[87]次期・正座先生と正座先生のクリスマス会
タイトル:次期・正座先生と正座先生のクリスマス会
分類:電子書籍
発売日:2020/04/01
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:84
定価:200円+税
著者:眞宮 悠里
イラスト:鬼倉 みのり
内容
高校2年生のコゼット・ベルナールは、フランスから日本にやってきた留学生で、星が丘高校茶道部の部長。
年末となり、茶道部では毎年恒例の『クリスマス会』に向けた準備が始まった。
クリスマス会は、コゼットが茶道部に入部する決め手となった行事。
つまり、クリスマス会をもって、コゼットの茶道部部員としての活動は一周年を迎えるのだった。
そんなコゼットは、この一年間の活動を振り返りながら、今は受験勉強で忙しい前部長・リコのことを考える。
すると準備中のある日、リコが現れて……。
次期・正座先生のコゼットは、茶道部のリーダーとして奮闘中!
今回は茶道部入部してちょうど一年のコゼットが、これまでの活動を振り返りながら、前部長のリコと、改めて正座をします。
『正座先生』シリーズ第25弾も、どうぞお楽しみください!
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本文
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1
日本語が不得手で、視野が狭かった。
わたくし『コゼット・ベルナール』が一年前の自分のことを思い出すとすれば、このような表現になるでしょう。
一年前のわたくしは、当時高校一年生。
日本にやってきたばかりの、少し……というか、かなり生意気なフランス人でした。
一年前のわたくしは、日本のことを、かなり嫌っていました。
なので、日本のみなさまに対しても、日本に伝わる文化に対しても、生意気づくし。
ツンとした態度ですべてをはねのけ、あるいは、興味すら持とうとしていませんでした。
なのにわたくしは一年前、日本を訪れ、現在通っている星が丘高校の留学生となりました。
どうしてわたくしは、そんな、訳のわからぬことをしたのでしょうか?
それは、わたくしの双子の姉である『ジゼル・ベルナール』お姉さまが、一年と少し前の夏、日本へ強い関心を持つあまり、突然日本への留学を決められたからです。
ジゼルお姉さまは、もともとフランスの高校に通っていました。
わたくしも同じ高校に通っており、当然、わたくしたちはこのまま、一緒に卒業するのだろうとばかり思っていたのです。
それが、この、急な留学です。
これは、わたくしに相談など、ないも同然の行動でした。
わたくしは、それがどうしても気に入りませんでした。
大好きなお姉さまを、大嫌いな日本に取られたような気分になったからです。
なのでわたくしは、怒りに任せて、自分まで日本へ留学を決意。
つまり、ジゼルお姉さまを説得して、フランスに連れ戻すつもりで来日したのです。
しかし、実際は……わたくしはぴったり一年が経過した今も、留学を続けています。
それどころか、フランスの高校ではなく、この星が丘高校で、ジゼルお姉さまと一緒に卒業する気でいるのです。
そして、我ながら日本語が非常にうまくなり、視野も、以前よりは格段に広まったというわけです。
なので、わたくしがこの一年を振り返り『自分の二大・大きな変化』をあげるとき、浮かぶのは、先ほどお話しした二点における成長……つまり『日本語の上達』と『視野の拡大』になるのでした。
それでは、それらを詳しくおさらいしていきましょう。
まず『日本語の上達』です。
わたくしはもともと、日本で暮らすつもりもなければ、きっと旅行へ行くことすらないだろう……。と、考えていました。
日本を好きなのはあくまでジゼルお姉さまであり、わたくしではない。
であれば、日本語を学ぶ必要もない。
万が一日本に行くことがあったって、ジゼルお姉さまや、日本にいる親戚に頼れば、日本語が話せなくたって問題ないだろう! と、考えていたのです。
たとえば、一日から一週間程度の滞在なら、日本のみなさまとは最低限の会話、あるいは通訳を通した会話しかできなくたっていいからです。
だけど、長期間生活するとなれば、話は別ですわよね。
だって、毎日周りのみなさまの会話を理解できず、一人でキョトンとしている。
それが数か月、いえ、下手をしたら数年も続くなんて、面白くないじゃありませんか!
なのでわたくしは、日本に来てすぐ、猛勉強を始めました。
ええ、正直に言いましょう。
わたくしは長期留学を決意するはるか前……つまり『用を済ませたら即、フランスに帰る!』と考えていた頃から、すでに勉強を始めていました。
要するに実際のわたくしは、長期間どころか、数日間程度しか『自分だけ言葉がわからない』状態に耐えられなかったというわけです。
そんなわたくしの日本語は、留学を始めた頃こそ、若干カタコトなものでございました。
ですが、今では、日本のみなさまにも引けを取らないほど、自在に日本語を操れている! という自負がございます。
これはもちろん、自負だけではございません。第三者からの評価も頂戴しています。
特に星が丘高校においては『日本語がうますぎる留学生』の称号まで頂戴しているくらいなのです。フフン!
……話がそれかけてしまいました。とにかく、そのくらい真面目に勉強したということです。
次に『視野の拡大』です。
一年前のわたくしは、正直なところ、ジゼルお姉さまをフランスに連れ戻すことしか考えておりませんでした。
だから先ほどお話しした通り、日本に来ても、その魅力には一切触れようとしない。
目には見えているけど、触れてみようとは思わない。
耳には聞こえているけど、理解しようとはしない。
どれだけ周りのみなさまに『日本には、こんな素敵なものがあるよ』と言われても、無視……あるいは拒否していたのです。
それが大きく変わったのが、一年前の『茶道部クリスマス会』でした。
わたくしはこの頃、三つのことに気づき始めていました。
まず、一つ目は、ジゼルお姉さまの意思は固く、留学を途中終了するつもりはまるでない。それは、わたくしがどれだけ説得しようとも揺るぎそうにない……ということです。
次に、二つ目は、それだけ日本には、ジゼルお姉さまが夢中になるに値する、様々な魅力があるらしい。ということです。
そして三つめは、日本に来たにもかかわらず、その魅力を無視し続けることはもったいない。
それ以上に『周囲のみなさまが当たり前のように知っていることを、自分だけが知らない』『周囲のみなさまが容易にできていることを、自分だけができない』という状況は、実に悔しい! というものでした。
あれ? 四つになってしまいましたでしょうか。まあ、それはいいとして。
そう……。つまりは、これも日本語と同じだったのです。
わたくしは、自分でいうのもなんですが、ちょっと尋常でないほどの負けず嫌いです。
そんなわたくしにとって、前述の状況は『負け』以外の何でもありません。
であれば、即座に改善を試みる必要があったのです。
中でも『このままではいられない!』と感じたのは『正座』についてでした。
正座とは、日本のみなさまであればご存知の通り、日本における伝統的な座り方です。
実際に浸透したのは明治時代以降で、実は比較的新しい座り方らしい……。ということはさておいて。日本の文化に親しむのであれば、必須ともいえる座り方なのは間違いありません。
さらに、日本で暮らすにあたり、わたくしはこの『座り方』についても学んでおく必要がありました。
日本はフランスと違って、靴を脱ぎ、カーペットなどの上に、じかに座ることが非常に多い国だからです。
それならば、座る時は、崩れた姿勢よりも、正しい姿勢がいい。
さらに言えば、身体によくない姿勢よりも、身体によい姿勢の方がいい。
もっと言えば、習得しておけば、色々なことに活用できる座り方の方がいい。に、決まっているではありませんか!
かくしてわたくしは、ジゼルお姉さまが所属している茶道部のみなさまのご指導のもと、もっとも正しい姿勢であり、身体によい姿勢であり、色々なことに活用できる座り方である、正座を学び始めました。
それがこの『視野の拡大』に、大きく影響したのです。
わたくしが最も注目したのは、正座が非常に『色々なことに活用できる座り方』であることです。
たとえば、正座を用いて楽しむ文化……具体的には、茶道や華道、剣道などをするときは、正座をして活動するからです。
結果、わたくしは『ジゼルお姉さまが夢中になっている茶道というものについて、もっと知ってみよう』『それから、もっともっと正座を活用してやろう』という気持ちで茶道部に入部します。
そしてそのうちに、さらに欲を出し『入部したからには、真剣に取り組もう』『真剣に取り組むには、いっそ部長を目指そう』『部長を目指すからには、少しでも人間的に優れた存在になれるように頑張ろう』……などなど、努力を重ねていくうちに、一年後の現在、本当に茶道部の部長になってしまいました。
その結果、わたくしの日々は非常に充実し、友人は増えました。
部活動の一環で、様々な場所へ出向くようにもなりました。
また、ときには、茶道や正座を教える『先生』として、校内はもちろん、フランスに一時帰国したときにも、正座を教える『正座先生』として活動することも増えてまいりました。正確には、わたくしはまだ修行中の身ですので『次期・正座先生』と名乗っているのですが……それはさておいて。
とにかくこの結果、わたくしは活動の中で見たもの、触れたものに影響され、以前よりも、ずっと広い視野を持てるようになりました。
具体的には、たとえば失敗してもそこから何かを得ようと努力したり、失敗の先に、別の成功が待っているかもしれないと、気持ちの余裕が持てるようになったりするようになりました。
また、周囲を客観的によく見られるようになり、以前よりも人の気持ちがわかるようになった気がします。
……ところで、こうして自分の過去を振り返ってみると、わたくしを突き動かしているのは、常に『現状が面白くない』『現状をよりよく変えたい』という『負けず嫌いパワー』のような気がします。
思うような現状にいない自分。
わたくしは、そんなダメな自分が許せないから、ダメな自分を人様に見せたくないから、学び、成長し、変化しようとします。
そのエネルギーは我ながらすさまじく、これによってわたくしは進んできたと言っても過言ではないでしょう。
だけど、このような超速で進む機関車のようなわたくしにも、不安は常にあります。
それは『自分は本当に成長できているのか?』という不安です。
わたくしは、日々、自分なりに努力を重ねているつもりです。
それでも、その努力は実を結んでいるのか? あるいは、結びそうなのか?
第三者から見ても、自分は成長し続けられているのか?
自分は、昨日よりもより良い存在になれているのか?
と、ふと、心配になるのです。
これはおそらく、わたくしの性格が深くかかわっているものなのでしょう。
わたくしは何か目的があって、それが計画通りに行ったとき、それを『努力したのだから当然だ』と感じます。
逆に、思う通りに行かなかったときは『努力が足りなかった』あるいは『努力をしたのに、この程度の結果だなんて残念だ』と思ってしまいます。
つまり、どちらに転んでも、自分を褒められるようにはできてはいません。
わたくしは人一倍認められたい、褒められたいという気持ちの強い人間ですが、自分で自分自身を認めたり、褒めたりすることは、とにかく苦手なのです。
結果、わたくしは、いつも自分の至らないところばかりが気になってしまいます。
理想の自分がいるのに、その人には永遠になれないような、近づくこともできないような……そんな気がしてしまうのです。
だけど、これに関しては、誰かに何とかしてもらえるようなものではないように思います。
たとえば、自分のこういった性格を、誰かに指摘されたとします。
そんな時、わたくしは『それはわかっているのです。自分なりに変える努力をし、みなさまのアドバイスも聞き入れながら試行錯誤しているつもりです。でも、なかなか変化がないのです……』と言わざるを得ません。というか、これ以外のことは言えないのです。
つまりそのくらい、わたくしにとってこの問題は、改善の難しい事柄といえるのです。
それでも、昨日よりも自分のことを好きになりたい。
たとえ思うように成長できていないときだって……。変化を数値で示したら、淋しい結果になっているときだって……わたくしは、自分の褒められるところを見つけられるようになりたいと思っています。
そのためには、自分の成長をより実感できるように工夫する必要があるように思います。
ということで……今回わたくしは、その『工夫』をいろいろしてみようと思っているのです!
それでは、冬の『次期・正座先生』としての活動を、始めましょう!
2
「はぁ……今朝は冷えますわね」
思わずひとり言を言うと、吐く息は真っ白でした。
十二月の半ばの平日、朝七時ごろ。
わたくしはただいま、このところ考えていた『自分の成長をより実感するための工夫』の一環として、ここ『星が丘神社』に来ております。
星が丘神社は星が丘公園の敷地内にあり、これから向かわなくてはいけない星が丘高校からは、少し離れた所にございます。
ですが、今日は頑張って早起きをして、来てみました。
具体的には一時間早い起床です。
しかしここで『これのどのあたりが、自分の成長をより実感するための工夫なの? 早起きをしたから?』という声が聞こえてきそうです。
しかし、今回起床時間は関係ありません。
成長を実感する根拠は『わたくしが本日ここに来たこと』自体にあるのです。
一年前のわたくしは、神様や悪魔、幽霊といった、不思議なものの存在を、あまり信じてはおりませんでした。
また、たとえば今日のように神社などに来て、神様にお願いごとをするときも、基本的には自分のことばかりお願いしていたような気がします。
ですが、この一年間でそれもすっかり変わりました。
わたくしはこの神社に、本当に神様がいらっしゃることを知っており、間違いなくご利益が期待できると確信しています。
にもかかわらず、今回は自分のことではなくて、とある方々の輝かしい未来をお祈りしにやってきたのです!
これは成長……かどうかはわかりませんが、間違いなく、変化ではある! と、わたくしは感じています。
い、いかがでしょうか? 変化ですわよね!
「二拍手二礼、でしたわよね」
ということで、今回お願いするのは、茶道部の先輩方を始めとする、現在高校三年生の親しい方々の大学受験合格です。
日本に来た頃は、当然のことながらジゼルお姉さましか知っている人がいなかったわたくしにも……星が丘高校生として、茶道部員として過ごすうちに、今ではたくさんの友人ができたのです。
まず最初にお祈りするのは、わが茶道部の前部長である『サカイ リコ』様の、星が丘大学合格です。
星が丘大学はこの星が丘市にある国公立大学で、つまり、なかなかの難関大学です。
リコ様であればきっと……と思いたいところですが、ご本人曰く、まったく油断はできないようです。
なので、本日は受験勉強でお忙しいリコ様の代わりに、わたくしが参拝にやってきました。
わたくしの本気のお祈りで、リコ様が神様にお力添えいただけるのなら、最高です。
しっかりお参りをいたしましょう。
次にわたくしがお願いするのは、リコ様とわたくしのご友人で、毎日お昼ご飯をご一緒させていただいている『キリタニ アンズ』様の、月の谷大学合格です。
月の谷大学はここ、星が丘市の隣の市『月の谷市』にある大学で、この近辺では最も難しい大学となります。
ですが、アンズ様は非常に優秀な方ですので、合格は間違いなしと言われております。
これにはわたくしも同意見ですし、そもそも『アンズ様が不合格になってしまうのではないか……』と心配している方は、周囲にはお一人もいらっしゃらないように感じております。
だけど、わたくしが思うに、アンズ様はそれゆえの淋しさを抱えているように思います。
アンズ様は『アンズ様なら大丈夫』と思われすぎているせいで、不安を感じるときも、人には少し相談しづらい。
なので、周囲の期待と信頼をありがたく思いつつも、心のどこかでは少し淋しかったり、残念に思っていらっしゃったりするのではないか……?
と、勝手ながら、考えてしまうのです。
なのでわたくしは、アンズ様の合格も、こうして力いっぱいお祈りさせていただこうと思っています。アンズ様、絶対合格なさってね!
そして最後は『ナツカワ シュウ』様の、東京大学合格です。
ナツカワ様は、茶道部の部員でもなければ、リコ様のクラスメートというわけでもありません。
実はアンズ様とは古くからのご友人であったようですが、出会った当初、わたくしもリコさまも、これを知りませんでした。
それは、ナツカワ様とわたくしたち茶道部は今年の夏に、部活対抗で行った、とある校内行事を通じて、一気に親しくなったからです。
そして今ではわたくしたち茶道部は、ナツカワ様とだけはなく、ナツカワ様の所属する数学部とも、部活ぐるみで仲良くなっているというわけです。
さて。そんなナツカワ様が受験される東京大学については、もはや説明するまでもございません。日本で、最も難しい大学です。
かつて日本嫌いだったわたくしでさえ、フランスにいた頃から知っていた学校なのです。
ゆえにナツカワ様は、どれだけ勉強をしても、しすぎることはないように思えます。
同様に、どれだけお祈りしても、しすぎることはないでしょう。祈りましょう!
「…………」
無言でお参りをしながら、わたくしはお三方のお顔を思い浮かべます。
お三方とも、この一年で親しくなった方々です。
実はもう一人、この一年でとても仲良くなった先輩がいらっしゃり、その方は『モリサキ ユリナ』様というのですが……。
ユリナ様は先日は星が丘体育大学の推薦受験に無事合格されたので、今回の合格祈願対象からは外れているのでした。
なので今日のわたくしは、この三名に注力させていただいております。
そういえば、初めてこの星が丘神社に来たとき、わたくしはユリナ様と一緒でした。
その日わたくしとユリナ様は、現実ではありえない奇跡を目撃し、星が丘神社に住まう神様の存在を確信したのです。
『それは、どんな奇跡だったの?』
まぁ、いい質問ですわね。お参りも終わったことですし、お話ししましょう。
その奇跡は、たった今目を開けたとたん、まさに見えたものによく似ています。
この星が丘神社境内の何もない空間から、突如人が、ニュッ。と、飛び出してくる……という奇跡だったのです。
ん……? 冷静になってみると、これは『よく似ている』どころの話ではありませんね。
わたくし、今、あの日とまったく同じ奇跡を目撃したような気がします。
ということは……。
「トウコ様!?」
「ほっほっほっ。おはようコゼット。よく気づいたのう」
噂をすれば。でございます。
お参りを終えたばかりのわたくしのところに、星が丘神社の神様がご降臨されました!
そうなのです。星が丘神社の神様は、今こちらにいらっしゃる、古めかしい口調でお話しされている小柄な若い女性――正確には大変ご高齢なのですが、容姿は若いので若い女性と表現させていただきます――です。
こちらの方こそが、今は人間の姿を取りながら、神様としてだけでなく、わたくしたち星が丘高校茶道部の特別講師としてもサポートしてくださっている……『ヤスミネ トウコ』様なのです!
「もう。あんな登場のされ方をしたら、誰だって気づきますわよ! 驚きましたわ!」
「すまんすまん。この前借りた正座の本を返そうと思ってな。
今日マフユに持たせようかと思ったら、ちょうどコゼットが参拝しに来てくれたもんじゃから、思わず飛び出してしまったわい」
「あら! もうお読みになられましたの?」
「もちろんじゃよ。ほい。貸してくれてありがとうな」
トウコ様はペコリと小さく頭を下げると、手提げに入れていた一冊の赤い本を、わたくしに差し出します。
それは、最近購入したばかりの、正座に関する『正座本』。『血管を強化するスーパー正座法』でございました。
「この本は新しい視点でよかったのう。
正座をすることで、血管が鍛え上げられる。
その結果、血圧が安定したり、疲れにくい身体になったりする。
さらにご老体にとっては、血管の強化は突然死を防いだり、認知症の予防効果もあったりする強い味方である! と聞いて、驚いたわい」
「そうなのですわよ! わたくしも、読んだときは驚きましたわ。
そういえば、最近トウコ様は、老人ホームでも茶道と正座をお教えになられてるのですわよね。
この本が老人ホームでの活動に役立ちそうなのでしたら、わたくしも嬉しいですわ」
「そうそう。そうじゃった!
コゼットの言った通り、おとといの指導でこの本が早速役に立ったのじゃよ。
今回は、それも伝えたくて来たんじゃった。
特に、この、血管のコンディションが良くなると、健康になる。
では、どのようにして血管のコンディションをよくするのかというと、それは血流をよくすること。
具体的には、正座をするのがよい。という話には、みんな強い関心を持っておった。
正座をするということは、つまり足を折りたたむから、折りたたんだ膝から下は圧迫されて、血管をギュッと締めることになるよな。
この、一度血管をギュッと締めた後に、正座をやめてパッと血管を緩めることによって、血流がよくなる。
つまり、無理して長時間正座をする必要はなく、短時間の正座でも血管のコンディションをよくする効果がある。
日々の暮らしの中で、無理のない範囲で正座をしていると、それだけで健康によい!
正座をやめたとき、足がジンジンすることもあるが……実はこのときに身体の中で一酸化炭素が分泌されており、この一酸化炭素こそが血管のコンディションを整える役目を果たしている!
という話が、ホームで評判じゃった!
それまでは『茶道には興味があるが正座は苦手で……』あるいは『長時間正座ができるか不安だし、足がしびれるのがつらい……』という方が少しおられたんじゃが……。
たとえ途中から正座を続けられなくなっても、足がしびれてしまっても……ほんの短時間でも正座をしたことが健康につながる!
と考えると、みな正座への抵抗感や不安感が消えたようなのじゃ」
「なるほど! わたくしたち高校生はまだ健康に関する意識が低く『健康法』という視点ではあまり正座を見たことがございませんでしたが……。その通りですわよね。
そうだ。これからはわたくしたち茶道部も、トウコ様のように『健康にもよい』という観点からも、正座をお勧めしてみようと思いますわ!」
「うむうむ。ぜひ参考にしてくれると嬉しいぞ」
思わず境内で盛り上がってしまいましたが、少し考えると、これはなかなか不思議な構図です。
星が丘神社の神様と女子高校生が、神社で朝から会って、正座談義をしている。
まったく、こんな不思議な光景を、一体誰が信じるのでしょうか?
わたくし自身、いまだに少し信じられないところがあります。
だけどこれは、わたくしが今年の五月、ユリナ様と共に星が丘神社を訪れなければ、存在しなかったものでもあります。
つまり、創作物などでよくみられる概念『パラレルワールド』が本当に存在するのだとしたら……。
ここではない別のパラレルワールドには、星が丘神社に行かず、トウコ様の存在を知らないわたくしがいる。
それどころか、茶道部に入部しなかったわたくしや、そもそも留学をせず、日本に偏見を持ったままのわたくしも存在するのでしょう。
それでもわたくしは、こう考えます。
別のパラレルワールドのわたくしは、きっとそれはそれで日々ベストを尽くし、様々な人に出会い、このわたくしとは違う成長を遂げているのでしょう……と。
なのでわたくしは、そんな別のわたくしを否定はしません。
トウコ様に出会えなかったわたくし。
茶道部に入らなかったわたくし。
日本での生活を送らなかったわたくし。
そんなわたくしが別の世界にいるとして、それはそれでわたくしの選んだ道なのです。
……ですが、怖くはあります。
なぜならその世界のわたくしは、日本も、正座も、茶道も、今ほどには好きになれてはいない可能性があるからです。
そんなことを考えていると、ここでトウコ様からご質問をいただきました。
「ところで、今朝は何をお参りしに来たんじゃ?
今年はもう茶道部のイベントも、定期テストもないじゃろうし。
リコたち……つまり三年生たちの合格祈願なら、先週もしておったじゃろう」
「それがですねトウコ様。
ご指摘の通り、わたくし、先週もこちらに参拝しましたが……。
考えました結果、本日からみなさまの受験終了まで、毎週お参りに来ることにしましたの。
継続は力なり、と思いまして!」
わたくしのこの回答は、トウコ様には少し意外なものであったようです。
トウコ様は『おや』と目を見開くと、このようにおっしゃいました。
「ほう? それは意外じゃな。
コゼットは、たとえ神様が実在して、願いを聞く力があるとわかっていても……。
あまり、頼りすぎないようにしたい。できるだけ、自分の力で解決したい。と考えるタイプだと思っておったわい」
「ええ。それもまた、ご指摘の通りなのですけれど……。
だって、わたくしが先輩方にできることと言えば、こうして合格祈願することくらいなんですもの。
もちろん日々の勉強のお手伝いもしておりますが、それだけでは足りないような気がしまして。
やれることは、みんなやっておこうと思うようになりましたの」
今度は納得いただけたようです。
トウコ様はニカッと笑うと、わたくしの背中をポンポンと叩きました。
「なるほどな。良い心がけじゃ。つまり『ベストを尽くす』ということじゃな」
「はい! おっしゃる通りですわ」
むむ?
ここまでお話ししながら、わたくしはふと思いました。
……よく考えたら、別のパラレルワールドに住むわたくしも、意外と、このわたくしと近いところに落ち着いているのかもしれない……と。
なぜなら、少しずつ違う人生を歩もうとも、わたくしのこの『昨日よりも成長したい』『ベストを尽くしたい』という思いは、どのわたくしにも共通するものであると思うからです。
たとえば、トウコ様に出会えなかったわたくしは、トウコ様という神様の存在を知ることはできないわたくしです。
しかし、茶道部にはすでに入部しているわたくしではあるのです。
ですからこの高校二年生の冬のこの時期、きっと少しでもリコ様たちの力になるため、星が丘神社で、真剣に合格祈願をしていることでしょう。
たとえば、茶道部に入らないわたくしは、茶道部のみなさまには出会えない人生かもしれません。
ですが、日本に残ったということは、他に日本でやってみたいことを見つけているはずです。
ということは、それは、日本にいなくてはいけないもの。つまり、日本の文化である可能性が高い。であれば、打ち込んでいることは茶道でなくとも、正座をしている可能性は高いでしょう。
それならば、わたくしは間違いなく、正座の技術を身に着けようとするでしょう。
その結果、きっと、ジゼルお姉さまを通じて茶道部のみなさまと出会い、学んで、仲良くなって……。
最終的に茶道部に入部し、最も打ち込んでいることと『掛け持ち』するようになっているかもしれません。
たとえば、日本での生活を送らなかったわたくしは、いよいよどんなわたくしなのか、想像もつかなくなってきますが……。
無理にジゼルお姉さまと一緒の暮らしをしようとせず、一度距離を置いたことで、逆に、精神的に成長しているかもしれません。
その結果、ゆっくりと時間をかけて正座への認識を変え、ジゼルお姉さまから正座を学ぶようになっているかもしれませんし……。ジゼルお姉さまから茶道部のみなさまを紹介していただき、友人として仲良くなっているかもしれません。
そう思うと、少し安心してきたのです。
問題は、今ここにいるわたくしが、他のパラレルワールドのわたくしよりも、いえ、せめて同じくらいの速度で成長できているかどうか? ということですが……。
「うーん。コゼット。現在おぬし、何かに悩んでおるな。
さらにその悩みがどんなものか、わらわには、なんとなくわかったぞ?」
「ええっ? さすが神様ですのね!? トウコ様」
ここでわたくしの顔を、トウコ様がニヤリと笑ってのぞきこみます。
どどど、どういったことでしょう。
神様は、そばにいる人間の心を、現在進行形で読み取ることができるのでしょうか?
……と、一瞬思いましたが、どうやらそうではないようです。
トウコ様はフフフと笑うと、わたくしの肩に、優しく手を置きました。
「いやいや、神様じゃなくてもわかるわい。
あらかた、今のコゼットは『定期的な参拝』という新しいことをしてみたり、先輩たちの合格祈願に対して、できる限りのことをしてみたりと『ベストを尽くす』ことで、自分の成長を実感したいと思ってるんじゃろう。
コゼットは常に進歩していたいタイプじゃからな。
毎日同じことをしてるだけじゃ、心配になるんじゃろ。
だから今日もここへ来て見たと」
「あはは……やっぱりお見通しですわ。
わたくしは、無理やりにでも自分の生活に変化を作ることで、自分は『変わろうとしている』『成長しようとしている』と実感しようとしていましたの。
残念ながら……今のところ、そのくらいしか実行できているところはないのですけれど」
「んー。わらわが思うに、おぬしはそのほかにも変化しておるぞ。
たとえば『変化していないように見える』ことこそが変化……。という場合もあるのじゃぞ」
「ど、どういうことですの?」
トウコ様のお話は難しく、わたくしには理解が追いつかないところがございます。
ここは素直にご説明を求めましょう。
「『変化していないように見えるが、実は変化していること』。
それは、たとえばわらわから見た、おぬしの茶道部と正座に対する姿勢じゃ。
コゼットは、元々は日本のことが好きではなく、むしろ嫌っておったのだろう?
だから当然、一年前の今頃は茶道について何も知らず、正座に至っては、嫌いだったと聞いておる。
でも、わらわはその頃、まだコゼットに出会ってはおらぬよな?
だから、わらわはそもそも『茶道が嫌いなコゼット』『正座が苦手なコゼット』を見たことがなく、想像もできないのじゃよ。
ゆえにわらわにとっては、コゼットは最初から『茶道が好き』で『正座が得意』な人間なのじゃ。
だから、わらわから見ると、当たり前のこと。あるいは、わらわから見る限りでは何の変化がないように見えることの中にも、実は大きな違いや成長が存在しているということじゃ。
それは、コゼット自身においても同じじゃよ。
自分では認識できないところに、変化は起きてるんじゃ」
「なるほど……」
正直なところ、あまりピンとこない話ではございます。
しかし『トウコ様から見た、おぬしの茶道部と正座に対する姿勢』に関しては、確かにその通りです。
トウコ様のおっしゃる通り、わたくしは、わたくし自身ですら気づいていないところで、何か変化をしているのでしょうか……?
うーん。残念ながら、思い当たりません。
「トウコ様ー! コゼット殿ー!」
と、思わず首をかしげていると……。
トウコ様の従者であり、星が丘神社の精霊様であり、星が丘高校の一年生であり……茶道部の大切な仲間でもある『ヤスミネ マフユ』さんがいらっしゃいました。
もちろん、トウコ様と同じ、境内の何もない空間から出現するという方法で、です。
トウコ様やマフユさんのお住まいは異空間にあるので、この現実世界に来るときは、必ずこの方法になってしまうのでした。
「マフユさん! おはようございます!」
「おはようでござるー! トウコ様がコゼット殿を発見されたと聞いて、急いで支度をしてきたでござる。
良かったら、一緒に学校に行きましょうぞ!」
「もちろんOKですわ! 急いで来てくださって、ありがとうございます」
どうやらマフユさんは、わたくしと一緒に登校しようと考えて下さったようです。
しかし、もうそんな時間でしたでしょうか?
そう思い時計を見ると、まだまだ余裕はありましたが……寒い中これ以上トウコ様をお引き留めするのもよくありませんね。
マフユさんの支度がお済みのようでしたら、もうお話はこのくらいにして、学校に向かった方がいいような気がします。
「じゃあコゼット、また部活のときにでも話そうか。
今日の会議から、クリスマス会に向けて本格的に動き出すのじゃろう?
早速、マフユと相談しながら登校するとよい」
「はい! それでは、お言葉に甘えさせていただきますわ。
トウコ様、朝からお時間ありがとうございました。
では、行きましょうか、マフユさん!」
「はい、登校しましょうぞ、コゼット殿!」
こうしてわたくしとマフユさんはトウコ様に一礼すると、公園の外にあるバス停を目指して、出発したのでした。
3
「それでは、クリスマス会についての作業分担について決めていきましょう」
その日放課後は前述の通り、クリスマス会に向けての作戦会議が始まりました。
とはいっても、クリスマス会は、わが茶道部が企画する行事の中でも、もっとも『ゆるい』ものになっております。
なのでこの日は、会議は自由参加。
参加者も、少しくらいなら私語をしてもOKという、やはり、大変『ゆるい』集まりとなっております。
「あの。まず最初に確認なのでござるが……。
茶道部のクリスマス会とは、冬休みの直前に行う、自由参加のイベントでござるよな?
茶道部の中でも、時間に余裕がある有志が集まって準備をして、当日はお菓子や食べ物を用意して……。
校内の一室を借りて行う、とっても気楽な雰囲気のパーティであると聞いているでござる」
最初に発言をされたのは、マフユさんです。
マフユさんは今年入部、というか、今年星が丘高校に編入された一年生です。
だから当然、前回のクリスマス会には参加されておらず、詳しいことはご存じでないのです。
なので今日は、そんなマフユさんのような初参加の方々にも、基本的な事項をお伝えする必要があるのでした。
「その通りですわ。また、当日は参加者も自由になっておりますの。
つまり、もしマフユさんが部外でお呼びしたいお友達などがいれば、その方も来てくださってOKというわけですわよ」
「わお! それは嬉しいでござるなー! ではではクラスの友達を、何人か誘ってみるでござるよ!」
「ええ。ぜひ! お誘いしてみてくださいな」
そんなマフユさんがこのようにかわいらしく、無邪気にはしゃいでいらっしゃる様子を見ていると、わたくしは『今年もクリスマス会を開催してよかった』と、心が和みます。
とはいっても、マフユさんはトウコ様と同様、非常に長命でございます。
ですから実際は、マフユさんの方が、わたくしもずっと年上なのです。
なのでマフユさんを『かわいらしい』と感じるのは、少し失礼なことのような気もしますが……。
マフユさんは大変に心が広く、そのあたりのことを一切気にしない方でおられます。
さらに『星が丘高校の生徒としては自分の方が後輩なのだから、後輩として扱ってほしいでござる』とおっしゃり、わたくしたちはマフユさんの『年下の先輩』として、とてもフランクな雰囲気で、一緒に活動させていただいてるのでした。
身分や年齢を一切気にしない、マフユさんのような寛容な方に、わたくしもなりたいものです。
「……そうだ。コゼット部長。『校内の一室を借りて行う』と言えば……。
クリスマス会の会場は、昨年同様、多目的室でよろしいのでしょうか?
利用申請を出しておかなければなりませんね」
ただいま小さく手を上げ、二番目に発言されたのは『カツラギ シノ』さんです。
シノさんはマフユさんと同じ一年生部員ですので、やはり去年のクリスマス会には参加されておりません。
しかし、この通り、開催場所はご存知のようです。
つまり彼女は、ご自身が未参加の茶道部イベントについてまで、基本的な情報を把握していらっしゃるという……大変に優秀な方なのでした。
このように現在の茶道部は、彼女の的確なサポートのおかげで、すっかり安泰です。
わたくしは少し感情的になりやすいところがあるので、シノさんのいつでも沈着冷静なところには憧れます。今後彼女を参考に、落ち着いた部長になっていきたいものです。
「はい、おっしゃる通り、会場は多目的室を想定しておりましたわ。
多目的室は最近、自習室としても利用できるようになりましたものね。
早めに申請しておかないと、勉強したい方のスケジュールを乱してしまいますわよね。
シノさん、ご質問ありがとうございました」
「それじゃあー。会議が済み次第、わたしが申請しに行ってきますねーっ。
多分管理者のユモト先生もっ。そのあたりご理解されていて、わたしたちを待っている気がしますーっ」
三番目に、ビシッ! と大きく手を上げたのは、やはり一年生部員の『ムカイ オトハ』さんです。
オトハさんはシノさんの幼なじみで、シノさんが茶道部に入るきっかけとなった方です。
そんなオトハさんは、いつもこの通りやる気満々。
誰よりも迅速な行動で、茶道部の活動を円滑なものにしてくださっています。
オトハさんは基本的に悩むということをされず、一度決めたからには、誰の意見にも左右されず、どんどん突き進まれていきます。
こう見えて色々とクヨクヨ悩みがちなわたくしは、ひそかに、その姿勢を見習いたいと思っているのでした。
ちなみにただいま話題に出た『ユモト』先生は、茶道部の顧問というわけではございません。
ですが、前部長のリコ様と、大変縁の深い先生でございます。
そのため、ユモト先生は、わが茶道部が、正座をして作業ができる多目的室をいかに重宝しており、イベント時には積極的に使用したいと考えているかを、大変ご存じなのでした。
「では、オトハさん、お願いしますわね。
そうだ。クリスマス会では、先日オトハさんも手伝って下さった、ルイーズの動画を流すことにしようと思っておりますの。
『正座初心者』さん向けの動画ですから、今回遊びに来てくださる部外の方にも見ていただければと思いまして」
「えーっ!? もう動画が完成したのでござるか?
ルイーズ殿が最近来日して制作された動画って、冬休み中……。
つまり、来年の一月上旬までに完成していればよいものでござるよな?
……今はまだ、十二月の中頃なのでござるが……」
「そうなのです。とにかくせっかちなのですわよねぇ。あの方は」
マフユさんが驚くのも無理はありません。
その理由を説明していきたいところですが、その前にまず、たった今話題に出た『ルイーズ・モロー』についてお話してきましょう。
ルイーズはフランスに住む、フランス人の高校生で、わたくしとジゼルお姉さまの友人です。
ルイーズは夏にわたくしたち茶道部と一緒に過ごして以来、正座に強い関心を持つようになりました。
そこで先日、高校の冬休み課題として取り組む『自由研究』の題材として正座を選び、勉強しに来日したというわけです。
さらに言うと、そのときにわたくしたち姉妹とオトハさんがルイーズに協力をし、ルイーズはすっかりオトハさんと意気投合されたというわけですね。
つまりルイーズは、本来であれば、これから始まる冬休みで、この『自由研究』をまとめるはずなのですが……。
まだ二学期中であるにもかかわらず、完成させてしまったというわけなのです。
本当にあの方は、とにかくせっかちなのです。
でも……その行動力と作業スピードは、わたくしもぜひほしいものです。
「さらにルイーズったら、勉強熱心なものですから。
簡単な単語については、動画内で日本語の字幕を付けて下さっています。
ですが、さすがに全編そうはなっておりませんので……。
まずは、残りの部分に日本語の字幕を入れる作業が必要だと考えておりますの。
ちなみにこれは、わたくしが担当させていただこうと思っております」
「なるほどーっ。承知いたしましたぁ!
多目的室にはスクリーンとプロジェクターがありますけどぉ。
それは別途申請が必要なので、その申請も一緒にしておきますねっ」
「よろしくね、オトハ。
ところで……。ルイーズさんの勉強熱心なところは、さすが、コゼット部長とジゼル副部長のご友人と言った感じですね。
動画編集をする。いえ『正座』という、慣れないものについて研究するだけでも大変でしょうに。その合間を縫って日本語の勉強までされるなんて、頭が下がります」
「本当ですよーっ! コゼット新部長たち三人を見ていると、わたし『フランスの人にとって、日本語って簡単なのかな?』って錯覚しちゃいそうです。
日本人にとっても、日本語って難しいのにっ」
ところで今このようにおっしゃられたオトハさんは、先日ルイーズとお会いした際に、日本語とフランス語のまま。つまり、お互いの言葉がよくわからないまま意思疎通をされておりました。
なので、それはわたくしからすると『日本人のみなさまにとって、フランス語って簡単な言語なのでしょうか?』と思う事件だったのですが……。
オトハさんご本人には、自分も相当優秀、あるいは、自分は相手の気持ちを読み取る能力がずば抜けている! という自覚がないようです。
確かに今朝、トウコ様がおっしゃられた通り、人間って、実は自分のことさえ、本当はよくわかっていないのかもしれませんね。
「デハデハー!
オトハサンは、多目的室の利用申請書を書き、ユモト先生に提出。
シノサンは、予算案の作成。
ワタシとコゼットとマフユサンは、去年のクリスマス会で一度徴収したけれど、余ったお金を使って、クリスマス会の飾りつけを買いに行きマショーウ!」
そして、最後に号令をかけるのはジゼルお姉さまです。
ジゼルお姉さまは、一年生部員が入ってくる前は、中心的に部を引っ張られておりましたが、最近はニコニコと一年生部員たちを見守ることが増えてきました。
つまりそれは、一年生のみなさまがすっかり成長されたので、自分が前に出過ぎるのはやめようとお考えになられているのでしょう。
ジゼルお姉さまは、いつでも柔軟です。その場に合わせた、臨機応変な対応ができる方なのです。
「はーい!」
そんなジゼルお姉さま、いえ、ジゼル副部長の言葉には、全員が大賛成です。
かくしてわたくしたちは、クリスマス会の準備を始めたのでした。
4
こうして慌ただしい日々を過ごすうちに、気が付くと、クリスマス会は前日に迫ってきておりました。
そんなわたくしは今、無事に利用できることになった多目的室で、一人クリスマスツリーの飾りを付けをしております。
飾り付け……。この作業、本来なら誰もが担当したがるものですよね?
もちろんそれは茶道部においても同じなのですが、今回はいかんせん、みなさま忙しすぎました。
準備期間中、うっかり全員がこの仕事の存在を忘れており、結果、担当が決まらないまま今日になり……結果、わたくしが今、ひとりで慌てて作業しているというわけです。
ということで、時刻はすでに、十九時近くになっています。
部活がある。あるいは、残ってお勉強している方以外は、もう生徒はほとんどいない時間帯ですわね。
「あれっ? コゼットちゃんだけ?」
「リコ様!」
しかし、わたくし一人での作業は、もう終わりそうです。
なんとこの多目的室へ、受験勉強でお忙しいはずのリコ様がいらっしゃったからです!
今回は、クリスマス会の参加さえ難しいとおっしゃっていたのに! 大丈夫なのでしょうか?
これにはわたくしも驚き、思わず早口になってしまいます。
「いかがなされましたの! 何か急なご用事がございました?
今日のお勉強は、もうよろしいんですの?」
「アハハ。本当はダメなんだけど……どうしても気になっちゃって。
良かったら、飾り付け、わたしにも手伝わせてくれないかな。
図書室で勉強してたんだけど、ちょっとだけ休憩したいんだ」
リコ様は照れたように笑うと、わたくしの足元にあった箱から、飾り付けを一つ取り出して、見せます。
以前のわたくしなら、ここで『ダメです! お勉強に戻られてくださいまし!』と、リコ様を叱っていたことでしょう。
だけど今日は、いつもと違う選択をしてみようと思います。
わたくしも、機会がもし与えられるのなら、リコ様とお話ししたいと思っていたからです。
「はい。ぜひ! 一緒に飾り付けをいたしましょう」
こうしてわたくしとリコ様の、二人だけの飾り付けが始まりました。
これは一年前では、とても考えられなかった光景です。
一年前のわたくしはクリスマス会の参加者でしたが、まだ茶道部員ではございません。
ただ、ご招待を受けて、当日会場に向かうだけの存在で、さらに言えば、茶道部への入部など考えていない存在だったからです。
「フフフ。去年の今頃は、こうしてコゼットちゃんといっしょに準備をしてるなんて、思いもしなかったよ」
「アハハ。わたくしも今、同じことを考えておりましたわ。
去年の今頃のわたくしは、リコ様とこうしていることはおろか……。
茶道部に入ること自体。いえ、今も日本にいること自体、想像もしておりませんでした。
つくづく人生とは、何が起きるかわからないものですわね」
「うんうん。まったくだ」
二人での作業は、一人での作業よりも、圧倒的に早く進みます。
飾り付け完了までは、あと一時間以上……具体的には、二十時ごろまではかかるだろうと思っていたのに、十九時半には、すでに終了に近づきつつありました。
多目的室はすでにお伝えした通り、靴を脱いで、カーペットにじかに座って作業する部屋です。
なのでわたくしとリコ様も、座るときには自然と正座になります。
よって、座ってする作業中も、正しく、美しい姿勢で粛々と進んでいくのでした。
そうだ、正座! リコ様は先日わたくしとトウコ様が盛り上がった『正座最新情報』について、ご存じなのでしょうか? ご存じでない気がします。
クリスマス会にも出られそうにないほどお忙しいのですから。
では、さっそくお伝えしましょう。
実は、会えたらお見せしようと思って『血管を強化するスーパー正座法』は、トウコ様からご返却いただいて以来、ずっと持ち歩いていたのです。
「あ! そうだ。リコ様、わたくし、最近新しく正座に関する本を手に入れましたの。
そこで有用な情報を獲得いたしましたので、ぜひリコ様にも共有したいと思っていたのですけれど」
「えっ!? 何!? ぜひ教えてほしいな!」
「そうおっしゃると信じておりました。
では、ちょうど飾りつけも終わりましたし、さっそく」
「ここで『正座タイム』にしちゃおっか!」
うーん。つくづく多目的室は『わたくしたち向け』の場所でございます。
リコ様は一度立ち上がると、そのままカーペットの上に、改めてストンと正座で座ります。当然、わたくしもそれにならい、二人揃って正座になります。
それにしても、わたくしたちってば、本当に元気です。
今はすでに夜遅く、さらに、飾り付けの作業が終わったばかりで、二人とも疲れているはずなのに……。正座のこととなると、わたくしたちはすぐにパワーを取り戻してしまうようなのです。
「で、それってどんな正座情報なの?」
「はい。それは『健康法としての正座』ですわ。
こちらの本において、正座は、血管のコンディションをよくする座り方としてご紹介されておりますの。
正座をして血管のコンディションをよくすると、身体に非常によい。
具体的には、睡眠の質が向上したり、肩こりにも効いたりする。
と、いったことが書かれておりますわ」
「えっ!? 正座って、腰痛に効果的なのは知っていたけど……肩こりにもよかったの?」
ここで、リコ様がさっそく食いつきました。
いえ、元より大変関心を示してくださっておりますので、正確には『さらにリアクションが大きく、よくなった』といったところでしょうか。
「実はね。わたし、この通り受験生だから、ずっと同じ姿勢が続いてて肩こりがつらいときがあるんだけど……。
正座には、肩こりを緩和する力もあったんなら、勉強中の姿勢は、もっと正座中心にしておけばよかったなあ。
今、改めて、図書室みたいな『高い机と椅子』の組み合わせの勉強場所で、椅子に座って勉強する時間は減らして……。この多目的室みたいな『低い机と座布団』の場所で、正座しながら勉強するのを主にしたいなって思ったよ!」
「それ、とってもお勧めですわ!
肩こりは、筋肉がこわばっていることで生じますが、ここで問題になるのは、実は肩の筋肉ではなくて『血管のコンディション』なのです。
筋肉に沿って流れる血液が滞ると、筋肉の老廃物が回収されずに蓄積されてしまいますから、血管が圧迫され、これが肩こりの原因となるのです。
でも、正座をすることで血管のコンディションをよくしていくと、血液が全身に巡り、老廃物が回収されます。結果、肩こりは緩和されるのです。
それから、疲れにくい身体にもなりますのよ!
血液は、酸素と栄養を全身の細胞に届ける一方で、疲労物質を回収して体外に排出する役目もございますから。
血管のコンディションと、基礎能力を上げておくに越したことはありませんの」
「今は若い人でもケアやトレーニングを怠ると、ご老人みたいな身体の状態になっちゃったり、生活習慣病になっちゃったりすることがあるからね。
他人事だと思わないで、血管を大切にする。
つまり、こまめに正座することで、日々の生活から気を付けて行かなきゃってことだね」
「まったくですわ。正座で身体の調子を整えよう! と説いている『正座先生』が、なまけた結果病気になってしまったら、目も当てられませんもの」
「アハハ! 確かにコゼットちゃんは健康そのものだもんね」
「えっ? そのように思われておりましたの?
わたくし昔はジゼルお姉さまに比べて風邪をひいたり体調を崩したりすることが多くて、みなさまを心配させてしまうことが多かったのですが……」
「うん。わたしは基本的に、茶道部に入部してからのコゼットちゃんしか知らないけど……。
体調を崩しているところを見たことがない気がするよ。
昔は大変なことも多かったんだね。でも、今ではすっかり丈夫だよね」
「あっ!」
たった今この瞬間、リコ様の何気ない一言で、わたくしは気づきます。
これこそが、先日トウコ様がおっしゃった『変化していないように見えるが、実は変化していること』だったのです。
わたしは、わたし自身さえ気づかないうちに、正座を通じて健康になっていたのです。
これに驚き、ポカンと口を開けるわたくしに、リコ様は続けます。
「実はね、この前トウコ先生にお会いしたときに、コゼットちゃんが最近悩んでるって聞いて、心配してたんだけど……。
せっかく二人で話せたことだし、ここでわたしからの意見をお話しさせてもらうね。
大丈夫だよ。コゼットちゃんはちゃんと変わってる。
自分のことって、自分ではよく見えないし。
自分以外の人が見ている自分も、必ずしも正しい自分とは限らないよね。
でも、今のコゼットちゃんを見て、『悪い意味で、去年のコゼットちゃんと変わってない!』って思う人ってまずいないと思う。
だって、わたしがこうして茶道部に顔を出さずにいられるのも、コゼットちゃんのおかげなんだ」
「え? どういう意味ですの?」
「それはね。コゼットちゃんが『新・茶道部部長』としても『次期・正座先生』としても安心な、信頼できる人だからだよ。
だからわたしは『今、茶道部はどうしてるのかな』って気になっても……。
無理に顔を出したり、手伝おうとしたりするのは間違いだって、わかるようになったんだあ。
コゼットちゃんに任せていれば大丈夫だって知ってるからね。
何もしないわたしでいるのが正しいんだ! って」
今度はわたくしの頭に、先日の茶道部会議での、ジゼルお姉さまが思い浮かびます。
リコ様も、あのときのジゼルお姉さまのように、わたくしを信じて、あえて前に出ずに見守ってくださっていたのです。
わたくしは、リコ様が安心して信頼を寄せるまでの存在に、ちゃんと成長できていたのです。
「リコ様……ありがとうございます」
と、思わず涙ぐんでしまいそうになりますが、ここでわたくしは大切なことに気づきました。
てっきり終わったと思い込んでいた飾り付け作業は、一番重要なところが未完了だったのです。
「ねぇ、リコ様! わたくしときたら、うっかりしておりました。
ほら! 頭上を見てくださいまし」
「えっ?」
指をさした先には、まだてっぺんに何もついていない状態のクリスマスツリーがございます。
たとえば、あそこに大きな星をつけたら、つけた人は、なんでも願いが叶いそうな……そんな、神秘的な力にあふれているような、気がしてきます。
であれば、わたくしがするべきことは一つです。
「リコ様、あそこに、このお星さまをつけてください。これも、合格祈願の一環ですわ」
「えっ! ……でも、いいの? 飾り付けはコゼットちゃんが、ほとんど一人で頑張ったんだから、一番いい作業をわたしにゆずることはないんだよ」
「一番いい作業だからこそ、リコ様にお願いしたいんですのよ。
そうすれば『二人で頑張った』という気持ちも増すでしょう?」
わたくしはお星さまを差し出し、リコ様は微笑んでそれを受け取ります。
こんな形で、リコ様との思い出が増えるとは思っていませんでした。
そう思うと、最初は少し大変だなと思っていた飾り付け作業も、引き受けてよかったと心から思えます。もしかしたらこれも、少しは変われている、進化できている証拠でしょうか?
「よーし、じゃあ、つけちゃうよ! 明日のクリスマス会、楽しみだね!」
「えっ!? リコ様、来ても大丈夫ですの!?」
「つけたら、すぐに勉強に戻るっ。それでノルマを済ませて、絶対参加するんだー!」
「そういうことなら……ぜひ、お待ちしておりますわ!」
リコ様はスックと立ち上がると、少し背伸びをして、金色のお星さまをツリーのてっぺんに載せます。
それを見ていると、わたくしは、これからどんなこともうまくいくような気がして……それから、リコ様もご参加いただけるという明日のクリスマス会が、ますます楽しみになるのでした。