[299]ストリート正座カメラマン ~祇園祭幻想~
タイトル:ストリート正座カメラマン ~祇園祭幻想~
掲載日:2024/07/13
著者:海道 遠
内容:
道往く人に声をかけ、正座して写真を撮らせてもらってSNSに投稿している一組の男女、イワズ&モガナ。
京都の永観堂で新緑の頃に、ひとりの青年に声をかけ、毛氈の上で正座してもらって撮影した写真が好評で「彼にお礼を言いたい」などという希望者まで現れた。連絡を取ろうとしたが、なぜか連絡が取れない。
イワズとモガナは、気にかかりながらも予定していた祇園祭に向かう。
本文
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序章
「迷って悩みながら生き続けていても、その悩みの元が長所ってこともあり得るねんで。そやから、そんなに思いつめて自分を小さな箱に押し詰めんでもええのんや」
祇園祭の提灯の灯りに頬を染められながら、彼は、そんなことを言い残した。何故か関西弁だった。
第一章 行方不明のモデル
道往く人に声をかけ、毛氈の上かどこかに正座したポーズを写真を撮らせてもらってSNSに投稿している一組の男女、イワズ&モガナ。
カップルではなく、高校時代の写真部からの写真好きの同志である。
イワズのお祖母ちゃんが茶道をやっていて、正座の所作を習ったせいで始めたことだが、けっこう楽しいので二十代になった今も、休日に時間を作っては、カメラと毛氈を担いであちこちに飛び回っている。
「あんた、京都に住んでいた頃のことを忘れてしもたんか?」
お稽古の途中でお祖母ちゃんが言った。五歳くらいまで京都に住んでいたらしいが、イワズはほとんど記憶にない。
「呆れたわ。あんな大きな思い出を作っといて」
なんと言われても思い出せない。東京に引っ越してきて二十年近くになる。京ことばもすっかり忘れてしまった。
最近、イワズとモガナは写真を撮りながら、ある人を捜していた。
一年前、いつものように京都の観光地のひとつ、永観堂で声をかけ地面に毛氈を敷き、簡単に所作のお稽古をして写真を撮らせてもらった青年で、同年代だろうと思われる。ラフな格好をした普通の学生に見えた。
撮影に応じて下さった方の連絡先は、必ず残しておくのだが、写真以外の情報の記録がどうしても見つからないので連絡が取れない。
所作を簡単に稽古してもらい、ぎこちなく正座してもらったのだが、彼の一枚の正座写真は正座のカタチもさることながら、バックの新緑が吸いつくように目に鮮やかに残り、その前に正座する彼の整った横顔がくっきりと写り、眼差し、肩や首の角度、背すじの真っ直ぐさ、腰から下の膝を折って毛氈の上に座るラインも美しい。正座する寸前までの所作が想像できるように生き生きとしていて、【命への感謝と希望が感じられる写真】とさえ名づけたくなった。
「どうですか。色んな方の写真を撮影している感想は?」
青年に問われた。
「う~ん、一枚か、たった数枚の写真からでも、その人の心の中が見えるような気がするよ。これをきっかけに、悩みがあれば少しでもふっ切れればいいと思いますね」
イワズの答えを聞いて、しばらく考えていた青年は、
「ずっと迷い、悩み続けて生きていても、それが長所ってこともあり得るからね、それをこの写真から感じ取ってもらえれば、なおさらいいね」
そんなことを言い残した。
後日、ひとりの女性が、SNSでその写真を見て『イワズ&モガナ』に連絡してきた。
ついその日まで悩んで、いつ命を絶とうと思いつめていたが、写真を見つめているうちに、青年から新緑の中に静かに座る姿に魅せられて、命を絶つなんてばかばかしいと思いとどまったという。
また、ある男子高校生からも反応があった。
彼は不治の病に侵されていて、大手術を受けなければ助からない状態だったが、自暴自棄になって手術を拒否していた。
しかし、青年の写真を見て勇気をもらい、手術を受ける気になった。
ふたりとも、「あの新緑の前で正座する青年」に会ってお礼を言いたいと言ってきた。
急いで彼の連絡先を捜したが、どうしても見つからない。
「変ねえ。モデルになってもらった方のデータはPCやスマホに必ず残しているし、念のためノートにも記帳しているのに」
モガナは何度も探したが、見つからない。
「あった! これだわ! 見覚えあるアドレスだわ!」
早速、そのアドレスへスマホから送信したが、エラーになってしまった。
「もしかして、デタラメなのを書き残した?」
「どうして、すぐに判らないんだよ」
「わかんないわよ、そんなの!」
遂には、イワズとモガナはケンカしてしまった。
第二章 コンプレックス
次の日、イワズはモガナとふたりで祇園祭の始まった京都へ行く予定をしていたが、喧嘩したままなのでバツが悪く、かと言って謝るのも「悪いのはモガナの方だ!」という思いがガンコに消えなかったので、ひとりで出発した。
新幹線の中では、丸めた毛氈や撮影機材をひとりで持つのは、大変だった。毛氈の丸めたのを網棚に乗せて、やっと座席についた。膝にはお気に入りの相棒のカメラだ。
梅雨の中休みの晴天に恵まれ、新幹線は混んでいた。
大学生らしき若者が多く、お出かけの奥様方の姿がちらほら。出張するらしきサラリーマンの姿がちらほら。
どことなくワクワクした空気に満ちている。
つい、人間観察してしまう自分に気づいて、ハッとするイワズだった。窓ガラスに映る自分の顔を見て、
(俺も『新緑の青年』くらいイケメンだったらな~)
と思いたくなる。イワズはお世辞にも「イケメン」などと言ってもらえる容貌ではないと、自分でもよく分かっている。ニキビだらけでだんご鼻だ。
コンプレックスだ。だから、美しい対象に憧れるのかもしれない。
祇園祭は7月1日から始まっている。一か月かけて様々な神事が行われる。八坂神社には観光客の姿も多く、高揚感にあふれている。
(京都といえば――)
連絡の取れない、あの青年をまた思い出す。
撮影場所は、新緑あふれる永観堂だった。
(あれから一年余りが経ったのか――)
そんなことを思い出しながら、バスのターミナルに向かった。
丸めた毛氈は一畳分くらいの大きさだが重い。ひきずるようにしてバス停までたどり着くと、仁王立ちしている女の子がいるではないか。
「こらっ、毛氈を引きずったら汚れちゃうでしょ!」
不機嫌なままのモガナだ。
「モガナ! いつの間に!」
「おんなじ新幹線だったわよ。ほら、毛氈、貸して! やっぱり私がいなくちゃダメでしょ!」
モガナは、さっさと毛氈を肩に担いだ。
「お前、力持ちなんだな~~」
イワズは渡しながら、毛氈から解放されてホッとした。
第三章 女性たちを撮影
ふたりは、祇園祭の行われる八坂神社へ向かった。
今日は七月一日、祇園祭の初日である。七月中、様々な行事が行われる。
六月中に、長刀鉾(なぎなたぼこ)の稚児(ちご)と禿(かむろ)ふたりが発表される。いずれも五歳~十歳の少年が務める。中でも稚児は、神の使いとされる。
長刀鉾町のお千度行事が行われる。午前十時から稚児たちが八坂神社を訪れ、選ばれたことを報告して祇園祭の無事を祈願する。
境内には、観光客はもちろんメディア関係者もたくさん来ているが、「イワズ&モガナ」は行事の写真は撮らない。
行事を見物しているか境内を歩いている人で、何かピンと来た人にお願いすることがある。モデルの選定はイワズの役目。モガナの役目はあくまで助手である。
イワズは、少しピンと来た中年女性のふたり連れに声をかけた。夏の和装姿である。
「僕たち、町の中で素敵だと思った方を、毛氈の上に正座していただいて撮影させていただいているんですが、よろしいでしょうか」
「正座するんですか、どこで?」
「座れそうな場所に毛氈を敷かせていただきます」
女性たちは少々驚いたようだが、承知してくれた。
「正座の所作をご存知ですか」
イワズが稽古をつけるまでもなく所作を知っていた。
彼女たちは背すじをピンと伸ばし、小さなお寺の境内に敷いた毛氈の上に膝を着き、着物に手を添えてお尻の下に敷き、かかとの上に静かに座った。
「きれいな所作と正座です。いいですか!」
シャッターが何回か下ろされ、イワズの得心のいく作品が撮影できた。
「どうもありがとうございました!」
モガナと共に深くお辞儀して、彼女らと別れた。
「素晴らしい正座だったな」
「祇園が近いから、日本舞踊を習っておられる方じゃないかしら?」
稚児さんと禿さんの『切符入り』など、一日の神事がひと通り無事に奉納された。
陽はまだ高い。
「どうするの? もう帰りの新幹線に乗る?」
「少し、永観堂に寄っていいかな? あの新緑が今はどんなに濃い緑になってるか見てみたくて」
「あの新緑って」
「そう。名前不明の青年を撮影した時の新緑だよ」
紅葉の名所で知られる永観堂は、真夏も観光客で溢れていた。
七月の容赦ない陽射しが照りつける中、カップルや修学旅行生や初老の方々の団体の客が見受けられた。
確か、彼の写真は、臥龍廊(がりゅうろう)と呼ばれる名の通り龍がくねくねしたような廊下のあちこちと、庭で撮影したのだった。
庭には、今日も朱い毛氈を敷いた床几が何台か、植木や池の間に置かれ、朱色の番傘が立てかけてあった。
緑と朱のコントラストが鮮やかで、しばし暑さを忘れていられる。
「あの時は初夏だったから、もっと緑が若かったわね」
「そうだね。それにしても、永観堂は名刹(めいさつ)だ。あの青年の横顔、正座の姿がよく映えていたな」
「彼に会ってみたいと思う方々の気持ちもよく分かるわ」
「なんだか幻だったような気がして、ここへ寄ってみたんだけど」
「幻じゃない……。ちゃんといたわよ。って言いたいところだけど、こんなに強い陽射しの中にいたら、幻とも思えてくるわね」
「少し冷たいものでも食べて休憩したら、東京へ帰ろうか。鉾建て(ほこたて)が始まったら、また来よう」
ふたりはセミの合唱に見送られて、古刹(こさつ)を後にした。
第四章 ご神事いっぱいの十日
十日、各町内で鉾建てが始まる。
「イワズ&モガナ」は、その日、朝早くから再び京都入りした。祇園祭の日程は前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)に別れている。十日の前祭のスケジュールが特にたくさん詰まっているのだ。
まずは前祭の始まりだ。各町内の会所(町民の集会所)では、お囃子のお稽古が始まっている。浴衣を着た町衆が、笛、鉦(かね)、太鼓で、コンチキチンと鳴らす。
祇園祭は疫病を鎮めるために始められた。
賑やかにお囃子を奏でて疫病神を起こす悪霊を呼び寄せ、酔わせたまま各町内の蔵に押しこめてしまうらしい。
十日の午前中から十四日までに二十三基の山鉾が組み建てられる。荒縄などによる「縄がらみ」と言われる伝統伎で組み建てられる。
イワズは、町内の筋肉の立派な男衆が十数人で力を合わせ、縄がらみの技法で鉾を組み建てていく作業を見るのが好きだ。
釘を一本も使わず、宮大工のように大きな鉾を組み建てていくのは、神業のようだ。
荒縄が寸分の隙間もなく、きっちり巻かれていくのは小学生の頃、冬休みの宿題でやった独楽(こま)回しのひもを巻いていくのを思い出す。
じゃまになって申し訳ないと思いながら、鉾立てしている男衆のひとりにモデルをお願いしてみる。
「え? 朱い毛氈の上に正座する?」
さすがに毛氈は似合いにくいので、止めることにした。
「ここでもええか?」
男性は町家の前に置いてあった床几(しょうぎ)を指さす。
イワズはさっそく、持ち主に了解を得て、床几を前に出した。
「少し幅が狭いですが、気をつけてください」
男性は器用に教えられたまま、床几の上で正座のきびきびした所作をして正座した。
凛々しく力強い正座姿が撮影できた。
「ありがとうございます!」
「おおきに、にいちゃん」
第五章 三つの行列
十日、午前に神輿洗式(みこしあらいしき)、午後に道しらべの儀、お迎え提灯と、三つの行列が行われる。
午後四時半、八坂神社から市役所前まで「お迎え提灯」の行列が続く。各町内からの白い法被と白い足袋に身を固めた男衆が、提灯を担いで歩いて行く。その人数といったら、ものすごいとしか表現しようがない。そこへ観光客、マスコミ関係のカメラが待つ。
「道しらべの儀」は、八坂神社から四条大橋までの間を大松明が男衆によって運ばれて道すじを浄められ、四つの松明に分けられる。
その後、提灯行列がやってくる。
イワズは、夕暮れ時のお迎え提灯の列に惹かれる。ぼんやりとした飴色の提灯は幽玄な世界を作り出し、白い法被すがたの男衆や、女性、子どもたちが連なる。こんなに騒がしい中なのに、時間が止まったように見えることがある。
市役所前では、子どもたちによる鷺(さぎ)の頭、翼、足まで扮装した格好での鷺踊りが奉納され、小町踊りや祇園音頭が賑やかに踊られる。かなり夕暮れが濃くなってきている。
「きっと沢山、お稽古したんだろうなあ」
言いながら、モガナを振り向いたイワズだったが、姿が見えないことに気がついた。
「モガナ?」
はるか後ろに目をやると、人混みの中から赤い毛氈が突き出ている。毛氈を抱きしめたまま、モガナが人の波の中でうずくまっている。早くも人だかりができていた。
「どうしたんだ?」
「こりゃ、熱中症かもしれないな」
そこへイワズが駆けつけた。モガナは真っ青な顔で動けない様子だ。
「モガナ! 大丈夫か、聞こえるか?」
「うん」とうなずくのがやっとで、冷や汗をかいて毛氈にしがみついたまま動けなさそうだ。
「にいさん、あんた連れか? 早く身体を冷やしてやらんと」
イワズは近くの自販機へ走って行き、ペットボトルを数本買い、モガナの元へ戻って身体に水をかけ、冷えたペットボトルを首すじや脇にはさんだ。
ストレッチャーが運ばれてきて、モガナは乗せられて救護所まで運ばれ、イワズがつき添った。
救護所の外は、観光客の列が引きも切らない。
イワズが額や首の冷感湿布を取り替えて、救急車を呼ぼうとしていると、モガナの口元が動いて、
「良かったわねえ、イワズに祇園祭のきれいな写真を撮ってもらえて」
「モガナ? 何のことだ? 寝言か……」
しばらくして、目をぱっちり開いた。
「ここは?」
「あ、眼が覚めたか? まずこれを飲んで」
スポーツドリンクを与えた。
「君は倒れたんだ。危険な暑さだったのに一日中あちこち連れ回して悪かったよ。気分はどう?」
「ううん、こちらこそごめんなさい。気分はずいぶんいいわ。ご迷惑おかけしたわ」
いつもは勝気なモガナが弱弱しい声を出した。
「あれ、あの青年は? さっき提灯の前で美しい正座をした青年」
「え? 今日は提灯の前で撮影してないけど?」
「ほら、あの人よ。昨年、お迎え提灯行列をバックに正座してくれて、それから、今年は永観堂で偶然、新緑の時期に再会して撮影した青年よ」
「何を言ってるんだ。彼を撮影したのは、昨年の永観堂が初めてで、まだ祇園祭では撮影したことがないよ」
「え? そうだったかな」
モガナは不思議そうにして、合点がいかないようだ。
第六章 夜道の稚児さん
モガナが歩ける様子になったので、イワズは彼女を支えて救護所を後にした。路地に入って人混みを避ける。しかし、彼女の足取りがまだふらふらだ。
「ほら」
イワズが前にしゃがみこんで促した。
「重いわよ」
躊躇しながら、モガナはイワズの背に身体を預けた。
(鼻っ柱が強い時もあるけど、具合の悪い時はしおらしいじゃないか)
苦笑いして、イワズは高瀬川べりを歩いていった。大通りの雑踏が遠くなっていく。
水面に遠くからの祇園祭の灯りや、軒を連ねるスナックのネオンが映り、独特の雰囲気を作り出している。
ふと、前に立つ者の気配を感じて足を止める。
「え? 稚児さん?」
それは毎年、祇園祭に選ばれる神の使いの十歳くらいの少年、稚児のなりをしているではないか。顔に真っ白に白粉(おしろい)を塗って頭にはキラキラした金色の冠。前髪をまっすぐに切りそろえ、祭用の衣装、一日には「切符入り」の重要な役目を果たした。
「稚児さん……? こんな夜遅くに?」
ぐったりしているモガナを指差して、
「おねえさんは大丈夫?」
(やっぱり本物の稚児さんだ!)
(今日は稚児さんの神事は無かったはずだが)
疑問に思いながら、答えた。
「ああ。ずいぶん顔色も良くなったようだから、大丈夫だよ」
歩き出すと、稚児さんは近寄ってきて、モガナの抱いていた朱い毛氈を抜き取った。
「あっ」
イワズが思う間もなく、稚児さんは毛氈を抱えて無言で川辺から離れ、路地の暗闇に吸いこまれるように消えた。
イワズは驚いて声も出せなかった。
とりあえず、モガナを宿で休ませてあげたい。稚児さんの後を追いかけるのは諦めて、宿へ急いだ。
「ちょっと連れが暑さに負けてしまった。すぐに横にさせてあげたいんですが」
女中さんが、
「それは、えらいことどしたな。すぐに床をのべまひょ」
布団の支度をしようとしている女中さんが、小脇に毛氈を預かっていてくれているではないか。
「その毛氈は? お稚児さんが持ってきたのかい?」
「え? 稚児さん? 何、言うたはりますのん、飲みすぎはりました?」
女中の言うには、イワズと同じくらいの普段着の青年が来て、預けていったそうだ。キツネに化かされたような気がした。
モガナが背中でぼそりと、
「前に祇園祭で撮影した時と同じ、気が利くわね、あの稚児さん」
イワズは、
「稚児さんを撮影したことはないよ」
言おうとすると、モガナは寝息をたてていた。
女中さんがモガナの隣りに、もうひとつ床をのべようとしていた。
「わっ、僕は隣の部屋なんですけどっ」
「それは存じ上げてますけど、お嬢さん、具合が良くなかったんと違いますの? ついていてあげはらんと……」
女中が言った。
「いやっ、ボクの布団は隣にお願いしますっ」
二人連れで撮影旅行していると、カップルに間違えられることがたびたびだが、イワズは誤解されないように頑強に別々の部屋を取っていた。
夜半までモガナの様子をうかがってから、どうやら大丈夫そうなので、自分の部屋で横になった。
翌日、モガナには宿で休んでいるように言いつけた。
「昨夜のこと、覚えているか?」
モガナは首を横に振るばかりだ。
宿を出ると、すでに強い陽射しが降りそそいでいた。
「昨夜の稚児さんは何だったんだろう。着物に袴の正装をしていたぞ」
第七章 粽(ちまき)売り
十三日から各、山鉾の近くで粽(ちまき)売りが行われる。
十六日になってから、やっとモガナは外出を再開した。
夜になり、日中の暑気が少しだけ和らいだ頃、会所(簡易な休憩所)では、浴衣でおしゃれした少女たちが「粽売り」のわらべ唄を唄いながら、観光客に粽を売っている。
粽と言っても食べるものではなく、家々の玄関に飾り、無病息災を祈るものだ。
粽売りのわらべ唄は、
『○○のお守りは、これより出ます
常は出ません 今晩かぎり
ご信心の御方さまは
受けてお帰りなされましょう
ろうそく一丁
献じられましょう』
気づくと、○○鉾の少女たちだけが、会所に朱い毛氈を敷いて正座して、お客の応対をしているではないか。
「こりゃあ、いったい……」
イワズとモガナが呆然としていると、背後から威勢の良い声がした。
「おお、この前のイケメンのカメラマンさんと美人の助手さんじゃないか!」
鉾建ての時に、床几の上に正座してモデルになってくれた逞しい男性だった。
「あの時の正座の所作がなんとも爽やかだったんで、女の子たちにも俺っちが教えて座ってもろうたんや」
「そ、それは思いもよらないことで」
(それにしても、冗談にせよ、『イケメンのカメラマン』だなどと。助手のモガナと釣り合わないのは百も承知だ)
イワズはあたふたした。
「町内会長には言うておいたさかい、心配せんでもええ。『正座で売り子』てのが、なんや好評でお客さんが引きも切らへんようやで。おまけに隣の町内からも正座の所作を教えてくれって言うてくるくらいや。ほら」
首を伸ばして隣の路地を見ると、少女たちがそろって正座の所作を稽古している。
「なんてお礼を言えばいいかな」
イワズは女の子ふたりに声をかけて、モデルになってもらった。活き活きとした瞳で唄いながら、粽を売っている姿がカメラに収められた。
「思いがけない収穫です。ありがとうございます」
第八章 稚児の出現
男性にお礼を言って、イワズは行こうとしたが、トントンと背中を叩かれた。
「ヒッ?」
思わず飛び上がった。
白粉を塗った稚児さんが、腰の辺りを引っぱっているではないか。ボーイソプラノの声で、
「これ、そっちのおねえさんに」
と、粽を差し出す。
「この前の夜、しんどそうやったさかい」
モガナもキョトンとして受け取った。
稚児さんはこっくりして、
「元気でいられるように、お守りの粽や」
言いながらモガナに渡したのは『新緑の青年』ではないか。
アドレスが分からず探している青年だ。たった今までモガナに話しかけていたのは稚児さんだったはず――。
「君! たった今まで稚児さんだった……?」
「何を言ってるのよ、イワズったら。女の子たちに正座の所作を教えていたのも、こっちへ来て私に粽をくださったのも、最初から彼よ。稚児さんなんてどこにもいないわ」
「そんなはずない! さっき……」
とたんに、『青年』は、くるりと踵(きびす)を返して、ひと気のない路地裏へ走り去った。
「あっ、待って!」
イワズは、モガナの手を引いたまま後を追った。発作的に追ったのだ。
大通りから、そんなに遠くないはずなのに、進めば進むほど闇は濃くなっていく。
『青年』のはずなのに、子どもの草履の足音が響く。
子どもの足だから、追いついてもいいものなのに……)
いくら走っても追いつけず、額から汗が滴った。
急に足音が消えて、イワズは『青年』がモガナの手を引いて走ってくるのと出くわした。
「えっ?」
自分はモガナの腕を掴んでいるはず――。
振り返るとモガナはいる。目の前にも『青年』に手を引かれたモガナがいる。
―――ピシッ!
――とたんに、電気がショートしたような衝撃を受けて弾き飛ばされた。
真っ暗なアスファルトの上に放り出されて、頭を上げると手を繋いでいたモガナの姿は消えていた。
代わりに『新緑の青年』が、モガナとふたりで側の地面に放り出されていた。
「しまった!」
『青年』は短く叫び、モガナをそのままにして立ち上がった。
「接近しすぎたようだ」
「……」
イワズは訳が分からない。
町家の並ぶ通りが、暗闇の中にぼんやりと見える。
「イワズ、行こう!」
『青年』が手を差しのべて言った。
「え? どこへ?」
「いいからっ」
導かれるまま速足で行くと、暗闇の中に急な木製の階段が浮かび出て、『青年』は先に昇り始める。
「さあ、おいで、イワズ」
追っていくと明るい空間に出た。そこは提灯が無数に灯った長刀鉾の最上階ではないか。
第九章 山鉾の最上階で
巡行の時に、稚児さんや禿さん、囃子方(はやしかた)さんたちも乗りこむ神聖な空間だ。四畳半くらいの広さだろうか。
眼下には提灯が無数に飾られていて、奇妙な世界だが夢のように美しい世界だ。
「ここで正座しよう。それぞれ、とびきり心を込めた正座を」
「……?」
イワズは言われるまま、写真撮影のモデル指導のために祖母から受けた稽古の通りの正座の所作で、慎重に正座してみた。
かたわらで『新緑の青年』も、負けない美しい所作で座った。
背すじを真っ直ぐ伸ばして立ち、床に膝を着き、お尻の下に着衣を敷いて、かかとの上に座る。
ふたりは正座したまま向き合って、しばらく見つめ合った。
「やっぱり、本家本元にはかなわないなあ~~」
『新緑の青年』が、畳の上にゴロンと寝ころんで降参した。
「本家本元って?」
イワズが尋ねたが、彼はそれには答えず座り直した。
「僕は小さい頃、祇園祭の稚児に憧れていたんや」
関西弁――いや、京ことばで話している。
「え? それやったら僕とおんなじや」
イワズも釣られて京ことばで答えた。
「まだ気づかへんか? 僕はイワズ、君やで」
「――?」
「僕は、君と同じ人間。君から生まれた分身とでも言おうか」
イワズはアゴが外れるほどあんぐりした。
「そう――、イワズくん。僕は君の理想の影法師とでも言うたらええかな? 僕は君が憧れたカタチなんや。子どもの頃、稚児さんに憧れてたって言うてたな。僕は稚児に選ばれて役目を果たした。つまり君がや。過去の祇園祭で立派に神の使いを果たしたんやで」
「僕が稚児さんに……? さっぱり覚えてないよ」
イワズは頭を振った。
「君が僕の影法師だって? SNSの写真を見て生きる希望が湧いたから、お礼を言いたいって言われているのが、君じゃなくて僕ってこと?」
「そうや。君がほんまもんの『新緑の青年』や。顔カタチにコンプレックス持ってることも知ってるで。そやから僕を理想のイケメンに思い描いたんやろう」
「……」
「けど、君には誰にも負けんことがいくつかある。人懐っこい顔立ちと誠実で優しい態度。そやから、皆、モガナちゃん含めて周りの人が協力的なんや。写真の腕もまあまあやし、それと――、何より即席で習ったっていう『正座』や!」
「正座……。『イワズ&モガナ』活動するために即席でお祖母ちゃんから習った正座の所作が?」
「そうや。とても即席に稽古した正座と思えへん。背すじがきれいに真っ直ぐやし、背骨が真ん中に固定してる。かかとに座る姿もキマってるし、何より貌(かお)つきが凜として、内面が温厚なのもよく分かる」
「そ、そんな褒められたかて……」
第十章 幼い頃の記憶
降りそそぐ陽光の下、稚児さんが辻舞(つじまい)を奉納してから、刀を大きく振りかぶり、スタ―――ン! と縄を見事に切り落とした。長刀鉾の最上階での神事だ。
「おおおおお――――!」
眼下の歩道にひしめいている観客から、大きなどよめきと拍手が湧きおこる。
十七日、長刀鉾を先頭にした山鉾巡行の始まりだ。
「ん?」
地上から見物していたイワズの胸の奥で何かが弾けた。
瞬間、自分の視線は、長刀鉾の最上階で縄を両断した稚児さんからの視線になっていた。
(そうだ! こうして鉾の一番上で縄を切ったんだった! 男衆に腰を支えられながら――)
(思い出した! 幼いながら、無我夢中だった!)
稚児さんを務めた時の記憶がよみがえった。が、それは一瞬のことで、地上から見上げる大人になった自分の視線に立ち返った。かたわらにはモガナがいて、祇園囃子の音色が耳によみがえる。
鉦と笛と太鼓で、大勢の町衆「コンチキチン、コンチキチン」と昔ながらの音色を奏で、厳しい陽射しの中を辻回しの行われる四条河原町の交差点へと進んでいく。
後祭には、出直してくることにして、イワズはモガナと共に東京へ帰る新幹線の中にいた。
モガナがぽつんと言った。
「イワズ。この前はありがとうね」
「え?」
「熱中症になった時、一生懸命、手当てしてくれたでしょう。まだお礼を言ってなかったから」
「そっか。いや、当たり前のことをしただけだよ。今度はもっとバッチリ対策してこなくちゃな」
「そういう優しいところが、イワズの人望を集めるんだと思うわ」
「え?」
「そうそう、名前不明の青年にお礼を言いたいって連絡してきた方々にご報告しなくっちゃね。――あの青年は僕でしたって」
いつの間にか、モガナにはすべて見抜かれているようだった。
「写真の顔とこんなに違っちゃ、認めてくれないよ」
「にじみ出る優しさって、心のこもってない空っぽの美しさに負けないと思うわよ。コンプレックスも疫病のひとつじゃないかしら。稚児さんがイワズのコンプレックスを厄落とししてくれたんじゃない?」
「コンプレックスも疫病のひとつ……?」
「そうそう。若い時のハシカみたいなものよ。通り過ぎるように克服できるわよ」
ふたりの若者は、新幹線の心地よい揺れに身を任せていた。後祭りに撮影に再び京都に来るのが楽しみになった。