[419]へのへの座文字・正座陣


タイトル:へのへの座文字・正座陣
掲載日:2023/??/??

著者:海道 遠
イラスト:鬼倉 みのり

あらすじ:
 五歳の女の子るうなは、父親の正座の稽古が厳しくて、ヨシの生えた河原で泣いていると、野うさぎがピョンと跳び出して、ワラで「座」の文字を入れた丸い「正座陣」の模様を地面に描く。うさぎの逃げこんだヨシの茂みから、書生のような着物姿の青年が現れる。正座陣の真ん中でわらべ歌を歌いながら正座をして見せる。
 それから十数年、大人になったるうなは、青年に再会する。



本文

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第一章 セピアの思い出

 五歳になったばかりの女の子、るうな。
 親に叱られて河原で泣いている。
 いたずらしたわけではない。るうなはとても従順で優しい子だ。しかし、父親はしつけに厳しい。
 河原には背の高いヨシの葉が繁っていて、風にざわざわそよぎ始めた。もうじき夕暮れだ。だが、家に帰ればまた父親に正座の稽古をつけられると思うと、帰る勇気が出ない。
 草の上にプリーツスカートごと膝を抱えこんで座っていると、ヨシの隙間から一羽の褐色の野うさぎがピョンと出てきて、るうなの周りをぐるぐる回る。
「遊んでほしいの?」
 うさぎを見ている間に涙が乾いた。
 そのうち、うさぎは一本のヨシの枯れ枝をくわえて地面に丸く模様を描いていくではないか。なんだか分からないが、るうなの読めない字だか印だかを書いた。るうなは、まだやっとひらがなが読み書きできるようになったばかりだ。
「これは何の模様?」
 るうなが尋ねたとたんに、うさぎはヨシの茂みの奥へぴょんと消えた。その辺りから茂みをかき分けて出てきた人影がある。着物を着た若い男の人だ。胸にはさっきの野うさぎを抱いている。るうなは見上げてびっくりした。
「おにいちゃん、誰?」
 青年はそれには答えず、
「さっき、泣いていただろう? どうしたの?」
「父さんに叱られたの。お行儀よく座れないから」
 目を細めて微笑みながら、青年は歌い始めた。

「♪ ぴょんと元気に立ち上がりましょ、
 膝をついて、着物をお尻に敷くのを忘れちゃダメよ、
 かかとの上に座ったら、あらら、
 あっという間にきれいな正座の出来上がり」

「正座だ!」
 家ではあれほど何回もお稽古してできなかった「正座」を、青年が唄いながら簡単にやってしまった。
「ね、簡単だろ? この印の上でやってみて」
 青年はもう一度唄い、るうなが歌詞に合わせて座ってみると、正座ができた。
「きれいに座れてるわ! 正座ができた!」
「な、君もできただろ?」
「この模様の中の字は、なんて読むの?」
「『座』っていう漢字だよ。正座の座。『すわる』とも読むんだ」
「ふうん、おにいちゃんは誰?」
「月兎時(つきとじ)っていうんだ」
「つきとじ……? 変な名前ねえ」
 次の瞬間、青年の気配は消え、ヨシの茂みにうさぎが跳んでいく気配がした。すでに辺りは夕闇に包まれていた。

第二章 再会

「へえ、不思議な体験ねえ」
 友達のあさぎが、堤に座ってアイスを舐めながら感想を言った。
「五歳の時でしょ? いねむりして夢と混同してたとかじゃないの?」
「失礼ね、あさぎ。いくら五歳の時のことでも、夢と現実の区別はつくわよ」
「そうかなあ? るうなはいつも、ぼんやりしてるから」
「ひどいわ、あさぎ」
「今でもそう変わらないじゃないの。るうなが結婚するだなんて、大丈夫かな? と思ってしまうわ。私たち、大学を卒業したばかりなのよ」
 あさぎは会社勤めを始めたばかりで、下ろしたばかりの黒いヒールの靴を持て余して脱いでしまい、座りなおした。
 るうなは、口をとんがらかせ、
「両親がお見合いの話を持ってきて、べつにお断りする理由もない優しそうな人だったから、お受けすることにしたのよ」
「るうなったら、それでいいの? 世の中に出て、何かやりたいことはないの? 昭和四十年になろうとしている今や、社会に進出している女性は多いのよ」
「そう言われても……。特別ないんだもん。それより、今度の日曜がお結納なんだけど、相変わらず正座が苦手だから痺れて失敗しやしないかって。きれいな所作で座れるかどうかの方が心配よ」
 あさぎは肩をすくめた。
「るうなの目下の課題は『正座』なのね。今度の日曜のお結納がうまくいくように祈ってるわ!」
 立ち上がり、堤の上を歩いていくあさぎは、シャキッとしたスーツ姿で凛々しい。
(私にはとても、あさぎのように勇ましく世の中に出て行こうっていう勇気はないな……)
 小さい頃、川辺で見た夕暮れの美しい色の雲が変わらず輝いて、野鳥の群れがねぐらに帰ろうと飛んでいく。

 一面に野草が生えている堤を下りて家に帰ろうとした時、
「♪ ぴょんと元気に立ち上がりましょ、膝をついて着物をお尻に敷くのを忘れちゃダメよ、かかとの上に座ったら、あらら、……」
 聞き覚えのある、わらべ歌のような調べが流れてきた。
(この歌は……)
「おおい、どうした、浮かない顔して」
 河原から声がしたので見下ろしてみると、絣の着物に袴をはいた青年が立っている。
「あなたは……、ええっと、月兎時のおにいさんね?」
「また正座ができないってベソかいているんじゃないかい?」
 五歳の時に、不思議な模様を地面に書いたうさぎの後に現れた青年、月兎時だ。
(やっぱり夢じゃなかったんだわ)
「下りておいで、るうな!」
 喜んで、るうなは河原に下りた。
 青年は棒っきれで、地面にあの時と同じ模様を描いた。
「♪ ぴょんと立ち上がりましょ。……」
 るうなが歌の通りに模様の上で所作をすると、あの時と同じく、スムーズに正座が出来た。しばらくそのままにしていても痺れないし、ぐらぐらしてひっくり返ることもない。
「ちゃんと正座できるじゃないか。しゃんとして姿勢もいい」
 青年が褒めてくれた。
「『座』の字をよく見てごらん。人という文字がふたつ並んで、顔に並んだ目のように見えないかい? 土の部分が口元に。マダレの部分が髪の毛に。笑顔に見えないかい?」
「本当だわ。笑っている顔に見えるわ」
「落ち着いた正座は、人を笑顔にしてくれるんだよ」
 青年自身、『座』の目のようなにっこりした目元をしていて、こちらまで微笑んでしまう。
「これは『正座陣』と言って、この上に乗って所作をすると誰でも正座がきれいにできるんだよ」
「へええ。魔法みたい」
 先ほどまでの憂鬱が消し飛んでしまった。るうなと青年は顔を見合わせてにっこりした。

第三章 急展開

 堤の上から呼ぶ声がして、見上げると母親が叫んでいた。
「るうな、すぐに帰りなさい。大変なことが起きたの!」
「どうしたの?」
 るうなは青年に別れを告げるのもそこそこに堤を昇った。母親はすぐに手を引っぱっていく。振り向くと、月兎時が何か言いたげにるうなを見つめていた。

 母親は帰宅するとすぐに、るうなを座敷に座らせた。眉がつり上がっている。
「縁談のお相手の望月産業が、中東の情勢変化で急な株価の暴落になり、倒産してしまいそうなのよ!」
「ええっ? じゃあ、お結納はどうなるの?」
「中止です。お父さまも、その煽りで会社の損害が最小限に済むように対処しておられますから。こうなったら、縁談そのものが白紙になる可能性が高いわ。望月産業が倒産すれば、繋がる必要はなくなるのですから」
「そ、そんな! ……会社が倒産したら、縁談もなくなるなんて」
「当然です。天塩にかけて育てた大切な娘を嫁がせるのですもの。我が家に利益をもたらせてくれるお家でなければなりません」
 こんなに強い語調の母親を見るのは初めてだ。
 るうなはドキドキする胸を押さえながら、なるべく心を鎮めて言った。
「まるで政略結婚じゃないの」
「元よりそのつもりですよ。あなたには、一生お金に困らないお相手であり、かつ、我が家にも利益をもたらせる方と結婚してもらわないと困ります」
 るうなは握りしめていたハンカチを膝に落とした。
「じゃあ、私の気持ちはどうなるの?」
「望月家の跡継ぎのご子息がそんなに気に入ってたの?」
「いえ、一度お会いしただけだから分からないけど、温かそうな人だなって……」
「その程度ね? 他には心に決めた方がいるわけじゃないでしょう?」
「それはそうだけど」
「もし、いらしたとしても若い日の気の迷いです。女は裕福な人の元に嫁いで守ってもらうのが一番よ。ましてやあなたは、ひとり娘なのだから、家のために結婚相手を選ばなくてはならないの」
(お父さまは厳格に行儀作法や習い事をさせたけど、お母さんまでこんな考えだったなんて……)
 衝撃で言葉がなかった。
 母親は有無を言わせず言い足した。
「今夜はお父さまからの連絡を待って徹夜になるわ。あなたは自分の部屋で休みなさい」

 布団に横になっても、るうなは目が冴えて眠れる心持ちではなかった。
 夜半、母親が廊下で父親と電話で話す声が聞こえてきた。
「やはり、望月産業の倒産は避けられないのですね。はい……、はい。るうなには、しっかり言い聞かせます。大丈夫ですわ。お見合いの際、さほど涼太郎さんのことに思いいれた様子はありませんから」
 るうなのお見合い相手の涼太郎は、望月家の長男で縁談の相手だ。分厚い眼鏡をかけたのんびりした青年だった。企業の跡継ぎには向いてなさそうなタイプだったが、誠実そうであることは、るうなも感じていた。
(あの方も、お家が経営する会社が大変なことになって、心を痛めてらっしゃるに違いないわ)
 そう思うととても眠れず、布団の上に正座して夜明けを待った。夜がしらしらと明け始めると、手早く着替えて出かける支度をした。
 母親に感づかれないうちに、望月家を訪ねようと思ったのだ。

第四章 土下座

 始発電車に乗って、三つ目の駅が望月遼太郎の自宅だ。先日のお見合いは望月家で行われたので、道筋を覚えていた。
 駅前の商店街を抜け、閑静な住宅街を少し歩き、一つ目の角を曲がると望月家が見えるはずだ。
 曲がり角の先を覗くと、望月家の辺りに大勢のものものしい人だかりが見える。
(何だろう、朝早くから……)
 男たちの怒鳴り散らす声が聞こえる。
「投資した金はどうしてくれるんだ!」
「倒産しました、お許しください、ではすまんぞ!」
 るうなは身をすくませた。
(あの人たちは、話に聞く借金の取り立ての人だわ!)
 初めて見る光景に震えてきた。
 しばらくすると、男たちはガレージのシャッターをこぶしで叩きはじめた。
 派手な音と怒鳴り声に、近所の人たちが遠くからそっと様子をうかがっている。
「開けろ、望月!」
「家の中にいるのは分かってるんだ! さっさと出てきて、なんとか返事しろ!」
 やがて――、
 ガレージの脇の小さな勝手口がそっと開かれた。涼太郎が、強張った顔で出てきた。
「あんたが望月社長か。いや、息子だな」
 ひときわ大柄な男が、お腹に響く声で言った。
「息子じゃ話にならん! 社長に出てきてもらおう」
「りょ、りょ、両親は……」
 涼太郎はひたいから汗を滴らせながら、ひと言ずつ声を震わせて、
「ショックで寝込んでしまいました……。代わりに僕がお答えします……」
「なんだと、ショックで寝込んだ? ずいぶん肝の小せえ社長だな。そちらさんに投資した方々から頼まれてるんだ。しっかりした返事をご本人から聞きたい!」
 どうやら、望月の会社に投資した複数の人間が、借金取り立てを依頼したらしい。
「父親も母親も、とても皆さんにご対応できる状態ではございません。どうか僕でお許しください」
 涼太郎は小さな声でやっと言った。
「皆さまからご出資いただきました元手は、必ずやお返しいたします。今日のところは、それだけしかお答えできません」
「なんだと? そんな口約束が通用すると思ってるのか、坊ちゃん!」
「そうおっしゃられても、今はどうにもできかねます……」
 ガシャン!
 男のひとりが、ガレージのシャッターを蹴りつけて、大きな音がした。
「おい! 壊したりすると面倒だ」
「へ、へい、すみません、アニキ」
 若い者を怒鳴りつけた男は、ぐいと涼太郎に迫った。
 涼太郎は、とっさにその場に膝をつき、両手も地面について土下座した。
「どうかどうか、今日のところはお引き取りください……」

「あっ!」
 離れた塀の角から見ていたるうなは、思わず声をもらした。
「涼太郎さんが土下座している地面にあるのは……」
 蛍のような淡い光が発光して、地面に描かれているのは――、
 河原で会った月兎時青年が描いた不思議な模様ではないか。確か『座』という文字が書かれていた。今、涼太郎が土下座しているところは、文字が裏返しになって薄い緑色に発光している。
 涼太郎の顔面にも緑色が反射し、おどろおどろしい顔に見える。
「あの優しそうな涼太郎さんが、怖い表情に見えるわ……」
 借金取り立ての男たちを前にして、歯ぎしりしたいような悔しそうな顔をしている。
(なぜ、涼太郎さんの足元に裏返しの『正座陣』が描かれているの? しかも、正座ではあるけど土下座している……)
 やがて、サイレンの音が遠くから迫ってきた。
 勝手口から顔を出した年配の女性が、威勢よく叫ぶ。
「警察呼んだわよ! ご近所迷惑になるから帰ってくださいな!」
 男たちは舌打ちして去っていった。

 やがて、白いシャツに着物、袴をはいた男がどこからともなく現れて、涼太郎に歩み寄った。
(あれは、もしかして月兎時さん? どうしてここに?)
 るうなはふたりの会話に耳をすませた。
 月兎時は、緑色の明かりに染められた涼太郎を立ち上がらせた。
「立って。あなたは土下座なんてする必要はないですよ。会社が倒産したのは、海外情勢の煽りを受けたからなのでしょう。さ、立ち上がって」
 月兎時が両肩をつかむと、涼太郎はがっくり力が抜けたようで、彼にもたれかかりオイオイ泣き出した。
「もう大丈夫ですよ。『逆の正座陣』は消しましたから」
「『逆の正座陣』?」
「それより、これからお父上の力になって差しあげなくては」
「そ、そうだった! 借金取りが現れてから、なんだかすっかり怯えてしまって……。変な感じだな」
「負の気を発する『逆の正座陣』のせいだったのです。もうあなたは、本来の勇気を取り戻したはずです」
 涼太郎は勝手口に入ろうとし、るうなは思わずふたりに駆け寄った。
「あなたは、るうなさんじゃないですか?」
 涼太郎は驚いて縁談の相手を見た。
 大泣きしていたところを見られたと気づき、慌てて顔面をゴシゴシとぬぐった。
「会社のことをお伺いして、心配でおじゃましました。しばらく大変でしょうけど乗り越えてくださいね」
「ありがとう、るうなさん」
 深くお辞儀して、涼太郎は勝手口に入っていった。

第五章 正座陣の歌

 ♪ 満月満月、
 野原に集まる、うさぎどん。
 地面に描くよ、正座陣。
「座」の字は、にこにこお目々と、
 にっこりお口。あなたのお顔。
 回るよ、回るよ、正座陣。
 きれいに回って満月見上げりゃ、
 幸せ、ぴょんぴょんやってくる。

 子どもたちの元気な歌声が響く。
 住宅街の一角にある幼稚園である。運動場では、地面に「座」の文字を大きく描かれた上で、可愛いエプロンをつけた十五人ほどの園児たちがお遊戯をしている。
「♪ 幸せ ぴょんぴょんやってくる! はい、頭に両手を上げて、うさぎさんのお耳をぴょこぴょこして!」
 スポーツウェア姿で、手拍子を取り、大きな声で園児のお遊戯を指導しているのは、るうなである。
「はい、今日はここまでです。皆さん、お手々を洗って教室へ戻りましょう」
 やがてお遊戯の時間が終わり、園児は皆、手を洗って教室に戻った。
「るうな!」
 幼稚園の門から声をかけたのは、大学時代の友人のあさぎだ。るうなは手を振って応え、もうひとりの教諭に声をかけてから、あさぎに走り寄った。
「あさぎじゃないの。どうしたの?」
「ちょっと、るうなの幼稚園の先生ぶりを見たくて寄っただけ」
「角の喫茶店で待っててくれる? もう少しで終わるから」
「わかったわ」

 喫茶店に入ると、あさぎは奥の席でトレンチコートを脱いで、紺のスーツ姿で待っていた。
「るうなが幼稚園の先生になるとはねえ。一年前はお見合い結婚が決まりそうだったのにね」
「ありがたいことに、大学時代に幼稚園教諭の免状は取れたから」
「同時に一人暮らしまで始めちゃうなんてね。箱入り娘のるうなが。ご両親がよく許してくださったわね」
「まあね。あれから色々と考えたのよ。――あさぎ、あなたも頑張ってるようね」
「……」
 あさぎは曖昧(あいまい)にうなずいてから、
「あれから望月涼太郎さんとはどうなったの?」
 テーブルに置かれたコーヒーをひと口すすってから尋ねた。
「縁談がなくなってから、全然お会いしていないわ。倒産した会社の後始末に大変な一年だったことでしょうね」
「そう……」
「――あさぎ、何か悩みがあるんじゃないの? 顔色があまり良くないわ。もしかして恋の悩みとか」
 あさぎはコーヒーを吹きそうになった。
「そ、そんなわけないでしょう!」
「じゃあ、今日は私に何か?」
「うん……、あなたに正座を教えてもらおうかなって」
 今度は、るうながコーヒーを吹きそうになる番だった。社会進出の夢ばかり語っていた、あさぎの言葉とは思えない。
「どういう風の吹き回し? 行儀作法なんて、あなたが一番、興味のないジャンルでしょう」
「ちょっとね……、静かに考え事がしたいの。今の職場にこのまま勤め続けていいのかどうか。正座すればゆっくり考えられそうに思って」
 あさぎは窓の外へ視線を向けて、紅葉の始まりかけた街路樹を眺めた。通行人が足早に歩いていく。
「私の方は空いている時間なら、いつでも」
 るうなは答えてから、
「そうだ、幼稚園のお遊戯の中でも正座を教えているの。一度、見に来ない? もうすぐ発表会があるから、練習はりきってるのよ」
「さっき子どもたちに教えていたお遊戯ね。正座陣とかいう」
「そう。正座陣の上でお稽古すると、誰でもきれいな正座ができるようになるの」
 るうなは瞳を輝かせた。
「あなたが子どもの頃、ナゾの和装青年から教えてもらった正座陣のことね?」
「覚えていたのね。そうそう、月兎時さんは不思議なことに、あの時の姿のまま現れて、私たちに正座を教えてくれるの」
「あの時の姿のまま?」
 あさぎは、るうなを真正面から見据えて、手のひらをるうなのオデコにあてた。
「熱は無いようね。……るうな、大丈夫?」
「熱なんか無いわ。夢でもない。お遊戯の練習、来てみて。月兎時さんも気まぐれに現れるから」
 あさぎは、いまひとつ気乗りしない様子だったが、
「そのうち行くわ」
 と、ぶっきらぼうに返事した。

第六章 発表会

 幼稚園の発表会が目の前に迫っていたが、インフルエンザが流行りはじめ、付近の小学校や幼稚園、保育園では学級閉鎖などが次々に発表された。るうなの幼稚園でも「手洗い、うがいをしましょう」の指導が行われ、保護者の方々へも通知が送られた。
 幼稚園の職員会議では、発表会の実行日を遅らせるかどうかが議論されたが、結局、元の予定日に行われることになった。

 あさぎはあれきり幼稚園に来ることはなかったが、るうなは自分の両親を招待してある。
 両親はずっと、るうなの独立や仕事に反対していたが、幼稚園教諭として、頑張っているところを見てもらいたかったからだ。

 発表会前日、るうなは朝早くから登園して、園庭の真ん中に直径十メートルほどの「正座陣」の「座」の文字を丁寧に、カラフルなテープを貼り付けて描いた。床材はテニスやフットサルに使われる床材が使われている柔らかい質のものだ。
 発表会は小太鼓や笛を演奏する園児のマーチで始まり、秋空の下、保護者たちは園庭にレジャーシートを敷き、お弁当を持ち寄って、子どもたちの演技の順番を待っている。
 昨日まで指導に来ていた月兎時は、まだ現れない。
(どうしたのかな? 本番なのに)
 さて、いよいよ、るうなの受け持ちクラスのお遊戯の順番が来て、アナウンスの声が響いた。
『次は、るうな先生のクラス、お月さま組の【正座のお遊戯】です!』
 お遊戯を始める前に、園児十五人がきれいに正座陣の周りに並んで、

♪ ぴょんと元気に立ち上がりましょ、
 膝をついて、
 着物をお尻に敷くのを忘れちゃダメよ、
 かかとの上に座ったら……、

 歌に合わせて正座してお辞儀した。見物の保護者席から拍手が起こった。
「まあ、なんて可愛い正座でしょう」
「お膝とお手々をそろえてねえ」
 お遊戯が始まった。皆、頭に画用紙で作ったうさぎの耳を着けて、跳びはじめる。るうなはタンバリンでリズムをとる。

 ♪ 満月満月、 
 野原に集まる、うさぎどん。
 地面に描くよ、正座陣……。

「うちの子も一生懸命に跳ねてるわ」
「先生のご指導のとおり、可愛いこと」
 応援に来た保護者たちも微笑んで見守っている。

 ところが――、
 急に空に暗い雲が広がり、雷が鳴りはじめた。
 教師たちの判断でお遊戯は中止されることになり、るうなはスピーカーで叫んだ。
「皆さん、雷が鳴りだしたので、お遊戯はしばらく中止して教室に入ります!」
 とっさに鋭い稲光がひらめく。
「きゃ~~~~!」
「皆さん、地面に伏せて!」
 園児らは、るうなのかけ声に地面に伏せた。
 バリバリバリ―――!
 正座陣の真ん中に青白い光が刺さった。落雷だ。るうなや園児たちは衝撃でなぎ倒され、気を失った。
 教師たちや保護者たちも、逃げまどったり倒れている我が子に駆け寄ったりして、大騒ぎになった。
 保護者のひとりが「正座陣」の「座」の文字が逆の裏文字になっていることに気づき、叫ぶ。
 ちょうど来合わせた、あさぎもそれを目撃した。
(どうして「座」の文字が逆に?)
 るうなは意識を取り戻して、周りに倒れている園児たちを揺り起こした。
「ツバサくん、エマちゃん、しっかりして!」
 他の教諭たちと担架に乗せたり、おんぶしたりして屋内に運ぶ。
 その中には子どもを運ぶのを手伝う、あさぎの姿もあった。

第七章 豪雨の中で

 どっと激しい雨が降り出した。
 人々が散っていった園庭に現れたのは、絣の着物に袴すがたの青年、月兎時ではないか。
 彼はずぶ濡れになりながらも、ゆっくり歩いて来て「逆の正座陣」の中央に背すじを正して立ち、手を添えて袴をお尻の下に敷いて、かかとの上に座った。堂々とした所作である。
 天を仰ぎ、顔面に降りそそぐ雨にはかまわず、両手を合わせる。
「天の座神(ざしん)よ、罪なき幼き子らの目を覚まさせ、健やかな姿を返してやってください」
 教室の窓から月兎時の姿を発見したるうなは、園庭に飛び出した。
「月兎時さん! 私も祈らせてください!」
 素早く所作をこなし、彼の隣りに正座して同じように祈る。
 雨の勢いは止まらない。

 ――どのくらい、雨の中で正座していたのか――。
 教室の窓から、ひとりの教師が叫んだ。
「るうな先生、園児たちの意識が戻りはじめましたよ!」
 振り向くと、数人の園児が窓から手を振っている。
「るうな先生、ボクたち、目がさめたよ。後、目が覚めないのは、しおんくんと由羽奈ちゃんだけ!」
「そんなに雨の中に座っていたら、風邪ひいちゃうよ!」
「雷は遠くへ行ってしまったよ!」
「あっ、しおんくんと由羽奈ちゃんも目が覚めたよ!」
 ケロリとして呼びかけてくる。
「ああ……、良かった」
 るうなは、改めて天にひれ伏した。
「ありがとうございます。子どもたちを救ってくださって……」
 やがて雨雲は去り、青空がよみがえりつつあった。吸いこまれそうな濃い蒼い空が徐々に広がってくる。
 足元の「逆の正座陣」が、普通の「座」の文字の正座陣になっている。るうなは横にいる月兎時に告げようとして、彼が忽然と消えていることに気がついた。
「月兎時さん――?」
(お礼を言おうと思ったのに……)
 見上げた深い深い青空の真ん中に、ぽつんと白い月が浮かんでいる。るうなの耳に、月兎時の優しい声が届いてきた。
(子どもたち、気がついて良かった。落雷は「逆の正座陣」が引き寄せたのだ。「逆」は人々の心が荒れたり淀んだりしている時に現れる)
(インフルエンザが流行し、皆が心配している中でお遊戯が行われたせいで、「負の気」が満ちてしまったのだろう)
 るうなは白い清らかな月を見上げた。
(そうだったのね。そういえば、以前の望月涼太郎さんの一件の時も、皆の心が荒れて不安の中にいたわ)

「るうな~~!」
 園の外に留まった車から、急いで降りてきた二人連れは、両親ではないか。
「この娘ったら、こんなに濡れて!」
 母親は大判のタオルを広げて、るうなの頭から背中をすっぽり包んだ。
「危ないじゃないの、激しい雷が鳴ってたのに」
「しかし、幼稚園児さんたちを真っ先に教室に避難させなければならなかったんだから仕方ないよ。母さん」
 父親も心配な顔をして、母親がタオルで雨のしずくをふき取る様子を見守っている。
「安心して。私の受け持ちクラスの園児さんたちは全員、無事よ。念のため、お医者様に診ていただきます」
「それは良かったわ。るうな、自分のことももっと大切にしなさい。土砂降りの中で何をしていたの?」
「母さんや、まあいいじゃないか。園児さんたちも、るうなも無事だったんだから、発表会は中止されてもケガ人のないのが一番だ。るうなは思ったよりも、しっかりやっているようだ」
 ホッとしたのか父親はいつもより穏やかだ。
「ふたりとも発表会、観に来てくれたのね」
「心配だったからよ。あなたみたいな温室育ちが、幼稚園の先生になるなんて言い出して。以来、一度も家に帰らないから」
「おかげさまで、なんとかやってるわ」
「この娘ったら……。もう、会社のために有利な縁談なんて勧めないわ。あなたが元気でいてくれたら、それでいい」
 母親は、るうなの肩に顔をうずめた。
 るうなの耳に、再び月兎時の声が響いた。
(いつも見守っているからな。昼も、夜も――)
(月兎時さん、あなたはいったい――?)
(「正座陣の番人」とでも呼んでくれ)

 小春日和のある日、るうなは実家の自分の部屋にあさぎを招いて小紋の着付けをしていた。
「べつに着物まで着なくても……。正座のお稽古だけで」
「気分が上がるでしょう、はい、出来上がり!」
 あさぎの帯を締め終わると、るうなは畳に膝をついて人差し指を動かし始めた。
「何してるの?」
「へ、の、へ、の、座、と……。丸で囲んで、はい、正座陣が描けました」
「月兎時さんのおまじないの正座陣ね」
「そうよ、ふたりとも、上手に正座の所作ができますように」
 るうなも小紋の膝をそろえて座った。
「じゃあ、お先に私から」
 秋の陽射しが部屋の中ほどまで射しこんで、庭にはコスモスや菊の花が咲き、空気が澄んでいる。
 背すじを真っ直ぐに立ち上がり、青空に目をやると白い月が見え、月兎時の声がよみがえる。
(いつも見守っているからな。昼も、夜も――)
「るうなはいいわね、五歳の時から、いつも見守ってくれる人がいて」
 あさぎが、からかうように微笑んだ。
「何よ……」
「いいじゃない、照れなくても。月兎時さんのことを思い出していたんでしょう」
「さあさ、正座のお稽古しましょう」
「そうね。私も正座で心を穏やかにして、今後のことをしっかり考えることにするわ」
 あさぎも頭を上げて背すじを真っ直ぐにした。

 ♪ ぴょんと元気に立ち上がりましょ、
 膝をついて、
 着物をお尻に敷くのを忘れちゃダメよ、
 かかとの上に座ったら、
 あらら、あっという間に
 きれいな正座の出来上がり。

 美しい所作で正座できたあさぎが、ふと言う。
「月兎時さんって、るうなが五歳の時の青年の姿のままなんでしょう。じゃあ、この先、熟女世代になってもお婆ちゃんになっても、彼は青年のままなのかしら?」
「え? あさぎったら……」
 るうなは目を丸くしてから、吹き出した。


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