[274]ナマズの凛々しい正座


タイトル:ナマズの凛々しい正座
掲載日:2024/02/09

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容:
 平安時代。九条家の若君、薫丸(くゆりまる)は、ヒマをもてあましてイタズラばかりしていた。乳母が見かねて、唐渡り(からわたり)の正座のお稽古のおさらいをしてもらうと言い出す。やってきたのは、妖しい雰囲気のマンダラゲのお婆と孫の美しい十輝和丸という若者だ。彼は薫丸の監視役になり、傀儡子たちのところへもついてくる始末だ。そこで、十輝和丸と出会った傀儡子のひとり、屈強な青年の半夏が彼を見て、固まってしまう。
 折しも都の呪術師たちは、そろって都に災いが来る予言を出していた。



本文

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第一章 見張り

 春うららの気持ちよい日である。
 お座敷で手枕してうたた寝していると、なんとも気持ちいい。ところが、さっきからうるさいのが一匹、顔のまわりを飛び回っている。
 ふと鼻のてっぺんに止まったので、薫丸(くゆりまる)は飛び起きて弓矢を握るや、庭に飛び降りた。
「もう勘弁できんぞ、ハエのやつ! 覚悟しろ!」
 うんと弦(つる)を振りしぼると、弓を放った。
「ふんむっ」
 飛んで行った矢をハッシと握った手がある。
「何するんだ、乳母!」
「若君さまこそ、何をなさるのですか! お部屋へ向かって矢を射たりしたら、調度に穴が空くではありませんか!」
「だって……。お昼寝してたら、うるさくてさ、ハエのやつ」
 薫丸はたじたじとなった。
「ハエにも一部の魂が宿っているのですよ。ほら、せっかくお結いした下げみづらのおぐしが、くしゃくしゃになって」
「昼寝したんだもん、仕方ないじゃないか」
「最近、おヒマだからってお昼寝ばかりして! せっかくの美しい正座のお作法と弓矢の腕がもったいないですよ!」
「……」
「侍女の硯箱(すずりばこ)にカワズを入れたり、打ち掛けに毛虫を這わせたり、その度に侍女たちの悲鳴が飛び交って、父君からお小言をもらうことになるんですよっ」
 乳母の灰色に描いた眉が最高潮につり上がった。
「せっかく、唐渡り(からわたり)の正座をお教えしたのに、お昼寝以外はイタズラばかり! 正座のおさらいを本気で考えなきゃいけないようですねっ」
「ええっ、正座のおさらいっ? そんなの要らないぞ!」
 乳母は鼻息荒く部屋を下がったと思うと、三日後に見慣れないふたりを連れて薫丸の部屋を訪れた。

第二章 来訪者

「若君さま、こちら、乳母の知り合いの知り合いのマンダラゲお婆と、兄上さま代わりに来てもらった十輝和丸(ときわまる)でございます」
(マンダラゲお婆と兄上さま代わり?)
 十四歳の薫丸より少し年上らしき色の白い少年が、美しい所作で正座して手をついた。濃いまつ毛の見目麗しい若者だ。花葉色(明るい山吹色)の水干を身につけて漆黒の髪をひとつに束ねている。
「若様、初めてお目にかかります。十輝和丸にございます」
「ふ、ふむ。麿は薫丸だ。後ろの老婆は?」
「こちらに上がる算段を着けてくれた、マンダラゲ婆にございます」
 ごま塩の長い髪を束ねた老女は、黄色く濁った眼でふたりの少年を眺めて、妖しげな雰囲気を持っている。
(十輝和丸という若者は好感が持てるが、マンダラゲ婆っての、なんとなく性に合わないなあ……)
 薫丸はやる気が出ない。
「若君さま、早速ではございますが、正座の所作のおさらいをいたしましょう」
 十輝和丸から言い出した。
「せっかくだが、おさらいなんてしなくたって、大丈夫さ、おいらは」
「おいら?」
「麿のことだ」
「お言葉づかいや、お召しの水干についても直してさしあげましょう。若君たるもの、ちゃんとお直衣(のうし)を召されなくては」
 かたわらには、直衣を捧げ持った侍女が控えている。
「いいんだよ、おいらは水干で!」
「とりあえず正座の所作をおさらいいたしましょう! でないと、今夜の夕餉(ゆうげ)は抜きになりますよ!」
 薫丸は、むくれて立ち上がり、
「まず背すじを真っ直ぐに立ち、床に膝をつく。着物はお尻の下に敷きながら、かかとの上に座る。両手は膝の上に。これでいいんだろ?」
「唐渡りの正座の所作、さすがによくご習得されています」
 十輝和丸が無表情のままうなずいた。

 京の町はずれの広沢の池のほとりでは、大道芸を見せる傀儡子(くぐつし)の一行が一日の仕事を終えて休んでいた。
「みんな、ご苦労だった」
 黒いあごひげを生やした親方が、ねぎらいの言葉をかけて回っている。綱渡りの姐さんや、お手玉を操る男衆、人形使いの女の子、オダマキも木陰に座ってひと息ついている。
 気持ちのよい春の夕暮れだ。
「今日は客の入りが良かったから、酒でも奮発するとしよう」
 そこへ、薫丸がひとりの少年を連れてやってきた。
「おや、若君さま、お久しぶりですな」
「薫丸!」
「若君さま!」
 傀儡子の皆は歓迎したが、薫丸は口元をひん曲げている。
「おや、若君さま、どうなすったんで?」
 薫丸に弓矢を一から教えた屈強な青年、半夏(はんげ)も、怪訝な顔をした。直(じか)に皮の着物を着けて、肩や腕はむき出しの半裸、長い髪は結わずに垂らしたままの野性的な姿だ。
「どうもこうもないよ、四六時中、見張られてるんだぜ、この十輝和丸ってのにさ」
 傀儡子の皆は、薫丸の後ろにいる若者に目をやった。
「朝餉(あさげ)と夕餉の時と、父君にご挨拶の時はもちろん、書や詩歌の勉強の間、行儀作法、すべて見張られているんだぜ。息が詰まって仕方ないよ」
「どうせ、イタズラが過ぎて叱られたんでしょう」
 人形遣いの少女、オダマキが苦笑した。
 十輝和丸に目をやった半夏が、立ち上がったまま固まってしまった。

第三章 朧月(おぼろづき)

「やれやれ、十輝和丸を先に帰らせて、伸び伸びだ!」
 その夜、居残った薫丸と半夏が鶏の丸焼きのご馳走にありついていると、親方がやってきた。雲った顔をしている。
「都の様々な呪術師たちが、近々、災いがやってくると予言している」
「災いが?」
「水から湧き出るのだそうだ」
「水害だろうか?」
 薫丸と半夏が顔を見合わせる。
「はっきりとはせぬが……。若君さま、今日のところはお許ししましたが、しばらくの間、お屋敷から出られぬ方がよろしいですぞ」
「え~~?」
「どこで災いに遭うか分かりません。わし共は、責任が持てませんからな」
「じゃあ、自分で持てばいいんだよね?」
 薫丸は一向に外出をひかえよう、なんて気にはならない。
「親方、若君には言うだけムダムダ! 災いの元まで突き止めるって言い出しかねませんぜ」
「お、半夏さん、わかってるじゃん! 災いが何だか分からないなら、おいらが突き止めるまでさ!」
「わ、若君さまにもしものことがあれば、わしらの首が飛びますってば!」
 親方は慌てたが、ヤブヘビだと気づいた時には遅かった。薫丸は言い出したらきかない。

 今夜は満月だ。雲に半分隠れた朧月が金色にかすんで幻想的だ。広沢の池に映った朧月が、良い風情だ。どこからともなく、ひょうひょうとした笛の音が池の面を漂っている。
 池のほとりに、ふたりの人影があった。
「驚いた……」
 口元から笛を離して、最初に口を開いたのは半夏だ。
 もうひとりも、池の面の朧月から目を離して半夏の方に向き直った。華奢な水干姿の美しい若者だが、まとめていた髪を振りほどいた。
 射干玉(ぬばたま)のツヤツヤとした黒髪が、花海棠(はなかいどう)の花びらをまき散らすようにきらめきながら、扇のように広がった。
 濃いまつ毛の愛らしい面と蕩けるような甘い香りに、半夏はかつての熱い想いを甦らせずにはおれない。
「お久しゅう、半夏さま。このような間柄でお会いするとは、思うてもみませんでした。遠国へ旅立たれたと聞いていましたゆえ」
「俺もだ。お前はあれから、お婆と共に京の都を離れたとばかり……。
 良い香りを放つ黒髪は変わっておらぬな」
「あなたさまが握りしめて頬を押しつけ、愛でてくださった髪はそのままにしています」
 十輝和丸の瞳は切なく半夏を見つめる。
「あの時、お婆の言うまま、あなたさまを諦めました――」
「何ゆえ男装などしておるのだ」
「お婆の命令で、九条の若君のお側に」
「マンダラゲのお婆の考えは変わらぬままか」
「孫娘を黄金龍に嫁がせたいと――」
「……」
「風の便りに、あなたさまが検非違使(けびいし)(今の警察)であるのにも関わらず、盗品の笛を盗み、役人を辞められたと知りました」
 半夏は、手に持った竹の笛に目を落とした。
「十輝和……。そなたを失ってヤケになっていた。この笛を盗んだことで検非違使を辞めさせられ、罪をつぐなった後で傀儡子の親方に拾われた。今は流れる雲のような大道芸人だ。しかし月夜には、そなたの面影が思い出されてならぬ……」
「私もでございます」
 ふたつの影は、寄り添いたげに、それでも踏みとどまって立ち尽くしていた。
 松の木の陰で一部始終を聞いていたのは薫丸だ。
「び、び、びっくりしたあ! 十輝和丸が女だったなんて! しかも、半夏さんの元カノだった?」
 顔が、か~~~っと熱くなった。
(そいでもって、傀儡子になったのは、十輝和丸との別れでヤケになったって?)
 ふたりから離れた池のほとりで、火照って(ほてって)しまった顔面をバシャバシャ水をすくって洗った。

第四章 龍すくい

「おお、おお、さすが広沢の池じゃ。龍のチギョがうようよ泳いでおる」
 マンダラゲのお婆は、目を輝かせて網を振り回し、龍すくいに余念がない。
 孫娘の十輝和を、黄金龍に嫁がせるつもりなのだ。より優れた龍を捕獲したい。一日中、薫丸や半夏に命令して龍すくいをさせている。
(薫丸はともかく、どうして俺まで十輝和の婿探しの龍すくいをしなきゃならないんだ!)
 半夏が文句を垂れながら、網をすくっている。
「龍すくいの網を構えるには、池のほとりで美しい正座をしなくてはならぬ。ガサツな者には正座の所作のおさらいもできて一石二鳥じゃのう」
 お婆が半夏の心を見透かしたように言う。
 しかし、それは表向き。十輝和と半夏をふたりきりで会わせないためでもある。
 十輝和は、池のほとりに緋色の毛氈を用意して、薫丸に正座の所作のおさらいをしながらも、半夏の姿をチラチラ見て、
(私を龍に嫁がせてもいいの?)
 と、恨めしそうに睨んでいる。反動で薫丸へのお稽古がよけい厳しくなるのだった。
(若君さま、所作を間違われましたよ。ああっ、そんなに池に近づいては危のうございます!)
「でも、正座したまま池に乗り出すのは難し……」
 大物をすくえるところだったのに、バランスを崩して網を握ったまま池に、バッシャ――ン! と落ちてしまった。
「ぶはっ! もう少しだったのに! 変なところで注意しないでよね!」
 下げみづらに結った髪はべっとり濡れてぺしゃんこ、水干もずぶ濡れだ。
 オダマキが濡れた着物をはぎ取る。
「はい、薫丸、洗濯するから全部脱いで! これは着替えよ」
「オダマキ、お前の赤い着物なんか着るのかよ、仕方ないなあ。ヘックション!」
 半夏は複雑な心境でしぶしぶお婆の命令に従って、作業に身が入らない。
(しかし――、広沢の池に、こんなに沢山の龍の子が湧き出るのはどういうわけだ? 前代未聞だぞ)
 不吉な予感を感じていた。
 魚籠(びく)の中に溜まっていくのは、泥の色をした龍ばかりだ。
 お婆は時折、覗いては、
「ふん、ナマズみたいな龍ばかりじゃの。トカゲの方がまだマシじゃ」
 魚籠を池にひっくり返して、ドボドボと流してしまう。
 それを見た薫丸が、
「あ~~、何すんだよ、苦労してすくったのに!」
「ふん、こんなナマズみたいな龍モドキなんぞ、龍のうちに入らんわ。うちの孫娘をやるには金ピカの黄金龍でなければのう」
 半夏はくくり袴の裾をめくり上げ、池に網を突っこんでいた。泥だらけの手でアゴの汗をぬぐい、泥でべったり顔まわりが汚れてしまった。
「こんなんで黄金の龍なんて見つかるのか?」
 池のほとりに立つ十輝和を振り返ると、花葉色の水干姿のまましかめ面している。
「ねえ、黄金の龍なんているはずないわ。いたとしても、私、龍に嫁ぐのはイヤだからやめてちょうだい~~。お婆」
「そういうわけにはゆかぬ。お前の婿は、特別な黄金龍と決まっておるのじゃ」
 お婆の執念深さは相当なものだ。

第五章 黄金龍

 傀儡子の親方が、広沢の池のほとりにやってきた。
「どういうこった、龍の子がこんなに繁殖するとは、吉兆か、それとも不吉なことの起こる前兆なのか」
 突如、悲鳴が上がる。
「きゃああああああっ!」
 十輝和の白い腕に黒い大きなものが食いついている。
「痛いっ! 助けて!」
 黒いものは十輝和の左腕を付け根まで飲みこんで、食らいついている。
 薫丸と半夏が駆けつけた。
「こりゃ、おばけナマズじゃないか!」
 ナマズは人ほどの大きさがあり、十輝和は痛さに耐え切れず、地面にのたうっている。
「誰か早く、これを離して! 痛い! 痛い!」
 半夏が腰の短刀を抜いて振りかぶったが、親方が止めた。
「やめろ、半夏。吸いついたままナマズが息を止めると、ヘタすりゃ取れなくなるぞ!」
「じゃあ、どうすれば……」
 傀儡子の仲間たちもなすすべもなく見守る中、十輝和はますます苦しみもがいている。
「このままじゃ、十輝和丸が……」
 薫丸が叫んだとたん、池から巨大な水ばしらが立ち上がった。
 バシャ―――――!
 水面から杉の木のように太い黄金のものが現れ、一直線に空に向かって昇っていく。
 皆が見上げて、首が痛くなったところまで登ると、黄金の首は爛々(らんらん)とした真紅の眼球で見下ろした。頭には黄金の角を生やし、黄金のヒゲがうようよ動いて眩しい。黄金龍だ!
「おお~~~! 黄金龍さま!」
 マンダラゲのお婆は、天に向かって両手を合わせてから、地面にひれ伏した。
『夜な夜な聞こえる笛の音につられて、浮上してみれば……。そなたか。龍のチギョをすくっていたのは』
 地響きのような龍の声が天から降ってきた。
「願いが通じた! どうか孫娘を嫁にしてください!」
 マンダラゲのお婆が叫んだ。
『まったくうるさいことじゃ。水面をバシャバシャと叩きおって、で、ワシの嫁に献上したいおなごは?』
 十輝和はナマズに片腕を食いつかれたまま、苦闘していた。
『泥だらけではないか。そのようなおなご、要らん!』
「ええっ、そんなことをおっしゃいませず……」
『要らんと言うたら、要らん!』
 龍は更に上に昇ろうとする。しかし、これで諦めるお婆ではない。池の上に跳ね上がったしっぽの先に抱きついた。
「この日のために、みなしごを養い、美しく磨き上げたというに!」
 お婆は龍のしっぽに引きずられたまま、空の果てへ小さくなっていく。薫丸と半夏、そして傀儡子の仲間はまじろぎもせず、呆気に取られていた。

第六章 ナマズ

 京の都は、その日から天の川をひっくり返したような雨が降り続き、賀茂川は増水し、多くの民家が流された。
 呪術師たちが予言した通りになった。
 黄金龍が広沢の池から飛び立ってから三日が過ぎたが、十輝和は腕をナマズに食いつかれたまま、傀儡子の寝泊りしているお堂に寝かされていた。発熱して苦しそうだが、ナマズは食いついて離れない。
 豪雨続きで、お堂の雨漏りがひどい。
「十輝和、必ず助けてやるからな」
 半夏は眠らずに枕元に付き添っている。
 傀儡子の親方が「どれ」とナマズの様子を見た。
「ナマズに悪気はなさそうだ。どうやら人間に伝えたいことがあるようだ」
「親方、ナマズの気持ちがわかるのか?」
 薫丸は目玉をくりくりして親方の顔を見つめた。
 親方は、アップアップしているナマズの頭に手をあてた。
「今、降り続いている雨や洪水は、黄金龍が起こしているらしい。自分はそれを予知していたのだが、人間たちが龍すくいなんぞしていたから、なかなか伝えられなかったと」
「ふむ」
 半夏が耳を傾けた。親方は続けて、
「龍のしっぽに飛びついていったマンダラゲのお婆は、嘘をついているらしい。孫娘と呼んでいる十輝和は拾い子で、お婆とは何の関わりもない。それと龍すくいは婿探しなんかじゃなく、お婆が龍のアゴの下にある五色の珠を手に入れたいためなのだそうじゃ」
「そんなことが、どうしてナマズに分かるんだ?」
 薫丸が弓矢を握るや、ナマズ向けて矢を構えた。
「やい、ナマズ。いい加減なこと言うと、承知しねえぞ! ウソついたら矢を射るか、そのヒゲを引っこ抜くぞ!」
「わわっ、何をする!」
 ナマズはシッポをバタつかせて十輝和の腕から口を離し、ひっくり返った。
「ナマズがしゃべった!」
 みるみる間にどす黒いべったりしたナマズの顔を持った修験者の姿に変わった。
「人間に変身した?」
 同時に、きびきびとした所作で正座するではないか。ぬめぬめした身体のわりに、しっかりした座り方だ。
「次は正座の所作ときたか!」
「どうか、命だけはお助けください。アッシはマンダラゲのお婆のような悪だくみは一切、しておりません」
 ヌルヌルのヒゲを左右になびかせて頭を下げる。
 十輝和はやっと解放され、半夏に助け起こされた。
「大丈夫か、十輝和」
「ええ。熱もひいたようよ。手がしびれただけ」
 薫丸は弓矢を収めずに、一歩踏み出した。
「こんにゃろ、いい子ぶって正座したって騙されないぞ!」
「本当ですってば――! 娘さんにはケガさせてませんよ。アッシのざらざらの歯は、けっこうキズつけやすいんですが、気をつけておりました」
「ふん」
 薫丸はようやく弓矢を引っこめた。
「どうして、十輝和丸の腕に食いついたりしたんだ?」
「だから申したでしょう。皆さんがお婆に騙されているとも気づかずに、龍すくいに夢中になっておいでだったからです。あのお婆はずっとずっと龍の珠を狙ってるんですよ!」
「……私とお婆は何の関わりもない……」
 十輝和がつぶやいた。

第七章 なまず髭長

 大雨はいったん止んだ。
 数日後、九条家のお屋敷では――。
「若君さまが連れて来られた色黒の修験者さま、肌が泥のように黒くてぬめぬめしていて、キモくない?」
「キモいわよう。口が横に平たくて、まるで――ナマズみたい!」
「そうよ! 細い四本のおヒゲがキモくって、キモくって」
「今日からお屋敷で、十輝和丸さまと若君さまがご一緒に正座のお稽古をつけられるとか」
 濡れ縁で侍女たちがおしゃべりしている。
「オホン、オホン」
 乳母が聞えよがしに咳ばらいした。
 座敷には、薫丸、十輝和丸、新入りのなまず髭長と、乳母が真面目な顔で居並んでいる。
「では、十輝和丸さま、マンダラゲのお婆さまをお待ちしなくて、本当によろしいのですね?」
 乳母が念を押して尋ねる。十輝和丸は、ひとつに結んだ髪をそびやかして、
「はい。よろしいのです。長きに渡って私を実の孫と偽り、連れ歩いていたお婆に何の義理もございません。これよりは私の一存で若君さまと、なまず髭長どのにお稽古をおつけいたします」
「十輝和丸さまのお許しを得たからには、このなまず髭長、心いたしまして正座のお稽古に励む所存」
 なまず髭長は、かしこまって頭を下げた。
 ひとりの侍女がやってきた。
「若君さまにお客様で――。半夏さまとおっしゃるお方が、正座のご指導をお受けしたいとのことで……」
「半夏さんが?」

第八章 半夏

 半夏が座敷に入ってきた時、薫丸も十輝和もどっきりした。
 いつもの半裸に近い身なりと大違いで、きちんと狩衣(かりぎぬ)を身につけ、髪を結い烏帽子まで被っている。
「今度のお客様は、どちらの公達(きんだち)なの? とても逞しいお方!」
「若君様の弓矢のお師匠様ですって! なんて素敵な益荒男(ますらお)(逞しい男)さまでしょう!」
 侍女たちは、いっそう騒いでいる。
 半夏は眼光鋭くなまず髭長を見つめた。
「半夏さん、どうしてまた急に? 正座なら習得してるでしょ」
 薫丸が不思議そうに尋ねる。
「その、気のゆるみがいかんのだ。人間は常に鍛錬せねば」
「ふ~~ん、さすがは半夏さんだね」
 ふと、十輝和に目をやると顔を赤らめているので、
「なんだ、お稽古で逢瀬(おうせ)したいのか! 納得だ」
「薫丸、いつの間にそんなませた言葉を……」
 半夏も頬が赤い。

 空が急に暗くなってきたと思ったら、再び激しい雨が降り始めた。
「皆の衆~~! 川上の堰(せき)が切れそうじゃ!」
 転がりこんで叫んだのはマンダラゲのお婆だ。
「黄金龍め、しっぽをスルリと抜いて池へ潜っちまったわ。ええい、また五色の珠の行方が分からなくなった、悔しい」
 地団太(じだんだ)踏んで騒ぐ。
 都の川は、再びあふれ出そうな濁流になっている。子どもたちは自分の家の軒先にてるてる坊主を吊るした。薫丸も、侍女たちと一緒に屋敷にズラリとてるてる坊主を吊るした。
 なまず髭長がすっくと立ち上がった。
「このままでは、都は大洪水になってしまう。アッシが堰き止めに参る!」
 その手には、輝く珠が握られているではないか。
「そ、その珠はもしや」
 お婆が叫んだ。
「龍のアゴの下にある珠です。昨日、九条家の乳母どのが、空から落ちてきたのをハッシと受け止められたとかで預かりました」
「九条家の乳母どのが?」
「はい。さすが龍のアゴの下に隠されていた珠の神々しさに驚いておられました」
 なまず髭長は、きびきびとした所作で正座すると、潔く頭を下げた。そして素早く立ち上がり、豪雨の中へ飛び出して行く。
 お婆や薫丸たちはあっけらかんと見送った。
「なんという凛々しい正座の所作でしょう。そして勇敢な行動……」
 見つめていた十輝和の口から熱い言葉がもれた。
 それを聞いた半夏は、
「ぬおおおおおぉぉ! ナマズなんかに負けるものか!」
 着物を引き裂き、上半身をあらわにすると、なまず髭長に続いて雨の中へ飛び出していく。
「あ~~あ、半夏さんてば、負けず嫌いなんだから」
 薫丸が、半夏の置いていった弓矢を握って後を追った。

第九章  雨師(うし)の指令

 篠突く雨の中、一匹の龍がうねうねと空を泳ぐように漂っている。
 ついに中流域に堤の決壊が起こり、水田に水が流れこんだ。
 なまず髭長が苦い顔をして堤の上に立つ。こぶし大の透明な珠をかざして叫ぶ。
「おい、黄金龍! 雨はもうよい! 振り止ませよ!」
 しかし、雨の勢いは止まらない。
「どうしたことじゃ、言うことをきけ、龍よ!」
 なまず髭長はあたふたした。
「これは、もしかしたら」
「もしかしたら、何だ!」
 駆けてきた半夏が雨音に負けじと怒鳴る。
「『雨師』からの命令が間違って伝わっているのかも?」
「『雨師』?」
「龍に雨の量を伝える仙人――雨の神の総領だ。だとしたら、一度、龍のオツムを空っぽにしなければ」
「どうしたら、空っぽにできる?」
「気絶させるとか」
「気絶させる? ……どうすれば?」
 半夏は空を見つめて呆然とした。
「半夏さん、弓矢で龍の頭を狙い打つんだよ!」
 薫丸が言い出した。
「しかし、龍の息の根を止めるわけにもいかんぞ」
「大丈夫だよ。矢の先にてるてる坊主の頭をくっつけたから。衝撃を与えるだけさ」
 半夏に弓矢を渡した。
「よし、やってみよう!」
 半夏がしっかと弓矢を受け取り、龍を狙う。
 雨足がひどく、視界がはっきりしない上に龍の動きが激しい。稲光も耳をつんざく雷鳴も邪魔をする。
「半夏さん、足元に気をつけて! 一歩間違えば濁流に飲まれるよ」
「う~~む、くそっ」
「半夏さん、射る前の礼儀をして落ち着いて!」
 薫丸の叫びに、半夏はハッとして、ぬかるんだ地面に膝をついて正座の所作をこなしてしっかり座った。
「雨の仙人、『雨師』とやらよ。どうか、そなたの下僕の龍の意思の中で甦ってくれ」
 地面にべったりと頭をつけて祈り、再び立ち上がり、弓矢を構える。
 矢は放たれた。
 吹きつける雨風の中を、矢は龍を目がけて走った。
 やや空白の時間があり――、甲高い叫び声がこだました。
 キュオ―――ン!

 龍のこめかみに、矢は命中した。
 長い身体をくねらせて落下してきた。水田に派手な水しぶきを散らし、力なく倒れこむ。
 雨は急速に勢いを失くし――、半夏は肩で息をして堤の上に仁王立ちした。
 なまず髭長が歩み寄って半夏に頭を下げた。
「龍のオツムの中で『雨師』の命令が甦ったようだ。よくぞやってくださった。礼を申す」
 胸には水晶の珠が抱かれている。
「なまず殿、もしや、そなた自身が龍たちを司って(つかさどって)いる『雨師』なのでは?」
「ど、どうして、それを!」
 なまず髭長は、目玉を飛び出させてピョンと跳びすさった。
「世間の人々は、まさか、そなたが龍を司る『雨師』とは思わないでしょうな。しかし正座の所作を見れば一目瞭然だ」
「いやあ、バレてしまいましたか」
 照れ笑いするなまず髭長だった。

第十章 許し乞う

 泥まみれになってマンダラゲお婆が、堤を登ってきた。
「聞いたぞ、聞いたぞ。なまず殿こそ龍を司る『雨師』であったのじゃな」
 背後から十輝和も登ってきた。
「お婆。私は捨て子だったのでしょう。龍の珠を手に入れる道具に育てただけだったのでしょう」
「十輝和……」
「私を利用しようとしたってダメよ。いくら高貴な龍でもダメ!」
 十輝和の瞳が雲間からの陽光に反射して輝いた。半夏の足元にひざまずいて正座した。
「お婆が無礼を申して、私と引き離した所業、お許しくださいませ。強欲なお婆ですが、都でひとりぼっちになっていた私に、温かいかゆを食べさせ、小ぎれいな着物を着せて育ててくれた恩人でもあるのです」
「十輝和……」
「どうぞ、ご成敗だけは許してやってください。この通りです」
 膝を折って、泥だらけの地面に顔を伏せた。
 半夏はたじろいだ。
「十輝和よ、お婆に見下げられたことは面白うなかったが、成敗するつもりなどないぞ。俺は昔の検非違使ではない。ただの傀儡子のひとりだ」

第十一章 盛大にナマズ漁

 半夏はワクワクを止められずに広沢の池のほとりで、旅支度を整えて待っていた。
 昨日、薫丸がみづら髪をポンポン揺らせて、息をはずませて告げに来たのだ。
「十輝和が、明日、広沢の池のほとりで待っていてって! お婆は別れさせたりしないから、新天地へ旅立ちましょうって!」
「新天地へ?」
 半夏は内心、バンザイした。
(やっと十輝和と結ばれる!)
 手甲脚絆(てっこうきゃはん)を着け、笠も用意して明け方から待っていた。胸の高鳴りが止まない。
 お堂の陰から花葉色の水干姿が見えた。
「お~~い、ここだ! 十輝和!」
 走ってくる十輝和を受け止めようと、半夏は両手を広げて待った。
「十輝和!」
 が、彼女はスルリと真横をすりぬけていくではないか。
「十輝……え?」
 急いで振り向くと、十輝和は、見知らぬ色黒の偉丈夫(いじょうふ)の胸に飛びこんだところだった。
「え……え?」
 様子を見に来た薫丸も、口をあんぐりした。
「髭時さま! やっと本当に愛する方を見つけましたわ。新天地へ旅立ちましょう!」
「あ、あのう?」
 薫丸が色黒の偉丈夫に声をかけると、彼は、
「おお、薫丸さま。アッシですよ。なまず髭長です!」
「その身体は?」
 かなり胸板が厚く背丈の高い偉丈夫になっている。貌(かお)つきも精悍そのもので、クネクネしていたナマズとは思えない。
「半夏さんのように筋肉隆々の身体になりたくて、珠を使って変身してみたのです。そしたら、十輝和さんがアッシと所帯を持ってくださいと言い出して」
 でれでれして答えた。
「ええ? 十輝和が大切な人と新天地へ旅立つって言うから、おいら、てっきり半夏さんだとばかり……」
「勘違いよ、若君。私は逞しくなったなまず髭長さんの凛々しい正座に、すっかり心を奪われてしまったの。泥の臭いがプンプンしていても、お屋敷で稽古している時の所作は凛々しかったんですもの」
「えええ~~~?」
 情けない悲鳴を上げてへたりこんだのは、半夏だ。
「そ、そんなぁ、やっとマンダラゲのお婆がいなくなったと思ったら……」
「半夏さん、ごめんなさい。私のことは忘れて素敵なお方を見つけてくださいね」
 十輝和はなまず髭長と腕を組み、去っていく。
「ごめんよ。おいら、すっかり勘違いしていて……」
 薫丸が肩を震わせている半夏に、そっと声をかけた。
「……」
「半夏さん?」
「俺の自尊心はめちゃくちゃだ~~! こうなったら広沢の池に住まうナマズを一匹残らず捕まえ、料理して食ってやるっ!」
 着物を脱ぐのももどかしく、池にザンブと飛びこみ、旅笠を使ってナマズを捜し始めた。
「薫丸! 親方に伝えてくれ! 傀儡子仲間、総出でナマズ漁やるぞとな!」
「心得た!」
 薫丸は、池沿いの道を飛ぶように走っていった。


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