[284]馳(は)ささげ、ご神馬(しんめ)


タイトル:馳(は)ささげ、ご神馬(しんめ)
掲載日:2023/04/28

著者:海道 遠

内容:
 海に面した貧しい村に溌剌とした娘、燃実(もも)。
 生まれた時、彷徨い巫女が名付けて村の神社の名付け石(黄緑の楔(くさび)石)に邪気を祓うという桃の枝の矢で名を刻んだ。しかし、巫女は心の中で娘を妬んでいた。
 成長した燃実は美しい月が映る森の池で、水月神という青年神と出会い愛し合うようになる。水月神は神社のご神馬と一体になり、馳ささぐ(駆ける)ことができるのだった。



本文

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序章

 祠(ほこら)の前で汗を滴らせながら、四角くて緑の透きとおる楔(くさび)石に一心に矢を突き立て、ガリガリしている巫女がいる。
 頭上からは、色あせた朱色の鳥居が見下ろしている。
 矢じりで思うように文字を刻めずに、白髪まじりの巫女は躍起になっているが、「燃」の文字はなかなか刻み込めない。指先に血が滲んできた。
 エビ茶色の袴を着けた曲がった腰で立ち上がり、
「ふう〜〜っ」
 息を吐き、肩からかけていた山伏のような鈴懸(すずかけ)を放り出してしまい、上を向いて腰に手を当てた。
 この石を納める祠を覆う穴倉の中央には「要石(かなめいし)」として同じ緑の楔石がはめ込まれている。
 他の石の名前は―――と見てみると、美しい文字が刻まれている。祠に昔から伝わる名付け神石に、今までたくさんの民が生まれた子の名を刻んできた。
 梢(こずえ)に止まっている黄緑色の小鳥が、話しかけた。
「楔石の緑色は相変わらず、きれいじゃのう。俺の翼とよい勝負じゃ。それに引き換え、おばさんの文字は汚いなぁ。名前を刻まれた女の子が幸せになれないぞ」
「ナマイキな小鳥め。何も知らぬクセに。この名前の子は幸せになれなくてもよいのじゃ」
「ケッ? 幸せにしてやりたくて刻んでるんじゃないのケ?」
「違うわい、人にはそれぞれ事情があってのう」
 巫女はまた、名付け石に覆いかぶさって矢じりを突き立てる。
「ケケッ。変なおばさん!」
「何とでも言うがええ。次は『実』という字じゃ」
「あれ? その矢は桃の枝かと思っていたら、桐の枝じゃないか! 桐の木は縁起が悪いと言われているんだよ! 普通は邪気を祓う桃の枝を使うんだぜ」
「そんなことは百も承知さね! ワザと縁起の悪い桐の枝を使い、刻んでるのさ」
 小鳥は翼をバサバサさせた。
「わざと? なんでまた」
「この名前の女の子が、幸せになるのが我慢ならなくてのう」
「それで、桐の枝の矢を使っているのか……。え? それって呪詛(じゅそ)じゃないか! おお怖っ! で、名前は何という?」
「『燃実』じゃ。お前の目は節穴か?」
「もえ、み……」
「違う、『もも』と読むのじゃ。木の実の桃のことじゃ」
「桃の名の女の赤ん坊……。桃の名前なのに、このおばさんの邪気を祓えないのか……?」
「うるさいっ」
 女は梢に向かって小石を投げた。小鳥はそれをかわして飛び立った。

第一章 水月神

 とっぷり日が暮れた森の奥―――。
 木立に囲まれた沼に真円の白い月が穿たれる。それを見下ろす端正な半眼の横顔。
 何かを読み取ろうとするように、じっと水面の白い月影を睨みつけている。片膝をつき、岩の上に座る姿は左側だけしどけなく袖をダラリと脱ぎ、厚い胸板には何重もの金や銀の首飾りを下げ、なんとも言えない色気を醸し出している。

 村はずれのちっぽけな祠には、名付け神石(かみいし)という小さな四角い石が昔からある。赤ん坊が産まれて名前が決まれば健やかに育つことを祈って、桃の枝で作られた矢じりで名前が刻まれた。
 媼は若かった頃、名前を刻んだにも関わらず、生んでたった1日で男の赤ん坊を死なせてしまい、神社に留まらない彷徨い巫女となった。
 山の神が木の数を数える日に山に入るのは、禁忌だと知らなかったのだ。それに――、山の神が嫌うほど、かつての媼は美しい女だった。山の神は女で嫉妬深いとされている。
 そのせいで媼巫女の赤ん坊は生まれて一日で天に召されたのだった。父親は誰だか判らない。

第二章 水月神の予感

「媼(おうな)―――」
 視線を水面に落としたまま、青年神は呼んだ。
「お呼びですかいの?」
 曲がった杖を持って、木の根がはびこった地面をヨタヨタと媼が歩いてきた。
「娘が危ない。里まで下りて知らせてくれ」
「娘――?」
「燃実(もも)のことだ」
「ああ、水月(すいげつ)さまの可愛がってらっしゃる村娘。ワシが燃実と名付けてやった――。で、何が危ないのです?」
 媼は首をかしげた。
「里の村人すべてが危ない。山津波の気配がする」
「や、山津波ですと? こんなに静かなのに?」 
 水面の月は、鏡に映るように静かだ。
 媼も山の気配を感じようと、見上げて山の匂いを嗅いだ。そして、わなわなと口元を震わせた。
「このかすかな匂いは……古い土壌が動く気配……」
「もうよい、私が告げに行ってくる」
 青年神は立ち上がった。
「いや、水月神さまに、もしものことがあってはならぬ! わ、わしが行ってきます」
「急げ! 山津波の速さは息を飲むぞ」

 老婆の彷徨い巫女が曲がった杖をついて、息を切らせて村に到着した。
「なんだ、婆さん?」
 朝の水汲みに小川を跨いでいた村の男が声をかける。
「燃実という娘はいるか」
 通りがかった村娘が、歩みを止めた。擦り切れた着物を着ているが、桃のように丸い頬に輝いた眼をしている。
「燃実はオラだけど……あんたは誰?」
「おお、燃実。ワシじゃ、お前の名付け親の彷徨い巫女じゃ。水月神さまからの言伝(ことづて)じゃ。災厄が来るぞ。早く安全な場所に移るのじゃ!」
 水汲みしていた男が桶をガランと落とした。小川はいつの間にか、濁流になっている。
「村の衆! 大変じゃ! 村に災厄が来るぞ! 燃実のせいで災厄が来る!」
 叫びながら村の広場に駆けてゆく。

 燃実の両親も叫びを聞いて、小屋から飛び出してきた。
「燃実、早く、お隠れ!」
 燃実を物置小屋に隠そうとする。
 村人たちは手に手にクワやスキなど持って、物置き小屋を壊しにやって来る。
「娘は何もしていません、許して下さい」
 両親は土下座して泣いて頼むが、村人たちは息まいている。
「娘のせいで災厄が来るのだろ。悪しき元凶を消し去れば俺らは生き延びられる」
「お待ちください、娘が何をしたというのです」
 両親は娘から引きはがされ、バリバリと物置は壊される。
 彷徨い巫女の媼がやってきて、
「燃実の親御よ、物置なぞに隠しても無駄だ。災厄はもっと大きい。山津波が村を押し流す。村人たちよ、東の岩盤の峰に逃げなされ!」
 金色のたてがみの馬が蹄の音も高らかにやってきて、燃実を素早く背に乗せて駆け去る。
「今のは、ご神馬でなかったけ?」
 村人が首を伸ばして祠を見ると、やはり、ご神馬の馬小屋はもぬけの殻だった。

 夜風が娘の頬にビュンビュン当たり、馬の長いたてがみを乱す。
 馬は背中の燃実に語りかける。
「悪い予感がして、昨夜、別れてから村のご神馬に憑依して、空気を窺っていたのだ。安全な山の洞窟に連れて行ってやる」
「でも、水月神さま! オラが逃げたら、おとうとおかあがひどい目にあうわ」
「今は辛抱してくれ。お前を失いたくはないのだ」

 沼の畔に来た。鬱蒼とした紫の闇の中、水面には昼間の白い月だけがぽっかりと穴を穿つ。
 馬は沼の畔で娘を下ろした。額には満月のような白い円の毛色がある栗毛だ。娘が撫でると、うっとりと鼻づらを押し付け頬に愛撫する。燃実は背が折れるほどのけぞって馬の愛撫を受けた。
 モヤが立ち込め、それが去った時には馬は、青年の姿に変身していた。
「いったい、あんたは? 何回聞いても教えてくれない」
「私は、ただ月を愛する神。毎日、祈りに来るお前が愛おしゅうてたまらない」
 青年の瞳に燃実の顔が映っている。力強く抱きしめられて燃実は息ができないくらいだ。

第三章 媼の怨み

 やがて――、地の底から巨大な獣が吠えるような地響きがして、
 山津波は押し寄せた。龍が暴れるように村のあった一帯を飲み込んで、海にまで田畑や住まいを流していった。
 あっという間の出来事だった。
 燃実は、いや、村の誰もが悪夢を見ているような気がして呆然とするしかなかった。

 山津波がおさまってから――。
 燃実は村のあった辺りに戻り、水月神と共に土砂の中、生き残った者を探し回った。ほんの十人ほどの村人が見つかった。
 しかし、村の小さな家々も村長の家も、山へ行く度に渡る橋も、神社の鳥居やご神馬の馬小屋でさえも、跡形もなかった。
「おとう~~~! おかあ~~!」
 来る日も来る日も親を呼びながら、瓦礫と土砂の中を探し回ったが、燃実の両親から応えはない。
 倒れた家屋から火が出て、一部の集落は燃えてしまった。
 媼がぬかるみの中に座り込み、大きな声で泣きわめいた。
「ワシが! ワシが悪かったのじゃ!」
「媼巫女、どういうことだ?」
 水月神が尋ねると、
「ワシが、この子に『燃実』と名付けたからじゃ」
「オラは燃実よ。『桃』のことでしょう。何かいけないの?」
「『燃え』という文字は『火』を招き寄せる! あの娘が名付けられた時―――村の神社の神石にわざと『燃実』と刻んだのじゃ」
「なんですって? 神石に刻んだのがどうしていけないの?」 
 媼はゴシッと泥まみれの顔を拭き、口をモゴモゴとして、
「『桃弧棘矢(とうこきょくし)』という習わしがある。男の子が産まれた時に雄々しく育つよう、桃の木で作った矢を四方に放つ儀式をするのじゃ」
「……それが、いったい?」
「ワシは、昔、男の子を産み、乳が出ずにすぐに死なせてしもうたことがあって……。健やかなお前を妬んで『燃実』と名付けた……」
 十数年前――、媼は村に生まれた健やかな女の子の赤ん坊を妬んで、山の神が忌み嫌う桐の木で矢を作り、楔石の名づけ石に、ワザと間違った所作と歪んだ座り方をして「燃実」と刻んだ。
「では、オラがこの災害で燃えてしまうように願って……?」
 真っ青になった燃実が媼に、恐る恐る尋ねた。媼は震えながらうなずき、更に泣き声を響かせた。

 何の縁か――。
 村から山深く入ったところに、夜になると月が美しく映る沼があり、いつの頃からか、水月神という青年神が訪れるようになった。
 成長した燃実は水月神に魅せられる。水月神もまた、素朴な村娘の燃実を愛おしく思うようになり……。沼の畔で逢うようになった。
 山津波が起こったのは、そんな矢先のことだった。

 水月神は海岸をつぶさに見て歩いていた。山津波の流れ込んだ海岸は土砂で満ち、漁民の細い舟は残らず腹を見せて浮いている。海の色も赤茶色になっていた。
「お、この石は……」
 泥に埋もれていたが、名前の刻み石を海岸で発見する。
「間違いない。祠にあった名前の刻み石だ。海辺まで流されてきたようだ。それにしても文字が歪んでいるな。媼は矢じりで名を刻むことを得意としていたはずだが」

第四章 歪み文字の証拠

 水月神は彷徨いの媼巫女を呼んだ。
「媼、この石を見よ。確かにお前の刻んだ文字だな」
「は、はい……」
「お前は名を矢じりで刻むことに秀でていたのでは? この乱れた文字はなんとしたことだ?」
「は……実は……、乱れた所作で正座し、歪み文字をわざと刻んだのですじゃ」
「何ゆえ、そのようなことを!」
「燃実を妬んでしもうたからです。ワシの子は生まれてすぐに常世の国へ行ってしもうたというのに、燃実は健やかに育ち――、それが悔しゅうて悔しゅうて……」
「健やかな燃実を妬んだというのか!」
 水月神に一喝された媼巫女は、泣きくずれる。
「死なせてしもうた息子に顔向けができませぬ~~~!」
 山津波を起こしたことを反省して、刃(やいば)を喉に突き立てようとする。
「何をするっ」
 水月神は小刀をはじき飛ばして、厳しく引き止めた。
「命を絶ったとて何も変わらぬ! 反省しているのなら、二度と山津波が起きぬように、神石の前で正しい所作で正座ができるように稽古に励め」
 媼は泥の中にひれ伏す。
 ご神馬が神石に綱を巻きつけて、村があった場所まで運び上げた。
 その日から、媼は一生懸命に正座の稽古に励む。

 ようやく山津波の騒ぎが落ち着きはじめた頃――。
 月が微かに揺らいだ。神社の馬屋でご神馬が耳をピクリとさせ、同時に水月神が月に視線を走らせた。

『媼は、もはや山の神となっている――』
「―――む?」
『山の神は恐ろしい。桃の邪気祓いの威力を持ってしても、怨みは治まらぬ……』
「月よ……。何と申した?」
 水月神の頭上に輝く冠が月光に照り返す。
 病を得て醜くなり山に捨てられたこと。産んだ子が亡くなってしまったこと。名付けた村の女児が元気に育っている、その子が水月神に愛されている。
 それらのことが媼に深い嫉妬と憎しみを抱かせた。
 月は女児に【桃】を意味する「燃実」と名付けさせて邪気を祓おうとしたのだが、媼はかなり頑(かたくな)な性格で、自分でも気づかぬうちに先の「山の神」にとって替わり「山の神」になってしまった。
「月よ……。媼の魂は山の神になっていると……?」
 水月神の眉間に深い皺が刻まれた。

第五章 月の教え

『憐れな媼よ……。燃実のような太陽そのものの美少女に生まれたかったろうに。媼の怨みが晴れぬかぎり、山津波はまた起こりうる』
 月の静かな声が響いた。
「月よ、な、なんと申した? では、どうすれば防ぐことが出来るのだ」
『媼が名付け石に刻んだ名前を削り取り、石の前にて心のこもった正座をして頭を下げるのだ。水月神、お前と生き残った村人も、共に――』
「我らも石に頭を下げる? それは納得がゆかぬ。媼がおのれの運命を呪ってやったことだ。村人も私も謝る必要はない」
『媼を懺悔(ざんげ)させるためには仕方ない。媼の怨みを消さなければ、山の神としての怒りがまた爆発するぞ』
「――媼が可哀想だわ」
 燃実がぽつんともらした。
「何も悪い事をしていないのに、病で醜くなったからって山の神から怨まれて、不幸な目にあって」
「燃実、お前は媼を許してやるのか」
「もちろんよ。女なら誰しも醜くなりたくないはず。それを罪びとのようにうとまれて、産んだ子まで失ってしまうなんて気の毒すぎるわ」
「燃実……、自分が害を受けたというのに、お前はなんと優しいおなごじゃ」
 燃実の言葉は、水月神の心の奥深く響いた。
「よし。私も名付け石の前で正座し、頭を下げて祈ると約束しよう」
 水月神は、媼と共に名付け石の前で頭を下げることを承知した。
(しかし、村の衆がなんと申すかな)
 水月神の心の奥に一抹の不安が残った。

 媼のシワ深い手が、名付け神石に刻まれた歪んだ文字をノミで削り取る。カシカシと細かい作業が丸一日かかった。
「ああ、やっと歪んだ文字を削り取れた」
 媼と燃実は、黄緑色に輝く名付け石の前で地面に膝をつき、着物をお尻の下に敷き、かかとの上に静かに座り――深く頭を下げた。
 燃実が先に口を開き、
「巫女媼が歪んだ名前を刻んだこと、許してあげてください」
「ワシが他の子を妬んでしたこと、愚かなことでした。お詫び申し上げます。どうかどうか、村の衆のためにもお許しくださいまし」
 お詫びが済んだ後、ふたりは楔石を洞窟に埋めた。
「燃実や、礼を言うぞ。ワシの名は『桃芭(ももは)』という。せっかく親が邪気を祓う桃の名を付けてくれたというに、ワシはなんということを……」
 燃実の肩にすがって泣いた。
「媼、泣いていないで。新しい石に今度こそ美しい文字でオラの名前を刻むのよ」
「もう一度、ワシに刻ませてくれるのか?」
「当たり前よ。媼はオラの名付け親じゃないの。今度は生まれ変わるつもりで媼の名前『桃芭』と彫ってもらうわ」
「お前という子は……」

第六章 入れ替わった楔石

 月が新しい楔石の採掘場を教え、水月神がご神馬に運ばせてきた。更に、山津波が襲った土砂の中から生命力ある桃の木を探し出し、媼が矢を削り出す。鋭く見事な出来栄えだ。
 月が安堵(あんど)した声で、
『おお、削れたか。その矢で再び、媼に新しい楔石に名前を刻んでもらわなければ、村は再び山津波に襲われる。心して刻め』
「は、はい。お月さま」
 媼がいよいよ、新しい石に改めて名を刻もうと、矢を突き立てた時、その動きが止まる。
「どうした、媼」
 見守っていた水月神が鋭く尋ねる。
「これはどうしたこと……。この石は先日、洞窟に埋めた古い楔石じゃ!」
「なに?」
 水月神と燃実が見てみると、正しく歪み文字を削り取った楔石だ。
「月よ、これはどういうことだ、これは」
『確かに……』
 月の声もわなないている。
『これは、楔石に歪み文字を刻んだ天罰か――』
 しばらくしてから、月は大きく叫んだ。
『分かった! 『楔』という文字は『打ち込んできっぱり割る』という意味と、『ふたつのものをしっかりつなげる』という正反対の意味を同時に持つのだ。だから分けたと思っても、もう片方に乗り移ったのだ』
 それを聞いた燃実は、残った村の衆が細々と生活している集落へと走った。

「夜中にごめんよ! 一生に一回のお願いがあるんだ!」
 流木でとりあえず建てられた、今にも崩れそうな小屋の戸を燃実は激しく叩きながら叫んだ。
「なんだ、燃実か。どうしたというんだ」
「お願いします! 洞窟に埋めてしまった楔石を掘り返すのを手伝ってください!」
「はあ? どうして媼のために掘り返さなくちゃいかんのだ。あの媼のせいで山津波がオラたちの村を流しちまったんだろうが」
 目をこすりながら小屋から出てきた男衆は、鼻息荒く怒り、まったく乗り気ではない。
「媼は病のために醜くなったというだけで、何の罪もない媼をひどい目にあわせた村の方々にも罪はあるわ」
「なんだと、燃実! ワシらを責めるつもりか!」
 村の男衆は、口々に、媼のために楔石を掘り返すのは理にかなっていない! と反対する。
 すっくと背後から月の光を受け、戸口に立った男の影が言った。
「燃実は山津波で父親も母親も行方知れずだ。それでも、媼が気の毒だという。仇にも熱い慈悲の心を向ける娘だ――。その心を分ってやってほしい」
「あ、あんたは……」
 水月神の響く声音(こわね)と言葉に、神の声めいたものを感じて、男たちは反論することができなかった。
 しぶしぶ、ひとりずつクワやスキなどかつぎ、山の向こうの洞窟へ向かった。燃実と媼も急いでついていく。
 男衆は入口の岩をどかせて掘りはじめた。燃実たちも手で掘りはじめる。

 水月神は急いで神社へ行き、ご神馬にまたがり、腹を蹴った。
 桃の矢を持って離れた洞窟へと急ぐ。
「楔石は掘り返せたか!」
 馬を馳ささげながら、男たちについていった燃実に心で問う。
「まだよ! もう少しで掘り返せるわ」
 月の力が消える夜明けまでに、矢を届けなければ間に合わない。水月神はご神馬に憑依して一体となり、ただただ山津波の残骸の残る荒れた地を走った。馳ささいだ。
 空から月が叫ぶ。
「馳ささげ――! ご神馬よ、ひたすら馳ささげ――!」
 ご神馬の裡側(うちがわ)で、水月神もまた叫んでいた。
『馳ささげ、馳ささげ―――! ご神馬よ、まっしぐらに速く――! あの月が沈むまでに――!』

第七章 躑躅(ツツジ)の意味

 じきに、月が山の端に沈んで反対側から朝陽が昇る。
 洞窟の見える丘に、ご神馬が到着した時、ちょうど朝陽が真横から射してきた。ご神馬が足を止めた。
「ど、どういうことだ、これは……」
 山津波に押し流された荒れた一帯だったはずなのに、一面に朱いヤマツツジが咲いていた。まるで炎の海のようだ。
 ご神馬の裡で、水月神は山津波の時の火事の炎を思い出した。
『いや、水月神、それらは炎の花ではない』
 山の端に沈みそうな月の声が届いた。
『ツツジは『躑躅』と書く。『躑(てき)』は、たたずむ、行き悩む。『躅(ちょく)』は足摺りする、あがくという意味がある。花の毒が進行を阻んだ言い伝えからだ。しかし、今の水月神はそれに打ち勝つ『恋の喜び』というものを心底、強く感じているはず。この朱い花の原を駆け抜ければ、愛おしい『桃芭』が待っておるぞ!』
 ご神馬の心の中の水月神は、燃実を思っていた。――今は改めて『桃芭』と名づけられた娘。恋の喜びというものを教えてくれた娘。彼女を救うためなら――。
 静かに朱色一面の原を眺めてから――、ご神馬は力強く蹄(ひづめ)を鳴らして足踏みすると、丘を一気に駆け降りた。
 花びらを散らし、ご神馬は馳ささいだ。
 矢のように一直線に、洞窟をめざして――。

 洞窟に着いた水月神はご神馬と身体を分かち、人間の姿になった。力強い腕に矢を握り、洞窟の前に歩んできた。
 ようやく楔石が掘り出されたところだった。
 桃芭と媼は自分の着物を脱ぎ、楔石の泥をぬぐって一生懸命に磨いた。泥の中から新緑の宝石のような黄緑の表面が現れた。
「おお、これこそ、楔石じゃ!」
 媼は水月神から矢を受け取るなり、石に突き立て掘りはじめた。
 今度は「燃実」ではなく「桃芭(ももは)」と刻む。媼の本当の名だが、村を燃やしてしまった「燃実」の一文字ではなく、媼の名前から一文字もらった名だ。
 月が山の端に沈む前に、楔石に「桃芭」と美しい文字で刻まれ、楔石は元の祠の場所に運ばれる。

第八章 父と母

 水月神は娘の「桃芭」ときちんと正座をして呼吸を整えてから、祠に奉納した。
「持たせたのう、今日からお前は〚桃芭〛じゃぞ」
 媼に邪気を祓う桃の名を刻んでもらい、桃芭は胸を撫で下ろした。

「さあ、行くぞ、桃芭」
「どこへ?」
「お前が逢いたい人のところへだ」
 水月神が馬上から手を伸ばして桃芭を背中に乗せた。見渡すかぎりの朱色の世界を、ご神馬は馳ささげていく。
 朱色の花に埋もれると、桃芭は山津波の時に村を焼いた炎を思い出し、胸が締めつけられる思いがした。
 朱色の中に大きな穴が見えてきて、その先は見てはいけない! と本能が叫んだが―――、
(いや、ちゃんと見なければ!)
 思い直し、目を開け続けた。
 炎が舐めるようにメラメラと襲いかかり、両親の苦悶の顔が思い浮かんだ。耐えられなくて、ご神馬のたてがみを握り締めてぎゅっと目をつむった。
(これは炎じゃない、炎じゃない! 花びらよ!)

 息苦しさが遠のいたと思うと、ご神馬がいなないて足を止めた。
 目を開けてみると浜辺に来ていて、ほっと息をつくことができた。
 干潟のような泥の中で、男衆が手を振っている。
「お〜〜い、この人たち、お前のおとうとおかあじゃないのかい?」
「おめえのおとうとおかあが無事で見つかったぜ」
 浜辺に寝かされているのは、両親ではないか!
「あれから何日も経っているのに? 神様!」
 桃芭はご神馬の背中で飛び上がり、それから砂浜へ飛び降りた。波打ち際を走る。
「おかあ、おと〜う!」
 両親は村人に介抱されて浜辺に横になっていたが、助け起こされて、こちらを見た。
「少しの怪我で済んだのは奇跡じゃ! 良かったのう〜」
 両親を助け起こしている男が、涙を拭きながら言った。
 桃芭は両親を思いきり抱きしめた。父親も母親も泥だらけのまま、娘を力いっぱい抱きしめた。
「おとう、おかあ、よく無事で……」

第九章 媼の子の望み

 次の夕べに昇ってきた月が言った。
『媼よ。お前の産んだ子が望みを伝えてきたぞ。桃の矢で、四方に邪気払いの矢を放ってくれと――』 
「な、なんですと、お月さま。それは誠でございますか」
『その矢で、媼の嫉妬や憎しみも浄めることができるとな』
「おお――! あの子の言葉! なんとありがたいことだ!」
 媼は砂浜にひざまずいて月を仰いだ。
「『桃芭』と名づけた娘、そなたが矢を射ておくれ」
「オラ、私がですか? お月さま!」
 月を見上げてから、背後の水月神を振り返った。
「山の神はおなごを嫌うらしいが、大丈夫かのう?」
 水月神は落ち着いた口調で、
「桃芭の清らかな思いは、山の神にも通じていることだろう」
「オラにできるのなら、力を尽くすよ」
 名前を刻まれた桃の矢を、握りしめた。
『あの岬の上から放つがよい』
 月は静かに命を下した。
 桃芭は背中に矢を背負い、手に弓を持って岬に向かった。

 穏やかな風の朝である。
 斜面に星の数ほどのヤマツツジが、桃芭の一挙手一投足を見守って息を殺している。
 弓矢はできるが、狩猟の矢しか放ったことはない。果たして、邪気祓いの矢が放てるのだろうか。
 岬の先へ一歩一歩、地面を踏みしめて登っていった。
 中天(空の真ん中)を見上げれば、東西南北は分かる。
 弓を構えて、まず東に矢をつがえた。ぎりぎりまで弓弦を引き絞り――、
「陽を迎える東の神よ、媼の邪気をお祓いください!」
 思いきり引き絞ってから放った。矢は、夜の海の上へ消えていった。
 続いて、西、南へと矢を放ち、最後の一本になった。
 天帝のおわす北へ放たなければならない。
「どうぞ、最後の一本――、天帝の御胸(みむね)に届きますように!」
 思いをこめて、矢を放った。
 潮騒が黙り込んだ。――長い長い時間、いや、刹那だったかもしれない――が、過ぎゆき、岬の根元の方から、
「ぎゃあ―――!」
 悲鳴が聞こえた。
 桃芭が急いで岬を下ると、媼がよろけた足で立ち、血のついた矢を握りしめていた。
「媼! 何故、矢が媼に……」
 歩み寄ろうとした桃芭を、水月神が引き止めた。
「桃芭……、よくぞ、ワシの中の醜い感情を仕留めてくれた……。ワシの醜いのは顔じゃなく……、美しいもの、健やかなものを妬む心根だったのじゃ。今、それをお前は仕留めてくれた……。これが、ワシの産んだ子の望みだったのじゃな。と……得心がいったぞ……」
 弱弱しい一歩を踏み出したかと思うと、媼の身体は膝をつき、前のめりに倒れた。
「媼! しっかりして!」
 桃芭が抱き起こした。が、媼は虫の息だった。
「桃芭……。礼を言うぞ。矢を放ってくれて。……これで、ワシは常世で息子に会える……」
「媼! 媼!」
 媼の潮に濡れた顔は、安らかだった。桃芭の眼に後から後から熱い涙があふれた。

結びの章

 数年後、若い母親と男の子の姿が昔の村外れの祠にあった。ふたりそろって、祠の名付け石の前で正座して合掌していた。
「かかとの上に座る時に、手を添えてお尻の下に着物を敷いて。きちんと膝をそろえて。間が空いてるわよ、月桃丸(げっとうまる)」
「あ、いけね」
 男の子は、小さな拳のようなスリキズだらけの膝をそろえて座り直した。
「ね、ここに、おかあの名前が彫ってあるだろ、桃芭って」
「誰が彫ったの?」
「流離い(さすらい)の巫女さまよ。巫女さまのおかげで、あれから恐ろしい山津波は来なくなった」
「オラの名前はどこに彫ってあるの?」
「これよ、お前が生まれて、月桃丸(げっとうまる)って。お父さまが名付けて彫ってくださったのさ」
「ふうん。お父さま、今度、いつ来るかな?」 
 夜空には十三夜の月が雲の上をすべっていく。
「もうじきよ。満月になったら来てくださる」
「うん! オラ、お父さま、大好き! なんでも教えてくださるし、優しいし」
「そして逞しい。お前も逞しくなって、続けて山津波に備えてくれないとね」
 あれから山津波は起こらず、村は家も田畑も少しずつ甦りつつある。
「うん! 弓矢は、おかあが教えてね!」
 ふたりの後ろで、ご神馬がぶるるん! といなないて、月桃丸の小さな頭のてっぺんの髪をくわえた。
「わ〜ん、お父さまが来たら言いつけてやるぞ、ご神馬め!」
「ご神馬はお前が好きなんだよ。そんなこと言ったら背中に乗せてくれなくなるよ」
「そうはさせない! どんなに暴れても、オラ、乗りこなしてやるんだ!」
 ぶるるん! ご神馬がまた鼻息を吐いた。
「ほら、ご神馬がかかってこい! って言ってるよ」
「よぉし!」
 幼いおのこは馬をけしかけて草原を駆けていく。笑い声が、黄昏て(たそがれて)いく空に響いた。

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