[300]正座の七宝焼き
タイトル:正座の七宝焼き
掲載日:2024/07/18
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:30
著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル
内容:
工芸科二年の塔子は、三年の先丁先輩のことが気になっている。
その先丁先輩が昨年作った七宝焼きのキーホルダーをペアで使った二人が付き合い始めたという噂から、文化祭で七宝焼きキーホルダーの販売が決まる。
忙しい先丁先輩を案じた塔子は助っ人を申し出る。
そんな二人に学部長先生が和室を貸してくだり、塔子は正座を学ぶことになる。
そして、先丁先輩と付き合いたいと願った塔子はそっと七宝焼きの一つを失敬してしまい……。
本文
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1
正座は背筋を伸ばし、脇はしめるか軽く開く程度に、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい。スカートはお尻の下に敷いて、足の親指が離れないように。手は膝と太ももの間でハの字に。
習った通りの正座をし、七宝焼きのキーホルダーをラッピングしている際、塔子(とうこ)は、すっと二つづつで並んでいるうちの一つのキーホルダーをスカートのポケットに入れてしまった。
そこへ先丁(さきてい)先輩が戻って来て、「ありがとう。おかげで七宝焼きのキーホルダーは完成だ。本当に助かったよ」と言い、自販機で買ってきた紅茶を「はい」と渡してくれた。曖昧に笑ってお礼を言い、きちんと正座しながらそっとポケットに入れた七宝焼きのキーホルダーが次第に塔子に罪悪感を抱かせ始めた。
見楢塔子(みならとうこ)は、某善位高校工芸科の二年生だ。某善位高校は工芸科のほかに、スポーツ推薦クラスや学費免除の成績優秀者を集めた特待生クラス、それに次ぐ特別クラスのある、科が多岐にわたり、生徒数も多い学校である。昨今は特待生クラスへの入学希望者が増加し、それに比例して学校全体の学力もかなり向上している。塔子の在籍する工芸科も、学ぶ内容は国公立や難関市立大入試に対応するカリキュラムとは異なるが、それでも学科試験の難易度は上がり続けている。工芸科入学のための美術の勉強に加え、英、数、国を塾で勉強する日々は大変ではあったが、高校から好きな陶芸や工芸を学べるのはとても魅力的であり、そういった科は決して多くなく、狭き門ではあったが、念願かない、某善位高校の工芸科への入学が決まった。一年目は決められた課題をこなすことや、最新機器の操作を勉強することで精いっぱいだったが、二年目からはだいぶ余裕ができ、自身がどういったものを目指していきたいのかを考えられるようになってもきた。
そんな某善位高校では昨年、普通科のバスケ部のイケメンと特待生クラスの女子が球技大会の練習が縁で付き合い始めた、という話題でざわめいた。ほかにも野球部の男子と特別クラスの女子が付き合っているという噂も聞いた。
それは球技大会を前に学力で下剋上を目指した普通科の努力が功を奏し、特待生クラスだか、特別コースだかに順位が食い込んだことで、特待生クラスや特別クラスがならば球技大会で普通科に勝とうというような流れになり、そのために出場種目の部に所属する男子にコーチしてもらうというのがその年の球技大会前に流行ってのことで、それほど驚くことでもない。
課題提出で日々追われる工芸科をよそに、スポーツ推薦クラスの男子なんかが、勉強のできるクラスの女子と何やら楽しそうに練習しているのは、工芸科の教室や陶芸棟などで作業していても目に入る。
驚くべきは、そのバスケ部のイケメンと勉強のできる女子が付き合うようになったのは、七宝焼きのキーホルダーだという噂が流れたことである。
その七宝焼きというのは、工芸科三年の先丁気瑶(さきていきよう)先輩が作った七宝焼きのキーホルダーだとかで、そのお揃いのキーホルダーを先丁先輩がたまたま会ったその二人にあげ、後に二人が偶然ペンケースにそのキーホルダーを付け続けたことでお互いの想いが暗黙の了解で伝わったのだとか……。
まあ、当人同士が想い合っていて、その後も校内で顔を合わせれば、いずれは付き合うようになるのだろうとは思うのだが、校内では、先丁先輩に七宝焼きのキーホルダーを二つセットでどうか作ってほしいという要望が多数寄せられているのだそうだ。
この先丁先輩は、塔子と同じ二年の文化祭で出展したベンチが学部長先生の大学時代のご学友である華道の家元の目に留まり、高校二年生にして所謂著名な文化人にお墨付きをいただいた人物である。ただし、本人は全く偉ぶることなく、気さくで親切な性格で、演劇部の舞台創作も手伝っているし、後輩が手間取ったり、困ったりしていれば自然と手を差し伸べてくれる。塔子が一年生の冬、雪の日に授業で使う大きな木材を担いで歩いていた時、行先を確認し、「ここ、凍っているから。僕も去年ここ荷物担いで歩いたけど、結構危なかったから」と言い、塔子の代わりに木材を持ってくれたことがあった。「自分で使うものを運ぶのも勉強ですから」と言う塔子に、「今年は雪でどのあたりが凍るかをしっかり覚えて、来年自分の作品を落とさないようにすることと、余裕があれば、来年入学する一年生にそのことを教えてあげられれば、それも勉強ってことになるんじゃない?」と言って、塔子の木材を軽々と持ち、「そこ、凍ってるから避けた方がいいよ」と言って先を歩き出した。その時、この先輩と同じ学校で学べるのは二年弱なんだと思い、それが先丁先輩が校内で一目置かれているのとは別の理由で特別に想うことの始まりだった。
2
その先丁先輩が卒業する年、つまり高校最後の九月の文化祭を前にした六月に七宝焼きの依頼が殺到したと聞いた塔子は、暫し迷ったが、先丁先輩がいるであろう陶芸棟を訪れた。そこで目にしたのは、色鮮やかで美しい、小さな七宝焼きの数々だった。どれも同じものが二つづつあるところを見ると、やはり校内の生徒の要望に応じて創作をしているらしい。ほしいと願い出た人がいい加減な気持ちでなく、また無償で頼むつもりもないことは承知しているが、それでもやはり工芸科の生徒の忙しさ、それも最後の出展準備と受験のある三年生に依頼することの意味をどこまで理解していたのか、という思いが過る。
「先丁先輩」と、塔子は声をかけた。
作業台にいた先丁先輩が、「ああ、見楢さん」と振り返る。
笑顔ではあるが、疲れた顔をしているのがわかる。
「あの、何かお手伝いさせてもらえること、ありませんか?」と、塔子は思い切って訊いてみた。訊いてから、厚かましい願い出だったのでは、と俯いたが、「本当? 助かるよ。見楢さん、一年生の時の自由課題でピアスやチョーカーを出していたよね」と先丁先輩は言った。
「はい」と塔子は頷く。
男子はゲームや動画、または木工家具などの出展が多かったが、女子は陶芸や金属加工のアクセサリーが多い。
「見楢さんの作品は、細かいところまですごく丁寧に作ってあるなと思ったから、手伝ってもらえたら、僕が作ったものよりずっと品質が上がる」
「私の作品、見てくださったんですか」と訊くと、先丁先輩は頷いた。塔子は自分たちの科の作品は一応見たが、すごい、とか、きれい、とか思うくらいで、普通科の出店や演劇なんかを見に行って、高校の文化祭というものを楽しんで、すっかり満足していた。……ああ、この観点からもう違うんだ、と自分の考えの甘さを痛感したが、今は先丁先輩がほめてくれたことを素直に喜ぶことにした。
「じゃあ、早速で悪いんだけど、これ、こういうふうにしてキーホルダーにしてもらえるかな」と、先丁先輩は出来上がった七宝焼きのキーホルダーを塔子に渡した。
「はい、できます」と即答できたのは、やはりこの一年半、この学校で学んできたが故だと塔子は思った。
それから暫く、塔子は先丁先輩の隣の作業台で黙々とキーホルダー作りを進めた。
特待生クラス、特別クラスの七限目の授業終了のチャイムが鳴った頃、「おや、先丁くんと、見楢さん」と、深みのある声が響いた。
そこにいたのは学部長先生だった。
学部長先生は芸術の大学で陶芸を学んでいたとかで、ここの陶芸棟には早朝から来ていることがあるらしい。実際にここで顔を合わせたのは初めてで、その塔子の名前を学部長先生が知っていたのは驚きだった。
先丁先輩は学部長先生とお話するのに慣れているようで、敬語を使いながらも和気あいあいとした雰囲気だ。
話の中で学部長先生が先丁先輩が校内の生徒からの依頼で、文化祭での自身の出展の準備と受験とで多忙を極める中、七宝焼きのキーホルダーを作っているのを知っている様子なのがわかった。先丁先輩は、塔子がその手伝いをしていることを話すと、「ここでは他の生徒も出入りして世話しないでしょう。金具を付けるのであれば、奥の部屋の方がいいのではないですか」と提案した。
奥の部屋、というのは学部長先生の私室で、先生の作品が保管してある和室である。
それはさすがに、と塔子は思ったが、「いいんですか」と先丁先輩はあっさりとその申し出を受けてしまった。
「去年の球技大会前には、バスケの練習の後に勉強していた生徒さんも使っていましたよ。時々ですけど、お茶とお菓子くらいはお出しできますよ」
学部長先生、もしかしてそのお二人が付き合うようになったのは、先丁先輩のキーホルダーではなく、学部長先生がお部屋を提供されたからでは? ごくごく一般的な可能性について塔子は考えた。そうして、この陶芸棟の中に学部長先生の私室があるという位置関係から、偶然先丁先輩がキーホルダーを進呈したという展開もなるほど、といったところだった。そうこう考えている間に先丁先輩は「ありがとうございます。楽しみにしていますよ」、なんて学部長先生の申し出を、友達が購買でついでにパン買ってきてあげるよ、というのに応じるのと同じくらい気安く受けている。ここは、「そんな……、申し訳ないです。だけど、ありがとうございます」というようなことを言うのが塔子の役割だと気づく頃には学部長先生は、「それでは」と言い、その場を去ってしまっていたのだった。
3
あの時は失敗した、と後悔した塔子は、次こそは学部長先生の前で礼儀正しき生徒でいようと心に決めた。
しかし、早速学部長先生のお部屋を借りた二日目、早くも失態を演じてしまうことになった。
陶芸棟の中にある学部長先生の私室を先丁先輩が開けてくれ、「金具を持ってくるから待っていて」と言い、一般の教室のある校舎へと戻って行った後、塔子は一人、開け放たれた和室を前にした。
そこは大層静謐でありながら、居心地のよさそうな和室であった。
今日は朝一で体育でハードル走のタイムを録り、次の時間はパソコンでの図面作成、それに古文の小テスト、数学の小テスト、午後は木材を使った制作だった。充実したカリキュラムではあるが、如何せん、六月の気温や湿度が上がったり、下がったりする時期である。中間テストが終わって間もなくだが、すぐに期末テストもやってくる。
とにかくそんなわけで、和室を前にした塔子は誰もいないのを幸いと、ぽい、と鞄を和室に放り入れ、ローファーを脱いでそのまま室内に上がり込んだ。ひんやりとした空間と畳の感触がなんとも心地良い。初めは足を崩して座っていたが、やがて足を伸ばし、そのまま仰向けになり、大の字になり天井を見つめた。
そのうちに瞼を閉じた。
深呼吸すると、一睡、また一睡と眠りに落ちる……。
そして気づくと、二人の話し声とグラスに何かを注ぐ涼やかな音。
ふっと目を開けると、そこにはちゃぶ台で向かい合う先丁先輩と学部長先生がいらした。温かい、と感じたのはご丁寧に足元にひざ掛けよろしく、先丁先輩のジャージの上着がかけてあった。
起き上がり、大層気まずい思いで「すみません」と詫びた。
「お目覚めですか」と学部長先生は全く咎める様子なく、穏やかな口調で、それがまた心に痛い。俯き、手元にあった先丁先輩のジャージを畳んで、「ありがとうございます」と返す。
身を縮めて座り、二人を見ると、姿勢よく、実に清々しい正座をしていた。
「お恥ずかしい申し出で、おまけに厚かましいんですけど、今後のために正座のご指導いただけますか」と塔子は頼んだ。
「ああ、構わないよ。僕も前に演劇部の人に指導してもらった」
「私も大学時代に由緒ある日本料亭に行く際に指導してもらいましたよ」
二人はパソコンの操作でも教えるような口調でそう言い、頷いた。
「まず姿勢は正して。スカートは広げずにお尻の下に敷くように。脇は締めるか軽く開く程度。手は膝と太ももの付け根の間でハの字に。膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらいで。足の親指同士が離れないように気を付けて。それから慣れるまでは、足がしびれたりしたら無理しないように」
そんなふうに先丁先輩が指導してくれ、学部長先生も「いいですね」と頷く。
「見楢さんはご自身の課題の作成で、随分早くから学校に来て頑張っていますね。若い学生さんは体力があるでしょうが、時々は休んだ方がいい」
学部長先生はそう言うと、「では、」と柔和な笑顔で部屋を後にした。
先丁先輩と二人になり、塔子は正座したまま手をつき、「すみませんでした」と詫びた。
「何が?」と先丁先輩は、学部長先生が持ってきてくださったらしい茶色く艶やかなくるみ饅頭を食べながら訊く。
「私のせいで先丁先輩の顔に泥を塗ってしまいました。せっかくの学部長先生のご厚意を台無しにしました。もう、このお部屋は使わない方がいいのでしょうか」
「学部長先生はそんな人じゃないよ。これで次から使わなかったら悲しいんじゃない?」
「……そうですか」
「学部長先生って、表面的なところだけではなく、もっと多角面を見る人だよ」
そう言う先丁先輩も、同じくらい人を見る性格なんだろうと塔子は思う。
これから金具をつけていく七宝焼きは、どれも色鮮やかなできれいで、どこか優し気だ。単なるジンクスだけで買ってほしくない、という思いが勝手に高まり、それは自己の思い上がりだとも考える。こうした感性の反映される作品は、自ずと見る側、求める側に伝わる。
自分の作るものは、そうした何かが伝わるだろうか、と自問した。
4
先丁先輩は頑張って、それなりの数の七宝焼きを完成させた。お揃いのもの二つを一つセットで販売するというのは、以前からリクエストしていた生徒からの要望に合わせてだった。
この七宝焼きに金具をつける間は先丁先輩と二人で過ごせると目論んでいた塔子だが、ここは人当たりのいい先丁先輩の人望で、工芸科の生徒が何人も出入りし、手伝ってくれる。おかげで一週間くらい一緒に過ごせると踏んでいた期間が、たったの三日で終了してしまった。先丁先輩の友達は男女ともに同じくらいいて、特にその中の誰かが先丁先輩と特別な仲だと主張していなかったが、塔子から見れば、そうした心強い、良心的な助っ人は、ある種の不安材料でしかなかった。
そんな塔子をよそに、「この部屋ちょっと緊張するね」などと言って、塔子に正座について教えを乞うのだった。
塔子は「背筋を伸ばして、脇は締めるか軽く開くくらいで。膝はつけるか握りこぶし一つ分あく程度に。手は膝と太ももの付け根の間でハの字で。スカートはお尻の下に敷いて、足の親指同士が離れないように。足がしびれたら無理はしないでください」と、教わった通りに伝えた。
先丁先輩の友達は、きちんと正座をした上で、七宝焼きの作りの細かな話をしながらも、実に器用に手際よく金具に取り付けていった。
そうして先丁先輩の友達が「今日はここまでで帰るね」と言い、先丁先輩が席を外した、ほんの僅かの時間、塔子の鼓動が速まった。そして、ペアの七宝焼きのキーホルダーのうちのひとつを、そっとポケットに入れた。
ペアの片方が見つからなければ、ここに一つ残った七宝焼きのキーホルダーは販売されず、先丁先輩が持っていることになる。
それは結果的に塔子とペアでこの七宝焼きのキーホルダーを持つということで、そうすれば先丁先輩とジンクスの通り、想い合えるようになるかもしれない……。
そうなれなかったとしても、七宝焼きのキーホルダーは正直に言って、先丁先輩が卒業する時に謝って返そう、と決めた。
ただ、少しの間だけ、チャンスがほしかった。
5
文化祭の日には、一日目の午前の売り子を塔子は先丁先輩に申し出た。
さすがにそれは悪いと先丁先輩は言ってくれたが、塔子はクラスの展示物や販売の当番は翌日の午前で、両日の午後からは友達と校内を見る約束をしているので、初日の午前が空いていた。
まあ、午前中一人でいるのはちょっと暇ではあるな、と思ったが、それは杞憂に終わった。
販売開始から十五分足らずで、あの長い時間をかけて作成した七宝焼きのキーホルダーは完売した。
値段を書いた厚紙を裏返し、『完売しました』と記して置くと、もうやることがなくなってしまった。
そうして、ひとつポケットに入れた七宝焼きのキーホルダーの存在が罪悪感を重くする。
そこへ「あれ、もう売れた?」と、驚いた様子の先丁先輩がやって来た。
「あ、はい。前からほしかった人ばかりだったみたいで。でも逆に、ほしかったのに売り切れたって言う人がいないのは、よかったかもしれません」
「じゃあ、丁度いい数だったかな」と、先丁先輩は言う。
「はい、そうだと思います」と、塔子は答えておいた。
「おや、盛況ですね」と、学部長先生がやって来た。
先丁先輩の七宝焼きのキーホルダーの並んだテーブルを見てもらえなかったのは残念だが、先に携帯で撮影していたので、その様子を見せた。
学部長先生は目を細め、「先丁くん、最後の文化祭もいいものになりましたね。見楢さんも、その頑張りと協力する心が本当に素晴らしいです」と言った。
恐縮した塔子の前で、とある事件が起こった。
否、表面的には事件でもなんでもない。
「学部長先生、これ、ひとつなんですけど、よかったら」と、先丁先輩がポケットから出して学部長先生に渡したのは、なんと、塔子が片方を失敬した、あの七宝焼きキーホルダーだった。
先丁先輩、それ、学部長先生に? ペアで持つとお付き合いに発展するというキーホルダーを? 内緒だけど、その相方持っているの、私なんですよ……。
学部長先生はいい先生だけど、私は学部長先生とお付き合いはちょっと……。
いやいや、その前に学部長先生だって、そんなの希望しないでしょう……。
どうする、どうする……。
凄まじい速度の迷走が塔子の中で起こった。
そして、「あ、そんなところにあった!」という大声を塔子は出し、さもついさっきポケットに入れたような顔で、学部長先生の手に渡った七宝焼きのキーホルダーのペアを出した。
「ひとつだったんで、とりあえず預かっていたんですけど、よかった!」と、心からのような言い方で続け、すかさず学部長先生にもう一方を渡す。
「これは、生徒のみんなが欲しがっていたものですよね。いいですよ。私は」と学部長先生が遠慮するが、先丁先輩は「こんなことくらいしかお礼もできませんが、よかったら、受け取ってください」と言った。
「ありがとう。じゃあ、買わせてもらうよ」という学部長先生の申し出を先丁先輩は丁重にお断りし、ご迷惑でなければ奥様と使ってくださいと言い添えた。
心の奥にあった罪悪感が吹き去り、何とも言えない脱力感に包まれた。
6
七宝焼きキーホルダーが十五分で完売になり、残りの午前の時間が空いた。
「見楢さん、これからどうする?」
「ああ、だいぶ時間があるので、適当に……」
「よかったら、お礼がてら、文化祭だけどなんか奢るよ」と、先丁先輩が提案する。
「いいんですか? 先丁先輩、忙しくないんですか?」
期待と先丁先輩に無理をさせているのでは、という心配とで聞くと、「さっき、こっちの展示の様子を見てくるって言ったら、友達がクラスの当番を代わってくれて、当番は午後から」と言う。
「どうする?」と続けて尋ねられ、「じゃあ、ご一緒します」と塔子は頷いた。
最初に上演時間が五分後の演劇部の公演を見に行った。
演劇部の大道具を先丁先輩が手掛けているというので、それを見る目的もあった。
舞台では主演の女の子が迫真の演技で広い体育館を静まり返させ、上演後は大きな拍手が響き渡った。脚本、演出を担当した男子生徒を出演者が拍手で中央へと迎え、一段と大きな拍手が送られる。
「あの人に正座を指導してもらったんだ。特別コースだから職員室前で自習していて、そこで正座の指導をしてもらったから、職員室前の廊下に正座でさ、ちょっと抵抗はあったけど、面倒見のいい人で助かったよ」と、拍手をしながら先丁先輩は教えてくれた。
演劇部の上演後は、野球部主催の出店に寄り、ベンチで軽食にした。ここの支払いを先丁先輩がしてくれて、ちょっと困ったが、「いいよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。
その後は体育館に寄り、交流試合をしているバスケ部を応援した。
コート横では、派手な感じの女の子たちの中央で、真面目そうな女子がじっと試合の行方を見守っていて、背が高く、ひと際目を引くイケメンの男子が鮮やかにシュートを決めると、笑顔になった。イケメンの男子は振り返って軽く女子に手を振って、女子は周囲の派手な女の子に冷やかされている。なんとも幸せそうな構図であった。憧れというか、ややひがみの気持ちを抱きつつそれを見ていると、「あの二人がバスケの練習して、その後学部長先生の部屋を借りて勉強している時に偶然会って、キーホルダーをあげたのが、今回のキーホルダー作りの発端だったんだよ」と先丁先輩は言い、某善位高校の勝利を見届けると、「次、行こうか」と塔子を促した。
この後も、学部長先生と一緒に歩く和服姿の年配の男性と、随分と親し気に先丁先輩は言葉を交わしていた。
「今のは、学部長先生の友達で、華道の先生。去年出展した作品を買ってくれるっていう話が出て、そこから親しくさせてもらってるんだ」
「……先輩、ずいぶん顔が広いですね」と塔子は言った。
塔子の知り合いは同じ科の、ほぼ同じクラスだったり、合同で体育をやる女子くらいである。
「まあ、なんか、大したきっかけではなかったんだけどね」と、先丁先輩は言うけれど、確実に先丁先輩は、その実力により、人脈を広げている。そうしてこの先、この先輩は今のような自然体のまま、更に枝葉のように力も、人脈も広げていくのだろう。
それは想う人がそのような人であることの誇らしさとともに、同じ科に属する者として、追いていかれるような、敵わないような、寂しさや焦りを感じさせた。
その後天文学部の発表を暗幕の中で聞き、交換留学生との交流の様子を教室内に飾った、ニュージーランドのお菓子をメインにした喫茶店に入った。
「本当に、この学校はいろんなことを学んでいる人がいるんですね」と、二人掛けの窓側の席に案内された塔子は先丁先輩と向き合い、教室内や窓の外を見ながら言った。
「そうなんだよね。入学前は自分のやりたいことを中学校卒業してすぐに学べる学校があるっていうので見学に来たけど、校舎は何棟もあるし、なんだかスポーツ推薦から学問最重視のクラスまであって、設備も充実しているし、天文台や陶芸棟があって」と言う先丁先輩に「そうそう」と塔子は頷いた。
「見楢さんは、この先の進路は考えているの?」
そう訊かれ、塔子は暫し瞬きし、「一応夏休みの課題の一つで学校を三校は見学してレポートを出すようにってあったんで、大学と専門学校の見学に行ってきました」と答えた。
「そうか」と先丁先輩はゆっくり頷いた。
塔子たちの在籍する工芸科は、将来の目標により、どこかの匠に弟子入りしたり、専門学校、大学へと入学したりする。大学への進路は学科試験の勉強も必要になるが、某善位高校は年々学力が上がっていることから、工芸科の生徒も高校を受験する時点で普通科ほどではないにしろ、それなりの学力を備えている。そのため、昨今は工芸科からの芸術系の大学への進学率は上がっている。
「先丁先輩はもう志望校は決まっているんですか」と、尋ねた。
「うん、まあだいたい」と先丁先輩は答えた。
「……三年生は二学期が終わると、もうほとんど学校には来ないんですよね」と塔子は小さく言った。
寂しくなります、というのは言わなかった。
「毎朝早くに起きなくていいのは楽だよね」と先丁先輩は笑って言った。
それから、「忙しいのに手伝ってくれてありがとう。見楢さんが手伝ってくれたおかげで、最後の文化祭にたくさんの人に喜んでもらえる作品を無事出せたよ」と言い、「よかったら、これ」と透明の袋に入った七宝焼きの髪留めをテーブルに出した。
雪の結晶をモチーフにした、表面がきらきらとした髪留めだった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。一年生の時、雪の中歩いていたな、っていうのを思い出して」
「ああ、そうでした」と、さもその時思い出した顔で塔子は言った。
「見楢さん、自分の出展も大変なのに、丁寧に手伝ってくれて本当にありがとう。来年、文化祭見に来るから、頑張って」
そう先丁先輩に言われたとたん、ふっと涙がにじんだ。
「……先丁先輩、これ、もらえません。私、先丁先輩と、先輩と後輩以上になりたくて、あのキーホルダー、ひとつポケットに入れたんです。それでもうひとつをそのまま先丁先輩が持っていれば、そのうちうまくいくかもしれないって考えていました。そんなずるいことして、うまくいくなんてないのに。本当にすみませんでした」
「……そうだったんだ。ごめん。全然気づかなくて。いやー、ひとつだけ残ると勿体ないし、自分で作ったキーホルダー、しかもペアでの縁起物を使うのも恥ずかしいと思って、学部長先生にあげたんだけど、そんな裏事情があったとは……」
冷たく突き離される場面で、先丁先輩は妙に納得したような、感心したような顔と口調だ。
「ああ、だけど、そういう時はちゃんと言ってくれないと。一応ほら、人間関係において、そういう信用って必要でしょう」
先丁先輩は穏やかに言った。
「ちゃんと、『両想いになりたいから、キーホルダーひとつください。もうひとつ先輩が持っていてください』って言うんですか?」
つい、塔子は突っ込む。
「うーん、ケースバイケース? ただまあ、ね、了解なしにっていうのは、僕としてはあまり慣れない。了見が狭いって思うかもしれないけど。それに、キーホルダーを買ってくれた人の中には、今見楢さんが言ったように、両想いになりたいって意思を伝えて、ひとつを誰かに渡したって人もいるかもしれないでしょう」
「……すみません。ごめんなさい。先丁先輩が本当のことを知っても、こうして向かい合って話してくれているだけで感謝するべきなのに、屁理屈言って。ずるくて、勇気もなくて……。本当にすみません」
塔子は何もかも終わった、という思いで下を向いた。
「うん、謝ってくれて、わかってくれたなら、もうその件はいいよ。それで、さっきの話だけど、できれば一回言ってわかってほしかったけど、なんかキャパいっぱいそうだったから、一応言うけど、僕としてはこれで見楢さんと縁を切るとか、そういうことは全く考えていなくてね、さっき言った来年の文化祭来るっていうのも、今でもそのつもりだし、この先を考えて、できれば何か要望があれば言ってくれた方がありがたいと思ったってことなんだけど」
穏やかな声で諭され続けると思って俯いたままだった塔子は、ふっと顔を上げた。
「これから暫く忙しくはなるんだけど、落ち着いたらまた僕としては話したり、一緒に何か作ったりしたいと思うんですけど、見楢さんはどうでしょうか?」
「お願いします」
塔子は即座にそう言い、先丁先輩が贈ってくれた髪留めを両の手で包み込んだ。
「こちらこそ……」
先丁先輩がそう言ったタイミングで、「あの、ご注文どうしますか?」という声で顔を上げると、エプロンをしたこのクラスの店員さんが立っていて、周囲の人たちがさっと目を逸らした。
ああ、全部筒抜けだった、と塔子は我に返った。
7
こうして、両想いになれるキーホルダーを作った当事者二人が付き合うことになった、やはりこのキーホルダーの力は本物だ、という話が、広い校内をあっという間に駆け巡った。この話により、今から来年七宝焼きのキーホルダーをぜひ買いたい、という声が文化祭アンケートに殺到し、先丁先輩はどちらにしろ、翌年塔子の補佐役として某善位高校で作業をすることが事実上決定した。
先丁先輩が受験に向けて三学期はほぼ学校には来ず、そのまま卒業してしまうことを傷心していた塔子だったが、そんな暇はない、ということに気づいた。来年先丁先輩がこの学校に来る時には、先丁先輩までいかなくとも、自身の良さを出せる七宝焼きを準備したいし、個人での出展も手を抜きたくはない。学業も制作の忙しさを言い訳におろそかにしがちだったが、大学への進学を考えている同級生はしっかりと勉強に取り組んでいる。どこまで取り返せるかわからないが、とにかく今できることをできるところまで頑張ろうと思った。
そうして塔子は三年生が使わなくなった分、空いている陶芸棟で日々作品作りに励んだ。
二月の終わりに雪が降った。
いつも土が柔らかくてぬかるむ場所に薄く氷が張り、その上に雪がうっすらと積もる。
ここは気を付けて歩かないと、と避けて歩き、顔を上げると、「久しぶり」と先丁先輩が立っていた。
学ぶこと、成長することに没頭していた塔子が、職員室前に張り出された合格者一覧に、先丁先輩の名前を見つけるのはこの後のことである。そして、名前を知らぬ、野球部の先輩がスポーツ推薦で、バスケのイケメンの先輩が自己推薦入試で、野球部の先輩と付き合っているらしい特別コースの先輩と、バスケ部のイケメンの先輩と付き合っているらしい特待生コースの先輩がそれぞれ、希望の学校とともにその名が記されていることは、その後友達との会話の中でなんとなく、聞いたのだった。