[422]お江戸正座43


タイトル:お江戸正座43
掲載日:2026/07/29

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:43

著者:虹海 美野

あらすじ:
諏訪理田屋五男の文五郎とおゆうの出会いを、おゆう目線から描いた物語。
おゆうは茶葉を扱う店の長女で跡取り娘。
いずれ誰かと見合いで一緒になる予定だったが、思いがけず、遠縁に当たる文五郎と出会い、一緒になる。
婿入りしてくれた文五郎が家で居心地よくいられるよう、おゆうなりに奮闘するが、最近、朝寝坊してしまったり、妹とけんかして文五郎が取りなしたりと、理想とはかけ離れた生活で、おゆうは自己嫌悪に陥るが……。

本文

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1

 おゆうの家は茶葉を売る店を商っている。もともとは、先々代あたりが、諏訪理田屋という茶葉を扱う本店で番頭を務めた後に、暖簾分けをしてもらい、今のお店を構えたと聞いている。その諏訪理田屋も現在は、長男が本店を継ぎ、次男が陶器を扱う諏訪理田屋を開き、三男が茶葉を扱う諏訪理田屋二号店を出しており、安泰の様子である。
 そうして、おゆうは、そこの五男の文五郎さんと、たまたま茶屋で出会ったのが縁で、文五郎さんが婿養子に入り、一緒になった。
 おゆうの家はおゆうを筆頭に三姉妹だから、いずれおゆうが誰かしらと見合いして、店を継ぐことになっていたから、その本店の息子である文五郎さんと出会い、恋仲になったとなれば、家としては、瓢箪から駒、とでもいうような、思ってもみない良縁であった。
 まさにとんとん拍子に話が進み、一切の障壁なく、おゆうは文五郎さんと一緒になれた。
 あまりにも出来すぎている気がしないでもないが、まあ、意外と世間とはそういうものなのかも知れない。
 しかし、文五郎さんとの出会いは、おゆうの稽古先がたまたま少し遠くなったのと、その日だけ、店をちょっと抜け出して息抜きをしに来た文五郎さんとが同じ茶屋で出会った、というのだから、ほんの少しの行き違いがあれば、二人の出会いは成立しなかったはずである。
 そう考えると、おゆうは、運とか、さだめとか、そういうものに感謝せずにはいられない。
 膳を前にした時にも、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇はしめるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘は垂直におろし、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにする。
 ああ、今日もありがとうございます。
 おゆうに、両親、おゆうの妹ふたりとともに、文五郎さんも膳を前にする。
 他人ばかりの家に入るというのは、さぞかし窮屈ではなかろうか、とおゆうは時折心配になる。
 お父ちゃんがそれほど面白くもないことを言う時に文五郎さんが笑うと、申し訳ない気がする。
 妹たちも、「お父ちゃん、文五郎さんに気を遣わせて」と言ってくれる。
 だが、息子のできたお父ちゃんは嬉しくて仕方がないようだ。
 一方の文五郎さんは、「とんでもないです。こんなによくしていただいて」と朗らかに笑うばかりだ。
 それを見て、お母ちゃんは目を細め、「本当にできた方で」と言う。
「家では、もう、兄に使われて、ちょっと休もうものなら、すぐに呼ばれましたから」と、文五郎さんはあっけらかんと笑う。
「そりゃあ、諏訪理田屋本店ともなりゃあ、忙しいだろう」とお父ちゃんが言う。
「そんなことありませんよ。私ら弟が家を出ても、滞りなくやっているようですからね」と返す文五郎さんに、「さすがは、諏訪理田屋本店だ。お商売に抜かりがねえ」と、お父ちゃんが更に感心する。
 そんな様子をおゆうはいつも見ている。
 家族が揃った席で、おゆうは、わざわざ文五郎さんと家族との会話に入らぬ。
 文五郎さんと話すのは、二人の時の方がいい。
 何せ、おゆうは文五郎さんにぞっこんである。

2

 文五郎さんは、初めて会った時から特別であった。
 なんとなく、疲れて入った茶屋で、おゆうはおいしい茶を期待していた。ところが、思ったようなうまい茶ではなかった。余計に疲れたというか、がっかりというか、それ以上に腹が立って、つい、店主に少々強い言い方をしてしまった。その後で我に返り、どうしよう、と思ったところ、場を収めてくれたのが、文五郎さんだった。その上、文五郎さんは自宅におゆうを招き、そこで茶を淹れてくれた。
 人間もできていて、茶を淹れる所作ひとつひとつに品がある。
 そうして、お商売で忙しいだろうに、手がきれいなのと、お顔が役者のようにきれいなのがよかった。
 おまけに運よく、文五郎さんの家は、おゆうの家とつながりがあり、しかも文五郎さんとおゆうには直接的な血縁はない。
 まさに、諸手を挙げての出会いであった。
 文五郎さんは諏訪理田屋の息子であった頃から大層お優しい方で、時折お忙しい家のお商売を抜け出しては、おゆうの元へ来てくれ、そこでおゆうはお三味線なんかを披露した。それまでお三味線のお稽古を欠かさなかったが、それも文五郎さんに披露する日のためだったと思えば、たやすいことに思えた。
 きっと、お三味線の演奏なんて、文五郎さんはあちこちで聞いているだろうに、いつもおゆうのお三味線を褒めてくれた。
「ああ、ここでおゆうさんのお三味線を聞くと、疲れが全て消えます」
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇はしめるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘を垂直におろし、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬようにきれいに正座した文五郎さんは、そう言って、笑ってくれる。
 この人を大切にしなければ、とおゆうは思う。
 だが……。
 ここのところ、どうにもそれがうまくゆかぬ。

3

 朝、起きられなかった。
 祝言を挙げた後も実家暮らしで、それまでとさして変わらぬ生活を送っているおゆうだが、文五郎さんのため、朝は早く起き、女中の働く土間で、お母ちゃんと一緒に料理をしていた。
 文五郎さんの好きなものや味付けは、祝言前になんとなくわかっていた。
 文五郎さんは濃い味に執着がなく、どちらかといえば、出汁をしっかりととった、優しい味付けが好きである。そういうちょっとしたことを、おゆうはお母ちゃんや女中に言い、文五郎さん好みの膳を用意していた。文五郎さんは膳の料理の味が自身にとって染まぬものであっても、文句を言う人ではない。だからこそ、おゆうは、そうしたところで文五郎さんを大事にしたい、と思っている。
 ところが、昨日、今日、続けて起きられなかった。
 一昨日はどうにかこうにか起きたが、思うように体が動かない。
 どうにか味付けだけ調整したが、どうにもいつもの味覚が冴えない。
 昨日の夜も、朝寝過ごしたのに、やたらと体が重く感じられ、一刻も早く床に入りたかった。
 文五郎さんとは、この前貸本屋が持って来た本を順に読んだところで、その話をしようと楽しみにしていたのに、その前に眠ってしまった。自覚はないが、いびきをかいていたらしい。
 廊下を通った妹に指摘された。
「人の部屋の前で聞き耳を立てるって、ずいぶん品のないことをするじゃあないの」と、ついきつい言い方をして、妹も「何よ、旦那さまの隣でいびきをかいて寝ている方もどうかと思うけど」と言い返し、いい年をした娘二人が、「何よ」、「そっちこそ」、「だいたいお姉ちゃんが」、「そういうあんたが」と言い合ううちに、どちらともなく手が出て、ちょっとしたつかみ合いのけんかになってしまった。最後の一発を、自分で終わらせたいという変なこだわりが、なかなか互いを引き離せぬ。
 普段、座敷では、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇はしめるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、肘は垂直におろし、手は太ももの付け根と膝の間で両方の指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように、と正座や行儀についてしつけられてきた家の娘同士でも、遠慮がない間柄だから、こういう時には、相手が引くまで、己は引かぬ。もともと、気の強い性分同士であるのもよくないのだろうか……。
 ここのところ、なんだか体は重い、と感じながら、こういう時の力は出るのだから、なんとも言えない。
 情けないことに、それをとりなしてくれたのは、文五郎さんだった。
 間に入り、「ほらほら、けがをしてはいけないよ」と、穏やかに言う。
「どうしたんだい。二人とも」とからりと笑い、「だって」とおゆうが妹のことを言いつけ、妹も負けじと、「お姉ちゃんがいびきをかいてたって、本当のことを言っただけじゃない」と言えば、「それは私のいびきだったかもしれませんよ。いやあ、ここの家は静かだし、布団はふかふかだし、ごはんはおいしいし、本当に居心地がよくてねえ。……みなさんがそれで寝られないなんてことはありませんでした?」と照れ笑いし、「あれはお姉ちゃんだって。絶対文五郎さんじゃないわよ」と妹は食い下がれば、「おゆうのいびきなら、いつでも聞きたいもんですよ。今度起きて待ってみましょうか」と続ける。要するに、おゆうのいびきで文五郎は眠りを妨げられなかった、気にならなかった、とここでさりげなく、おゆうに伝えてくれるわけである。
「もう、お義兄さんは、お姉ちゃんに甘すぎるのよ! この人、どんどん図に乗るんだから!」
「もっと乗って構いませんよ。おゆうは本当にかわらしい」と、文五郎さんは恥ずかしげもなく言う。
「ああ、もう、知らないからね」と、妹は怒りながらも、実のところは、姉を大事にする義兄に感謝しているのが透けて見えるから、平和なもんである。
 だが、ああ。やってしまった……、とおゆうは恥じ入る。
 そうして、それだけではない。
「お母ちゃん、だから、お漬物は、こんなに塩辛く漬けないでって言ってるじゃない」と、朝餉の場で、お母ちゃんを責めてしまった。
 さすがにお父ちゃんが、「おゆう、その言い方はなんだ。今朝もお前、寝坊して起きてこないで、朝餉の時にようやく出て来たってえのに」と注意し、おゆうは「だって」と俯く。
 これは、文五郎さんの好きな味じゃないのに……。
 でも、この家で文五郎さんはそんなことは言わない。
 だから私が……。
 そう思っているのに、どうにも最近、体が言うことを聞いてくれない気がするのだった。

4

 そっと布団をかける、その気配で、おゆうははっと目を覚ました。
 起きていようと思ったのに、いつの間にか寝ていた。
「ごめんなさい」と、起きると、「そのまま寝ていればいいだろう」と文五郎さんが言う。
「そういうわけには……」
「どういうわけだい?」と文五郎さんが訊く。
「だって、文五郎さんがうちに入ってお商売を頑張ってくださっているのに、朝も起きられず、夜も先に寝るでは、何もしていないじゃあありませんか」
「しているよ? おゆうがいるだけで、これだけ嬉しいんだ。おゆうが寝て、食べて、もう、それで私としては十分だ」
 なんとまあ、妻に甘い人だ……。
「それに、おゆう、最近、少し疲れているんじゃないか? 明日もゆっくり休んだらどうだ? なんなら、朝餉は私がここまで持って来るから」
 この人は、本気でそう言っている。
 そうしてそれは多分、一緒になって一年、二年のことじゃあない。
 きっと、ずっと、ずっとそうしてくれるのだろう。
 すん、と鼻の奥が痛くなる。
 おゆうは、三姉妹の長女で育った。
 最初の子だから、着物なんかも親が気張っていいものを仕立ててくれたし、いつも新しいものに袖を通した。
 だけど、そうした恩恵を受ける身には、それ相応の役割があるもので、ことあるごとに、「お前はこの家を継ぐ娘だから」と言われた。だから、誰かを好きになるとしたら、お商売をしている家の子でも、跡継ぎはだめなんだろうな、と子ども心に思っていた。まあ、幸か不幸か、そういう出会いで、思い悩む機会もなかったが……。
 ちょっとでも行儀が悪ければ、殊におゆうは叱られた。
「この家を継ぐ娘がそれでどうするんだ。お得意さんとの付き合いは、お内儀の大事な仕事だ」とも言われた。
 周囲で、男兄弟がいる家の娘、特に末子で初めての娘の場合は、猫かわいがりされている子が多く、おゆうにはそれが少し羨ましかった。
 絶対に自分には叶わないことだろうと思っていた。
 それが、思いがけず、文五郎さんと一緒になれ、今生活を共にする中で、文五郎さんは、実におゆうに甘い。
 それにどう応じたものやら、と思うが、文五郎さんは一向におゆうの態度を気にしない。おゆうがもじもじしていようが、なんとなく黙って俯こうが、いつもにこにことしている。
 こんな人がいるんだ、とゆめゆめ思いもしなかった。
「疲れているわけではないのです。ただ、なんとなく、いつものような調子にいかなくて……」
「そうか、あまり続くようなら、医者に行った方がいいかも知れないな」と文五郎さんは、神妙な顔で頷き、「とにかく、早く寝よう」と、おゆうを促す。
 ああ、いけない。
 文五郎さんが疲れているのに……。
 早く文五郎さんを休ませたい、と思いながら、つい、おゆうは「あの、うちに来て、毎日疲れませんか? 本当は文五郎さんが休みたいのではありませんか」と尋ねた。
「休みとは? 今、こうしてゆっくりしているではないか」
 文五郎さんは、不思議そうにそう訊く。
「でも、ご実家で育ったのに、いきなりよその家へ婿入りしたんですよ? うちの家族にも、気を遣っているでしょうし……」
 おずおずと、おゆうは言った。
「本当は、ご実家が恋しいのではないですか?」
 これで『その通りだ。実家へ戻る』と言われたら、困るのはおゆうだ。
 本当は、ずっと、それを訊きたくて、訊けなかった。
 おゆうは自然と布団の上で背筋を伸ばし、夜着を尻の下に敷き、脇はしめるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座していた。
「実家?」と、文五郎さんは、間の抜けた声を出した。
「ああ、実家、ねえ……」
 うーん、と、のんびりと天井なんかを眺めている。
「まあ、あの家は兄ちゃんが継いで、任せているし、文二郎兄ちゃんも文三兄ちゃんも、文史郎兄ちゃんも、ああ、あと、文左衛門も家を出ているからねえ。もう、私の家ではそもそもないしねえ。文六ももうじき祝言だっていうし」
「……いや、あの、誰の家とか、そういうことではなくて」
 どういうことだ? というふうに文五郎さんは首をまた傾げる。
「私の生まれた家ではあるけどねえ……。何せ、男七人育った家だから、騒々しくってねえ。それも悪くはないし、楽しくもあったけど。会おうと思えば、すぐに会えるし、そんなに会いたいとも思ってもいないしねえ」
「はあ……」
「どうしたんだ? 急に」
「……急ではありません。文五郎さんは、本当にこれでよかったのか、と」
 おゆうは俯いた。
 そのおゆうを覗き込むように、文五郎さんが長身の身をかがめる。
「当たり前じゃあないか。こんなにかわいいおゆうと毎日一緒にいていいんだ。祝言までは、時間を見つけて通っては、また帰ってで世話しなくてねえ」
「文五郎さんは、今、幸せですか?」
 文五郎さんが、じっとおゆうの目を見ている。
「私が幸せに見えぬか?」
 おゆうは首を横に振った。
 そうして、なんだかじわじわと心が熱くなって、涙が出てきた。
「……なんだ、なんだ、泣くことはなかろう」
 うっ、うっ、とおゆうは泣いた。
「文五郎さんにこちらに来ていただいて、私はよかったですけど、それが心配で……。せめて、ここで居心地がいいように頑張らなければと思うのに、思うようにいかなくて……」
 文五郎さんは、とんとん、とおゆうの背を優しく叩いた。
 そういえば、妹が幼い頃、泣いて止まらない時には、おゆうもこうしてなだめた。かわいい、かわいい、大事な妹だと思った。それが、結婚をしてからも、あんなけんかをするなんて……。
「私はな、実家では、ほかの兄弟と比べて、どうにも損というか、あまり褒められるところがないような気がしていたんだよ」
 ふいに、文五郎さんが、そう語りだした。
 おゆうは背を叩かれるまま、続きを待った。
「おゆうのところへ婿養子に行くと決まった時、兄ちゃんに、私の穏やかさは、なかなか真似できるものじゃないとか、なんとか、ようやく褒められて少しだけ、ああ、私にもいいところがあったんだ、と思った。全く、あの兄ちゃんも、『早く仕事に戻れ』と急かすばっかりで、肝心なことはなかなか言やあしないんだから」
 そこで文五郎さんは一息つく。
「そんな私が、こんなにかわいいおゆうに大事に思ってもらって、婿入り先の家族にも何かと気遣ってもらえる。こんな幸せなことはないだろう」
 ……そんなふうに考えていたのか。
 文五郎さんが背筋を伸ばし、夜着を尻の下に敷き、脇はしめるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向き合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座をする。
「ありがとう。おゆうが心配することは何ひとつないよ。だから、少し落ち着いて、ゆっくりしたらいい」
 おゆうは静かに頷いた。
 そうして、こんこんと眠りについた。
 ああ、この人と会えてよかった、と思った。
 茶屋でいらつき、店主に茶について文句を言ったのは後悔したが、そのおかげで文五郎さんとも会えたのだ。

5

 翌日、文五郎さんは遣いで家を空けた。
 使用人が遣いには出るものだが、今回は米を買いに、文五郎さんのすぐ上の兄、文史郎さんが婿入りした米屋に行く用事だったので、敢えて文五郎さんにお母ちゃんが頼んだのだ。「少しは息抜きしてきてね」と言い、ゆっくりして来るように言ったのだった。
 私も行く、とおゆうが言ったが、「最近、少し顔色が悪いし、あちらでご迷惑をかけるのもよくないから、家にいなさい」と言われた。
 文五郎さんが行くところなら、どこでも一緒に行きたい。
「大丈夫よ。今日は気分がいいし、やたらとおなかがすくの。出かけるなら、お菓子も一緒に買いに行きたい」
「もう、文五郎さんだって、お兄さんと話したいのに、おゆうがいたら、話せないこともあるかもしれないでしょう」
「そんなことなって。文五郎さんはそんなことないって、ねえ!」
 出かけようとする文五郎さんの袖を、おゆうは掴む。
 文五郎さんは弱ったように笑って、「帰りに土産を買って来るよ。饅頭がいいか?」と言う。
 おゆうは頷いて、「ごめんなさい。ゆっくりしてらして」と、板の間で背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、足の親指同士が離れぬように正座し、座礼して、文五郎さんを送り出した。

6

 さて、文五郎さんは出かけてしまったし、どうしようか、と思うそばから、おゆうは台所へ行き、残りご飯でおにぎりを作った。
 そうして気づくと、おひつの中のごはんはなくなり、三つもおにぎりを平らげていた。
 やだ!
 いつの間に……。
「あら、おゆう……」と、野菜の載った籠を手に入って来たお母ちゃんが驚く。
 そうして、「ねえ、おゆう、もしかして……」と、おゆうをじっと見つめる。
 おゆうは首を傾げる。
 そこへ、「おゆう! おゆう!」と、けたたましく、文五郎さんが駆け込んで来た。
「あら、文五郎さん! ずいぶんとお早いお帰りで……」
「ただいま、お義母さん。ああああ! 肝心の米を忘れた! 取りに行くか? まあ、文史郎兄ちゃんがそのうち持ってくるか……。そんなことより、おゆう!」
 こんなに取り乱した文五郎さんを、おゆうは初めて見た。
 おゆうと妹がつかみ合いのけんかしていても、あんなに穏やかな文五郎さんのこの慌てようは一体どうしたことか……。
 もしや、この食欲か?
「あ、あの文五郎さん、このおにぎりは、たまたまで。そんなにごはんも残っていなかったし、私、それほど大ぐらいでは……」
「おお! こんなにたくさん食えたのか!」
 空になったおひつを見て、文五郎さんは目を輝かせ、再びおゆうを見る。
 一体、なんなんだ……?

7

 文五郎さんは、おゆうが土間に立っているのを見ると、「おゆう、体を冷やしてはいけない。座敷に戻るんだ」と、急かす。
「えええ? そんな、今、冬でもないし……」
 文五郎さんは、お母ちゃんの前でも気にせずに、おゆうを抱き上げた。
「ええええ?」
 おゆうは更に驚く。
 小さい頃から、年の近い妹二人がいて、おんぶも抱っこも、両親がしているのは妹二人で、常におゆは歩いていた。足が痛くても、我慢した。迷子になるんじゃあないぞ、とお父ちゃんにきつく言われ、いつもお父ちゃんかお母ちゃんの袖や裾をぎゅっと握っていた。
 それが……。
 細いと思っていた文五郎さんは結構力があり、軽々とおゆうを抱き上げる。
「さささ、とにかく座敷へ」
 なんだ、なんだ、とお父ちゃんが店の方からこっちを見ている。
 お母ちゃんが「ああ、お茶でも」と言うと、「すみません、麦湯にしてやってください」と、文五郎さんが珍しく、違うものを頼んだ。
「ああ、そうね。はいはい」と、お母ちゃんも言う。
 なんだ、なんだ……。
 文五郎さん、米を忘れたのはいい。
 でも、饅頭は???
 こんな時になんだが、しかもおにぎりを三つも食べたあとだが、おゆうは若干うらめしい思いでいた。
 これまで、ちょーっと出かけても、絶対に土産を買って来てくれたのに……。

8

 文五郎さんは、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、脇はしめるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座する。
 そうして麦湯を入れたお母ちゃんに礼を言い、ごくごくっとそれを飲み干した。
「おゆう、今、文史郎兄ちゃんのところへ行って来たんだが」
「はい」
 それは知っているが、一応、そう答えておいた。
「あっちでな、おなみさんの話を少し聞かせてもらった」
 おなみさん、というのは、文史郎さんの妻、つまりおゆうにとって義理の姉に当たる。文五郎のところは男七人兄弟で文六さんが祝言を予定しているのを除き、皆所帯持ちだから、おゆうには、義理の姉が四人、義理の妹が一人いることになる。
 おなみさんは、先ほど文五郎が米を買いに行った米屋の一人娘で、文五郎さんの兄、文史郎さんが婿入りした。
 慎み深く、品のあるきれいな人だ。
 年は確かおゆうより下であったが。
 そのおゆうさんの話……。
 もしかして、文五郎さんは、うちでのおゆうの様子を当たり前だと思っていたが、文史郎さんのところのおなみさんの手厚い妻としての気遣いを初めて聞き、自身の婿入りについての間違いに気づいたのではなかろうか……。
 そうだ。
 男兄弟だけ、と、つい、どこかで油断していたが、それだけ兄弟の妻のこともいずれ垣間見えてくるというものだ……。
 嗚呼、文五郎は家でのおゆうの様子を話したのだろうか。
 朝も起きてこぬ、母親に文句を言う、妹とけんかをする……。
 何一つ、褒められることがないではないか……。
 ここは、心を入れ替える、と今すぐ言うべきだ。
 そう思った矢先、「おゆう!」と文五郎さんが叫ぶように言う。
「もしかして、子を授かったのではないか?」
「え?」
 おゆうはぽかん、として文五郎を見た。
「いや、文史郎兄ちゃんのところには、生まれたばかりのおよねがいるだろう?」
「ええ」
 そうだ。
 うちからも、子が生まれた後に、体を温めるのによいという茶を贈った。
 大層かわいい赤さんだった。
「最近、おゆうが調子が悪そうで、と話したら、文史郎兄ちゃんが、そういえば、おなみさんが子を授かった時に、似たような感じで、否、その、おなみさんは気性が穏やかだから、機嫌がどうこうというのはないらしいのだが、眠くなったり、なんだかだるそうで、辛そうなことがあったと言っていて、それで、もしかしたら、と思ったんだ」
 ……大層ささやかではあるが、身に覚えがないこともなかった。
「いや、違うなら、やはり疲れているのだから、休んだ方がよかろうが、いやいや、どっちにしろ、休んだ方がいいのは同じだが」と、文五郎さんがしどろもどろになりながら言う。
「違うかも知れませんが、そうかも知れません……」
 首をかしげながら、おゆうが言った。
 うーん、確かに腹が減ったが、それが理由か?
 わからぬ。
 だが、ほかにも心当たりはある。
「まあ、あとひと月も過ぎれば、わかるでしょうけどね」とお母ちゃんが言う。
 ずいぶん悠長だが、そんなものだろうか。
 ぽたり、と畳に何か落ちた。
「文五郎さん!?」
 文五郎さんが泣いていた。
 目を開いたまま、次から次へと涙を落とす。
「おゆう、私は、こんなに幸せでいいのか?」
「文五郎さん、私の方が幸せです」
「いやいや、これは譲れない。私だ」
「いいえ!」
 お互いに、膝で前に進み、手を取り合う。
 そこへ、大きな咳払いが聞こえた。
「あ、文史郎さん!」
 米を背負った文史郎が、大きく息をつき、「文五郎、忘れ物だ」と米を置いたのだった。

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