[101]正座の基本


タイトル:正座の基本
発売日:2020/10/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:13

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:60
定価:200円+税

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容
某出井高校生徒会長の大史は、意見交換会で知り合った某瑛高校生徒会役員の慈(めぐみ)に、学校見学会での茶道体験の見本を頼まれる。
了承した大史だったが、某瑛高校は自由な校風の某出井高校とは異なり、日本文化を学ぶ上品な学校だ。
茶道体験で失敗すれば慈にも迷惑がかかると考えた大使は、お花の教室に通っている某出井高校の女子二人に頼み、お花の教室に来る予定のお作法の先生から正座のご指導いただけることになり……。

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本文

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 由沢大史は某出井高校の三年生であり、生徒会長である。
 某出井高校は部活の盛んさと自由な校風で有名な学校だ。制服は入学前に全員が採寸し、作っておくが、黒がベースのオーソドックスなブレザーとズボン、スカートのデザインで、多くの生徒がブレザーの下はそれぞれの好みの私服を合わせている。
 大史も学校の模範となるべく生徒会役員ではあるが、ブレザーの下はパーカーやTシャツ着用がほとんどで、白のワイシャツは入学後数日しか着ていなかった。しかし、今、大史は半永久的に袖を通すことがないだろうと思っていた白のシャツを出し、これを選ぶべきかどうかの選択を迫られていた。
 遡ること三日前、大史は町中で某瑛高校生徒会の三年生、茶川慈と再会した。
 慈とは、四月下旬、某瑛高校の生徒会からの意見交換の誘いを受け、そこで知り合った。
 意見交換会には大史を含め某出井高校からは五名の生徒会役員が参加し、某瑛高校生徒会と、それぞれの学校が抱えていると考えられる課題を話し合った。某瑛高校はお作法、お花、お茶の正座をする授業があり、昼は給食、制服を着崩している生徒は皆無、といった、雅であり、大人しやかな印象の学校であった。対する某出井高校は自由度の高い学校で、この意見交換会の日にも某出井高校の生徒は生徒会役員ではあるが、それぞれ私服を合わせた、言ってみればラフな服装で会に臨んだ。
 大史はブレザーの下に青のパーカーを着て来たことを某瑛高校の校門を前に少々悔いたが、それを表に出してしまうことは、某出井高校の生徒としての誇りを損なってしまうような、妙なこだわりを抱き、そのまま某瑛高校を訪問した。校門を通過した時のなんとも言えない沈黙を思い返すと、某出井高校のほかのメンバーも同じ心もちだったのだろう。
 服装だけではなく、口調も、そして中身も折り目正しい、品ある某瑛高校の生徒会と対面し、大史をはじめとする某出井高校のメンバーはやや気後れしたというか、いつもの地が出しづらい面はあったが、次第に某瑛高校の生徒と打ち解け、某瑛高校の生徒会メンバーからそれぞれの私服について褒められるという思いもしなかった一場面もあり、概ね初めての意見交換会は成功した。
 この意見会で某瑛高校は校風から、大人しい男子が自身の意見を言う機会を女子に委ねている傾向にある、という課題を話し、それに対して、大史がならばそうした男子に向いた競技を体育祭で入れるなど、その良さを前面に出せるようにしたらどうか、というような思い付きを話したところ、大層その意見が某瑛高校に評価された。そして某出井高校の課題は各部活の希望する予算を割けていない予算不足で、その点に関して某瑛高校とは部活予算の組み方が違い、明確な回答は得られなかったが、某瑛高校を訪問中、その様子を撮影しに来た映像研究部が学校説明会などに映像を提供しているという話をヒントに、一年生の計太から、それまで各部で市販購入していたものを校内の部の制作で補い合えないか、という意見が出た。それによりコストの削減とともに、校内での活動ではあるが、依頼を受けての活動という、これまでの活動から一歩進んだ、新たな某出井高校の部活動のあり方も目指せるのではないか、という話になり、すぐに部の代表を集め、そこで賛成を得ることができた。
 大史たち三年生が生徒会に在籍するのは一学期までで、五月に入った現在で後二ヶ月ほどになったが、悔いのないよう、できる限りのことをして後輩に引き継ぎたいと思っている。
 三日前のこの日は生徒会の活動の後、皆で途中下車し、大盛の丼ものやカレーの出てくることで有名なお店に行くところだった。
 卒業までにこのお店のメニューを全て完食で制覇すると大史が豪語し、「先輩、言いましたね」と計太が笑いながら念押ししたところで、向かいから歩いて来る慈に気づいた。
「どうも、こんにちは。茶川さん」
 話の流れでというか、いつもの気軽さであいさつした。
 慈は、少し驚いた顔をした後、きちんと礼をし「こんにちは、先日はありがとうございました」と言い、大史は若干あいさつの仕方を間違えた、という後悔を抱いた。
「皆さん、生徒会の帰りですか」と、前回某瑛高校を訪問した某出井高校生徒会メンバーを覚えていた慈が訊き、おそらくここで慈は『そうなんです。そちらもお疲れさまです。今度ぜひ某出井高校の方にも皆さんで来てください』とか、そんな当たりさわりのないあいさつをして別れることを想定していたのだと大史は思う。しかし、自由さと部活加入率の高さからか、人付き合いの垣根の低い某出井高校の生徒会は「私たち、これから特盛の店に行くんだけど、一緒にどうですか」とか、「安いけど、すっごくおいしいから」とか、「茶川さんも来たら楽しいよね」とか、どんどん話を進めていく。
「茶川さんにも予定があるかも」と一応、慈の都合をを慮ったのは計太一人だった。この『予定』とは、多分、本音では行きたくない『嘘』もあるだろうことを見越していることが、大史にはわかった。
「ありがとうございます。ご一緒していいならぜひ」
「え?」と、思わず大史は目を見開き、「あの、大盛の店ですけど、アフタヌーンティーセットとか、フランス料理とか、そういうものがない、水はセルフで入れて、ビニールの背もたれのない椅子の店ですけど、大丈夫?」と訊いた。
「先輩、それ、店に失礼すぎ」と某出井高校のメンバーが言い、「いや、行く前に伝えた方がいいかと思って」と付け加えると、「私たち誘った時、そんなこと言いませんでしたよね」と、某出井高校の女子が指摘する。
「それは、まあ、ねえ……」
「ねえ、ってなんですか、ねえって」と女子が笑いながら、「まあ、会長が言ったの嘘でもないけど、美味しいのは本当だし、大盛で多ければ私が全然食べるし、茶川さんが来てくれたら嬉しい」と女子が言い、「ありがとうございます」と慈は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、行こうか」と大史が言ったところで、「すみません、家に連絡だけ入れさせてください」と慈は携帯を出し、手短に連絡を済ませた。
 時は夕方の五時半で、店はまだテーブル席が空いていた。
 某出井高校の生徒の多くはこの店に来ているので、店主夫婦も心得ている。店に入るとすぐに「いらっしゃい」と声をかけ、「好きなところにどうぞ」と言う。計太が気を遣い、全員分の水をお盆に載せて持って来てくれた。壁に貼ってあるお品書きを眺め、それぞれが何にするか言いつつ、慈を覗っていると、きっぱりとかつ丼を頼んだ。結構な量があることと、慈とかつ丼があまり結びつかず、せいぜいコロッケ定食くらいだと思っていた某出井高校のメンバーはやや面食らった。
 続々とテーブルに並ぶ大盛の皿を前に、高揚感と空腹感が急上昇する。
「いただきます」と、湯気の立つ御馳走の山に向かい、皆黙々と食べ進める。
 そして半分ほど食べ進めた大史がふと慈を見ると、実に美しい箸遣いで大盛のかつ丼を着実に食べ進めていた。
「おいしい?」と大史が訊くと、慈は水を飲み、一度箸を置いてから「すっごく」と笑った。
 自然に敬語でなくなったことに、大史はこの店の味の力を感じた。
 大史以外の某出井高校のメンバーも慈の食の進みが気になったようで、慈の言葉に嬉しくなったのか、「今度来たら、これもオススメ」と、自分が頼んだものを勧めたりもしていた。
 八割方食べ進めた頃、「まだお食事中ですけど、少しお話しても大丈夫ですか」と慈が言った。
「どうぞどうぞ」と某出井高校のメンバーが答える。
 さっきから、誰かしらが喋り、それに誰かしらが応じたり、そこから別の話に移ったりして、内容によって慈も相槌を打ったり、短く答えたりはしていた。ただ、こんなふうに慈から話題を持ち出したのは、この時が初めてだった。
 あと一息、二息で完食というメンバーは箸休めに頷いて、慈を見る。
「この前の意見交換会で、体育祭の種目を、うちの学校の男子に向いたものにしてみるという某出井高校さんから出していただいた案の方、あれから順調に進みまして、今年の体育祭は昨年とまた違った面白い内容になりそうです」
「よかったじゃないですか、会長」と、意見交換会に参加し、大史がこの案を出した場に同席していた計太が言った。
「うん、まあ、よかったです」と大史が頷く。
「本当に。生徒会で私は三年間、真面目に頑張ってきたつもりだったのですが、私は面白味がなくて、言い方もきつくて、本当は生徒会にも向いていないと自覚はしていたのですが、最後の年の体育祭で、某出井高校さんからの案をいただいただけではあるんですけど、学校で喜んでもらえそうな体育祭が企画できて、感謝しています。ありがとうございます」
 慈はそう言ってきれいに礼をした。
「そんなかしこまることないですよ。会長、結構適当な人で、生徒会の仕事も時々さぼるし、こんなにきちんとしている茶川さんが生徒会に向いていないなんて言ってたら、某出井高校の生徒会はどうにもなりませんよ」と、女子が慈をフォローしている振りをしながら大史を軽くけなした。
「本当にそうですよ。でもまあ、発想が柔軟で、わりと人好きのするのが長所なんで、よければまたいつでも呼んでください」と場を収めるように計太が言う。
 女子の発言に「ちょっと」と意見しようとしていた大史も、計太の発言に気を良くし、「本当、俺でよければ」と照れながら頷いたのだった。
「本当ですか?」と慈は目を輝かせる。
 そして、そこから思わぬ方向に話は向かった。
 もうじき学校見学会や部活体験会がお互いの学校で始まる、という話になり、某出井高校では、某瑛高校との意見交換会の際に映像研究部が作品を学校説明会の時に提供するという話から、各部で必要なものの一部を学校内の部で作る互助力でコストを削減し、その分をこれまで予算の足りなかった部に行き届くようにすることと、校内で依頼を受けて何かを作る、という発想を加えて新たな部の方向性を見出していくことをアピールする予定だと話した。
 慈の方は、お作法やお茶、お花の授業を受けたくて某瑛高校を選ぶ中学生も多いが、一方でその授業に抵抗があってほかの学校を選ぶ中学生もいる可能性に触れ、お作法やお茶、お花は難しいものだという先入観を取り除くため、今回からお茶の公開講座では、某瑛高校の生徒以外の人に見本をやってもらおうという案が出ていると話した。
「それは、『あんまり正座が得意じゃなさそうな人』の方が、中学生からの共感も得られるってこと?」と女子が大盛のラーメンのスープをどんぶりを持って飲み干し、尋ねた。
「まあ、わかりやすく言うと……」
 慈は頷いた後、最後のとんかつ一切れとご飯を一緒に食べ、水を飲んだ。
「じゃあ、会長なんか適役じゃん」と某出井高校の生徒会メンバーが皆で大史を見た。
「え、」とカレーをかきこんでいた大史は手を止めた。
「会長、行ったついでに某瑛高校の部活の様子なんかも見て来てくださいよ」
「それは、構わないけど……」
 つい、そう頷いたところでこの件は大史が行くということで決定してしまった。
 慈は「本当にいいんですか。受験勉強の方は」と訊き、大史が返事をする前に「いいんですよ。どうせ三年でも勉強してないし、土曜日は寝ているかゲームだって言ってる人なんですから」とか、「そうそう、勉強の方も心配ないです。全然できなさそうに見えて、この人、ゲームやって寝ていることで頭が冴えるとか言って、腹立つくらい勉強してないのに頭すっごくいいですから」とか、某出井高校の生徒会メンバーは口々にそんなことを言って、それぞれ完食し、水を飲み干した。
 そこへ「学生さん、みんな頑張っているから特別にサービス」と言って、店の奥さんがオレンジジュースを持って来てくれた。
「ありがとうございます」と一同はお礼を言い、ジュースで某瑛高校と某出井高校の交流を祝してと言って乾杯し、今後の予定を知らせてもらうため、大史は慈と連絡先を交換した。


 そしてその翌日、大史は正座とお茶について軽く予習をしておこうと考えた。
 しかし、某出井高校には茶道部がなかった。華道部もない。言うまでもなく、お作法の部もない。
 初心者が求められる学校見学会のお茶とはいっても、あまりに出来ないのでは、大史に依頼した慈が肩身の狭い思いをすることになるだろう。できればそれは避けたい。
 ため息をついたところで、思いがけない情報が計太によってもたらされた。
 お作法に精通しているわけではないが、計太のクラスに週に一度お花を習いに行っている女子が二名いて、お花の教室は和室で行っている、つまり正座でお花を活けているというのだ。できればお茶の教室に通っている人が望ましかったが、そこまで贅沢は言っていられない。某瑛高校の意見交換会に参加した某出井高校の生徒会のメンバーは、たまたま和室で正座を教えてもらい、基本を学ばせてもらい、大史もそれに参加したが、あれ以来、申し訳ないが正座をしていない。
 もう一度予行演習はしておきたい。
 生徒会の取り仕切る行事やそこでの司会は結構こなしてきたが、実のところ大史はそうした行事での予行演習はかなり時間短縮で行い、大史自身の話す場などはぶつけ本番がほとんどだ。それで本人的に失敗したと思ったことは今現在までない。この緊張感のないというか、肩の力を抜いた大史の姿勢というか、性格は某出井高校の校風にとても合っていてやりやすい。
 もし、某出井高校でお茶の体験を見本でと言われたら、恐らく当日まで何もしなかったと思う。
 だが、今回は某瑛高校だ。
 しかも、慈からの依頼だ。
 少なくとも正座で失敗しないように準備し、当日は『何も準備してないけど、まあこのくらいできます』というような余裕の表情でいたいものだ。
 根回しのよい、そして気の利く計太は早速クラスのお花の教室に通っている女子に声をかけ、協力を要請してくれた。
 二人は水泳部に所属している間中永と、後居ウタで、学校の部活とは別に公民館で週に一度行われるお花の教室に通っているのだと言う。
 善は急げと大史は一年生の教室に向かった。
 大史が一年生の教室に行き、間中永と後居ウタを入り口横の席にいた男子に呼んでもらうように頼むと、「会長、告白ですか? 付き合うなら一度に二人ってよくないと思いますよ」と、頼んでもいないボケをかまされる。
「じゃあ、本当のことを言おうか? 僕が付き合いたいのは君だ」とボケに応じると、周囲から笑いが起こる。
「会長、それなら、私たちに用はないってことですか?」と教室の中から、二人の女子が大史に声をかける。
「ある、あります。すみません、お願いしたいことがあります」
「交際の申し込みでなければいいですよー」と二人は答え、「会長が振られてる」と、更に笑いが起こる。
「ついでに僕もごめんなさい。会長はいい人だけど、お付き合いっていうのは違うっていうか……」とボケをかました男子がまた入ってくる。
「せめてお友達から考えてください」と大史は一年男子とのやり取りを締めくくり、二人の女子に廊下まで出て来てもらった。
「計太に二人が華道教室に通っていると聞きまして」と大史は改まった口調で切り出す。
「あ、はい。今日、ですけど」
「あ、そうなの? それで、ちょっと他校の茶道の体験見本をやることになって、茶道の手順なんかは、初心者として出るのでいいんですが、正座の方を一応できるようにしておきたくて、教えてもらえないかと」
「それなら」と二人は顔を見合わせる。
「会長、今日、何時頃から時間あります?」
「今日は、各部の希望予算を生徒会で確認する日で、まあ、全部の部ではなくて、昨日提出した部だけだから、四時前には……」
「それなら、終わったら公民館に来られますか? いつもお花の教室の後、時間のある人はお茶を飲んで先生とお話するんですけど、今日は先生のお師匠さんと、そのお師匠さんのお友達が来るそうなんです」
「え、俺、その教室の生徒じゃないけど、平気?」
「あ、希望者がその都度お金を払ってお花を活けるっていう感じで、先輩はお花を活ける時間には間に合わないし、お茶くらいなら大丈夫だと思いますよ。それに今日来てくださる先生のお師匠さんとそのお友達は某瑛高校でお花とお作法の先生をされていますから。会長、いいタイミングですよ」
「え、そうなの?」と大史はやや及び腰になる。
「実はさ、前に意見交換会で某瑛井高校に行った時、そのお作法の先生に正座の手ほどきを受けたんだけど、それから全然やってないから身についていないっていうか、そういうのが全部ばれるのは……」
 いいタイミングどころかマズいんじゃないか、と大史は思ったが、「その通りに話したらいいと思いますよ」と二人は言った。
「高校生なんですし、うちの学校はそういう授業もないですから」
 朗らかな二人に後押しされ、大史は生徒会の後に公民館へ行くことになった。


 親切な間中永と後居ウタは、『着いて場所がわからなかったら連絡ください』と、連絡先を教えてくれていた。
 しかし、公民館は入ってすぐのとこに、施設使用者や団体名、その場所が記された表が出ていて、あっさりとお花の教室の開かれている和室に到達できた。ただ、引き戸を前にし、やはり二人に連絡した方がよかったのではないか、という思いは過った。お花をたしなむマダムのいる世界に、自由にのびのびと生活している大史は及び腰になる。ポケットの携帯を出しかけ、否、自分で頼んで来たのだからと、軽くノックし、「はい」という声を確認し、「某出井高校の由沢です」と声を張り、戸を大きく開けた。
 そこには予想した通りの和服のマダム四名と、自分の母くらいの年齢の洋装の女性が十名ほど、そして見慣れた某出井高校の黒のスカートに七分丈のシャツを合わせた間中永と白いワイシャツにブレザーの後居ウタがいた。
「こんにちは、お待ちしていました」と、和服の中で一番若いと思われる女性がすぐに大史を出迎えてくれ、間中永と後居ウタの隣へと案内してくれた。向かいに座っている三人の和服のマダムのうち一人は大史も面識があった。某瑛高校のお作法の先生だ。「この前はありがとうございました」とすぐに大史はあいさつした。「いいえ、こんにちは。今日は正座を学ぶためにわざわざいらしたとか。感心ですね」と、お作法の先生が笑顔で言う。隣に座っているのが某瑛高校のお花の先生で、その隣にいるここのお花の先生のお師匠でもあるのだそうだ。つまり、某瑛高校のお花の先生つながりで、今日某瑛高校のお作法の先生もこちらに来ている、ということで、出迎えてくれた若い和服の女性はここのお花の先生の補佐も務める生徒さんなのだそうだ。事前に某瑛高校の先生が来る、ということは二人の女子から聞いていたが、実際にこうしてその人たちを前にすると、先生然とした品や威厳は感じるものの、仲良しの集まり、女子会に近い雰囲気だった。
 先生やこちらにいる生徒さんたちにも二人は大史の事情を説明していてくれたようで、突然見ず知らずの男子高校生がやって来た、という違和感の視線はなく、どちらかというと、大史を待っていてくれた、という雰囲気で、大史が座るとお茶菓子が配られた。
 某瑛高校のお作法の先生、お花の先生によると、今度の学校説明会での他校の生徒さんを呼んで体験の見本になってもらう、という発案をした生徒会の女の子は、最近発想が柔軟になり、少し雰囲気も変わったと職員室でも話題になっているのだそうだ。それまでもずいぶん生徒会の仕事を頑張って、勉強も『もともと人より努力が必要なんです』なんて言って自習室によく行っていた子なんだけど、時々見ている方が心配になるくらい真面目な感じで、だけど最近その真面目さの幅というか、発想が広がったようで、そういう生徒さんの成長を見られるのもこのお仕事ならではで、と二人の先生は続けた。
「そうなんですか」と頷きながら、恐らくその『生徒会の女の子』が慈であることを大史は感じ取っていた。
「あの、すみません、忘れる前に僕の分の集金をしてもらえますか」と、大史は切り出した。
 ここの使用料、お茶菓子代はここの生徒さんの講習費から賄っていると思われるが、お茶やお菓子代は先生が出してくださっているのかもしれない。
 しかし、先生は「大丈夫ですよ。せっかく来ていただいたのだし、第一私の先生の学校で見本を引き受けられた生徒さんなんですから、これくらいで申し訳ないけど、おもてなしさせてくださいな」と、その申し出を断った。
「はあ、なんか、すみません」と大史は、頭を下げた。
「じゃあ、お話する前に正座をしておきましょうか」とお作法の先生が言い、大史は「お願いします」と居住まいを正した。
「正座のお話は覚えていますか?」
「はい」と大史は頷く。
「『背筋を伸ばしてくださいね。それから、スカートの方は広げずにお尻の下に敷いてください。膝同士はつけるか、握りこぶしひとつ分開くくらいで』という説明があって、女子がスカートを直したところで、『脇は閉じるか、軽く開くくらいで。あと、足の親指同士が離れないように』という説明が加わり、僕らの正座を先生に見てもらって、『いいですね。そんなに緊張なさらないで、もっとリラックスして大丈夫ですよ』と言っていました」と、大史は某瑛高校の意見会の時に和室を見学し、今目の前にいるお作法の先生に習った正座の場面を思い出して話した。
「由沢くん、あの一回のお話、あなたそのまま全部覚えていたの?」
「聞きましたから」と大史は答えた。
「先生」とここで間中永がおずおずと話に入る。
「会長、ちょっとふざけてそうに見えて、頭いいらしいです。授業受けるだけで、家ではゲームしてても、勉強ができるって先輩たちもみんな言っています」
「ああ、そうなの」と先生やほかの生徒さんが顔を見合わせ頷き合っているのを前に、そんなに自分はふざけてて人の話を聞いていないように見えるのだろうか、と大史は思い、やはり某瑛高校へ行く日は白のシャツにしようと心に決めた。
「あの、それで、正座は……、一応、聞いたことを思い出してやってみているんですけど」と大史が話を戻す。
「ああ、ごめんなさいね、うん、いいと思います。姿勢を少し正して、そうそう。それから手は『ハ』の字になるように、太ももの付け根と膝の間のところに置くといいですよ」と、新たな注意を加えてくださった。
「じゃあ、正座もできたので、少しお話しましょうか」
 大史の正座を確認した先生がそう言い、その後は某瑛高校が女子高だった頃の話に始まり、大史の母くらいの年齢の生徒さんからの高校受験や大学受験についての話題、間中永と後居ウタの所属する水泳部の文化祭でのシンクロ発表まで多岐に渡り、正直少し大史にとって憂鬱だった茶話会はあっという間にお開きになった。生徒さんが帰った後も大史は間中永と後居ウタとともに部屋の片付けを率先して行った。
 先生方と間中永と後居ウタとともに公民館を出て、それぞれの方向や用事で別れた後、大史と後居ウタは二人で下りの電車に乗っていた。
「あの、立ち入った質問かもしれないけど、後居さんはどうして毎日白いシャツでちゃんと制服着てるの? うちの学校では珍しいよね」
「私、もともと某瑛高校を受験予定だったんですけど、中学三年の秋に某出井高校の文化祭で見たシンクロに感動して、某出井高校を受験することにしたんです。逆に一緒に某瑛高校と某出井高校の文化祭に行った某出井高校希望の友達は某瑛高校に進学しました。だから、もともと某出井高校が自由な校風だからという理由での受験ではなかったし、私にとっては出かける時の服が決まっている方が楽なんです。まあ、周りの友達が今の時期にかわいいシャツを着ているのを見ると、そろそろそういうのも着てみたいとは思うんですけど」
「なるほど」と、大史は頷いたが、後居ウタの『楽』という理由が全てではない、ということは、きちんとした感じの後居ウタの様子から覗えた。
 規律に賛同し、その規律に則り生活する人の心地よさ、とでもいうものだろうか。
 大史はなるべく自身に馴染んだ私服を着て過ごしたいが、一定の緊張感の中での生活を好む人もいて、そう考えていると慈のことが浮かんだ。
 その時、某瑛高校の最寄り駅に着き、大史たちのいる車両に慈が乗車した。
「茶川さん」と大史が声をかける。
 慈はいつものきちんとした様子でお辞儀をし、「こんにちは」と言った。
「今日も生徒会ですか」と大史が訊くと、「その後少し自習室に」と慈は答えた。
 開いた方とは反対の扉の前で向かい合い、ほんの数秒の沈黙が流れた。
 車両が動きだす。
「由沢さんたちは……」と慈が訊き、「あ、私たちは」と後居ウタが言いかけたのを「僕たちはちょっと」と大史が言葉を濁し、誤魔化した。
 慈はそれ以上尋ねず、お互いの学校の定期テストの日程に話題を変え、短い会話を三人で交わした。
 次の駅で慈は「それでは、今日寄るところがあるので」と降車した。
「あ、気を付けて」と大史は手を振った。
 扉が閉まり、車両が動きだすと「さっきは話を遮ってごめん」と大史は後居ウタに謝った。
「今度の某瑛高校の茶道体験を頼まれたの、今の某瑛高校の生徒会の茶川さんなんだ。慣れていない他校の人にって話で頼まれたのに、正座を某瑛高校の先生に頼んで見てもらった、というのを話すのはどうかなと思って……」
「そうだったんですか? いや、多分大丈夫だろうとは思うんですけど、さっきの茶川さん、でしたっけ? 茶川さんにもし二人で出かけたみたいに思われないようにと思って説明しようとしたんですけど」
「え?」
 驚いた大史に、「いえ、私も全然わかんないですけど、一応、一応ですよ!」と後居ウタが付け加える。
「まさか。俺、全然そういう対象じゃないでしょ」
「まあ、そうなんですけど」
「やっぱり、そうだったんだ……」
 ははは、と口調だけ明るく答えた大史に「ああ、いえ」と後居ウタはやや狼狽えつつ、「だけど」と言葉を続けた。
「茶川さんみたいにきちんとした人にとっては、会長みたいな人は規定外っていうか、そういうところがいいなと思うかもしれなし……」
「はあ……」
 大史は納得しかねたまま頷いた。


 学校見学会当日、この日は前日と気温差のある肌寒い日で、天気予報では四月初旬の気温で午後から雨だと言っていた。大史は長袖の白いワイシャツに青のパーカーを羽織り、午前中に帰って来るので傘は持たずに出かけた。
 電車の車内が暖かかったのと、某瑛高校の校風を考え、大史は着ていたパーカーを脱ぎ、スクールバッグに仕舞った。
 続々と某瑛高校に入って行く中学生とその親子の流れに乗って大史は昇降口へ入った。そこであいさつをしていた生徒会役員の麦田くんが大史に気づき、「今日はありがとうございます。生徒会室の方へどうぞ」と言い、わざわざ生徒会室まで付き添ってくれ、紙コップにペットボトルのお茶を入れてくれた。
「茶道って、先にお菓子をいただくんで、冷たいもの、飲んでおいた方がいいと思って」
「あ、そうなんだ。どうもありがとうございます」
 肌寒い日ではあったが、自宅を出てここまで来る間に喉が渇いていた大史はありがたくそれを飲んだ。
「見学に来た中学生と保護者には座席の方でペットボトルのお茶を先に配るんで、大丈夫だとは思うんですけど」
「へえ」と大史は頷き、こういった配慮はこの学校ならではだと改めて思う。
「あと、トイレとか、まだ時間あるんで……」
「ああ、そうか」と大史は生徒会室を出た先にあるトイレの位置を思い出す。
 基本的に緊張感のあまりない大史は何かあるからと、その前にトイレに行っておく、という習慣がない。
 まあ、麦田くんが言ってくれるのなら、それに従っておこうとお茶のお礼を言い、生徒会室を出た。
 トイレから戻ると、茶道部員が大史を迎えに来てくれていて、茶室に着くと大まかな茶道についてのお作法を教えてくれる。
「中学生のみなさんが来ましたら、そこでもう一度ご説明しますから」と茶道部員の女子は優雅な所作と笑顔で言った。
 某出井高校の明るく気さくで溌剌とした女子とは少し違う女子にやや戸惑いながらも、大史は説明を反芻しておいた。
「今回、茶室での茶道体験で正座になりますけど、大丈夫ですか」と、大史を気遣いながら茶道部員が座布団の敷かれた席へと案内してくれる。
「多分、大丈夫だと思います」
「よかったです」と茶道部員はこれまた優雅に微笑み、すでに廊下の方に集まっている茶道見学希望者の親子に「みなさん、茶道体験のデモンストレーションを始めますのでどうぞ」と声をかける。
「失礼します」とか、そんな丁寧な言葉を一言、二言発し、会釈をし、中学生とその保護者が室内に入って来る。なんとも言えない緊張感が室内に漂う。
 そうした中、大史は茶道部員の指導のもと、お菓子とお茶をいただいた。
 茶道は普段日本文化には縁のない大史には奥ゆかしいというか、なんともいえない緊張を伴う。
 和紙と楊枝を用いる雅なお菓子のいただき方にはじまり、終始気が抜けなかったが、それは疲労を感じるものではなく、清々しさをもたらしてくれるものだった。
 いかにも不慣れな大史の見本があったせいかどうかわからないが、大史の見本の後に体験希望者を募ると、多くの中学生が手を上げた。
 これで大史の役割は終了である。
 最後に某瑛高校の茶道部員、先生、見学に来ている中学生とその保護者から拍手までされて、大史は茶室を後にした。
 廊下を歩き、ああ、正座だけでも先に確認しておいて本当によかったと思った。
 あの拍手の中、足をしびれさせては、慣れない人でも楽しめます、という日本文化の親近感を中学生に示せなくなってしまう。
 荷物を取りに生徒会室に戻ると、「お疲れさまでした」と生徒会の仕事をしていたらしい麦田くんが出迎えてくれた。
 そして「さっき渡せなかったので」と、中学生に配ったものと同じと思われるペットボトルのお茶と学校名の入ったボールペンをくれた。
「え、いいよ。中学生じゃないから」と断ったが、「これくらいしかお渡しできなくて」と、麦田くんは大史の手にそれを持たせてくれる。
「じゃあ、いただきます。ありがとう」と言って、先に詰め込んだパーカーの奥にそれを仕舞った。
「それじゃあ」とスクールバッグを肩にかけると、麦田くんが「ちょっと、茶川先輩呼んで来ますから」と言う。
「忙しいだろうから」と言う大史を、麦田くんは尚もその場に留めようとする。
「すぐですから」
「いいって」
 麦田くんは何度も大史が一人帰らないかと振り返り、「茶川先輩」と大声で呼びながら廊下を走って行く。
 そして何かの書類を持っている慈を連れて来て大史の前に立たせ、「もう帰るそうなので、お見送りお願いします」と言い、慈の手から書類を取り、「後はやっときますから」と言い、「由沢さん、今日はありがとうございました」とお辞儀をし、足早に去って行った。


「部活」とふいに慈が言った。
「え?」
「部活の様子、見て来てくださいって、生徒会の方に頼まれていましたよね? 見て行かなくていいんですか?」
「ああ……」
 すっかり忘れていた……。
「案内します」
「ああ、いいですよ、勝手に見学して行くんで」
「これくらい、させてください。わざわざ来ていただいたのに、何もお礼もできなくて申し訳ないです」
 そう言われ、大史はスクールバッグを生徒会室に置き、慈とともに部活見学に行くことにした。
 隣を歩く慈に「なんか、すみません」と小さく言った。
 歩きながら自分で発した『すみません』に違和感を抱き、「あの」と慈に切り出した。
「はい?」
「すごくご丁重に迎えてもらって俺としてはありがたいんですけど、なんていうか、俺としてはもう某瑛高校の生徒会の人とか、茶川さんは友達っていうふうに思っているので、『申し訳ない』とか、『お礼』とか、そういうの俺に関しては思ってもらわなくていいです。いいですっていうか、そうしてもらった方がやりやすいんで」
 そう言った大史を慈は暫く見上げ、瞬きし、「お友達だと思っていいんですか」と訊いた。
「まあ、その、茶川さんが嫌でなければ。この前は一緒にお店にも行ったし、多分、俺だけじゃなくて、うちの生徒会はみんなそう思ってますよ」
 その時、生徒会役員に誘導された中学生親子がぞろぞろと華道の教室へ入って行った。
 大史と慈は生徒会役員と中学生親子に時折会釈をし、皆が教室に入るまで立ち止まってそれを待った。
 列の最後にいたのはお花の先生で、二人に気づくと微笑んだ。
「由沢くん、こんにちは。茶道の見本、今日でしたね。ご苦労様。正座の練習の成果は出ましたか?」と尋ねた。
「え、あ、はい、一応……。ありがとうございました」
 慈に内緒にしておきたかった正座の練習をここでばらされてしまうとは思わなかった。
「茶川さんもご苦労様」と先生は慈に向き合う。
「茶川さんの生徒会活動もあと少しね。本当にあなたはよく頑張っていて感心するけど、これからは少し、自分のことも優先してもいいと思う」
「え?」
 慈が不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、二人とも忙しいと思うけど、今日は楽しんで」
 先生はそうにこやかに言って立ち去り、大史と慈は顔を見合わせた。
「あの、正座の練習って?」
 大史が目を上げると、開け放たれた教室の窓から花の香りが漂い、活けられた花が窓から入る風に微かに揺れているのが見えた。
「雅ですね」と大史が言った。
「え?」と慈が大史を見上げる。
「この学校、日本文化を学ぶっていうと堅苦しい印象が先にくるけれど、本当はそうでなくて細部に至るまでの配慮がされていて、俺みたいにいい加減なのが突然来てお茶の体験をぶつけ本番でやったら失敗するかもしれないと思って。そうすると今回学校外からの体験見本の提案をした茶川さんに迷惑がかかるでしょう。だから、この前華道教室に通っている一年生の女子に頼んで、そこでたまたまその日来ていた某瑛高校の先生に指導してもらったんです。これを言っちゃうと、茶川さんの求めていた他校の初心者、というのが嘘になってしまうかもしれないと思ったし、まあ、正直に言えば、迷惑をかけたくないのもあったし、それ以上に失敗したくないと思って、この前電車で会った時、本当のことが言えませんでした。すみません」
 大史が説明し、謝ると、「こっちこそ、ごめんなさい」と慈が頭を下げる。
「引き受けたのは俺だし、意外と楽しかったんで、茶川さんが謝ることは何もないですよ」と大史が遮る。
「ありがとう」と慈は言い、「じゃあ、部活の見学、行こうか。……どこから見たい?」と少しぎこちない口調で切り出した。
 大史の先ほどの『友達』の提案を慈なりに受け入れてくれているのがわかって、大史は嬉しくなる。
「映像研究部と、ほかにオススメがあれば……」
「わかった」と慈は笑顔で頷いた。


 映像研究部では、昨年の春から文化祭までの学校の様子を取材し編集した作品を見せてもらえた。
 そこには今隣にいる大人しやかな慈から想像もつかないほど厳しい言葉や表情が映し出され、定例会の場面では、意見を求められた一年生が黙り込み、慈がそれを厳しく叱責し、重い空気の中、麦田くんが勇気を出して発言する場面も見られた。しかし、映像研究部が撮ったのは、そうした容赦ない一年生への叱責場面そのものではなく、そこから勇気を出して前進していく一年生の生徒会役員の姿と、更にその一年生の何倍もの仕事をこなしながら、一年生の成長を見守る生徒会の上級生の温かな視線だった。
 その後、吹奏楽部や科学部、演劇部、女子ソフトボール部などを見学し、大史は帰ることにした。
 某瑛高校の吹奏楽部は文化祭の時に全員がお揃いのジャケットとズボンで登場していて、文化祭用のシャツに制服のズボン、スカートの某出井高校の吹奏楽部との違いや、科学部の個人活動も重視する面、演劇部が途中で見学に来る人と室内で見学している人どちらにも配慮して部員を入り口に待機させていること、規律の厳しそうな女子ソフトボール部の様子など、大史にとって得られる情報はかなり多かった。
 部活見学の後、生徒会室に戻ると、生徒会の仕事は本日終了し、自由解散なので最後の人は鍵を職員室に戻してください、という伝言がホワイトボードに書かれていた。そのまま帰っていい、という慈に大史は鍵を返しに行くのに付き合うと言って同行し、職員室を出てから昇降口までを一緒に歩いた。
「いやー、今日はありがとうございました。勉強になりました。うちの高校の参考にさせてもらいます」と屈託なく言った大史に、慈は「驚きましたか」と訊いた。
「何が」と訊き返した大史に、「私が、すごく生徒会できつくて、厳しくて、嫌な人間だって……」と慈は俯く。
「特に某出井高校さんの生徒会の人はみんな本当に人あたりもいいし、人間もできていて、明るくて、あんなふうにできたら、うちの生徒会ももっと楽しく、誰も嫌な思いをしないで活動できるんだろうなって思いました。本当は一年生も二年生も早く私が生徒会に来なくなればいいって思っているってわかっているんです」
 大史は眉を寄せ、慈の話を聞いていた。さっきの映像研究部で公開された作品内に登場する慈の一年生の生徒会役員へのきつい態度のことを言っていると察せられる。
「……まあ、怖いは怖いっていうか、むかつくところもあるはあるだろうけど……」
 首をひねり、そう呟いた大史を慈は悲壮な顔で見上げている。
 ……ここは『そんなことない』という場面だったか、と大史は気づいた。多分、計太あたりなら、そのへんうまく言えるのだろう。
「茶川さんと某瑛高校の生徒会に限ったことではなくて、誰だって、慣れてない場面で意見を言うかどうかって時にきつく叱責されれば萎縮はするでしょう。でも、それがあの時の茶川さんの本音だし、あの時は萎縮しても、麦田くんは意見を言っていたし、今日来た時にはもう立派な茶川さんの後継者って感じで仕事を率先していたし、これが、某瑛高校の生徒会っていうふうに俺は思ったけど……」
 まだ表情の晴れない慈に「あと、きつくて厳しいのと、嫌な人間は違いますよ。少なくとも俺はあの作品の中での茶川さんをきつくて厳しいとは感じ取ったとしても、嫌な人間だとは思わなかった」と付け加えた。
「だけど、麦田くんは絶対一年生の時、私のこと大嫌いでした」
 真面目に言う慈に大史は笑いたくなるのを堪える。
 大史は一年生の時、行事の報告書の提出を忘れた。
 指導してくれていた二年生の先輩に「明日中に」と言われ、「どうしても明日中じゃないと駄目ですか」と大史は食い下がった。翌日からはテスト一週間前で次回の生徒会活動はテスト終了後からだ。
 二年生は笑顔で「明日中に」と返事をした。
 大史がうっかり舌打ちし、しまった、と思い二年生を見ると、笑顔を崩さず「むかついてもいいけど、期限は守って。大事なことだから」と言われた。
 ますます腹が立って、報告書は緻密で完成度の高いものに仕上げた。
 それを翌日持って行くと二年生は目を通し、「お疲れさまでした。いいですよ」と心からの笑顔で言った。
 腹立たしさと認められた嬉しさとの半々の思いは今でも覚えている。
「……でも、今は麦田くん、茶川さんのこと、尊敬しているし、仕事も十分引き継げているでしょう?」
「尊敬しては、いないと思うけど……、仕事は、まあ……」
「なら、それでいいじゃん」
 大史が言うと、慈は瞬きし、「……うん」と頷いた。
 昇降口に出ると、冷たい風が吹き込み、雨が降り出していた。
 慈は入り口にある傘立てから自分の物らしき傘を出して広げる。
 大史はスクールバッグからパーカーを出し、頭から被った。
「……傘、ないんですか」と慈が訊いた。
「ああ、まあ」
「ちょっと待っていてください」と言い、慈は昇降口のロッカーへ戻り、中から折り畳みの傘を出して「これでよければ」と大史に渡した。
「私、いつも置き傘、用意しているんです。今朝、曇っていたので学校に着くまでに雨が降ると思って長いのも持って来たから」
「……すみません」と言い、大史は夏服の移行期間で半袖のワイシャツにニットのベスト着用の慈を見て、「下校時だから大丈夫かな」と言って「これ、よかったら」とパーカーを慈に羽織らせた。
 慈は驚いた顔をして大史を見上げ、「いいの?」と訊き、「ありがとう」と笑った。
「これ、意見交換会の時にすごくいいなと思って……」
「ああ、そうなんだ」と大史は頷き、そのまま慈と駅までを歩き、その途中にあるパン屋さんがおいしいとか、給食のない日は中庭でお弁当を食べることがあるとか、そんな話を聞いた。
 そして電車に乗り、次の駅で慈が電車を降りる、という時に「パーカー、返すのに、また会える?」と訊いた。
「ああ、こっちはいつでもいいけど、傘、返さないと」と曖昧に答える大史に「今度の土曜日の午後、大丈夫?」と慈が訊いた。
「ああ、大丈夫……」
 前夜にゲームやりすぎで寝過ごさなければ、と思っていると、「時間とか、後で連絡するね」と慈が言い、「うん、ありがとう」と大史が答えた。
 電車が次の駅に到着し、慈が「じゃあ」と車両を降りる。
「あの、今日はありがとう」と大史は慌てて言った。
 閉じる扉の向こう、ガラス窓から屈託ない笑顔で手を振る慈が見えた。


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