、とは言えず、「そう」と素っ気なく答えた。
「文左衛門さん、お茶を淹れてくれて、先生、おふみちゃんのお父さんのところを出た理由を話してくれたの」
 それも知っているが、「へえ」と今度は返事しておいた。
「それで、正座の仕方を教えて差し上げて、帰って来たの」
 本当にそれだけで帰ったのか……。否、帰したのか、文左衛門……。
 大事に至らぬようにと心配していたくせに、実際にそうだと聞くと、何やら肩透かしを食らったような、残念なような、情けないような心持になる。
「あの、すごく余計なことだけど、おようちゃんはこれからお武家様で奉公するでしょう。そうすると、帰って来れば、すごくいい条件の縁談がたくさん来て、その中の誰かと一緒になるわけでしょう。そうなのに、どうして?」
 おようが、どんな大店の若旦那と一緒になっても、おふみにはそれが当たり前のことに思えるし、文左衛門の元に弁当を持って会いに行ったことを、気を持たせただとか、からかっただとかと責める気は全くない。だが、想っているとはいえ、もう暫く会うこともなく、奉公が明ければどこぞに嫁ぐおようが、なぜそんなことをしたのかを知っておきたかった。
 おようは、ふっと表情を明るくし、おふみを見た。
「お団子、食べましょう。美味しそうよ」
 おように促され、おふみは団子を手に取り、一つを食べる。
 甘さと粘りのあるもちもちとした食感に、顔がほころぶ。
 団子を咀嚼し、茶を飲んだおようは、「私ね、まだ誰にも話していないんだけど」と前置きし、おふみをみた。
 きらきらとした、眩しい笑顔だった。
 おようはもともと器量よしだが、こんなにもきれいだっただろうか、とおふみは思った。
「お武家様で奉公させていただいたら、行儀見習いや、お稽古で得意だった書を活かして、教室を開いて、家計を支えたいと考えているの」
「……どういうこと?」とおふみは尋ねる。
「もし、もしも、文左衛門さんが私を待っていてくれるなら、私と一緒になってくれるなら、文左衛門さんが戯作に集中できるように、お武家様のご奉公でしっかり勉強して、それを活かして暮らしの糧にするのよ」
 清々しく、強い眼差しだった。
 こんなにも凛々しい目をしたおようが、あの文左衛門の元へ?
 否、おようはもともと上品で聡明だったが、こんなにきらきらと、そして凜とした目をしたのは、文左衛門のことを語る時だ。そう、文左衛門を想う心が、今のおようへと成長させた……。
 おふみの心が、じんとする。
「そうか。おようちゃんなら、生徒さんが多すぎて困るくらいになるね」とおふみは言ったのだった。


 さて、自分でも世話焼きだと思いながら、おふみは再び文左衛門の元を訪れた。
 そっと引き戸を開けると、文左衛門は日が昇っているのに、まだ寝ている。
 なんと呑気なことか。
 腹立たし気に文左衛門を起こした。
 師である父の家を出てすっかり気が抜けたのか、起きた文左衛門は大層だらしない姿であった。
 見たくもない褌まで完全に見えている。
 ほとほと嫌になり、おふみはおようがすぐにお武家様の奉公に行ってしまうことと、おようの家とを伝え、早々に引き返した。
 引き返しながら、おようがお武家様の奉公が明けたら、縁談の持ち込まれるであろう数多ある大店の中のどこかに嫁ぐのではなく、文左衛門のために尽くしたい、という夢を伝え忘れたことに気づいた。
 気づいたが、まあ、それはおようがいずれ伝えることであり、また文左衛門がなんとしても自分と一緒になってほしいと告げることだと思い直した。
 父のような洞察力はないが、今回のことで、文左衛門に嫌な思いをさせてしまったことの詫びのひとつできたのではないか、という思いとともに、少しだけ気を利かせる、ということはできるようになったとおふみは思った。

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