[283]ジャカランダの約束


タイトル:ジャカランダの約束
掲載日:2024/04/15

著者:海道 遠

内容:
 1960年代のブラジル、サンパウロ。ブラジル移民日系人の12歳の少女、桐奈は、サンパウロの町でジャカランダという樹に咲く花が大好きである。別名、紫の桜、紫雲木ともいう。同級生のゆかりと紫雲木の花を見上げていると、日本人の少年、挑夢(いどむ)が現れて、ピクニックシートを敷いて、正座して花を見上げることになる。



本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。

第一章 紫の桜

 1960年代のブラジル、サンパウロ。
 町の喧騒を少し離れた公園は、信じられないほど静かだ。
 桐奈(きりな)は、公園の中に並んで植えられた大木の足元に立って、見事な薄紫色の花が咲きほこる様子を見上げている。
 ジャカランダという釣鐘のカタチの可憐な花が、房になって咲き、枝に連なっている。
「きれい……。今年も満開になったわ」
 12歳、思春期の入口に立った桐奈は、この花が大好きだ。この花が咲く初夏も大好きだ。
 空気が澄み渡って、大都市サンパウロのビルの谷間から見える空も青さを増すからだ。青空の下、薄紫の花を咲かせるジャカランダは、夢のような世界を作り出している。
「桐奈、やっぱりここだったのね!」
 ジーンズ姿で駆けてきたのは中学の同級生の、背の高いゆかりだ。桐奈と同じ日系移民の子孫で、日本語で話せる。
 桐奈の曽祖父は日本から、ここブラジルに移民してきたのだ。移民からしばらくは、かなり苦労したそうだと、祖父や父からよく聞かされてきた。
 仕事がうまくいかない移民たちは、祖国の日本に働きに帰ったりしている人たちもいるが、幸い、桐奈の一族は仕事に成功して、ブラジルに根付くことができている。
「桐奈ったら、本当にジャカランダの花が大好きね」
「学校がなければ一日中眺めていたいわ。ゆかりも好きでしょう?」
「うん、大好き!」
「日本じゃ、別名『紫雲木(しうんぼく)』とか『紫の桜』っていうんですって」
「遠くから見ると紫の雲みたいだもんね。紫の桜かぁ。日本の薄いピンクの桜ってどんななのかな?」
「私たちは桜が咲いているところを見たことがないもんね」
「お寺っていうところに咲いている桜も見たことがないもんね」
「日本人街の赤い鳥居は見たことあるけど」
「鳥居って、お寺じゃなくて神社にあるものらしいわよ」
「う~~ん、見てみないとよくわかんない!」
「ゆかり、大人になったら、いつか日本へ行きましょうね!」
「いいわね!」
 地球の裏側にある祖国への旅を語り合う、幼いふたりだった。

 芝生に、同年代くらいの栗色髪の少年が、立っていた。
「あの子、見かけないわね。同じ中学の子でもなさそう」
 ゆかりが言った。
「ここでジャカランダを見ていると、時々見かけるわよ」
「そうなの? 桐奈ったらアンテナ抜群ね! あら、こっちへ歩いてきたわよ」
 いつもひとりでジャカランダを眺めて帰る少年だが、今日は近づいてきた。栗色のクセッ毛が可愛い。
「今日は、ここでそれを広げて座らないのかい?」
 桐奈が背負うリュックからはみ出た、朱い毛氈(もうせん)を指さして言った。
 ジャカランダを眺める時、桐奈は毛氈を広げてその上に正座している。
「今日はこれから広げるのよ」
「珍しい座り方してるね」
「これでしょ?」
 桐奈は、手早く毛氈を敷いて正座した。
「そうそう、その座り方。お祖母ちゃんがよく、ベッドの上でその座り方をしていたよ」
「正座っていうのよ。私もお祖母ちゃんやママから教わったの」
「もう一回、ゆっくり座ってみてくれないかい?」
「いいわよ」
 桐奈は背すじを真っ直ぐにして立ち上がり、膝をつき、スカートをお尻の下に敷いてかかとの上に座った。
「ふうん、正座っていうんだ」
 男の子は桐奈の正座の所作を不思議そうに眺めていて、
「僕も今日は、ピクニックシート持ってきたから教えてくれるかい? 座り方の順番」
「い、いいけど……。あなたは?」
「ああ、ごめん。僕は挑夢(いどむ)・加山。イドムって呼んで。郊外の中学三年生だよ」
 笑顔でまっすぐ手を差し出してきたので、桐奈とゆかりは順番に握手した。
「桐奈。サンパウロ日本人中学一年よ」
「ゆかり。桐奈とは大の仲良しよ。宜しくね」

第二章 つながり

 挑夢と名乗った少年は、毛氈の隣に自分のピクニックシートを広げ、桐奈の所作の通りにやってみて正座した。
「ちゃんとできたじゃないの、イドムくん!」
「さっき、君が見せてくれた順番で分かったんだ」
「そうよ。背すじを真っ直ぐに立つ、床に膝を着ける。かかとに静かに座る。両手は膝の上にそろえる。これだけ」
「至ってシンプルだよね。でも注意しなくちゃきれいな動作で座れない。お祖母ちゃんの座り方を見ていたから分かる」
「あなたのお祖母ちゃんは、偉大ねえ」
「君のお祖母ちゃんも」
 ゆかりも桐奈の毛氈の上に座り、しばらくジャカランダの花を見上げていた。風が爽やかで、日々の雑念を忘れさせてくれる。

「正座は日本独自という説と、古代中国では、すでに正座の習慣があったという説があるんだ」
 挑夢がポツネンと話し出した。
「物知りなのねえ」
「お祖母ちゃんの受け売りさ」
 少年は笑い、
「この花――ジャガランダって、紫雲木(しうんぼく)と呼ばれて、火焔木(かえんぼく)と鳳凰木(ほうおうぼく)と並んで『世界の三大花木』のひとつなんだって」
「『世界の三大花木』? すごいわねえ」
 ゆかりが叫んだ。
「こんなに背が高いんだものね。小さめのビルの高さくらいあるわよ」
「可愛い花が咲くけど、王様の風格があるもんね!」
「このジャカランダの正式名は『キリモドキ』。桐の木は中国中部が原産地」
「――ってことは」
 桐奈が顔を輝かせた。
「そう! 意外な組み合わせだけど、僕たちの正座と同じルーツなんだよ!」
「すごい! ありがとう! イドムくん、素敵なつながりを教えてくれて!」
 桐奈は思わず、膝を立てて挑夢の両手を握った。
「女の子って、つながりの発見が好きなんだな」
 ゆかりが咳ばらいした。
「盛り上がっているところ、水を差すようで悪いんだけど、その話って、かなりこじつけが入っていない?」
 桐奈と挑夢は黙った。
「正座といえば日本。中国で正座って、そういう説があるだけでしょ。キリモドキはキリモドキであって、『桐の木』とは仲間なだけじゃないの?」
 唇を突き出して言うゆかりに、桐奈は慌てた。
「まあ、いいじゃないの。せっかくイドムくんが発見したことなんだし」
 ゆかりはしばらく黙りこみ、
「……なんだか私は、おじゃまのようね。帰るわ!」
 毛氈から立ち上がり、早足で立ち去ってしまった。
「ゆかり! ゆかりったら」
 桐奈は情けない顔で挑夢を振り向いた。
「ごめんなさいね。悪気はないのよ」
「大丈夫だよ。僕はなんとも思っていない」
 挑夢もピクニックシートをかばんの中に詰め込んだ。
「僕も帰らなくちゃ。父さんと小さな妹が待ってるんだ」
 そう言って立ち去ってしまった。
「お父さんと妹さん――?」

第三章 挑夢兄妹

 二日後、桐奈はまた、ジャカランダの咲く公園へ行ってみた。
 樹の下に挑夢の姿があった。
 横顔は、少ししかめっ面に見える。桐奈はそっと声をかけてみた。
「イドムくん、この前はどうも」
「ああ」
 挑夢は顔をほころばせた。
「この前は悪かったね。妹に夕飯作らなくちゃいけないから」
「ううん、ちっとも。こちらこそ、ゆかりが帰ってしまって」
「大丈夫だよ。ゆかりちゃんは?」
「学校にはちゃんと来ているわよ。仲良しだから心配しないで」
 ジャカランダの花々の間を心地よい風が吹き抜けた。
 ふたりは挑夢のピクニックシートの上に、互いの祖母が教えた通りに正座した。
「サンパウロ中学ってセレブな日系人が通う学校だ。僕みたいなのと、こうしていていいのかな?」
「僕みたいなの……? 私、あなたのこと、まだ何も知らないわ」
「卑屈になってるんじゃないんだよ。サンパウロ中学に通ってる子とは、かなり環境が違う」
「……」
「僕の父さんは仕事に失敗して以来、時々、酒乱になる。ひどい時は家具が壊される。妹は怖がって泣く」
「……ママは?」
「父さんが仕事に失敗した時に出ていった」
「……」
 桐奈は言葉を失った。そんな世界は映画の中でしか知らない。自分は仕事が成功した移民の曽祖父のおかげで、裕福な家でぬくぬくと育てられてきた。
「妹さんはいくつ?」
「8歳だ。小凪(こなぎ)っていうんだ」
「可愛いのね。今度、連れて来てね」
「もうすぐ、小学校からの帰りにここへ来るよ。妹もジャカランダの花が大好きなんだ」
「あら、どんな子か楽しみ!」
「ほら、来たよ」
 紫の桜の並木の下を、Tシャツにミニスカートの小さな女の子が走ってきた。
 髪をリボンでツインテールにして息を切らせながら、笑顔で。
「イドムおにいちゃん!」
「お帰り」
 兄も笑顔で迎えた。
「このおねえさん? お花の下でおしゃべりしたっていう」
「そうだよ。お前もお座り」
 妹は小さな学校かばんを置いてシートの上に座った。
「初めまして。小凪(こなぎ)ちゃん」
 妹はちょっとびっくりして顔を見た。
「お姉ちゃん、私の名前、知ってるの?」
「さっき、お兄ちゃんに聞いたばかりよ。私は桐奈っていうの。よろしくね」
「うん!」
 小凪は、小さい手でかばんの中に入っていたおやつや果物を兄と桐奈にも分けて食べ始めた。
「このサンドウィッチ美味しいわ。お兄ちゃんが作ってくれたの?」
 桐奈が尋ねると、
「お兄ちゃんのマネしてコナギが作ったの」
「まあ、すごいわね。優しいおにいちゃんがいて幸せね」
「うん!」
 小凪は元気よく返事して、
「おにいちゃん、お花、ひとつ取って!」
 挑夢は心得ているようで、金網の柵をうまく足がかりにして腕を伸ばし、ジャカランダの花をひとつ取って妹にひょいと投げた。
 小凪は、水筒からレモンジュースをコップに注ぎ、その中に花をひとつ浮かべる。
「レモンジュースの中に薄紫のジャカランダの花! きれいね~~」
「でしょう? こうすると、レモンジュースが美味しくなるの」
「ふうん」
「おにいちゃん、桐奈ちゃんにも取ってあげて!」
 地上に降りたばかりの挑夢が、肩をすくめた。小凪はジュースを飲み干すと、もう一杯レモンジュースをコップに注ぎ、もう一度、兄から花を受けとって浮かべた。
「はい、どうぞ。桐奈ちゃん」
「ありがとう。とっても綺麗で美味しいわ」
「君たち、すっかり友達じゃないか」
 挑夢が微笑む。
 薄紫の花房の下で正座して、ささやかな幸せな時間が流れた。

第四章 別れ

 ジャカランダの花は散ってしまったが、散ってからも地面に散り敷いた薄紫の花々は絨毯になって美しい情景を見せてくれた。
 挑夢と桐奈と、時々やってくる小凪の幸せな日は続いていた。

 平穏は、突然破られた。
 並木の下で紅葉を見ながら毛氈の上に正座していた桐奈のところへ息せき切って挑夢が走ってきた。
 顔色といったら真っ青だ。
「桐奈!」
「どうしたの、イドムくん……」
「親父が急に日本に帰るって言いだしたんだ」
「なんですって?」
 明治時代に始まった日本人のブラジル移民だったが、熱帯のジャングルを切り開いて農地にすることは、過酷な労働だったに違いない。それに耐え抜いてコーヒー農園を成功させた人もいる。
 逆に、仕事に挫折して、日本に帰国しようとする移民も多いのだ。
 挑夢の父親もその道を決断したという。
「父さんは言い出したらきかない」
「祖国と言っても私たちには外国と同じ。とても不安よね」
「そりゃそうだよ。日本語が通じるっていうだけで、父さんがうまく仕事に就けるかどうかも分からない」
「でも、イドムくんはまだ15歳。小凪ちゃんもまだ小さいし、ついていかなきゃね」
(イドムくんとお別れしなきゃならない……)
 桐奈の心に、暗い影が押し寄せてきた。
(せっかくジャカランダの花の下で出会ったのに……)
 いつも明るい挑夢の顔も沈みこんでいる。
(ダメ、ダメ。新しい門出じゃないの。イドムくんを励まさなきゃ!)
 寂しさを吹き飛ばすように、桐奈は挑夢の手を取った。
「日本でお父さんの仕事がうまくいって、あなたも日本の学校を出て落ち着いたら、ジャカランダの並木に帰ってきて! 正座して待ってるから」
「桐奈……」
「手紙を書くわ! 住所が分かったら教えてちょうだい! 何度でも書くから!」
 桐奈の大きな瞳から涙がほとばしり、挑夢の指がそれをぬぐった。
「分かった。僕も手紙書くから待っていて」
「うん……うん」
 濡れたまつ毛に挑夢の唇がキスをして、桐奈は背伸びして彼の唇に触れるだけのキスをした。
 幼い「約束のキス」だった。

 挑夢が日本へ旅立ってから、桐奈は一生懸命に手紙を書いた。返事が来るまで待てずに、自分の日記のように書いた。国際電話など子どもが使うのを許されず、通信手段は手紙だけだ。
 しかし、挑夢の父親が居場所を転々としたために手紙が届いていない様子で、ついに挑夢への手紙のやり取りは途絶えてしまった。

第五章 帰国

 十年後――。
 日本でバイトしながら高校を卒業した挑夢は、地道に働き続けて、ある考案品をきっかけに小さな町工場と契約することができた。
 正座を続けて、挫折しそうな時もサンパウロのジャカランダの美しさと桐奈の笑顔を忘れず、心を穏やかにして立ち直った。
 酒乱だった父親も厚生して働くようになり、妹の小凪は元気な高校生になっている。
 ある日曜、朝ごはんの後、明るいリビングで挑夢は父親に打ち明けた。
「ブラジルに戻ってこようと思う。僕が考案した正座の補助具をブラジルの日系人の方にも知ってもらいたい」
 父親は読んでいた新聞を下ろして息子の顔を見た。
「あの座椅子だな。楽ちんだぞ。膝が痛むようになってから重宝してるよ。正座する時ってあまりないけどな」
「冠婚葬祭の時には便利だろう」
「うん、そうか。ブラジルに住んでいる人々に紹介するのか。行ってこい! 母さんは夢に挑むように、お前に挑夢と名づけたんだ」
「ありがとう、父さん。小凪のこと頼むよ」
「お兄ちゃん、それを言うなら、私に『父さんのこと頼むよ』でしょう」
 高校の制服が似合うようになった小凪が言い返した。
「そうだったな」
「ブラジルに行ったら、桐奈ちゃんによろしくね。私もいつか会いに行くから」
 桐奈の思い出がよみがえった。ジャカランダの樹の下で、紫の桜の下で座って見上げていた娘――。
 挑夢は改めて両親に感謝して、ブラジルへ向かった。

 サンパウロは10年前と変わらない景色で迎えてくれた。
 南半球は初夏である。強い日差しの下、懐かしいジャカランダの街路樹が連なっている思い出の公園へ真っ先にやってきた。
 散り始めの花が目の前を流れていく。
 桐奈と初めて会った場所だ。何年も前、挑夢が高校生に入学してから連絡がつかなくなったままだ。
(親御さんの家も何も聞いていなかった)
 手紙の住所には、ビジネスビルが建っていた。邸宅らしきものはない。
 ジャカランダの幹にもたれて途方に暮れていると、木陰から、ひとりの女性が現れた。
 背が高くてボーイッシュな外見と面差しに見覚えがあった。
「君は、もしかしてゆかりさん?」
「あ、やっぱりイドムくんね」
 ゆかりはすっかり成長していた。相変わらずショートカットでマニッシュ。ハキハキしている。
「イドムくん、スーツ姿で。立派になったわね」
「ゆかりさんも。大学生かい」
「ええ。来月には日本に留学する予定なの。ジャカランダの勉強よ」
 挑夢は大切なことを思い出した。
「桐奈の行方を知らないかい? 僕はあの後、日本に渡ったんだが、文通が途切れてしまって……」
「ああ、桐奈は……。桐奈はねえ……」
 ゆかりはちょっと口ごもった。
「おうちの事業がうまくいかなくなって、知り合いの農園へ働きに行ったとか噂を聞いたんだけど、私もはっきり行方を知らないのよ」
(なんてことだ!)
 挑夢は唇を噛みしめた。
(賭けをするように父親と祖国日本へ帰って、どうにか暮らしが落ち着いたと思ったら、今度は不幸の嵐が桐奈を襲ったとは……)
(花の妖精みたいに華奢(きゃしゃ)な桐奈は、どんなきつい労働をさせられているんだか)
 行方を捜すしかない。
「イドムくん、日本へ出立するまでの間、私ももう一度、桐奈の友達や親戚を捜してみるわ」
 ゆかりも全面協力を申し出てくれた。

第六章 桐奈の行方

 挑夢は桐奈の行方を探し始める。
 桐奈の働きに行った先のコーヒー農園は、しばらくは順調な経営を続けていたが、ある時から、桐奈一家の行方がつかめなくなる。

 行方探しの拠点のため、挑夢は、サンパウロ市内に小さなビルの部屋を借りて事務所を持った。
 日系人の経営する行儀教室や茶道教室、華道教室などに営業に周り、膝が不自由な人や正座のしびれに苦しむ人のために、正座が楽にできる座椅子を紹介する。
 日本にいる父親が、膝が不自由になったために考案した正座のための座椅子だ。
 最初は使ってくれる人が少なかったが、少しずつ増えてきて評判は上々だ。
 華道教室の日系人の師範の先生が褒めてくれた。
「挑夢くん、あの座椅子、足が痺れて正座がおっくうだった方々が重宝しているわよ」
「そうですか。何より嬉しいお声です」
 心の底から、こういう言葉はありがたく思う。
 どういう補助具にすれば楽に正座できるか、試作に試作を重ねた。また、個人によって不自由さや痛む箇所が異なるため、特注品もうけたまわった。

 一年が過ぎ、日本の妹、小凪から事務所に電話がかかってきた。慌てた声だ。
「お兄ちゃん、私、今日、町で桐奈ちゃんを見かけたのよ!」
 すぐには信じられなかった。ましてや、サンパウロでは子どもだった小凪の記憶だ。
「お前の見間違いか勘違いじゃないのか?」
「違うわよ、あれは桐奈ちゃんよ。小凪、はっきり覚えているわ!」
 信じてよいものかどうか、挑夢は戸惑った。
 続けて電話が鳴った。日本にいるゆかりだ。
「イドムくん! 桐奈の行方が判ったわ!」
 挑夢は受話器を持ったまま、思わず立ち上がった。
「本当か?」
「ええ。コーヒー農園が経営破綻になった後、取引先のポルトガルの資産家の屋敷に雇われて行ってしまったそうなの」
「ポルトガル――?」
 呆然とした。大西洋を越えた南ヨーロッパの国だ。日本と正反対の方角ではないか。
「さっき、小凪から電話があって、桐奈さんを東京で見かけたと言ってきたばかりだよ!」
「そ、それは、きっと何かの間違いよ」

 ポルトガルと聞いて、挑夢の頭に真っ先に浮かんだのはジャカランダの花のことだ。
 ジャカランダの花が、ブラジル植民地時代にポルトガル人にも愛でられ、本国にも広がったという歴史を知っていた。今や首都のリスボンにもジャカランダの樹は多く植えられて人々に愛されていると聞く。
(桐奈とふたりで見上げた薄紫の可憐な花――。見上げる巨木――。お別れする時に初々しいキスをした思い出の――)
「ボス!」
 女性事務員の声に我に返る。手元のコーヒーカップが傾いて、膝にシミがついてしまった。
 ゆかりに改めて電話して、詳しく事情を聞く。

 最近、商用でポルトガルへ渡ったゆかりのパパの知り合いが、コーヒー農園の経営者の屋敷にいた桐奈を知っていて、リスボンでのパーティーで、彼女を見かけたという。
 雇い主の付き添いとしてパーティーに来た様子だったということだ。
「ポルトガルで、メイドでもしているのかな?」
「お嬢さん育ちのあの子に、メイドが務まるのかしら?」
 ゆかりが心配そうに言った。
「どこの屋敷に雇われているのか、つきとめなければ」
「ポルトガルに行くか、探偵でも雇わなきゃ無理なんじゃない?」
「行くとしても、仕事があるから短期間だ。かといって信用できるかどうか分からない探偵を雇う気もない」
「もっともね」

第七章 パーティーの夜

 桐奈は、窓の外に見えるジャカランダの枝に咲く薄紫の花を見て、ほうっとため息をついた。
(花の下で出会ったイドムくん――)
(あれからいくら手紙を書いても、宛先人不明で戻ってきてしまい、途絶えてしまった。今頃、イドムくんは――)

「桐奈! ぼやぼやしていないで、三階の廊下の掃除が終わったら、奥様のお世話に行ってちょうだい!」
 先輩メイドの声に、桐奈は急いで階段を下りた。
 ポルトガル人の資産家ゴメス家の屋敷に住みこみで働いているのだ。両親はサンパウロに残り、多額な借金返済のために働いている。
 挑夢が日本に行ってからしばらくして、家の事業が失敗してしまい、コーヒー農園で働くことになり、一家で慣れない重労働に明け暮れていた。桐奈の白く柔らかだった手先は荒れ、身体中がギシギシ音を立てた。
 そんな矢先、ポルトガルに行けば、高校に通いながらメイドの仕事ができるという話が舞いこんできた。
 桐奈は両親と離れ離れになることや、挑夢とよけい連絡が取れなくなることを思い悩んだが、ようやく決心して大西洋を渡り、ポルトガルの首都、リスボンにやってきたのだった。
 約束通り、ゴメス家で雇ってもらうことができたが、ハイスクールへはいっさい通わせてくれる気配がない。
 紹介者に抗議したくても、ずっと会えない日が続いていた。

 リスボンに来てから早や三年――、
 相変わらずハイスクールには通わせてもらえないまま、桐奈は19歳になっていた。
 資産家のゴメス氏と夫人は、家の使用人に大らかとはいえない態度の人間だった。
 ゴメス氏は、大きなお腹を突き出した中年男で、豪華な居間の椅子で太い葉巻をふかせて、常に桐奈を好色そうな眼つきで眺めまわす。桐奈は、嫌で嫌で鳥肌が立つ思いだった。
 夫人は、勘づいていて、針のような視線で桐奈を睨みつけ、ことあるごとに桐奈に重労働を言いつけた。
 ゴメス夫妻にも、「ハイスクールに通わせてください」とは言い出せず、初夏になれば庭のジャカランダの花を眺めて慰められている日々だった。

「桐奈。今夜は文化人の集まるパーティーがあるから、少しは身綺麗な格好をしてついてきなさい」
 夫人は下着姿で鏡台に向かったまま、真っ赤な口紅を塗りながら命じた。
(文化人の集まるパーティー?)
 桐奈は、数少ない衣服の中から白いブラウスと黒のフレアスカートを選んで着て行った。
 パーティー会場へは、招待客しか入れない。化粧道具の入った大きなバッグを持って、外で待つよう言われた桐奈は、廊下の突き当りに大きな窓があるのを発見した。
 窓からはジャカランダの枝が見える。
 大判のハンカチを床に広げて、バッグを膝の上に持ち、正座して眺めていた。
 会場の扉が開くたび、緩やかな生演奏や、人々の笑いさざめく声が聞こえてくる。
 会場から出てきた、日本の和装の中年女性が声をかけてきた。
「あなた、日本の方ね?」
「そうですが」
「正座がとても、おきれいですわ」
「ありがとうございます。サンパウロに住んでいた時に祖母や母から教わったんです」
「ブラジルにいらしたの? 日系の方ね。パーティーにご出席なの?」
「いえ、私は奥様の付き添いで」
 その時、夫人がわめく声が聞こえた。
「桐奈! 桐奈! 帰るわよ! どこなの?」
「あ、行かなくては」
 桐奈が立ち去ろうとすると、和装の女性はゴメス夫人のところへ歩いて行き、
「初めまして。私、リスボン市内で日本のお行儀教室を開いている樫村琴子(かしむらことこ)と申します」
 流暢(りゅうちょう)なポルトガル語で挨拶した。
「なんとか教室の先生が、何かご用かしら?」
 ゴメス夫人はイライラをぶつけるように言った。
「突然のお話で恐縮ではございますが」
 樫村と名乗った女性は、たおやかながら、誰にも流されない口調だ。
「お宅様のメイドさんを、内弟子にお迎えしたいのですが」
「桐奈を?」
「はい。先ほどお座りになる姿を拝見して……。磨けば光る原石ですわ。ぜひとも、うちでお稽古していただきたいと」
「桐奈ったら、私の大切なバッグを汚さないでって言ってるのに、また床に座りこんでたのね!」
 ゴメス夫人の眉がつり上がった。
「奥様、お言葉ですが、バッグを膝に抱えておられましたよ」
 ゴメス夫人の顔は怒りで赤黒くふくれた。
「こんな子、そのうちにお払い箱にしようと思っていたところよ! 好きなところへ連れて行ってください!」
 桐奈は驚いたが、樫村と名乗った女性は、桐奈の眼を見てしっかりうなずいた。
(私を信じて。今の環境から離れるチャンスです。逃げるのではなく、あなたを束縛する存在から離れるのです)
 樫村は何もかもお見通しのようだった。
 その夜かぎりでゴメス家とお別れすることになった。
 樫村琴子という女性は信用できそうだったが、
(私はどこまで流されていくのだろう)
 車で運ばれながら、桐奈の心は不安に震えた。
 すっかり夜の風景になった車窓から、ジャカランダの花にあふれた挑夢の面影が飛び去っていくような気がした。

 挑夢がブラジルに戻り、桐奈がポルトガルにいることを知ったのは、それから二年後のことになる。

第八章 正座教室だ!

 挑夢が奔走して、ブラジルで正座補助いすの営業成績を上げる。
 ようやくポルトガルへ行く旅費と時間を作り、リスボンに渡ることができた。
 ポルトガルは、初めての土地で西も東もわからない。
 しかし、桐奈が雇われたゴメス家は有名な資産家なので、すぐに屋敷の場所が判った。
 リスボンの一角にも、ジャカランダの並木が有名な場所があり、並木道に面したところにゴメス家はあった。
 南ヨーロッパの明るい家々の中でもクリーム色の外壁に、赤いドアは目立った。
 ドアノッカーを叩くと、大柄なブロンドのメイドが出てきた。
「ご主人に取りついでいただけませんか」
「旦那様も奥様もお留守です」
 メイドは愛想なく言った。
「私は、日本人のイドム・カヤマといいます。こちらにブラジルから来た日本人の桐奈という女の子がいませんか」
「桐奈? あんた桐奈の彼氏なの?」
「いるんですね!」
「二年ほど前まではね。あの子はここをやめて、日本の……なんとか教室ってところへ行ってしまったよ」
「えっ、ここにはいない? なんとか教室って?」
「う~~ん、何だっけ?」
 大柄のメイドは首をかしげながら、
「あの子は日本人の座り方っていうの、床であれ廊下であれ、よくペタンと座っていたからなあ」
「あ――!」
 挑夢の顔が輝いた。
「正座だ! 正座教室のことだ! 探します。ありがとう!」
 ゴメス家から、桐奈がまた移動したことが判った。
 リスボンでお行儀教室をやっている日本人となると、限られてくる。交番や土地の人に尋ねると、すぐに判った。
『樫村琴子お行儀教室』!
 場所を尋ねると、桐奈のことまで知っている人にも何人かいた。
「日本人のお行儀教室の若い女の子なら知ってますよ」
「よく野外パーティーで、ジャカランダの樹の下で赤い毛氈を敷いて、座り方を教えていたわよ」
(桐奈だ! 間違いない!)
 挑夢は踊り上がりたくなった。
 さっそくお行儀教室を訪ねるが、師匠と桐奈は半年間、日本へ行っているとのことだ。
 挑夢は滞在しているホテルに帰ると、日本にいるゆかりに国際電話をかけた。
「桐奈が日本に、それも東京にいるの? 滞在先を教えて! すぐに行くわ!」

 ゆかりは、すぐに東京の樫村お行儀教室を捜し出した。
 教室を訪ね、お弟子さんに桐奈に会いたいと伝えるが、桐奈はなぜか会ってくれない。
 代わりに樫村師匠がゆかりに会った。
「桐奈さんは、すべて話してくれました。あなた方にお会いしないというのは、今まで歩んできた苦労の道に引け目を感じているのではないかしら」
「引け目?」
「お家の事業が破綻して、コーヒー農園で働かなきゃならなくなり、リスボンにまで行き、メイドとしてコキ使われて……どんなに辛かったことでしょう」
「桐奈ったら! 私は今も桐奈が大好き! どんな苦境にあっても、桐奈のきれいな心は変わっていないと信じています」
 樫村師匠は、ゆかりの瞳を見つめた。
「桐奈さんの苦しみを察してあげて」
 ゆかりは仕方なく諦めて、とぼとぼ歩いた。

第九章 イドムの勘

 ゆかりは大学の寮に帰って挑夢に電話で報告した。
「大丈夫。僕は桐奈に会うよ。桐奈の心が傷ついているなら、癒やすのが僕の役目だ」
 東京へ向かう航空チケットを申し込もうとして、
(待て……もしかして?)
 東京行きを変更して、サンパウロ行きの便に乗った。

 町の喧騒から離れた公園――。
 思春期の頃、ジャカランダの咲く時期になると、通ったあの公園――。周囲の高層ビルは増えた気もするが、公園の雰囲気はそのままだ――。
 知らず知らず駆けだしていた。
 今年も大木の並木道は、薄紫色の絨毯が敷き詰められている。
 その一本の根元に――。
 緋色の毛氈の上に美しく座り、見上げている姿――!
「桐奈――!」
 ラベンダー色のワンピースに、長い黒髪を垂らした横顔が、こちらを向いた。
「やっぱり、ここだった」
「イ、イドムくん? どうして――」
 華奢な肩を抱きしめた。
「ここで約束のキスをした……」
「イドムくん……」
 息ができないほど強く抱きしめられて、桐奈はただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
「やっと会えた。やっと会えた。もう離さない。離れない。二度と――」
 薄紫の風が吹き抜けた。
 栗色の挑夢のクセッ毛に、桐奈は口づけた。
「いつの日か、ゆかりと小凪ちゃんとも、ジャカランダの花を見上げたいわ」
「今は、ふたりきりで花のシャワーを浴びていよう……」
 ふたりは並木に沿って身を寄せて歩いた。

あわせて読みたい