[430]お江戸正座45


タイトル:お江戸正座45
掲載日:2023/??/??

シリーズ名:お江戸正座シリーズ
シリーズ番号:45

著者:虹海 美野

あらすじ:
大五郎は家族と長屋の人に温かく育てられたガキ大将である。
けんかは負け知らずで、歯向かう子どもは皆無。そんな時、おはるさんという大店のお嬢さんに出会った。
懐深く優しいおはるさんは、大五郎を弟のようにかわいがってくれ、大五郎も以前のようにけんかばかりしなくなった。
そんな大五郎が、いつか商家へ奉公したいと思うようになるが、誰も本気で取り合わないだろうと悩んでいた。
大五郎の悩みを見抜いたおはるさんは……。

本文

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1

 そこは、思っていたようなお屋敷ではなかった。
 みすぼらしいわけではないが、ごくごく普通の小さな平屋の家であった。
 確かに門のところには、「礼儀作法指南」の札がかかっている。
 札がなければ、全くそんな気配のしない住まい、否、教室である。
 大五郎の住む長屋にも、唄の指南なんかで、腰高障子に墨で書いてあるようなところもあるから、心得てはいる。
 だが、しかし。
 礼儀作法というと、ちょいと違うと大五郎は思っていた。
 今日は、それなりに心改めて、ここへやって来た。足袋は、大家の息子のお古をもらって履いてきた。足がいつもと違い、こそばゆい。
 とにかく、さぞかし大きなお屋敷で、高い塀に囲まれて、丁寧に手入れされた木のある庭があって、大きな引き戸の向こうには磨かれた上り框(かまち)がそれこそ、大五郎の住む長屋の部屋三つ分くらいの広さで、その先に階段なんかがある、そういうのを考えていた。
 おまけに、小さな引き戸の前では、猫がすやすやと、腹が立つほどに呑気に寝息を立てているではないか。
 さて、どうしたものか。
 たのもうー! と言うのも違う。
 道場破りでもない。
 すると、「あの、柔術の道場はこの先にありますが」と声をかけられた。
 見れば、やせた着流しの男が、小さな子を背負い、手には焼いた魚をほぐした皿を手に、こちらを見ている。
 柔術……。
 確かに、そっちの方がよかったかも知れぬ。
 そう思い、いやいや、と思い直す。
 ここへ来るまでの決心を大五郎は思い出した。
「あの、本日礼儀作法の指南をお願いしている大五郎と申します。こちらで指南を受けているおはるさんの紹介で参りました」
「ああ、そうですか……」
 こう、もうちょっと覇気のある言い方はできないもんか。
 仮にも江戸っ子であろうに、なんだ、この腑抜けた様子は……。
 一体、何をやって身を立てているのやら……。
 ああ、俺は絶対こうはならねえ。
 いっぱしの商人になって、江戸を闊歩してみせるんだ。
 そんな大五郎の決意もまるで知らぬ男は、「こちらからどうぞ」と言う。
 なんだかわからぬがついて行く。
 向こうに本来の入り口があるのか。
 茶の湯でも、ちょっと低い入り口からだと聞いたことがある。
 なるほど。
 礼儀作法でも、そういうものがあるのかも知れない。
 門の前の戸から、入ってはいけぬ、か……。
 おはるさんも、そういうことは、先に言っといてくれねえかなあ。
 うっかり恥をかいちまったじゃあねえか。
 こいつ、礼儀作法の指南を受けるのに、門前の戸から入ろうとしてやがる、なんて、この男に思われているんじゃあねえか。
 ああ、恥をかいた……。
 ん?
 大五郎は瞬きする。
 何か儀式的な扉があるのかと思ったが、赤子のおしめなんぞを干してある裏庭に出た。そうして、普通の土間の入り口に通された。
「おおい」と、男は中へ声をかける。
「はあい」と、鈴の鳴るような声がする。
「おゆう。生徒さんがお見えになった」
「あら、あなた、また猫が家の前で寝ているからと、こちらからお通しになったのですか」
 猫?
 大五郎は、はたと、さっきの家の前で寝ていた猫を思い出した。
「ああ、気持ちよく寝ているから、あと少ししたら、魚も持っていくよ。それまでそっとしておいてやりたくてな」
 えええ?
 礼儀作法の一環ではなかった、と大五郎は、この二人の話を聞いてようやく気付いた。
 なんのことはない。
 猫を起こすのに忍びないから、こっちから入れ、ということだ。
 一応、こちらは門下生になろうという人間だ。
 それにこの対応……。
 もう、やめようか、と思った。
 こんな男のいる家だ。
 ろくでもない指南をするに違いない。
 大五郎はもともと気が長い方ではない。
 だから、すぐにけんかもする。
 さすがに子を背負っている男に怒鳴り散らすのは気が引けたが、かなり頭にきていた。

2

 ろくでもない指南……。
 前言撤回だった。
 上品なおかみさん、否、先生がやって来た。
 先生が言うには、この時間はお教室の時間ではないので、猫もそれを承知で日当たりのよい戸の前で寝ているのだと詫びる。
 どかせばよいのだけれど、主人がどうしてもそれができぬ人で、そろそろ来る頃か、と外まで出迎えようと思っていたところ、いらしたので、と言う。
 まさか、先生じきじきにお迎えに出ていただく、なんてことにならなくてよかった、と大五郎は心底思った。
「そんな申し訳ねえことできません」と言うと、「お気遣い、ありがとうございます」と優雅に先生は微笑む。
 大五郎の育った周辺に、こういう人はいなかった。
 大五郎の住んでいる長屋は、子育て世代が多く、おかみさんもてんてこまいで、しょっちゅう、どこかの子どもが泣いたり、けんかしたりで、それを見つつ、朝は飯を炊き、洗濯をし、ちょっと世間話をし、互いに忙しければ、手を貸し合い、よその子でも一緒に面倒を見て助け合っている。
 この先生にも子がいるのは、つい先ほど見たわけだが、身なりから、ちょっと違う。
 この人に育てられたら、俺も少しは違っていたんだろうか、と大五郎はふと思い、瞬時にその考えを打ち消した。
 そうして、「先生」という声がやはり土間の方からし、てっきり大五郎は礼儀作法の先生に用のある人が来たのかと思ったが、なんと子を背負った、先ほどの男が「ああ、どうも」と対応し、「諏訪理田先生、次回の戯作なのですが」というのが聞こえ、先日貸本屋が持ってきた本の中に、確か諏訪理田という名の戯作者がいたのを思い出し、まさか、いや、でも、と男を見たのだった。

3

 大五郎は、子どもの頃からけんかで負け知らずだった。
 上から、一郎、お次《つぎ》、というふうに続き、五人目に生まれた大五郎は五郎のはずだったが、あまりにも元気な様子で生まれたのを見た産婆さんが、「こりゃあ、大物になるねえ」と笑い、実際に体も大きく、これまで生まれた四人とは様子が違うようだ、とお父ちゃん、お母ちゃんは、五郎には、「大」の字を付けた。
 お父ちゃんは野菜の振り売り、兄ちゃんたちも花、魚の振り売りをしていて、お母ちゃんは何年か前から得意の煮豆を作り、それを姉ちゃんも手伝い、四番目の兄ちゃんが振り売りをするようになった。兄ちゃん二人は長屋の隣の狭い部屋を借りるようになったが、それでもまだまだ暮らしは食べていけることが何よりもありがたい日々で、夕食には、一つの部屋に家族が集まり、お母ちゃんの煮豆に、売れ残った魚や野菜があればそれを使う膳を分け合うような塩梅である。
 お父ちゃんもお母ちゃんも、どちらかというと、大人しいひとである。
 声を荒げることもなし、酔って騒ぐでもなし、長屋でもめごとなんかあれば、当人をそっとなだめたり、その家の子の面倒を見たりする方である。
 それなのに、大五郎だけが違った。
 物心つくと、手習いの中で一番年上で強い男の子の子分のような存在になり、すぐに子分から肩を並べて歩くところまで成長した。けんかがとにかく強く、物おじしないから、だんだんと年上にも頼られるようになった。その年上の子どもが成長し、手習いをやめ、手習いでも上の方の年齢になった頃には、誰も大五郎、そうして大五郎を取り巻く友達に歯向かわなくなった。
「全く、誰に似たのか」
「けがだけはしたらいけないよ」
「人にあまり乱暴なことをしちゃあいけない。まずは話し合わないと」
 お父ちゃん、お母ちゃんや兄弟たちが時折大五郎に言い含める言葉であった。
 大五郎は全くもって面白くなかった。
 こんな小物ぞろいの家に生まれたばかりに、といつも思った。
 俺が殿様の家にでも生まれれば、きっと大層喜ばれた。
「でかした!」と殿なる人が大五郎を抱き上げ、「先が楽しみですのう、殿」と、下々の者が誉めたてるのだ。
 そういう絵を、何度も大五郎は心の中で描いた。
 だが、実際のところは、ただのガキ大将でしかなかった。
 それが歯がゆかった。
 そんな折、大五郎はとある人に出会った。
 大店のお嬢さんであるおはるさんである。
 おはるさんは、大五郎よりいくつか年上で、大五郎が以前、けんかになろうとした男三人女一人の子どもとの間をとりなした、否、半分脅すようにして止めた人だった。
 上等な着物に簪で、それこそどこぞのお姫さまかと思う装いに、ふっくらとした体格。
 穏やかな世間知らずかと思いきや、けんかの仕方を実は大層心得ている人だった。
 そうして、懐の深い人でもあった。
 初対面の大五郎たちを含め、その場にいた全員を家に招待し、大層おいしい菓子などを振舞ってくれ、弟のように接してくれた。
 出会ったその一回きりではなく、おはるさんは、会うたびに、大五郎や友達によくしてくれ、お城のような家に入れてくれた。
 ここではさすがに、大五郎も仲間もかしこまって、大人しくなった。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ開くくらい、脇はしめるか軽く開く程度、肘は垂直におろし、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃え、足の親指同士が離れぬように正座する。
 家では片膝をついて飯を食っていたので、緊張したものだ。
 そのうちに、大五郎は、商家へ奉公に出たいと思うようになった。
 いずれ、お父ちゃんのように振り売りをするつもりでいたが、おはるさんの家の使用人を見ているうちに、自分は力もあるし、物おじしない。そういう性分は、お商売でも役立つのではないか、と思い始めたのである。
 だが、商家の人間というのは、皆、お行儀がよろしい。
 どこか品がある。
 自分のような行儀の悪い者では、門前払いではないか。
 そもそも、冗談だろう、と笑われる。
 長屋の人たちはみんないい人だが、まさか、大五郎が心の中で商家に勤めたいと思っていることを知ったら、「おいおい、今日はいったい何の冗談だい」と言いながら、笑うのが目に見える。
 自分だって、もし、もう一人の自分がそう言いだしたら、笑う。
 そんなふうに思っていたところ、おはるさんが相談に乗ってくれたのだ。
 おはるさんは、最初に会った時に一緒にいたお嬢さんのほかにも友達ができたようで、いつも何人かのお嬢さんとお稽古事に通っているのを見かける。
 ある時、いつものようにお嬢さんたちと連れ立って歩くおはるさんが、手習い帰りの大五郎を先に見つけた。
 どうしたものか、と大五郎なりに考えていたところを、「大五郎」と声をかけ、「何かあったんじゃないの」と察してくれた。
 大五郎が言い淀んでいると、「私で相談に乗れることかい?」と訊く。
 はっと顔を上げると、ふくよかで優しい顔が、微笑んでいる。
 この人は、どうしてこんなに人が好いのだろう。
「どうやら、そのようだね」
 そう言うと、「ごめんなさい、今日は私は遠慮するわ」と、向こうにいるお嬢さん方に声をかける。
「おはるちゃん、いいの? お兄ちゃんの本を借りるって楽しみにしていたのに」と、向こうで待っているお嬢さんが言う。
 おはるさんにとって、大事な約束なのだろう。
「おはるさん、俺のことは、おはるさんの世話になることじゃあねえ。とっとと行ってくんな」
 おはるさんは、ため息をつき、それから「またね」と言い、友達と連れ立って、去って行った。
 これは俺の問題なんだから、と大五郎は自身に言い聞かせた。
 ところが翌朝である。
「ごめんください」と、威勢のいい声がする。
 お父ちゃんと兄ちゃんらが振り売りに出る前で、その声に、長屋の住人があちこちの腰高障子から顔を出しているのが、戸を開けていた大五郎の家からも見えた。
「私、はるという者で、そちらに大五郎さんはいらっしゃいますか」
 大五郎の家族は顔を見合わせる。
 まさか、と大五郎は顔を上げた。
「うちの大五郎かい?」と、お母ちゃんがのんびりと外へ出る。
「あわわわわわ、あの、うちのが、何か、失礼でもいたしましたでしょうか」と、お母ちゃんが慌てる。
 ああ、やはりおはるさんだ。
 あの豪勢な装いでここに来られたら、誰だって慌てる。
「おい、大五郎、よそ様になんの失礼をしちまったんだ」
「うちらは家族みてえなもんだから、弁償しなきゃあいけねえってことになったら、大家に用立ててもらって、みんなで返すくらいはしてやるけどね」
「それにしても何をやらかしたんだ」
「ここにいるみんなの懐事情はお前さんも知ってるだろ」
 勝手に話が進んでいる。
 おはるさんに、家族のひしめき合う狭い家を見られるのは恥ずかしかったが、おはるさんは「誤解ですよ」と朗らかに返す。
「この子のことは、私が勝手に弟のように思っていてね、こっちが相手してもらってんだから」と言い、「これ、そこの菓子屋の饅頭ですけど、よかったらどうぞ」と、大きな箱を差し出した。
 またしても、長屋はあわあわと騒ぎ出した。
 おはるさんは、近くにいた子どもから順に、それぞれの家に饅頭を配り、残り、十個ほどになった箱を持ち、「これで大五郎の家族の分はあるかい? 足りなければ、また買ってくるけど」と言う。
 足りる!
 否、足りないからって、買い足すものでもなし。
「あの、まずは、どうぞ、お入りください」
 家族が奥につめ、どうにか場所を開ける。
 お母ちゃんが、おはるさんが座る前に、ささっと、床のほこりを払う。
 おはるさんは「では、遠慮なくお邪魔します」と言い、土間で草履を脱ぎ、正座した。
 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、脇をしめ、肘を垂直におろし、膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向き合うように揃える。
 明らかに場違いなお姫さまのようなおはるさんの登場に、饅頭を手にした長屋の住人たちが、そわそわと見ている。
「掃きだめに鶴とはこのことだね」
「ああ、天女さまのようだよ」
「おまけに慈悲深い」と、手にした饅頭を見て言う。
「忙しいところにお邪魔してすみません。大五郎、話があるんだよね。今、ここで話してごらん。大五郎が話したいことっていうのは、ここで話すべきことだと私は踏んだけど、違ったかい?」
 笑顔のまま、おはるさんは言う。
 ただ饅頭を振舞いに来たのでないことはわかっていた。
 しかも、鋭い。
 確かに、おはるさんに相談するにしろ、お父ちゃん、お母ちゃんに言わなければならないことである。
 そうして、幼い頃より、自分の家の子同然に面倒を見てくれたこの長屋の住人に対しても然り、であった。
 笑顔のおはるさんの目が、腹をくくれ、と言っている。
 敵わないなあ、と大五郎は思った。
「おいおい、一体どうしたってえんだ」と言う長屋の住人たちを前に、大人しいお父ちゃんが「これからのことを話したかったんじゃあねえか」と静かに言った。
「そうだよ。私たちだって、自分の子のことなんだから、わかっているよ。いつも三杯は飯を食うお前がここのところ二杯しか食わない。飯を前に、何か考えているのは、すぐにわかった」
 お母ちゃんも頷く。
 兄弟たちも、頷いている。
「あんた、気が大きいように見えて、意外と悩むところがあるんだから」
 お母ちゃんの言葉に、ふと、目の前がにじむ。
「ほら、大五郎、お父ちゃん、お母ちゃんはお見通しだよ」と、おはるさんの声が、大五郎を後押しする。
「ちげえねえ」
「ここんとこ、朝も上の空だったからねえ」
「どうしたんだって、噂してたんだよ」
「だけど、大五郎だって、いつまでも子どもじゃないんだから、下手に訊きだしてもいけねえってえんで、こっちも待ってみようってなあ」
 長屋の住人が頷き合う。
「大五郎、いかに恵まれているか、わかったかい?」とおはるさんが微笑む。
「おまけに、こんなお姫さまのような姉さんが気遣ってくれるんだ」
 あははは、と笑う長屋の住人。
 大五郎は大きく息を吸う。
 居住まいを正し、背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶしひとつ分開くくらい、脇はしめるか、軽く開く程度、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うようにし、足の親指同士が離れぬようにする。
「お父ちゃん、お母ちゃん、みんな」
 大五郎は、皆を順々に見た。
「俺、無理かも知れないけど、商家に奉公したいと思っている」
 誰も、笑わなかった。
「そうか」とお父ちゃんが言った。
「そういうことなら、私も協力させてもらうよ」と、おはるさんが言う。
 皆が、おはるさんを見る。
「でも、お嬢さん、この子は、心根はいい子だけど、いかんせん、粗暴なところがあってね」
「それで、商家に入れてもらえるもんですかい」
 長屋の住人たちが口々に心配する。
「だから、協力させてもらうって言っているんですよ」と、おはるさんは微笑む。
「私もね、江戸へ来てから、お稽古事に通って、いろいろ身につけたんです。人にはどうにも無理なことっていうのもありますけど、努力でどうにかできることもあります。特にね、大五郎のように希望を持っている者は、ちょっとやそっとのことじゃあ、音を上げませんから」
 おはるさんはそう言うと、読み書き算盤の方は大丈夫か、と現実的な話をした。
「ああ、そっちは任せときな。俺はこう見えて、読み書きも算盤もお手のもんだ」
「調子に乗るんじゃないよ」と、後ろから大五郎の姉ちゃんが、小声で言う。
「でも、読み書き算盤ができるのは、本当です」と、兄ちゃんが言う。
「それじゃあ、後は礼儀作法だね」とおはるさんは大きく頷き、「普段はお嬢さん方が来ている指南所だけど、ちょっと先生に頼んで、時間の方を都合してもらえるか聞いてみるよ」と請け負ってくれた。
「あの、その、指南所の謝礼は、うちで振り売りしている野菜でもいいですかね」
 おずおずと、お父ちゃんが訊く。
 そこは、大五郎も気になったところだ。
「そんなの、こっちで世話をすることですから」とおはるさんは言い、そういうわけにはいかねえ、と誰かが言う前に、「どうしてもと言うなら、大五郎に出世払いしてもらうっていうのではどうでしょうかね。その方が、奉公に出てからも弱音を吐かずに頑張るでしょうし。まあ、大五郎は弱音を吐かないと思いますけど」と笑う。
「俺、やります。お願いします」と、大五郎は手をついたのだった。

4

 こうして、温かな心の人たちの後押しで、今日、大五郎は礼儀作法の指南に訪れたのであった。
「まず、ごあいさつの時の座礼から始めましょうか」と、先生は言った。
「おはるさんからは、商家へ奉公に出るための礼儀作法を教えてほしいと言われています。ですから、時間をかけて深く、というより、お商売の時に必要なことから優先した方がいいということですね」
 そうしてくれるとありがてえ。
「はい」と言った後、「あの、こっちでは、おはるさんのようなお嬢さんばかりが来てるんですか」と訊いてみる。
 先生は頷きかけ、「昔、お店を出すのに、礼儀作法を教わりたいと、昼餉の時間に暫く通われた人がおりました」と言い、何かを思い出したようで、可笑しそうに笑ったのだった。
 自分とは事情は違うが、少し、似た境遇の人がいた。
 それでかなり心強くなった。
 まず、お願いします、と言おうとして、その「お願いします」を礼儀正しく言うところから始まった。

5

 背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、脇はしめるか、軽く開く程度、肘は垂直におろし、膝はつけるか、握りこぶし一つ分ひらくくらい、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向き合うように揃える。
 ここまでは、おはるさんのお宅でもやったので、なんとかなった。
 ここから、座礼でのごあいさつ、襖の開け閉めなんかを学んだ。
 一回か二回でいいと思ったが、それでもひと月は通った。
 何かひとつができると思うと、ほかが疎かになる。
 何から何まで気を付けるのは、なかなかに集中力が必要で、なるほど、この先生が優雅に見えて、芯のある、しっかりとしたお人だということはよく理解できた。
「もう一度」と、何度もやり直しをし、そのたびに、ため息をつきたくなるのを耐えた。
 こんなところで弱音を吐くようでは、商家でのご奉公など夢のまた夢だ。
 たかが襖の開け閉め。
 けれど、そのひとつの作法によって、心が伝わる。
 うっかり座る位置を誤り、どうにかこうにか正座で襖に手を伸ばし、閉められた時には、心底ほっとした。
 これではまだ駄目だ、とは思うが、一応はひとつのことができた、と自分では、達成したことの勘定に入れる。
「まだ、ここでやったことのおさらいは必要ですが、頑張りましたね」と先生はおっしゃってくれた。
「先生、ご指南くださり、ありがとうございました」
 手をつき、頭を下げる。
「なかなかに優秀な生徒さんでしたよ」と先生は笑う。
「先生、そりゃあ、褒めすぎです」
「本当のことしか申しませんよ」
 よちよち歩く先生の子がやって来る。
 稽古に通ううちに、すっかり懐いた。
 がっしりした大五郎の背に登ろうとし、大五郎が手を貸す。ずり落ちながらも、登る子どもを肩車する。
「ああ、これ」と先生が言い、「構いませんよ」と、大五郎が立ち上がり、そのあたりを歩くと、きゃっきゃっと子どもが笑う。
 そこへ、「ごめんください」と、朗らかな声がした。
 おはるさんである。
「はあい」と、先生が立ち上がり、引き戸を開けに行く。
 すぐに、豪快なおはるさんの笑い声が聞こえた。
 本当におはるさんは明るい人だ。

6

 その後、大五郎が札差に奉公が決まったと聞いた時には、長屋や大五郎の通っていた手習いの先生までが驚き、歓喜した。
 実は、大五郎が指南してもらった礼儀作法の先生のところに、以前料亭の板前が独立して店を出すのに際し、お客の相手もするようになるのに、少し礼儀作法を身につけた方がよいからということで、学びに来ていた。この板前のいた高級料亭のお嬢さんが、札差に嫁いだ。
 今でも律儀にこの礼儀作法の先生のところへ時折、店で作った料理を詰めたものを持って訪れる元門下生の板前に、今、商家に奉公したいという子が来ていてね、と先生が話したのだそうだ。立派な体躯に、優しい心の持ち主で、今、とても頑張っている、と。
 すると、そこから、板前のところへやって来た札差のお嬢さん(今はご新造さん)にもその話がいき、ちょうど新しい奉公人を考えていた、と言う。
 その話が礼儀作法の先生の元へ行き、先生は、紹介者であるおはるさんにそれを相談した。
 おはるさん、そうしておはるさんのお父ちゃんである、大店の旦那が間に入り、うちの娘が弟のようにかわいがっている子で、うちにも時折来ております。元気がよくて、根性があるし、威勢もいい。そうして、将来のための礼儀作法の指南にも通っている、と話してくださった。
 江戸でも有名な大店の旦那も太鼓判を押す子どもなら、間違いないだろうということになった。
 そうしたご縁続きで、大五郎は札差の奉公人になることが決まった。
 家はさほど遠くはないが、住み込みでの奉公である。
「この家の米も、これでだいぶ長くもつようになるなあ」と兄ちゃんが言い、「夜のいびきもなくなるね」と姉ちゃんが言い、「寂しくなるよ」と兄が言うと、皆、下を向いて、わずかに鼻をすすった。
「向こうでは、立派なお仕着せを用意してもらえるって言うし、何もしてやれなかったねえ」とお母ちゃんが言った。
 大五郎は背筋を伸ばし、着物を尻の下に敷き、膝はつけるか握りこぶし一つ開くくらい、脇をしめ、肘を垂直におろし、手は太ももの付け根と膝の間で指先同士が向かい合うように揃えて正座する。
「お父ちゃん、お母ちゃん、ここまで立派に育ててくれて、ありがとう。飯のうまさも、元気でいるありがたさも、人を思いやることも、教えてもらいやした。これからは、それを仕事で立派に活かして、恩返しできるように精進します」
 そう言って、丁寧に座礼した。
「いつの間にか、本当にいつの間にか、大きくなったねえ」
 お母ちゃんが言い、「大五郎が大きいのは最初からだ」とお父ちゃんが言ったが、最後は言葉に詰まり、家族だけでなく、そっと外で聞いていた長屋の住人も袖で目元を拭ったのだった。

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