[295]お江戸正座8


タイトル:お江戸正座8
掲載日:2024/06/21

著者:虹海 美野

内容:
文六は茶葉を売る諏訪理田屋の六男である。文六は物覚えよく、算術が得意な子であった。
手習いに通い数年が経った頃、算術が苦手な薬屋の一人娘おらんと出会う。
よい着物で手厚く育てられ、お作法の教室にも通い、きちんと正座するおらんを、七人兄弟の六男である文六は初め快く思わなかった。
だが、先生に頼まれ算術を教えるうちに素直なおらんをかわいいと思うようになる。
そうして大人になり久しぶりにおらんに再会するが……。

本文

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 文六は、茶葉を売る諏訪理田屋の六男である。
 年は二十一。
 店で手代になり三年目だ。
 諏訪理田屋は長兄が継ぎ、ご新造さんに子が二人。
 次男は暖簾分けをしてもらい、店には独り身の三男、文三に、四男、文史郎に、五男、文五郎、そして文六がいる。末の七男、文左衛門は小さな頃からよくいえばおっとり、風流、優雅な性格で、生まれたお家が粋人の元ならよかったのかも知れぬが、如何せん、お商売には向かぬ性格で、十九の時に戯作者を志し、師の元でお世話になり、その後独立して戯作も発表した。一番年の近い兄弟として、心配に思う一方、話が合わない、面倒をかけられると、苛立つことも多かった。だから、なるべく文六は末の弟と関わらぬようにしていた。
 冷たいかも知れぬが、やたらめったら近づきすぎて、結局もめごとを起こすよりはずっとましである。そうして、うまくできているのが、文六のすぐ上の兄、文五郎が心根優しく、気長な性格で、決して声を荒げたり、手や足を出すことなく、まめまめしく世話を焼いていたので、いい具合に文六は末の弟の面倒を見ぬまま大人になった。
 末の弟が泣き、すぐ上の兄が世話をし、それを幼い頃からなんとなく冷めた目で見ていた記憶がある。
 冷めた、冷静、といえば、子どもの頃、家の帳場で何度も算盤を弾いている番頭の姿を見た。もうとっくに暖簾分けをして今店におらぬが、大層真面目なお人で、相手が丁稚でも、そのほかの子どもでも、適当に相手をするとか、あからさまに態度を変えることない、幼いながらに尊敬に値する人物であった。
 そんな昔の番頭が、算盤を弾きながらなかなか合わない、と言い、読み上げながら再度算盤を弾いていたことがあった。
 母屋につながる廊下でそれを聞いていた文六は、まだ手習いに通う前であったが、聞きながら売り上げを計算し、一つ抜けている箇所があるのだと伝えた。
 番頭は大層驚き、そうして文六の言ったところを確認し、「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。そうして、旦那さま、旦那さま、と父にこのことを報告した。番頭がこのお人だから、そうなったことだと、文六は最近になって思う。四十近い、商い一筋の大人が、手習いにもまだ通っていない子ども、まあ、店の息子ではあるが、とにかくそんな幼い子の言うことをきちんと聞き、確認したが故の結果である。
 父も店の大人も、すでに手習いに通っていた兄たちも驚いていたが、文六は、どうしてそんなに騒ぐのだろう、と不思議だった。
 漠然とではあるが、文六は空(そら)で計算することや、数、量を覚えるのに向いているようだった。その後、算法というものを知り、数字を使ってあらゆるものを解く面白さも知った。
 これまで手習いに行くのに面倒を見てくれていたすぐ上の兄、文五郎が手習いを終え、お稽古事に店の見習いを始めた頃には、文六も末の弟も手習いには通い慣れていた。もともと算術の得意だった文六は、手習いの先生の趣味であった算法を遊び感覚で解き始め、末の弟は手習いで様々な書を読みふけっていたものだ。
 そんな折、新しく入った薬屋のお嬢さん、おらんは、育ちがよいのか、いつも絹の着物に上等な筆なんぞで、大層お行儀よく正座していた。小さいながらに膝をつけ、足袋を履いた足の親指同士離れぬよう、姿勢も正しく、着物はもちろんきれいに尻の下に敷き、脇は軽く開く程度で、文机に向かっている。
 この年はおらんの他にも数名の子が入り、忙しい先生が少しおらんの面倒を見てやってくれと、文六に頼んだ。
 ちょっと見た時、なんとも呑気というか、おめでたいというか、全く争いごとやもめごととは無縁に育って来たやつ、という少々ひねくれた見方をした。かくいう文六も争いやもめごととは縁遠かったが、それはそれぞれに違う七人兄弟の様子を見定めて六男という立場で、それなりに考えてやってきたからだ。もともと家で呑気に育つのとの差は大きい。
 七人兄弟の六番目の文六は、一応家で折をみて新しい着物や下駄なんぞを新調してもらえたが、兄のお下がりを着るのは日常茶飯事、筆なんぞも自分から言わねば親は新調してくれぬ。まあ、そういう子はいくらでもいたし、そういうものだと思っていたが、いかにも全て親が誂え、何から何まで手厚く面倒を見てもらっています、といった感じが鼻につく。
 だから先生におらんの面倒を見るよう言われた時、正直気乗りしなかった。文六と同じように算術が得意であるとか、大勢の兄弟で育った中の子どもであるとか、何か自身と似通ったものを感じる子ならば、幾分か気持ちは違った。まあ、年は離れていても仲良くなりやすい人間かどうか、ということだ。そういったものが何一つ感じられず、文六は消極的な思いがし、それが厄介なことを頼まれた、という考えに至った。
 だが、先生の手前、子どもたちがあちこちでがやがやとしている中、一人文机に向かうおらんの前に行き、そこで騒いでいた子どもらに「もう少し前にずれろ。静かにやれ」と言い、そこに中腰になり、おらんの勉強の様子を見た。
 おらんは簡単な算術をやっているが、全く進まない。
「どこがわからないのか」と訊くと、「合っている答えが書けるかどうかわからないから、書けない」と言う。だったら、文字の練習でも先にしたらどうだと提案したが、そちらはだいたい大丈夫で、算術をしなければならぬと言う。どうしてだと問うと、おらんは俯き、「うちは薬屋だから、算術ができないと困るって」と消え入りそうな声で答えた。「店を継ぐのか」と訊くと、「わからない」と頼りない答えが返ってくる。
「合っているかどうかを見るのは、先生のやることだ。おらんがやるのは、解いてみること、先に進むことだ。間違えたって、何か罰があるわけじゃない。どんどんやれば、その分できることが増える」と言い、算術を進めるように説いた。
 おらんは大きく頷き、筆を動かし始めた。
 そこからは、間違ったところを文六が説明するだけである。
 なんだってまあ、こんなに時間がかかるのか、と思ったが、その様子を見ていて不思議と苛立ちは起きなかった。
 大きく真っすぐな目が、大層無垢でかわいらしい。
 こんなのが家にいたらかわいいだろうな、と文六は思った。
 ついさっきまで、鼻につくやつだと思ったのに、ちょっと親しくなって、純粋な目で見上げられ、頼りにされれば悪い気はしない。
「それにしても、行儀がいいな。お作法のお稽古でもしているのか」と文六が訊くと、「はい」と改まった返事をする。
「俺も前に少し兄ちゃんたちと行ったことがある。剣道場の近くにある女の先生のところ」と言うと、おらんが「同じ」と短く答えた。
「そうか。今も通っているのか」と訊くと、頷く。
 ほかに、お裁縫とお琴を習っており、手習いが済めばお茶や踊りも習う予定だが、その前に算術ができなければならぬ、と言う。
 親の注目を一身に浴びるというのも、なかなか大変なもんだ、と文六は思った。
「じゃあ、算術は俺が教えてやる。その後の稽古に通えなくなると困るからな」と言い、おらんは大層嬉しそうに頷いた。
 男兄弟の中ではまず見ぬ、白い小さな手や、艶やかな長い髪を結った様子などを文六は観察し、やはりこんなのが家にいたらかわいいだろう、と思った。
 おらんの算術は決して褒められたものではないが、それでも無駄な言葉を省き、必要なことだけを説明する文六の教えの賜物で、少しづつではあるが上達していった。
 弟が先生のところで本を借りると言うので先に帰ることにした文六は、おらんを迎えに来たおらんのお父ちゃんに会った。
 おらんのお父ちゃんは、思った通り、大層おらんを大事にしており、算術の面倒を見ている文六に、繰り返し礼を言った。
 そんなに礼を言わなくていい、という意図で、自分はもう習う算術はすぐに済んでしまって、いつも先生の算法の書などを見せてもらったり、新しい問題を解いたりしていると答えると、おらんの父は目を見開いた。
 日頃のお礼もしたいから、少し寄っていかぬかと言う。
 おらんの家は手習いからすぐのところで、少しの間ならばと文六は誘いに応じた。
 おらんの家の薬屋は、奥に数多の小さな抽斗が並び、そこに薬が入っていると言う。
 どんな薬ですか、と訊いてみると、手代が端から薬の名を言い始めた。
 途中いくつか出ずに、ええと、と抽斗を開けて確認するところもあったが、おらんの母が菓子と茶の用意をし、呼んでくれるまで、一通り教えてくれた。
 奥の間で茶と菓子をいただく時、文六は作法で習った正座を思い出した。
 背筋を伸ばし、脇は締めるか軽く開く程度、膝はつけるか握りこぶし一つ分開くくらい。足の親指同士が離れぬようにし、着物は尻の下に敷く。手は太もものつけ根と膝の間に指先が向かい合うように揃える。
「まあ、お行儀がよろしいこと」と微笑むおらんの母に、おらんが「同じ先生のところでお作法を習っているんだって」と教える。
「まあ」と微笑むおらんの母に、「でも、それほど長く通ってはいません」と一応文六は伝える。
 おらんの母に家のことを訊かれ、この先にある諏訪理田屋という茶葉を売る店だと答えた。
「確かお店はもう、お兄さんが継いでいるとか」
「はい。七人兄弟で年が離れていますから」と答える。
「まあ、七人も」
 そんな会話の後、そろそろ帰ります、ご馳走さまでした、と文六が立ち上がったところへ、茶を飲みにおらんの父がやって来た。
 そうだ、と文六はさっきの薬のことを思い出し、右端、三段目の抽斗、薬の名、続けて右から数えて五列目一段目の抽斗、薬の名、右から数えて七列目二段目の抽斗、薬の名を告げ、どういう効果があるのですかと尋ねた。
 おらんの父は目を見張った。
 さっき一度聞いただけで、場所も薬の名も覚えたのか、と尋ねる。
 はい、と答え、けれど効能を聞いていなかったので、いくつか気になるものがありましたと付け加えた。
 なんと……、と増々おらんの父は目を見張る。
 そろそろ帰りますと言う文六に、おらんの父は、ああ、と瞬きし、尋ねた薬の効能を教えてくれた。
 帰りには店の前まで見送ってくれ、「またいつでも遊びにいらっしゃい」と言ったのだった。


 おらんの父は『またいつでも遊びにいらっしゃい』と言ってくれたが、おらんの家にはあの時以来行っていない。
 剣道などにも通うようになり、そこでは文六と同じく算法が好きな同士がいた。
 家はお武家様の次男だと言う。剣の腕も確か、人望もあり、決して卑怯な真似はしない。言うことも筋が通っている。どこからどう見ても非の打ちどころのない人間がいるものだと文六は思った。
 その友から、文六は算法を褒められ、またものを覚える能力が並外れていると称賛された。
 将来はどうするのかと尋ねられ、店を手伝い、いずれはどこかの婿養子になるだろうと文六は答えた。すると意外なことに、この武家の子息も同じことを言う。いずれ婿養子の先を探さなければ、と。
 そういうものなのか、と文六は不思議に思ったものだ。
 その後、文六は歌や香の場に行くようになり、このお武家様の友人もまた己の道を本格的に進み始めたが、それでも時折顔を合わせれば、ほんの少ない時でも語り合ったり、碁や将棋の手合わせをした。
 この日も文六は歌合せの帰り、やはり所用帰りの友と会い、今日は将棋でもと、文六の家に誘った。
 さすがお武家様の息子とあって、作法もきちんとしたものだった。
 文六の穿くことのない袴をきれいに尻の下に敷き、足の親指同士が離れぬようにし、膝は握りこぶし一つ分開く程度、脇は締め、背筋は真っすぐである。
 将棋は互角といったところで、文六はすっかり前かがみになり、集中していた。
 そこへ、その集中をわざと削ぐが如く、「おおい、文六、文六」と三男、文三が呼ぶ。
 長男が店を継ぎ、次男が暖簾分けをした後、三男の文三が接客の方は仕切っており、本人に自覚はないのだろうが、時折ちょっと売り場を四男、五男が離れようものなら、やたらとうるさい。
 少し前より四男は新たなお得意様に茶を届ける日があり、その日は昼餉の時間頃から店を抜け、五男は遠縁の商いを手伝いに行く日があり、それは店主の長男直々の指示で、その時ばかりは二人とも、よほど外に行けるのが嬉しいのか、いそいそと出かけてゆく。そうして、文六にとっては、商い仲間、お得意様などとの交流にも欠かせぬ歌や香の場に行く日が、店を抜ける日であり、それを大義名分にこうして友との時間も持っているわけである。それをわかっている上で、三男の文三は配慮のかけらもなく、こうして突如弟を呼ぶ。
 忙しいのかも知れぬが、どっちにしろ呼ぶのであれば、すぐ来てほしいのか、後ででよいのか、そしてどのくらいの間いてほしいのかを先に伝える方が効率的だ。
 そういうことをすっ飛ばして、「文六、文六」と呼ぶ。
 気が散って仕方がない。
 暫し聞こえぬ振りをして、次の手を考えていたが、あまりにもうるさい三男の声に根負けし、文六は店の方に出た。
 一体なんだ、と思えば、あの薬屋の店主であった。
 隣にはちょこんと、かわいい娘が立っている。
 かわいい娘といっても、もう子どもではなく、いつ縁談がきてもおかしくないお嬢さんになっていたおらんだった。
「ご無沙汰しておりました」
 丁寧にそう言われ、「こちらこそ、お待たせしました」と文六は慌てて駆け寄る。
 全く文三は、やたらと名を連呼せず、どうして「お客さんがいらしている」と一言伝えられぬのか。文六と縁あるお人がいらして文六が在宅中なのだから、店の方に呼んだというところまでは、お商売をする人としても家族としてもしかるべき行為だ。ただ、如何せん、もうちょっとこっちにも気を利かせてほしいところだ。まあ、これを言えば、こっちが店で立ち働いている時に呼んでもらった分際で、しかも将棋をしておってと怒り心頭になるのはわかっているし、それも一応は理屈として通るので黙っていることにする。
「先日こちらの旦那さまに薬をお出ししたところ、また同じものを所望されましたが、ちょうど薬を切らしておりましたので、こちらから持って参りました。ついでといってはなんですか、お茶も買って行こうと思いまして。先ほど対応していただきました文三さんに薬を渡し、お代もいただきました」
 文六は小さくため息をつく。
 長男が所望したというのは、二日酔いの薬だ。
 この薬屋の二日酔いの薬は、他店よりも効きがよいらしい。
 薬を切らしていた、というのは、大方この辺りの旦那衆がここのところ、商いの集まりだと言いながら深酒し、翌日に手代やらご新造さんにこの店に二日酔いの薬を買いに行かせ、我が家は遅れをとったといったところだろう。その証拠に、今日長男は朝一同が集まる場ではなんとか平常を保っていたが、早々に奥に引っ込んだ。さゆを飲みながら横になっていたものの、見かねたご新造さんだか誰だかが薬を買いに行ったのだろう。
「どうも、ご迷惑をおかけしました」と、長男の代わりに文六は詫びた。
 なんで好きで深酒した挙句、寝込んだ長男の代わりに自分がここへ呼ばれ、頭を下げるのか。身内なんだから、というのは承知で、だからこうして頭を下げるが、どうにも納得がいかぬ。
「茶は、いつものでよろしいですか。それとも新茶にいたしますか」
 おらんの母が茶を買いに来た時、文六が店に立っていたのは一年ほど前である。
「相変わらず記憶力に優れておりますね。どのお客がどのお茶を買うか、覚えておられるのですか」
「全員ではありませんが、私がお受けした茶は覚えております」
「それはそれは……。では、いつもの茶と新茶をお願いします」
「かしこまりました」
 二種類の茶を渡す際、新茶の方のお勘定は入れなかった。
「それは困ります」と言うおらんの父に、「お忙しいのに出向いてくださったのですから」と言い、茶を渡す。
 帳面には、長男の二日酔い薬を届けていただいたお礼と書き込んでおくつもりだ。文六と違い、ちょっと時間が経つと、この勘定に入れずに売った新茶はなんだと忘れた誰かが騒ぐかも知れぬ。
「どうも、ありがとうございました」と、文六は店先までおらん親子を見送った。
 文六を見上げ、きれいにお辞儀したおらんは、すっかりといっぱしの町娘になっていた。なんとなく、自分へ向けた好意も伝わってくる。
 おらんはかわいいが、文六としてはもう少し大人の柳腰のはんなりとしたひとがいい。
 そう思い、首をかきながら戻ろうとすると、待ちくたびれたのか、廊下まで出てきた友人が、「ずいぶんかわいい娘ではないか、許嫁か」と訊く。
「まさか」と文六は否定した。
「薬屋の娘か」
「そうだ。聞こえたか」
「あのあたりでは、かわいらしい娘で有名だ。俺でよければ婿養子になるんだがなあ」
 ふと、文六は表情を止めた。
 かわいらしい娘で有名?
 婿養子?
「お武家様に生まれて、商家の婿になるつもりか」
「そういう場合もある」
 相手はあくまで冷静である。
 相手が冷静だと思ったのは、文六にとっては随分と久方ぶりのことであった。


 おらんのところへの婿養子を希望している者が少なくない、と知り、それはなんとなく、文六の心に留まった。
 いつものようにすっきりと記憶されるのとは違い、何やら居心地の悪さを感じる。
 季節は単衣から浴衣へと変わり、江戸ではあちこちで花の見ごろを迎えている。もう少しすれば、潮干狩りや舟遊びの時期だ。
 今日は香道の稽古があった。
 記憶力は自信があるが、四男のように味覚や嗅覚に文六は優れていない。したがって、あまり芳しい結果は得られぬ。
 得意なことでは称賛されても、そうでない世界に入れば埋もれた存在である。それを知るだけでも、まあ学びにはなると言い聞かせる。
 今日は香道があったので、絹の夏物の羽織に足袋を履いて出かけた。
 暑さに空を見ながら手をかざし、うっかりと道端の木の枝先に羽織をひっかけた。
 そこそこに大きな茶屋の息子であるからには、見苦しいなりをしてはならぬと、子どもの頃から言われてきた。ほつれてしまった袖先を見て、ああ、しまった、とため息をつく。
 そこへ、「文六さん?」と声をかけられた。
 振り返れば、布に包んだお三味線を抱いたおらんがいる。
 夏らしい白地に淡い桃色の細い縞の入った着物で、涼やかな飾り簪を挿している。
 この強い日差しを受けても肌白く、控えめに差した紅が映える。
 すぐに返事ができず、「ああ」と短く声を発した。
「素敵な羽織ですね。お似合いです。どちらかにお出かけでしたか」
 澱みなく、大人の口調でおらんは尋ね、文六に駆け寄る。
「ああ、香道に。だが、今しがた袖をひっかけまして」
 朴訥とした敬語を使う自分が滑稽であるが、どうにもならぬ。
「あら、でしたら、うちに寄ってくださいな。文六さんが算術を教えてくださったおかげで、お裁縫のお稽古にもきちんと通えて、のんびりとした私も、文六さんが教えてくださった進める、という教えに従って針を進めるうちに、丁寧で大層仕上がりも素晴らしいと先生に褒めていただけるまでになりました」
 そんなことを言ったこともあったか。
 子どもの頃の自分は、ほんのいくつか下の子に、随分と偉そうな物言いをしたものだ、とぼんやりと思った。
 そうしておらんに連れられ、おらんの家を久方ぶりに訪ねた。
 おらんの両親は息災で、先日は新茶の勘定を受け取らなかったことで、また礼を伝えられた。
「文六さんのせっかくの羽織がほつれてしまったそうです。うちで直してさしあげてもいいでしょうか」と、おらんを幼少より可愛がっていた父に尋ねる。
「ああ、もちろん。何か、麦湯でよろしいでしょうか。西瓜もありますから一緒にどうぞ」と、床の間に上げてくれる。
「急に申し訳ない」と、厚意に甘えることにした。
 床の間と続きの座敷で、おらんは裁縫道具を出すと、「羽織をこちらに」と、文六の後ろに回り、袖を抜くところから手を添えてくれる。
 あの子どもがどこでこんなことを覚えたのか……。
 おらんと定期的に会っていなかったことを文六は後悔した。
 床の間で文六は正座をした。
 糊のきいた着物をきれいに尻の下に敷き、白足袋の親指同士が離れぬように気を付け、背筋を伸ばす。膝をつけ、脇をしめ、手は太ももと膝の間に指先が向かい合うように揃える。
「まあ、本当に立派になられて」と、おらんの母が盆に麦湯と西瓜を載せ、やって来る。
「私は、まだまだです」
 先ほどの香道のこともあり、そう答えた。
「あの記憶力は今も健在で?」と、おらんの父が尋ねる。
「ああ、配置が変わっていなければ、多分、全て覚えております」と答える。
「大したお人だ」と、おらんの父がこれ感心といった様子で目を細める。
「はあ」と、文六は曖昧な返事をする。
 確かに子どもの頃、番頭が文六の能力を褒め、家族もそれを知り、手習いの先生も特別に算法を好きなように解かせてくれた。
 だが、なんというか、兄弟が多く、それぞれに長けている部分があれば、そうでもない部分もあり、それをいちいち、そして毎日誰かが口に出して褒めることが家ではなかった。
 長兄、次兄は生まれ持った店主としての器とでもいうものを持っていたし、三男の文三は大層実直でまあ、面白味がない、と思うところもあるが、いつも店のことを考え、商いにひたむきである。とても文六ではそうはいかぬ。四男の文史郎は味覚が大層優れており、茶の味はもちろんだが、米の味にもうるさく、出汁が変わるのにもいち早く気づく。香道の先生にもずいぶんと褒められ、この道に進まぬかとまで言われていた。五男の文五郎は、誰に対しても平等に優しい。客がお得意様であっても、たまたま通りがかりに寄ったお人でも、同じように接する。そうして、常に心穏やかで、どんなに忙しかろうが、人手が足りなかろうが、それを客に伝えぬ。弟である文六、末っ子の文左衛門の面倒も丁寧に見てくれたものだ。今改めて思えば、兄弟それぞれ長けたところがある。恐らく互いにそれをわかってもいるだろう。だが、猫かわいがりのように、大したもんだ、といつもいつも言われて育ったわけではない。だから、今、おらんの父の称賛がこそばゆい。
「確かに物覚え、算術に関しては、自分の中では得意です。ですが、及ばぬところも多々ございます」
「物覚えに優れ、算術まで得意とは、随分と素晴らしい才ですよ」と、おらんの父は言う。
「おかげさまで、おらんはなんとか手習いで教わる算術を習得し、お裁縫やお三味線、踊りなどにも精進できました」
 ふと、奥の間を見遣れば、背筋を伸ばして正座したおらんが、穏やかな表情で文六の着物の袖を繕っている。
 膝をきちんとつけ、脇は裁縫をしているので軽く開く程度、着物をきれいに尻の下に敷き、恐らく足の親指同士もつけている。
 そして、あっという間に繕いものを済ませ、きれいに畳むと、「こちらに置いておきますね」と微笑む。
 あんなに算術で時間のかかったおらんが、随分と手際がよいではないか……。
 麦湯と西瓜をありがたくいただき、おいとまする際、おらんは父に頼まれ、薬の卸問屋への遣いを頼まれた。
 並んで町を歩き、おらんが父に頼まれた薬の名を延べ、その薬を覚えているかと文六に問う。
 文六は抽斗の場所と薬の効能を述べる。
「合っているか」と訊けば、「私はわからないので、合っているかもわかりませんが、文六さんが間違うことはないでしょう」と言う。
 随分とおらんの家族に買われていると感じる文六は、ここで心にあったことを伝えることにした。
「俺が世話をしたのは、ほんの一時のことだ。今になっても恩に着る必要はないんだ。おらんと一緒になりたいという人は多くいる。それを伝えておきたかった」
 言ってから、言うべきではなかった、という後悔が押し寄せた。
 おらんは不思議そうに文六を見上げる。
 ああ、子どもの時と同じ目だ、と文六は思う。
「あの、一緒になりたい人というのは、例えばどなたでしょうか?」
 はたと、文六は考え込む。
 そこまで友には聞いておらぬ。
「……誰だろう」
「文六さんでもわからないじゃあありませんか」
 なんだか生意気な口を利くようになったな、と思う。
「まあ、そこまでは知らないというだけだ」
「知る必要がないことでしょう」とおらんは言う。
「否、それはない」
「私でも判断できることはございます」
 断言されて、文六は「しかし……」と言葉を濁す。
 おらんはじっと文六を見上げた。
「けれど私はお裁縫の他のお稽古事もそれなりに上達しています。お台所の方も自信があります。ただ、文六さんにとって得意な算術が苦手というだけです」
 わかっている。
 本当に立派な娘さんになった。
 それを言わなければと思うのに、伝えられぬ。
 必要なことは伝え、不必要なことは省く。
 文六にとって得意であったそうしたことが、ここのところ難しい。
「そうか……」と文六は言うに留めた。


 それから後、長兄の元におらんの父がやって来た。
 文六が呼ばれ、おらんの婿養子にと頭を下げられた。
 文六は慌て、「顔をお上げください。私は香道も、歌も、いけません。兄弟の中には、香道、歌とそれぞれに私よりは長けている者もおりますが、それもそこそこといいましょうか……。つまり、その……」と言葉に詰まる。
「お前の意思はどうなのだ。はっきり答えろ」と長兄が促す。
 ……いいのだろうか。
 果たして自分で……。
「精いっぱい精進し、おらんさんに相応しい婿になれるようにいたします。どうか、おらんさんと一緒にしてください」
 文六は膝をつけて正座し、着物を尻の下にしき、足の親指同士をしっかりとつけ、脇を締めた状態で、畳に手をつき、額をつけた。


 こうして文六の婿養子の先は、あっさりと決まった。 
 ぐずぐずと考えていた日々が嘘のようである。
 だが、ふと考えれば、次男から下、三男、四男、五男とまだ店にいる現状で、六男の自分が先に身を固めてよいものか……。
 それを察したかのように、長兄は、家の事情をおらんの父も同席する場で説明した。
 実は四男、五男にも許嫁がおります、と長兄が切り出した際には、「え」と文六が声を上げた。
 しらっとした様子で長兄は続ける。
 今回ありがたいことに、六男である文六も良縁に恵まれました。ただ、三男の縁談がまだ決まっておりません。四男、五男も三男の縁談が決まり次第、婿養子になる手筈です。このことは、今のところ私と妻と当人、許嫁のそれぞれの一家しか知りません。申し訳ありませんが、今しばらく、文六とおらんさんは許嫁ということでよろしいでしょうか、上の兄弟の縁談が決まり次第、そちらに行かせていただく所存ですと述べた。
 おらんの父は、もちろんでございますと、快諾してくださった。
 そうしておらんの父が帰った後、長兄はそういうことだから、暫くは商いの勉強の一環で香とお作法を別の師のところで学ぶということにしておく、と文六に言った。つまり、おらんのところへ行く際の口実である。
 四男の時にこうした口実を考えたのであろうが、それも五男に六男の文六もとなると、さすがに三男文三が不憫な気がしないでもないが、今のところはそれがいいと文六は思うことにした。
 おらんの店で、文六は帳面をつけるところから商いの見習いを始めた。掃除から始めますという文六に、おらんの父は適材適所という言葉がございます。帳場にいながら店の様子を見てくだされば、自然とわかりましょうと言う。こんなに特別扱いでよいのだろうか。
「そちらのお商売もありますのに、ご無理を申してすみません。あの人は文六さんが息子になるのが嬉しくて仕方ないのですよ」とおらんの母が茶を淹れてくれ、告げる。
 はあ、と文六はわかったような、わからぬような思いで頷くが、それは理屈ではない、大層心地よい温かさをもたらすものであった。
 そうしておらんは、「文六さん、文六さん」と子のように、文六についてまわる。
 帰り際も、次はいつ来るのかとしきりに尋ねる。
 同じことを何度も訊かれて、これほど嬉しいことがあったろうか……。
 幸せをかみしめ、家路につく折、お武家様の友と会った。
「久しぶりではないか」と言う友に、「実は……」と、文六は今内緒であるがおらんと許嫁になったことを明かした。おらんを褒めていた友を傷つけることになるかも知れぬ、と心配したが、友はからりと笑い、「それはめでたい」と心の底から祝福してくれた。そして、実は幼馴染で、武家の一人娘の元へこのたび婿入りが決まったと、自身の朗報を告げる。
「それは、……よかったなあ。おめでとう」
「ああ、そのために剣道も茶も香も、相手方の父上の得意とする将棋も囲碁も頑張ってきた。その努力が報われる」と晴れ晴れした笑顔で答える。
「忙しい身で、会えば将棋だ碁だと私を誘ったのは、そういう魂胆か?」
 はたと過去を思い出し、友に問えば「それだけではない。文六ほど強い相手はいないからな」と言う。
 まあいいか、と文六は思う。
 とにかくよかった。
 そんな二人の横を、柳腰の美しい人が通り過ぎ、その先で待ち合わせている人のところへ駆け寄った。
 文六の視界に入った、いわば文六の理想の姿をしている名も知らぬ人が現れたことも、そのお人に決まったお相手がいるようだということも、今の文六の心を少しも揺らしはしなかった。

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