[410]お江戸正座40


タイトル:お江戸正座40
掲載日:2026/04/18

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:40

著者:虹海 美野

あらすじ:
おとせは、陶器店諏訪理田屋の娘で十になる。
同じ年で手習い仲間の乾太郎、力丸、壮太とは、毎日何かしらで競い合って、楽しく過ごしてきた。
だが、最近、おとせは三人が自分に対して手加減するようになり、わざと負けたりするのに気づいていた。
どうにかして、それをやめさせたいと思ったおとせは、かけっこで張り切り、手加減は無用だと証明しようとするが、そこで運悪く、体の大きな男の子五人組とけんかという事態になり……。

本文

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 おとせは陶器店諏訪理田屋の娘で、今年十になった。
 お父ちゃんの実家はそこそこに大きい茶葉を扱う諏訪理田屋である。次男のおとせのお父ちゃんは暖簾分けをしてもらい、今のお店を始めた。お母ちゃんは料理屋の次女で、お父ちゃんとは見合いで一緒になった。おとせには、三つ上に瀬太郎という兄がいて、将来お店を継ぐため、今から周囲の商い仲間と打ち解けられるよう、そうして教養を身に着けるべく、茶や香道の席に父とともに参じている。最近では、その茶や香道の席で知り合った剣術道場の師の勧めで、剣術も始め、呉服店の大旦那に囲碁を教わっている。
 お父ちゃんは、そんな兄、瀬太郎の成長や、日々の挑戦に目を細め、必要なものがあれば、惜しみなく買い与え、謝礼や、付き合いに必要な費用も出している。
 お母ちゃんは、ことあるごとに、そうしたことは当たり前ではなく、うちのお父ちゃんが気持ちよく、そうした出費を受け入れてくれることに、感謝を忘れてはいけません、と言う。
 だから、習い事の謝礼や、交際費にかかる金銭をもらう際には、必ず、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座し、「ありがとうございます」ときちんと礼を言うのが通例である。
 一方のおとせも、手習いに加え、お裁縫とお琴の稽古に通わせてもらっている。お父ちゃんの実家は大きな老舗といわれるお店でも、お父ちゃん自身の店はまだ一代目である。そんなにざくざくお金が入るわけでもないが、お父ちゃんは、おとせがお琴の練習をしていると、「またうまくなったなあ」と、喜んでくれ、お金のことは一切言わない。
 だから、というのではないが、おとせは二つのお稽古事も、手習いも大層真面目に取り組んでいる。


 さて、そんなおとせには、手習いでちょっと気になる競争相手がいる。
 名は乾太郎(かんたろう)といい、年は同じ、近所の干物問屋の長男である。この乾太郎、お母ちゃんの実家は、おとせの家のはす向かいにある干物屋で、乾太郎のお母ちゃんのおすえと、おとせのお母ちゃんのおつぎは、乾太郎やおとせが生まれる前からの友人同士である。
 そうして、この乾太郎と仲のいい壮太(そうた)、力丸(りきまる)も同じ年で、壮太のお母ちゃんはこの近所の味噌屋の娘のおせい、力丸のお母ちゃんもこの近所の酒屋の娘のおりきで、幼い頃より大層仲が良いと聞く。その二人が、乾太郎とべたべたとして、三人いつも一緒というふうで、やたらと騒がしい。
 今日は、算盤の勉強をしていた。
 おとせと乾太郎は、暗黙の了解の如く、互いにどちらが早く算術が導き出せるかを競っていた。
 正式な試合などではもちろんないが、おとせは真剣で、多分、乾太郎もそうであったと思う。
 脇目もふらず、懸命に算盤をはじく。
 隣から聞こえる乾太郎の算盤の音が、早く、そうして決して誤らず、とおとせを駆り立てる。その圧に負けじと、おとせは集中する。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座していると、おとせは一番勉強がしやすい。それは乾太郎も同じなのか、やはり背筋を伸ばして、正座している。
 あと、もう少し、というところだった。
「おとせー!」という呼び声とともに、紙の上に突然何かが投げ込まれた。
 小さな、目の愛くるしい、トカゲであった。
 あら、かわいい……。
 手の平に乗せ、庭に逃がした。
 つい、無事に木の根本へと逃げ込むのを見守った。
 そうして気づけば、やり途中の算盤。
 とうに算盤を終えた乾太郎。
 乾太郎に「やったな」と言う、力丸と壮太。
 おとせはやおら、ふみ机の前に正座し、算盤を再開し……、というところで、「表出なよ!」と叫び、三人を睨んだ。
「おとせが怒った!」と逃げる三人を、おとせはそれぞれ捕まえる。
 力丸の首根っこをつかみ、壮太の帯を捕まえ、乾太郎を目で外へ促す。
 そうして、「勝負ごとは正々堂々としなよ!」と、剣道の素振りの真似をする。最近、兄の瀬太郎が剣術道場に通い始め、朝、素振りの稽古をするようになり、見ているだけでは飽き足らず、たまにおとせも素振りをするようになった。指南を受けているわけではないので、完全な自己流だが、背筋を伸ばし、剣術の構えをし、足を踏み出すと、体が鍛えられる気がするし、お裁縫の稽古で凝った背に心地よい。
「無理無理」
「怖えよ」
「すみませんでした」
 三人はそれぞれに言って、自分のふみ机に戻る。
 先生は、「お前たち、真面目に勉強している者の邪魔をする奴があるか」と、頃合いを見て注意する。
 おとせは、またふみ机に戻り、算盤を再開するのだった。


 おとせの通う手習いでは、ちょうどおとせと同じ年ごろの女の子がいなかった。全くこの近辺に同じ年ごろの女の子がいないというわけではないが、裕福な家の子は、女の子だけの手習いに通うこともあって、どうやらおとせの同年代の女の子は、たまたま、そちらへ行っているようである。
 まあ、三つ、四つ下の女の子の面倒を見ることはあったが、もともとの親しみやすさもあって、おとせは、乾太郎、力丸、壮太と遊ぶことが多かった。
 日によって、鬼ごっことか、かくれんぼとか、かるたとか、遊ぶ内容は違ったが、ここ最近は、乾太郎とおとせが勉強で競うことが多かった。
 そうして、力丸と壮太が、それに茶々を入れる。
 今日の算術の時には、先生がしっかり見張っていたから、力丸と壮太の茶々は入らず、おとせが僅差で算盤は早く正解を出した。
 それをふみ机に向かい見ていた壮太と力丸は、なんとかここで、おとせに一泡吹かせようと目論んでいたようだった。
 そうして、弁当を開けると、やおら、「誰が一番に食べ終わるか」と言い出す。
 弁当を前に、おとせは背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、「いただきます」と手を合わせている時であった。
「やろうぜ」、「やろう、やろう」と、二人は賛同していて、おとせが異議を唱える間もない。
 弁当の包をほどき、蓋を開ける。
 今日のおとせの弁当は煮豆のお菜が入っていた。
 これは勝てない。
 得意顔で、「はじめ!」と壮太が言う。
 それでもおとせは、負けじと懸命に箸を動かす。
 どうにも、勝負事、となると、こんなことでも負けたくない。
 もう力丸と壮太は食べ終わっている。
 先生が、「おいおい、味わって、しっかり噛んで食べなさい」と言うが、「はい」と返すばかりである。
「負けたやつは、ここで一発歌うっていうのはどうだ?」と、壮太が言う。
 周囲の子どもが面白そうだ、とこちらを見ている。
 すると、「おとせ、そのお菜、少し食べてもいいか」と、乾太郎が言った。
 手には、あと一口で食べ終わるおにぎり。
 これを食べてしまえば、乾太郎の上がりでおとせの負けである。
「せっかくの飯の最後の一口に、お菜が欲しい。頼むよ。少しでいいんだ」と、弁当箱の蓋を差し出す。
「え、うん」と、おとせは戸惑いながら、煮豆を分ける。
 乾太郎は、「ああ、甘辛く煮てあってうまいなあ。ありがとう」と、実にゆっくり食べる。
 そうして、おとせが食べ終わって一呼吸置くころに、「ごちそうさまでした」と、弁当箱をからにし、手を合わせた。
 そうして、「俺の負けかあ。何を歌おうか」と立ち上がったのだった。
 わざと負けてくれたのは、さすがにわかる。
 乾太郎は何食わぬ顔で、近所のお年寄りの真似をして、長唄を披露する。お三味線の音まで入れているのが、さすがである。
 そのうまさに、やんややんやと周囲の子どもが手を叩き、先生までもが「うまいなあ」と感心しきりであった。
「もっと歌ってくれよ」と言い出す子が何人もいて、乾太郎もまんざらでもなく、「じゃあ、あと一曲」と歌いだす。
 力丸や壮太が太鼓や笛吹の真似事をして盛り上げる。
 なんというか、楽しくやれている仲間がいると、おとせは思うのであった。そうして、もし、兄の瀬太郎とおとせの生まれた順番が逆で、兄の瀬太郎が乾太郎、力丸、壮太と同じ年で手習い仲間であったなら、もっと絆は強かったのだろうか、とも思った。
 そうすれば、乾太郎はもっと遠慮なく、勝ち負けを楽しめたのでは、と。


 そんなことを思った後だったからだろうか。
 帰りに、誰が一番速いか、とかけっこをしていた時、ついついおとせは張り切った。
 身体を動かすのは好きだし、幼い頃からおとせはお父ちゃん、お母ちゃんに抱っこ、おんぶをせがまず、自分でしっかり歩いたと聞く。
 だからか、走るのも速い方であった。
 ここで一番になって、乾太郎たちに気遣いは不要、と思わせたかった。もっと幼い頃は、三人ともおとせに加減をしなかった。それが、いつからだろう。相撲をやろうと三人の誰も言わなくなったし、お互いにふざけておんぶをしたりというのもなくなった。
 今でも、三人には、思い切り競って、喜んだり、悔しがったりしてほしいと思った。
 その思いが強すぎたか。
 おおい、待てよ、と言う、力丸の声が遠ざかり、ますます距離を広げた時だった、道に転がっていた古い手毬を蹴飛ばしてしまった。
 あ、と思った時には手鞠は空高く上がった。
 その行方を見守っていると、向こうから来たほかの手習いに通っているらしい、おとせよりひとつ、ふたつ上と思われる男の子五人のうちの一人の頭にぽん、と当たった。
 けがに至らぬのはよかったが、ちょっと大人びた、怖そうな子どもの頭にぽん、と柔らかに手毬が当たったのが、滑稽であった。
 周囲の人が笑い、仲間も笑ったが、次第に当てられた子どもは機嫌を損ね、「すみません」と詫びたおとせに、「お前、わざとか」と突っかかった。
「違います。ごめんなさい」
 間近で見ると縦にも横にも大きく、圧のある相手に、おとせは後ろに下がる。
「俺にけんかを売るとはいい度胸だ。買ってやるよ」
 そんなあ……。
 おとせは途方に暮れたが、思い直す。
 ここは、ひと踏ん張りするか……。
 そうだ、三人に遠慮は無用だ、と示す機会かもしれない。
 何事も考えようだ。
 肚を決めた時、「おとせ、どうしたんだ」と、乾太郎、力丸、壮太が走り寄って来た。
「人のけんかに首突っ込むな」と、相手の子どもの仲間が、三人を威嚇する。
 案の定、お坊ちゃん育ちの乾太郎は、うっと、及び腰になる。
 仕方ない、乾太郎抜きで一戦交えるか。
 そのへんに竹刀の代わりになるもの……、あのお店の箒でもかりようかしら……、そう思っていると、「おとせ、早く逃げろ!」という声で振り返れば、力丸が、こちらを見て、頷く。壮太も、「ここは俺らに任せろ」と言う。
「そんなわけにいかないよ」とおとせが言うと、「お前にけがなんかさせられねえ」と、乾太郎が言う。
 どっちかっていうと、問屋の跡取り息子の方が、けがをさせられない気がしないでもなかったが、まあ、けがしていい人がいるわけではなし、もとはと言えば、おとせが撒いた種である。
「もう、誰でもいいからさっさとしろよ」と、相手の子どもたちが、こいつら何やってんだ、というふうに苛立って、両の手を組んで指を鳴らし、距離を詰める。
 これは、どうすべきか……、とおとせは悩む。
「おとせ、早く逃げろ」と再び力丸が言う。
 ほそっこいくせに、勝気で、明らかに不利なけんかを前にも、不適な笑みだけは欠かさない。
「そっちがかかってこないなら、こっちから遠慮なくいくぜ」と、壮太が前ににじり寄る。お母ちゃん大好きっ子なくせに、こういうところで見栄を張るのは、江戸っ子気質か……。
 ああ、ここはみんなの厚意に甘えるべきか、否、それは薄情か……。
「おとせ、早く逃げるんだ!」
 力丸の再三の声に、踵を返すと、そこで、「おとせちゃん?」と、なんともこの場に似つかわしくない、おっとりとした声がした。
「え、」
 見れば、はんなりとした、華奢でかわいらしい、見覚えのある人がいる。
「……おひな、ちゃん?」
 そこにいたのは、従姉妹のおひなであった。
 お父ちゃんの兄、諏訪理田屋本店の娘である。
 お稽古帰りの様子で、隣には、大層豪勢な装いの、それこそお姫様のような、ふっくらとした人が立っていた。
「一体どうしたの?」
 おひなは、心配そうにややかがみ、おとせを見る。
 おとせには姉がいないが、もしいたら、こんな感じなのかも知れない、とふと思った。
 年はおとせより四つくらい上なのだが、こうしてみると、とても大人びて、かわいいというより、近寄りがたい美しい人に思える。
 何やらいい匂いもする。
「おひなちゃん、実は私がうっかり蹴ってぶつけた手毬が原因で、友達がけんかになりそうなの。どうしたらいい?」
 気を張っていたおとせは、おひなを前に急に弱気になり、その手にすがった。
「あら、大変!」と驚くおひなだが、何か案を出してくれる気配はなかった。
「けんか? 私が加勢しましょうか?」
 え、とおひなとおとせは、顔を上げる。
 おひなの隣にいる、お姫様のような人が、満面の笑みで、豪華絢爛な着物の袖をまくり、前へ進み出る。
「おはるちゃん、だめよ、危ないわ」と、おひなが止める。
「何言ってるのよ。私、小さい頃、近所の子たちとのけんかで負けたこと、一度もないの。おまけに、年の離れた兄ちゃんたち二人にも、喧嘩を売っては、取っ組み合いになって慣れっこだし、いろいろとコツもつかんでるしね」
 あっはっは、とおはるちゃん、と呼ばれた、もとい、おはるさんは豪快に笑い、敵対する男の子の間に入った。
「そういうわけで、私も加勢していいかしら? ああ、こっちに来てから喧嘩してないから、久しぶりで腕がなる。手加減はしなくていいの? 最後に喧嘩したのは、年上の体格のいい兄二人。どっちも私が勝ったけど、今日も遠慮なくやっていい?」
 不適に笑うおはるさんは、口ぶりだけでなく、どこか顔つきも変わっていた。肩や首をまわし、下駄を脱ぐ準備をしている。
 そうして、早くも、誰から取り掛かろうか、とでも言うような、鋭い目で、対峙するおとせたちの相手を見ている。
 ……これは。
 世の中には、敵にしたらいけない人、というのがいると聞く。
 多分、おはるさんもその一人だ。
 着物やかんざしは、どう見てもお姫様のような装いだが、そこから今、垣間見せている雰囲気は、けんか慣れした大人のようだ。
「ほら、どうするんだい? 先に言っとくけど、私と一戦交えるなら、けがの覚悟はしておくんだね。まあ、医者に診せる金と薬代の面倒くらいはもってやるけど、あとは自己責任でね」
 えええ?
 これは、お金あります宣言か?
 親切なのか?
 いやいや、お医者さんのお世話になるよっていうことわり?
 おひなを見ると、おひなもちょっと困った顔をしている。
 そうして、一番困惑しているのは、おひなたちと対峙した五人であった。
「薬代、出してくれるって」
「だったら、いいんじゃね?」
「ばか、けがするつもりでけんかするやつがあるか」
「でも、ここいらで、見たことなよ、あの姐さん」
「ただのはったりじゃあないか?」
「あんなはったり、聞いたことねえよ」
「俺ら、そもそもはったりって今日初めて聞いただろ?」
 ごにょごにょと相談を始め、最終的に、「あの、やめときます」と、五人はけんかを回避した。
 あっはっはっはとおはるさんは豪快に笑い、「つまんないね」と言う。
 そうして、「お前さんたち、まだ子どもだからってね、あんまり粋がると、痛い目に遭うこともあるよ。気をつけな」と諭す。
 はい、と言い、退散しようとする五人を、おはるさんは呼び止めた。
「これもせっかくの縁だしね」
 ふう、とおはるさんはそこで息をつくと、まくった袖を直し、にっこりとお上品にほほ笑んで、「みなさん、おなかは空いていません? よろしかったら、うちで休んで行きませんか」と自宅に誘った。
 少しでも早く退散したいらしい五人は、この提案に面くらっていたが、ここで断ったら、おはるさんと一戦交えなければならないのか、と危惧したようで、「はい、お言葉に甘えて」と、びくびくしながら頭を下げた。
「じゃあ、いらっしゃいな」とおはるさんは言う。
「もちろん、おとせちゃんたちもね」
「いいんですか?」と驚くおとせに、「当たり前じゃない。おひなちゃんの従姉妹なら、私の従姉妹も同然。そのお友達もね」と言う。
 でも、一体何人?
 初対面の五人、おとせたち四人、それにおひなちゃん。
 多分、おひなちゃんが来るのは予定に入っていただろう。
 それが総勢十人で突然押しかけてよいのだろうか。
 おとせの家では、いつもの乾太郎、壮太、力丸が来るのは想定内で、お母ちゃんは、何かしらのおやつとか、おなかがすいていれば、おにぎりなんかを出してくれる。それは、乾太郎、壮太、力丸の家でも同じだ。
 だが、十人も来るとなれば、問屋の乾太郎の家なら広い座敷があって、たまにご近所のお爺さんの長唄の発表会なんかにも、座敷を貸していると聞くが、おとせの家ではそうはいかない。
「ねえ、本当にいいの?」と、おとせは心配になっておひなに小声で訊く。
 おひなは、「うん、多分大丈夫なんだと思う。おはるちゃんのおうち、とても広いの」と頷く。
「でも、お土産かなんか買って行かなくていいの?」
 それを聞いたらしいおはるさんが、「そんな心配しなくていいのよ」と、どん、とおとせの背を叩いた。
 厚みのある手は、しっかりとして、頼りがいがあると感じる。
「私が子どもの頃なんか、どこの親も忙しくて、近所で夕餉を食べさせ合ったりなんて、よくあったんだから」
 豪華な装いとは裏腹に、ずいぶんと親しみやすい口ぶりである。
「子どものうちは、そうやって、大人に甘えて、大きくなったら、それを子どもにしていけばいいって、私の周りの大人は教えてくれたのよ」
 ああ、そうなんだ、とおとせは思った。
 確かに、乾太郎、壮太、力丸との家同士ではそうであるが、仮にそこに、新しく仲良くなった子が入ったとて、それぞれの家の親は、同じようにしてくれるだろう。
 このおはるさんという人は、きっと本当の意味で分け隔てなく、たくさんの人に慈しまれてきたのだろう。
「それにね」と、おはるさんが続ける。
「こっちに来て、新しい友達を連れて来ると、お父ちゃんもお母ちゃんも喜ぶのよ」
 それは、おとせにも覚えがあった。
 おとせのお母ちゃんは、「お母ちゃん、実家が料理屋でお客さんが来る家の子なのに、あんまり人と打ち解けるのが得意でなくてね。お父ちゃんと一緒になって、ここへ来ても、なかなかご近所さんと仲良くできなくて、落ち込んでいたんだよ。だけど、力丸や壮太、乾太郎のお母ちゃんたち、……当時はまだ実家にいた娘さんだったけど、みんなとだんだん仲良くなれてね、すごく嬉しかったんだよ。だから、今、おとせがこうして、力丸、壮太、乾太郎と仲良くしているのがお母ちゃんは嬉しいし、お稽古なんかでも仲良くなった子の話なんかが出ると、ああ、お父ちゃんに似て、おとせは人付き合いが上手なんだなって、安心するんだよ」と言っていたのを思い出した。
 さっき聞いたところでは、おはるさんは江戸に来て日が浅いようである。
 やはり、おはるさんのお父ちゃん、お母ちゃんは、こっちで新しい友達ができれば嬉しいのだろう。
 だが、それが私たちでいいのだろうか……。
 おはるさんは、「ここのお饅頭、おいしいから、買って行っていいかしら」と言うと、店に入り、「すみません、ここにあるお饅頭、全部ください」と声をかけた。
 ええ?
 全部?
 ここにいる人数分、十個ではなくて??
「いつもありがとうございます」と、老店主が出てくる。
「こっちこそ。前にお稽古の帰りに食べて、もう、家族みんなに食べさせたくてたくさん買って、ほかのお客さんは大丈夫かしらって心配だったんですけど、全部買ってもいいと言ってもらえて、安心しました。持って帰っても、すぐになくなるんです」
「じゃあ、包みましたら、すぐにお届けます」
「いつもありがとうございます」
 そんなやり取りを慣れた様子でしたおはるさんは店を出ると、「さあ、次はあのお店で羊羹を買いましょう」と、次の店を指さしたのだった。


 おはるさんの家は、お店も大きいが、その奥の家もまさにお屋敷で、大層広く、きらびやかであった。
 大きな色鮮やかな壺が置いてあったりして、恭しく案内された座敷でつい、きょろきょろする。
 それは、おとせだけでなく、ほかの面々も同じであった。
 そこへ、お茶が運ばれてくる。
 きちんとした装いでもない、まだまだ子どものおとせたちにも、上等な湯呑を出してくださる。
 陶器店の娘だから、湯呑の良しあしが、こういうところでわかる。
 ふと気づけば、乾太郎もおひなもきちんと居住まいを正している。
 ああ、そうだ、とおとせは気づく。
 そうして背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘は垂直におろし、脇は閉めるか軽く開く程度、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。こんなに上等なきれいな畳の上で、足袋を履いて来なくてよかったのだろうか、と心配になる。
「おとせちゃんは、こうしてみると、やはり従姉妹だから、おひなちゃんに似ているわね」と、おはるさんがにこやかに話しかけてくれる。
「そうだと、嬉しいけど……」
「おとせちゃんは、いつも乾太郎くん、力丸くん、壮太くんと一緒なんだっけ?」と、ここへ着く前にしっかりと全員の名を覚えたおはるさんが尋ねる。
 おとせは「うん」と頷く。
「だけど、最近、三人が私に気を使ってて、なんだかそれが悩みというか……」とおとせは指先を見つめ、「あの」と、おはるに視線を向ける。
「男の子に負けないくらい、強くなれますか?」
 おはるさんはちょっと目を見開く。
 そうして、ふふっと笑った。
「そうね、女の子だと体が小さいし、力も弱いから不利なところもあると思うけど、そういうのを強みにするっていう方法もあるの」
「例えば?」と、おとせが身を乗り出す。
「助走をつけて、蹴りで攻めるとか、相手の力を利用して、腕を取って、後ろに回して、『参った』って言うまで抑えるとか、距離をつめて足を払ったところから攻撃するとかね」
 ごくり、と唾を飲み込む音がした。
 みれば男子(おのこ)が俯き、冷や汗をかいている。
「まあ、おとせちゃんの場合は、今のままでいいと思うわ。男の子に勝とうと思うのも大事だけど、仲良くするのもいいことよ。仲良くなりたいと思う人に会うこともね。……もう、おとせちゃんの場合は会えているのかしら」
「え?」と、おとせが首を傾げると、「お菓子を持って参りました」と声がかかった。
「待ってました!」と、おはるさんは、目を輝かせた。


 おはるさんが出してくださったのは、饅頭に羊羹、それに家で用意したところてんであった。
 さすが成長期だけあってか、おとせとおひな以外は、全て平らげた。
 おとせとおひなはところてんと羊羹をいただき、饅頭はお土産にどうぞ、と包んでもらった。
 さっきまで、けんかを売ったとかどうとかでもめた五人とは、甘いお菓子をいただいている間に、すっかり打ち解けた。おはるさんの大らかで、お上品なだけでなく、しっかりと肚の据わった性格に引かれたというのも大きいだろう。
 皆、すっかりおはるさんのことを「おはる姐さん」と呼んでいる。
「末っ子なのに、こんなにたくさん弟分ができるなんてね」と、おはるさんは豪快に笑っている。
 おはるさんに圧倒された帰り道、「おひなちゃんてすごいのね」と、おとせは言った。
「どうして?」と、おひなは細い首を傾けて、おとせに訊く。
「だって、あんなにすごいおはるさんの親友なんだもん。あのおはるさんが、心から信頼するって、おひなちゃんがそれだけの人ってことでしょう?」
「信頼、されているかしら?」
「だって、私がおひなちゃんの従姉妹だからこそ、ここまで私の友達にも、初対面の子たちにも、よくしてくれたわけでしょう?」
「うーん、でもおはるちゃんは、もともと、大らかで、誰にでもあんなふうに優しいのよ」
「優しいし、すごい人だって思うけど、おはるさんだって、おひなちゃんと同じで、私よりは年上だけど、まだまだ子どもっていうか、若い娘さんじゃない。きっとね、いろいろ悩んだりすることもあるはずよ。そういうところを人に打ち明ける人かどうかはわからないけど、おひなちゃんと一緒にいるから、あんなにおはるさんは、安心して笑ったり、食べたりできるんじゃないかしら」
「まあ! 考えもしなかったわ」と、おひなちゃんは、おとせをまじまじと見る。
「だけど、そうねえ、おはるちゃんは江戸に出て来てそう長くはないし、友達もいなかったはずだから……。力になれていればいいんだけど」
 そう言いながら、おひなちゃんは、ふふ、と笑う。
 そうして、「あのね、まだまだ内緒なんだけど、おとせちゃんは口が堅そうだから、特別に教えてあげる。さっき、男の子と仲良くなりたいって思うのもいいって、おはるちゃん、言っていたでしょう?」
「うん」とおとせは頷いた。
 なんだか、そう言った時のおはるさんは、堂々とした姐さん、という感じではなく、可憐な雰囲気で可愛らしかった。
「私ね、そのおはるちゃんのお相手、実はなんとなく、わかるの。向こうもおはるちゃんのことが特別みたい。それでね、もしかすると、おはるちゃん、私の義理のお姉さまになって、おとせちゃんとも親戚になるのかも、知れないわよ。ああ、これは、私がそうなったらいいって思っていることだから、絶対内緒ね」
「わかったわ。内緒にする」
 決して口の軽くないおひなちゃんが、内緒と言って話してくれるくらいだ。心の中にずっとずっと留めていたが、そのいつの日に向けた思いを誰かにそっと伝えたかったのだろう。
 世間は広いのか、狭いのか……。
 幼いおとせにはまだよくわからない。
 ただ、今、近くにいて、毎日を一緒にすごく三人をこれからも大切にしよう、と思った。

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