[411]おっぱい育児正座


タイトル:おっぱい育児正座
掲載日:2026/04/22

著者:海道 遠
イラスト:鬼倉 みのり

あらすじ:
 たわみは生後二か月の赤ん坊、小太郎を育てる新米ママ。毎日のようにやってきて「授乳の時も正座しなさい」という義母に辟易(へきえき)している。義母は正座の専門家なのだ。
 生後一か月のお宮参りの時も、神主さんにご無理を言って、ゴザの上で正座させてもらった。実家の母は病気で入院中で、夫の一之助は育児や家事に無関心だ。さて?



本文

当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。

第一章 赤ん坊の小太郎

「ああん、ああ~~ん」
 可愛い泣き声が聞こえてきた。
 台所にいた、たわみは鍋の火を急いで止めて、隣の部屋にあるベビーベッドに駆け寄る。
「はいはい、小太ちゃん、お腹が空いたのね。おっぱいの時間だもんね」
 レモン色の小さなベビー布団をめくって小太郎を抱き上げ、ソファに座っておっぱいを含ませる。小太郎は生後二か月、母乳育児だ。
 初めての妊娠、出産、育児で、毎日、息つくヒマもない。
 夜も三時間おきに授乳があり、授乳がすむとオムツ換えがあり、続けて睡眠時間がとれない。最近、生後二か月になって時間の間隔が少し空いてきた。それでも家事と育児で「戦争」のような毎日である。
 しかも、今や「育パパ」という言葉まであるのに、夫の一之助は、育児にはまったく手を貸さない。それというのも、義母が両親そろっての育児教室に参加は、絶対に認めなかったせいである、と、たわみは思っている。
 男は家事に手を出してはならないという古い考えの義母なのだ。立ち合い出産など、もっての外だった。パパに立ち合い出産してもらう他のプレママ(妊婦)さんを、どれだけ羨ましいと思ったことか。
「あ~~ら、たわみさん!」
 甲高い声に振り向くと、義母が来ていた。
 実家の母が病気で入院しているために、小太郎が生後一か月になるまでは、手伝いに来てもらっていた義母である。
「たわみさん、あれほど授乳の時には正座してって言っておいたでしょう!」
 高飛車な言い方はいつものことだ。
 たわみは慌ててソファから降りて、床に正座して小太郎を抱きなおした。
「ふんふん、それでよろしい。小太郎も飲みやすそうにしているわ」
 いつもキツい言い方をする人ではないのだが、ひとり息子を厳しく育ててきたため、気が強くなったのだろう。育児も自分の思う通りにさせようとする。
 抱き方、寝かせ方、初期の離乳食の与え方などなど。中でも『授乳の時に正座』は、厳しく命令する。
「授乳の時は必ず正座しなさい。それがうちの家訓です」
「家訓……」
(いったいいつの時代の話よっ)
 たわみは不満に思いながら、なかなか反論できない。
 生後一か月の時に行われる「お宮参り」の行事も義母の言うとおりにした。
『ご祈祷の間も、正座して受けるように神主さんにお願いしましょう。小太郎がいつ、おっぱいを欲しがるか分かりませんから』
 お宮参りとは、赤ちゃんが初めて神様にご挨拶する大切な行事だ。おめでたい行事のため、多くはお祖父ちゃんやお祖母ちゃんも招いての大行事となる。各家族が神社で赤ん坊と一緒にご祈祷を受けるのだ。大きな神社は混むので、数家族一緒に椅子に座ってまとめてご祈祷が行われる。
 椅子が用意してあっても、義母は強行にゴザを敷いてでも正座して小太郎を抱っこするよう、お願いしなさいと言う始末だ。
 たわみは、身がすくむ思いで恐縮しながら神職の方にお願いした。結果、たわみ家族だけがゴザの上でご祈祷を受けたが、気の毒に思ったのか、巫女さんたちがゴザの上に真っ赤な毛氈を敷いてくれた。
 夫の一之助は、何も言わないし、この時も実家の母は入院中で来れないままだった。たわみは泣きたくなった。
 せっかく晴れ着を着ているのに、たわみは顔が強張って笑顔が作れなかった。
 友人にメールで尋ねてみたが、
『うちの義母だって同じようなもんよ。でも、お宮参りまで正座するようにとは、ちょっとびっくりねえ』
 と、呆れられる始末だ。
『正座で授乳』については、正解が分からないので、妊娠、出産でお世話になった安々助産院(あんあんじょさんいん)の院長、安子(やすこ)さんに尋ねることにした。
 ちょうど三か月検診の日が来たのだ。

「安々助産院」院長の安子先生は、三十代半ばと若いながら、とても信用できる助産師だ。「母乳育児」に信念を持って取り組んでいらっしゃる。
 評判も良いし、年齢も近く話しやすいので、たわみは妊娠が判った時からお世話になっている。
 安子先生ご自身も、ただいま三人目のお子さんの妊娠八か月の身でありながら、妊産婦さんたちの指導を行っている。
 ガラガラとガラス戸を開けると、十組ほどのお母さんと赤ちゃんたちが畳敷の広間で体操したり、自由に寝転がったり、上の子に絵本を読んだりしていた。
「たわみさん、小太郎くん、いらっしゃい!」
 安子先生が笑顔で迎えた。小太郎の三か月検診の日である。
「小太郎くんはいたって元気ですね。体重も身長も栄養状態も成長の度合いも正常ですよ」
「ありがとうございます」
「正座で授乳」について義母の考え方を話してみた。
 安子先生は少し苦笑いしながら、
「そうねえ、確かに正座で赤ちゃんに母乳を飲ませる姿勢は、お母さんがシャッキリ背すじが伸びるから良いとは思うけど、わりと長い時間だと疲れますからね。そのために授乳クッションがあったり、あぐら授乳や添い寝授乳でもお母さんのやりやすいようにすればいいと思いますけど……」
「そうでしょう、安子先生。授乳クッションまであるのに、義母は自分の時代のやり方が正しいと思っているんです」
「授乳クッションを膝の上、つまり赤ちゃんの身体の下にあてがって正座するのはどうかしら?」
「義母は授乳クッションの存在さえ知りません。正座以外、聞く耳持たない人です。夫の一之助さんに言っても、チンプンカンプンの世界ですし」
 安子先生はため息をついた。
「いちばん困るのは、お母さんとお嫁さんがギクシャクしちゃうことですね。母乳が止まっちゃう場合もありますから」
「母乳が止まる? それは困りますわ」
「困りますね」
「じゃあ、何でも義母の言う通りにしろと?」
「そうすると、たわみさんのストレスが溜まるでしょう」
「あ~~あ、どちらにせよ、母乳が止まってしまいそうですわ」
 たわみはため息をついた。腕の中の小太郎がぐずったので、ゆさゆさとあやした。
「一度、お義母さまにこちらに来ていただいてはどうかしら?」
 安子先生が言った。
「お義母さまとお話してみたいわ。人生の先輩として。正座の先輩として」
「良い考えかもしれません。『小太郎のため』と言って連れだしてみますわ」

第二章 安子先生と義母

 安子先生と義母は初対面である。
 案の定、「小太郎のため」と言って誘い出すと、義母は思ったよりすんなり助産院に一緒に来てくれた。
「いらっしゃいませ。小太郎くんのお祖母さま」
「孫と嫁がお世話になっております」
「今日は、授乳の時に、母親の座り方を『正座』をお勧めになるお義母さまのお話を伺いたいと思いまして、おいでいただきました」
 安子先生はにっこりして出迎えた。
 義母は落ち着いた様子で出された座布団の上に、美しい所作で正座した。背すじを真っすぐに伸ばし床に膝をつき、スカートをお尻の下に敷いてかかとの上に座った。
「さすがにお美しい所作ですこと。お義母さま」
 義母はうなずいて、出されたお茶をひと口飲んだ。
「わたくしは何も、たわみさんが憎くてうるさいことを毎度申しているわけじゃないんですのよ」
「はい、それは承知いたしております」
「一之助は、うちの息子――小太郎の父親のことですけれどね、絶対に正座して授乳しなければ飲んでくれなかったんです。これは大部分の赤ん坊に言えることだと思います。椅子だとグラグラするし、ベッドや布団に添い寝で授乳ですれば、ズルズルずってしまうし。赤ん坊が不安になってしまうでしょう」
「はい」
「授乳は母と子にとって、いちばん大切なこと。信頼しあえる親子の絆を作りあげることができる時間なんですよ」
「はい、おっしゃる通りですわ」
 安子先生は丁寧に相槌(あいづち)を入れた。
「赤ん坊はホッぺを母親の乳房に、ぴったりくっつかせて美味しそうにおっぱいをチュチュチュチュ吸って飲む。母親は命のエキスを与えるように、子どもにおっぱいを与えると天国に昇ったように幸せな気持ちを味わうのですよ。その大切な時間にだらけた格好で飲ませるわけにいきませんわ」
「お義母さまに反論するわけではございませんが……」
 安子先生が、やや遠慮げに言う。
「育児用品は、三年間、間が空くとまったく違うというほど、日進月歩で進歩しております。どうすれば新米ママが赤ちゃんと快適に過ごせるか、研究がなされているのです。でも、赤ちゃんとママの授乳時の幸せ感は、さっきお義母さまがおっしゃった通り、不変のものです」
 義母は大きく頷いた。
「いかに、赤ちゃんとママが快適に授乳できるか、私たちも育児用品メーカーも一生懸命、模索している毎日です。正座ひとすじにお力を入れられるお祖母さまのお気持ちもよく分かりますが、正解はひとつではないということを、お考えいただきたいのです」
「正解はひとつではない――」
 義母は繰り返して言い、黙った。
 その日はそれ以上、話は進まず、義母はたわみたちと帰った。

 しかし、義母が「正座しての」授乳をしっかり薦めることをやめようとはしなかった。
 かといって、たわみを苛めているのではなく、しっかり教え、赤ん坊と母親の絆について熱く語るのは理解できた。
 たわみは義母を尊敬しながらも、戸惑いを隠せない日々が続いた。

第三章 夢の中の小太郎

 小太郎が満五か月になった。丸々太ってよく笑う子だ。
 たわみは、小太郎と笑顔を交わすたび、母親になった喜びを感じていた。離乳食も一日に二回になったが、授乳の量もたくさんだ。
 安子先生から、授乳の量を少し控えるように言われたくらいだ。
 義母は、
「離乳食も充分食べているのなら、母乳も好きなだけ飲ませてあげなさい」
 栄養満点の孫の成長に目を細めている。
 たわみもおとなしく正座での授乳を続けているので、平穏な空気に包まれていた。

 ある日のことだった。
 昼寝しているたわみの夢の中で、小太郎が立ち上がってしっかりしゃべりはじめたのだ。
 たわみは眠りの中でも驚いた。しゃべり方は五歳くらいの子どもだ。
『お祖母ちゃんの心の中に入ってきたよ。パパが生まれる前に、赤ちゃんが生まれたんだって』
 たわみはそんなこと、ひとことも聞いていなかった。
『パパが生まれる前に、赤ちゃん?』
『その赤ちゃんに、添い寝しながらおっぱいを飲ませていて、息ができなくなって天国へ行っちゃったんだって。お祖母ちゃんは、それはそれは悲しんで悲しんで。後悔して後悔して。今度から赤ちゃんが生まれても、絶対に正座しておっぱいをあげようって心に誓ったんだって』
 たわみは驚くばかりだ。
『小太ちゃん、どうしてそんなことが分かるの? それは本当のことなの?』
 そこで目が覚めた。かたわらの小太郎はすやすや眠っている。

 夫の一之助に聞いてみようと思った。
 夕食後にスマホをさわっている一之助に声をかけた。
「ああ、その話。本当のことだよ」
 一之助が呆気なく認めたので、たわみは拍子抜けした。
 どうしてこんな大切なことを、ひと言も言ってくれなかったのか。
「お袋は俺を生む前に月足らずの子を産んだそうだ。添い寝授乳していて亡くしてしまったと、中学を卒業した頃に聞いたよ。とてもとても辛い思いをしたらしい」
「そうだったの。それで、お義母さんは正座の授乳にこだわってるのね」
「どうしてこのことを?」
「夢の中で小太郎が話してくれたのよ」
 たわみがソファの後ろに眼をやると、小太郎はよく眠っている。夢に出てきた小太郎は、どうしてそんなことを知っていたのか、いや、あれはただの夢だったんだろうか?

「俺のアニキに当たる赤ん坊の心と通じあったのかもしれないな」
「まあ……。なんて不思議なこと」
「もしかして、胎内記憶っていうのかもしれないな」
「あら、一之助さん、胎内記憶なんて知ってたの?」
 意外だ。
 胎内記憶とは、赤ん坊が母親の子宮にいた時の記憶で、稀に、4~5歳になった子どもが突然話すと言われている。
 それを聞くと感激する母親がほとんどだ。何せ子宮にいる時の記憶なので、父親はあまり信じない話だ。
 だが一之助は、更に驚くことを言った。
「俺も胎内記憶があったからさ」
「え?」
「お袋のお腹の中にいた時の記憶があるんだ」
「一之助さんが?」
「幼稚園を卒園してから、お袋から聞くより先に胎内で先にお袋の悲しみを知ってしまったんだよ」
「まあ……」

 赤ん坊を亡くした義母の悲しみが心の奥にズシンと迫ってきた。
 そういう経験があったのでは、嫁に厳しく正座をさせようとしても無理はない。一之助にそう言うと、
「いや、だからといって、正座以外の座り方をすべて否定するのは間違ってると思うよ」
「一之助さん!」
 夫が意外に大胆なことを言い出したので、たわみは驚いた。
「実は、君が産後、うかない顔をしているから、安々助産院の安子先生に話を聞きに行ってたんだ」
「やだわ。安子先生ったら、そんなことひと言もおっしゃらないのですもの」
「そりゃ、ボクが口止めしておいたからね」
「あなたが育児に関心持ってくれてるとは、全然、気づかなかったわ」
 嬉しくて、たわみの目に涙があふれた。

第四章 安子先生のお産

 安子先生が臨月を迎え、三人目のお子さんのお産が始まった。
 逆子(さかご=子宮の中で本来の方向と逆向きになっている子)の上、月足らずで難産間違いないということで、安子先生のお母様が駆けつけてきた。お母様も助産師なのだ。
 安子先生のご主人も部屋の外に到着した。
 いつものアシスタントさんふたりと助産師のお母様が分娩室に入った。
 安子先生のいきむ声が部屋の外まで聞こえてくる。
(安子先生、どうか頑張って!)
 部屋の外でたわみは胸のところで手を組んで祈った。自分のお産の時の苦しみがよみがえる。
 陣痛の起こるのが、だんだん間隔がせばまり、ようやく生まれたか――と思われた時、アシスタントのひとりが分娩室を飛び出してきた。
 戻ってきたかと思うと、新生児の頭を吸引する用具を持って飛びこんでいった。
(あの道具で赤ちゃんの頭を吸いつけてひっぱるんだわ。あれが必要ということは、安子先生はよほどの難産なんだわ)
 分娩室でひとしきり、
「先生、頑張って!」
「安子、今よ、息んで!」
 などの声が飛び交い、何時間経っただろう、ようやく弱弱しい新生児の産声(うぶごえ)が聞こえてきた。
(ああ、無事に生まれたんだわ)
 たわみは胸を撫でおろす。出てきたアシスタントは、ご主人に歩み寄ると、
「お父さん、立派な男の子ですよ。ただ、体重が二〇三〇グラムと少なく、心音も微弱なため、新生児入院施設のある病院へ搬送します」
「分かりました。宜しくお願いします」
 ご主人は娘ふたりを抱きしめてしっかり返事をした。
 救急車が来た。小さなベッドに乗せられていく赤ちゃんの姿を、チラリと見ることができた。
(なんて小さいのかしら。小太郎も五か月前は、あんなだったんだわ)
 赤ちゃんと共に衰弱の激しい安子先生も運ばれた。
 ご主人とお母様も病院へ向かったので、たわみは、安子先生のお子さんたちと留守番に残ることにした。
 上のふたりは六歳と三歳なので、たわみは小太郎の世話をしながら、子どもたちのお守にてんやわんやだった。
 夜になって、安子先生と新生児の容態は落ち着いたと病院から連絡が入り、たわみは胸を撫でおろした。
「良かった……。神様、ありがとうございます」

 たわみは小太郎と助産院に泊まらせてもらい、朝を迎えた。
 心底、ほっとした表情で安子先生のお母様が戻ってきた。
「思ったより母子共、早くに体調が安定して安堵しています。安子さんですね。赤ちゃんとお泊りさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いえいえ、お母様こそお疲れ様でした。安子先生にはお世話になってますもの。こんな時くらいお役に立てないと……」
 安子先生のお母様は、たわみの夫、一之助を取り上げた助産師だ。その前の子の悲劇もすべて知っていた。
「お義母さまは、初めのお子さんのことでは、それはもう、生きる力を失くされたくらいに落胆されて。母親というものはそういうものですわね」
「はい……」
「お行儀正座の第一人者で、正座も授乳時に素晴らしい効果があると信じてらっしゃるわ。上のお子さんの悲しみの教訓もあってのことだけれど」
「安子先生のお母様は、一之助さんより先に生まれた赤ちゃんのこともご存知なんですね」
「はい。知っています。あの時、お義母さまがどんなに悲しまれたかも、身近に拝見していました」
「やはり、添い寝授乳は危険なことなんでしょうか?」
「すべてがそうだとは申しませんが、ママさんも睡眠不足で辛い時ですから、うたた寝してしまって赤ちゃんを窒息させてしまう事件はたびたびあります」
「では、やはり正座して授乳した方がいいのでしょうか?」
「どの方法がいいかは、ママさんと赤ちゃんによって違います。たわみさんは、小太郎くんとのいちばん心地いい方法でおっぱいをあげられたらいいと思いますよ」
 安子先生のお母様は、優しく微笑んだ。

第五章 義母の香り

 いつものように、温かい部屋で正座して大きくなった小太郎を膝に乗せて正座して授乳していた。
 小太郎が満腹した。
「はい、もうご馳走さまね」
 たわみが立ち上がろうとした時、足首に感覚が無くなって、ねじってしまった。
「危ないっ」
 たわみの身体を抱きとめたのは、義母だった。
 実母とはまた異なる、優しい香りがした。
「たわみさん、正座からすぐに立ち上がらないで。しびれがおさまるまで待ってからね」
「は、はい」
(しびれには気をつけなくちゃね)
 たわみは反省した。

 勇気を出して、夫より前に生まれた赤ん坊のことを義母に聞いてみようと思った。
「あ、あのう、お義母さんは、正座の――お行儀の――先生なんですってね」
「あら、昔のことですよ」
「私――私――聞いたんです。一之助さんの前の赤ちゃんのこと」
「……」
 義母はしばらく黙ってたわみを見つめていたが、
「あら、誰から?」
「それが、最初は小太郎から」
「小太郎からですって? たわみさん、小太郎はまだ喋れないのよ。どうかしたの?」
「あのう、夢の中です。それから、一之助さんからもお聞きしました。安子先生のお母様からも――」
「……」
「お義母さまが正座して授乳することを熱心に勧められるわけが分かりました」
「たわみさん、私は決してあなたを苦しめようとしていたわけではないんですよ」
「はい、それはもう。二度と過去の悲しみを繰り返してはいけない。お義母さまの思いはよく伝わりましたわ。さっきも、しっかり抱きとめてくださいましたし」
「あなたの義母として当然のことです。一之助の大事な嫁と息子ですからね」
 照れ臭そうに義母は答えた、
 たわみは小太郎をベビーベッドに戻してから、背筋を真っ直ぐにして立ち、膝を床についた。そしてスカートの裾をお尻の下に敷き、かかとの上に座った。それから、膝の上に置いた両手を畳につき、深々と頭を下げた。
「お義母さま、お気遣い、ありがとうございます」
「たわみさん……」
「小太郎は、正座でのおっぱいがとても気に入ってる様子です。これからも宜しくお願いします」
 義母はしっかり頷いた。

第六章 豪雨災害

 義母が訪れていたある夜、義母のスマホに電話がかかってきた。義母は慌てて隣の部屋で電話を受けたと思ったとたん、血相を変えて戻ってきた。
「たわみさん、ご実家のお父様からよ!」
 小太郎を寝かしつけていた、たわみにスマホを渡した。顔色が普通ではない。
「父から?」
 急いでスマホを受け取ったたわみは、
「もしもし、お父さん? どうしたの、私よ」
『おお、たわみ。お母さんの容態が急変した。お医者が今夜が山だと言うんだ。すぐに帰ってこれないか』
「お母さんがっ」
 足から力が抜けそうになるたわみを、一之助ががっしり支えた。
「そんな……。お母さん、もうすぐ退院できるって、この前も電話で元気そうに……」
 義母が、
「実は、産前産後のたわみさんに心配かけてはいけないからって、本当のことを言えずにいたの。お母様のご病気は思ったより重くて、お父様と私は、お母様の病状について、ずっとやり取りしていたのよ」
「お義母さま、そ、そんな……」
 たわみの持つ義母のスマホを一之助が受け取った。
「お義父さん、ご無沙汰してます、一之助です。お義母さんの具合が良くないって、そんなに……」
『一之助くんか。うちのは、もう駄目かもしれん……』
 たわみの父の声が弱弱しい。
「お義父さん、しっかりして下さい。お義母さんはきっと大丈夫です。今すぐ、たわみと小太郎を連れてそちらへ向かいます!」
『頼むぞ、一之助くん!』

 しかし、一日前から、たわみの実家のある東北地方を豪雨が襲っていた。一級河川に架かる鉄橋が浸水してしまった。
 東北新幹線は停止になってしまったとテレビもネットも報じた。
「どうしよう、新幹線も在来線も止まってしまったわ。一刻を争うというのに」
 たわみは肩を震わせた。
 母親の優しい笑顔が思い出される。今、彼女が苦しんでいるというのに。
「車で行こう!」
 一之助が力強く言った。
「道路は今のところ、無事だ。小太郎と三人、車で向かおう!」
「一之助さん!」
「たわみ、小太郎の支度を任せる! 車の旅は大丈夫だな?」
「小太郎は長い車の移動は初めてだけど……」
 少し戸惑う。
 そこへ義母が、
「たわみさん、迷ってるひまは無いわ。ご実家のお母様は、どれだけ小太郎に会える日を楽しみに待っておられたことか。今も具合の良くない中、頑張って待っていらっしゃるのよ」
「は、はい」
 なんと有り難い義母の言葉だろう。
 たわみは小太郎と自分たちの荷物を手早くまとめる。
 こちら関東でも雨足が強い。
 一之助が車庫から車を出して、玄関に着けた。手早く手荷物を車に運びこむ。
「一之助、たわみさんと小太郎を必ず、お母様の元に送り届けるのよ」
 義母が濡れるのもかまわず車の窓を覗きこみ、叫んだ。
「うん、分かったよ、母さん!」

 車窓に叩きつける雨粒が、滝のようになる。ウィンカーが動いても、視界がきかない。
 たわみは小太郎を抱いて後部座席に座りながら、雨を見つめて震えていた。
(お母さん、お母さん、いやよ、私たちを置いて逝ったりしちゃ。お母さん、まだ小太郎に一度も会ってないじゃないの!)
 小太郎は目を覚ませてしまった。ぐずぐず泣きながら、たわみのおっぱいを探している。
 たわみはすぐに与えようとしたが、小太郎はちゃんと飲まずに泣き出した。
「小太ちゃん、いい子ね。はい、飲んで」
「たわみ、いつもの正座で飲ませてみたらどうかな」
 運転席から一之助が言った。
「正座で? そ、そうね」
 たわみが正座に座りなおすと、小太郎も正面から抱きつき、おっぱいを探し当てて口に含んだ。そのまま吸っている。
「ああ、良かった。この姿勢が慣れているのね」
 たわみも一之助もほっとした。

 雨の勢いはますますひどくなる。
 一之助は細心の注意をはらいながら、車の運転を続けた。幸い、川の氾濫がないので、道路の通行止めはないが、時間の問題だろう。それまでに、たわみの実家まで行きつけるかどうか?
 何時間経つだろう。小太郎は疲れて眠ってしまい、雨降りの中にも薄明るさが感じられてきた。時折、窓から見える川はごうごうとした濁流となっている。
 実家まで、後一時間の地点に到着した時、車のすぐ後ろの地点でがけ崩れが起こった。たわみたちは間一髪で逃れることができた。
「ふう……」
 一之助は、ハンドルの上でホッと大きな息をついてから、
「たわみ、何かお腹に入れておいた方がいいぞ」
「大丈夫よ。今、何も食欲はないから。一之助さんこそ」
「俺は大丈夫だ。急ごう」
 車を再発進させた。

第七章 小太郎のちから

 実家近くの病院に着くなり、たわみは小太郎を抱いたまま、中に駆け込んだ。
 ロビーに父親が待っていた。
「お父さん!」
「おお、たわみ。よく来た。小太郎も」
「お母さんはっ」
「頑張っているよ。さ、こちらだ。おいで」
 一之助も追いついて後に続いた。
 父の後について、集中治療室へ行く。
 実母は沢山の機械に囲まれて、ベッドに横たわっていた。呼吸が荒く、目元がしかめられている。
「お母さん、たわみよ。しっかりして。ほら、小太郎を連れてきたわよ」
 お医者に許しを得て、小太郎を母親の傍らに寝かせた。
「お母さん、頑張って。小太郎がすぐ側にいるわよ」
 母親の人差し指を小太郎に握らせた。小太郎は無邪気に指をつかんでおしゃぶりしようとしている。
 雨がようやく上がり、病院の外にも静けさが訪れた。
 たわみは母親の傍らで、小太郎を添い寝させたり抱っこしてあやしたりしながら、長い長い時間を過ごした。

 母親が、ふと動きを見せた。
「あ、お母さん……」
 母親の手が、小太郎の指を握っている。
 苦しそうな表情が薄くなり、うっすらと目を開けた。
 医者が診察し、
「脈拍も血圧も呼吸も落ち着かれたようです。奇跡的ですよ」
 崩れ落ちるように、たわみは一之助に支えられて椅子に腰かけた。
「良かったね、たわみ」
「ええ……、ええ……」
 安堵(あんど)したとたんに、たわみの目から涙があふれた。

 数日が経った。
 たわみの母親の病状はお医者にも信じられないほど回復し、普通の病室に戻り、小太郎を添い寝させることができるようになった。
「お母さん。良かった、本当に良かった」
「きっと小太ちゃんが、元気をくれたのね。苦しい間も、小太ちゃんの小さなお手々がはっきり分かったもの」
 母親はゆっくりとではあるが、しっかり話すこともできる。
 小太郎は、たわみから離乳食のゼリーを食べさせてもらっている。
「たわみ、一之助さんのお父様とお母様に、しっかりお礼を言わなければいけませんよ。小太ちゃんがあなたのお腹にいた時から、頻繁に連絡をくださっていたのよ」
「そうだったの。私ったら、何も知らずに、お義母さんに不満を持っていたわ」
「不満?」
「ええ、育児について。特に授乳方法について、家訓だということで、授乳する時には絶対に正座してくださいって言われたの」
「で? 正座で授乳してみてどうだった?」
「せ……正解だったわよ。小太郎が飲みやすそうだわ」
 照れ臭そうに答える。
「そうでしょう。だって正座の専門家ですものね、お義母様は」
「お母さん、お義母さまを尊敬しているのね」
 実母はコックリ頷いて、小太郎を抱っこする。
 そして目標を語った。
「早くちゃんと元気になって、正座して小太ちゃんを抱っこできるようにならなくちゃね」
 小太郎は、ご機嫌そうに声を出して笑い、病室に温かい空気があふれた。


おすすめ