[64]正座の女学生日記
タイトル:正座の女学生日記
発売日:2019/09/01
シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:2
分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:52
定価:200円+税
著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル
内容
ヒマリは仕事帰りに、同じ車両に乗ったお花を手にした三人の男子高校生に気づいた。
ヒマリは昔憧れの女子校に入学したが、四年後に共学になること、教育方針が大きく変わることを知る。
それを再検討してもらおうと、先輩、友達の協力を得て、理事長先生にこの女子校の授業の一環であるお作法の時間に、一学年がきれいに正座している姿を見てもらおうと思いつく。
けれど正座に慣れない子も多く、ヒマリは周囲と気まずくなって……。
販売サイト
https://seiza.booth.pm/items/1542525
本文
当作品を発行所から承諾を得ずに、無断で複写、複製することは禁止しています。
1
某日の夕方、珍しく定時に仕事が終わり、卯地木ヒマリは自宅へ帰るための下り電車のシートに座り、ほっと息をついていた。社会人一年目、だいぶ仕事に慣れてきたものの、まだまだ気を張る日々だ。今になって学生だった頃との違いにも改めて気づく。あの頃はあの頃で色々考えてはいたが、気楽なことが多かった。そう思っていると、次の駅で賑やかな話し声とともに、三人の男子高校生が車内に乗り込み、空いている三人掛けシートに座った。何となく、車内の乗客が三人に視線を向けるのは、それぞれの手にしている花のせいだ。ああ、共学になってもまだお花の授業があるのね、とヒマリは懐かしく思った。
八年前、ヒマリは三人の男子高校生が乗車した駅から徒歩圏内にある彼らと同じ高校に通っていた。当時高校は女子校で、お茶、お花、お作法の授業のある、ちょっとお上品な高校として知られていた。この女子校の生徒は身だしなみがきちんとしているのはもちろん、それぞれの家庭でのしつけに加え、お作法の授業のおかげでちょっとした和室でのお食事などの際にもきちんと正座ができる。食事マナーも勉強するので箸使いも美しかった。
さまざまなことが計画通りに進み、騒々しくない環境を好むヒマリはこの女子高を第一志望で受験した。多くの子がこの高校を第一志望で受験する。お姉さんやお母さんはもちろん、おばあさんの代からこの女子校に通うという子も少なくない。毎年四月に各クラスの保護者が選出される役員についても、一年生時は、この高校の卒業生である保護者や、すでにこの学校に入学している子のいる保護者といった、この高校のことをよく知る保護者がその役を引き受けている。
ヒマリは身内にこの高校の出身者はいなかったが、自らこの高校を志望する分、憧れは強かった。
歴史のある校舎は掃除が行き届き、整然としている中にも佇まいが感じられ、先生方、先輩方にも品と威厳を感じる。
ずっとここに居たい、と思うほどに、ヒマリは高校に入学して感動した。
しかし、そんなヒマリをどん底に突き落とす事実が待ちうけていた。
ヒマリがこの高校を卒業した年から、この高校は共学になり、学校方針も大きく変わると言うのだ。
一般的に考えれば、自分がいる間は何一つ憧れの要素は崩れないのだからいいではないか、ということだが、ヒマリにとっては違う。ヒマリにとって憧れの高校というのは、その後何年にも渡って自分のような憧れを抱く少女を受け入れ、守り、育てる場所であってほしい。
それがこれまでのエスカレーター式に上がれる大学の進路のほか、国公立大学進学への尽力、入学希望者増加のための共学への切り替え。
そういうことではない、とヒマリは思う。
ここにしかない価値と誇りを求めて、多くの受験生がこの学校を受ける。
泣きたい気持ちになったヒマリは、すぐに仲良くなったキクミにそれを訴えた。キクミはヒマリよりは冷静だったが、ヒマリの気持ちがこのままでは収まらないことを察し、「私たちだけでは力が足りない時は、先輩に相談してみよう」とヒマリの背を撫でてなだめながら提案した。こうした時に「ひどい……」と一緒に泣くより百倍建設的な提案だった。ただし、ヒマリにもキクミにも、相談のできる先輩の伝手がなく、姉妹でこの高校に通っているというサヤに頼ることにした。サヤは二人の話を聞くと、すぐに了承してくれた。
ただし、サヤの姉はこういう議題が出た時に表に立てる性格ではないので、サヤの姉が親しくしている生徒会長のユイコ先輩が適任だと思うと言った。
「ユイコ先輩って、入学式とか朝礼で挨拶されている、あの先輩?」
キクミがおずおずと訊く。
「うん、そう」
ヒマリもやや怖じ気づく。
ユイコ先輩は、同じ高校生なのかと思うほどに、しっかりとした凛々しい先輩だった。入学式当日に一目ぼれをしたというクラスメイトを何人も知っている。実際にユイコ先輩には校内のファンクラブが発足されていて、今取り仕切っているのは二年生の先輩だという。
「ユイコ先輩に直接話すの、大丈夫? 先輩に怒られたりしない?」
「真剣に相談する一年生の話も妨げるようなファンクラブなら、ユイコ先輩も認めないと思う」とサヤは断言し、ヒマリ、キクミよりこの学校に縁ある人の意見だと二人は納得したのだった。
2
サヤの姉の働きかけで翌日の放課後、三人は生徒会室でユイコ先輩と対面できることになった。三人はいつも遠目からしか拝見していない我が校の名実ともにトップであるユイコ先輩との対面にただならぬ緊張を抱く。
生徒会室のドアを恐る恐るノックすると、「どうぞ」という声がして、三人は小さく「失礼します」とドアを開けた。入試の面接試験より確実に緊張していた。
開けて、「あ」と思ったのは、その内装だった。
手前はテーブルと椅子にホワイトボードの配置された一般的な生徒会室だけれど、奥に和室があった。生徒会役員はそこで座卓に書類を広げて談笑中だった。談笑中といっても、足を投げ出すようなくつろいだ状態ではなく、麗しき生徒会役員は畳の上で真っ直ぐに背筋を伸ばし、正座をしていた。
「あの、本日ご相談させていただくお約束をしておりました、」と言いかけたところで、ユイコ先輩がすっと立ち上がった。
「今日は次の生徒総会に向けての雑用をみんなでやっているところなの。役員全員にも話は通してあります。奥で作業をしているけれど、お話は私がこちらで伺うので、安心して話してね」
そう言いながら、「どうぞ」とテーブルの席を進められる。
「失礼します」
三人はぎくしゃくしながら着席する。
「それでは、話をもう一度聞かせてもらえますか?」
ユイコ先輩に視線を向けられ、ヒマリは深呼吸し、この学校への並々ならぬ憧れ、この学校独自の良さについて語り、それがなくなってしまうことは悲しく、何とかできないかということを話した。
ユイコ先輩は「うん、そういう意見は私たちの学年からも出ているし、生徒会でも話題になることはある」と頷いた。
「それなら」と言いかけたヒマリをユイコ先輩は留める。
「だけど学校を変えるには、理事長先生、学園長先生にもそれなりの理由もあると思う。この学校の先生方だって、それこそ長い先生は五十年もこの学校で教えておられるし、そういう先生方が学校を変えるとこに一つ返事で了承したとは考えられない」
「はい」と三人は頷く。
「それでも変えてほしくないと思うのであれば、ただ意見を伝えるのでは足りないと思います。その点について何か案はありますか?」
三人は黙った。
ただ素敵なだけではない、毅然としたユイコ先輩を前にヒマリは自分の考えが浅かったことを自覚した。
「例えばですけど」とユイコ先輩は三人に案がないことを確認してから、話し始める。
「学園の現状維持希望を伝えるだけではなく、伝えた後に先生方に納得してもらって、今出ている学校改革の案を見直してもらう。つまり、それだけの成果、結果、そういったものを提示できれば意見も出しやすくなります」
なるほど、と三人は頷く。
「私たちの時にはみなさんとは逆に、『ここを変えてほしい』ということがいくつかありました。アルバイトの禁止や髪型の統一、携帯電話使用の禁止」
ユイコ先輩が例に挙げた三つは現在、アルバイトは夏休み中のみ届け出制で可、髪型は染める、パーマ以外は自由、携帯電話は校門を入る前に電源を切ることを条件に使用可になっている。
「些細なことでも校則で決まっていると、それを変えていくのは時間も周囲の協力も必要な学校です。私たちだけではなく、先輩方の代から、そういう努力は続けられていました。ある意味学校で変えてほしいことを訴えていくのも、この学校ならではの学びの機会でもあると思います」
三人は顔を見合わせる。
「まあ、そうは言っても、繊細なお嬢さんの多い学校だし、先生方も生徒の意見は断固反対というわけではなくて、きちんと聞いてくれるから。ユイコ、あんまり脅かさないであげて」
奥の座敷で作業している生徒会の先輩が口を挟む。
「何か提唱して失敗しても、普通に学校ではやっていけるから」とユイコ先輩は笑う。
「そうそう、またユイコが何か言い出した、くらいにみんな見ていて、厳しいこと言う先生も実は応援していてくれているし、それをこっちも知っているからね」
振り返った奥の座敷にいる先輩を見て、一年時のユイコ先輩に賛同した勇気あるかつての一年生が、今ユイコ先輩を支えている生徒会役員なのだと思った。
この女子校はほかの女子校に比べて女子の男前率が高い、という噂は聞いたことがあった。お嬢様学校という点では、ほかの女子校と同一視される傾向にあるが、生徒会役員選挙も文化祭、体育祭、合唱祭もかなりの闘争心を持ち、本音を前面に出す学校で、毅然と自分の意見を言う、行動力のある生徒が多いという話だった。それは、こうした学校生活の中で培われていくらしかった。
私はまだまだ、とヒマリは思う。
そしてふと「会長、」と顔を上げた。
「はい」とユイコ先輩がヒマリを見る。
「あの、私はお作法で正座の仕方を習ったり、お茶やお花を勉強できることが楽しみだったんですけど、そういう授業を先生方に見ていただける機会はありますか?」
ユイコ先輩は「普段から校内を巡回されていますけど、改まっての校内視察は学校公開前ですね」とすぐに答えた。
「その時に、入学したばかりの一年生の私たちがその成果をお伝えできれば、先生の考えも少しは動かせないでしょうか」
「……いいのではないですか?」
そう言って笑ったユイコ先輩の目は、入学したばかりの一年生を見る視線から、頼もしい同士を見るものに変わっていた。
3
まずは正座からきちんとできるようにしていこうではないか、という結論は出た。それではどうしようということになり、ヒマリはキクミ、サヤと相談した。
全員でいただく給食の今日の献立はサンマの塩焼き、レタスの添えられたポテトサラダ、ほうれん草の胡麻和え、根菜類のお味噌汁だった。事前にもらっている教本を思い出し、サンマの身をほぐしていく。これまで焼き魚はひっくり返して魚の表、裏の身をほぐしていたが、ここで魚は裏返さずに骨を取ることをヒマリは知った。
サンマの身をほぐすのに集中している昼食は静かだったが、サンマの身をほぐし、温かいごはんをいただきながら味わい、ヒマリは正面に座っているキクミとその隣に座るサヤに「具体的にどうする?」と訊いた。お味噌汁を飲んでいたキクミはお椀を置き、「まずはみんなに提案しないと」と答える。
「いつ?」
「帰りのホームルームは?」とサヤが提案する。
「その手があったか」
帰りのホームルームは、進行役の学級委員が仕切り、各委員からの連絡事項の確認をした後、「ほかにありますか?」と質問し、ここで何もなければ解散となる。
「今日、忙しい人いないかな。部活に早く行かないといけない人とかさ」
ヒマリが心配して言うと、「でもこれも大切なことだよ」とキクミは言う。
「まあ、それでもヒマリがみんなに迷惑をかけたくないと思うなら、先にそう言ったら?」とサヤが二人の間を取る。
「そうか」とヒマリは頷く。
周囲で食事をしている女の子が、「どうしたの?」と二人を見る。
「詳しいことは、ホームルームで話すね」
ヒマリはそう答えながら、どう切り出したものかと思案していた。
4
六限目までの授業が済み、ホームルームに入る。
今日の連絡は放送委員から、明日放送朝礼があるので遅れないようにということだけだった。まだ、時間はある。
ほかに? という学級委員の一言に、ヒマリとキクミ、サヤはさっと挙手した。
三人が何か議題があるのを昼食の時に知っていた学級委員はすぐに「どうぞ」と黒板中央に置かれた教卓前を譲り、三人はそこに立った。
「今日は、私たちから相談があります」とヒマリは切り出した。
だいぶ打ち解けてきたクラスメイトだが、その視線を一身に受けると足が震える。
ヒマリは大きく深呼吸する。
「もし部活に早く行かなければならない人は、途中退席してもらって構いません。よろしくお願いします」とまずは頭を下げる。
何人かの運動部に入っている子は黒板上の時計に視線を投げたが、まだ席を立たなかった。
「私はこの学校がとても好きで入学しました」
そう言うと、何人かのクラスメイトが頷く。
「私たちが卒業するまでこの学校はカリキュラムの変更もないですし、今と同じ女子校です。ですが、その後、この学校は共学になり、カリキュラムの変更もあると聞きました」
教室内がざわつく。もうすでに知っている子がほとんどではあるが、このことに関して、クラスの場で話されることはなかった。ヒマリは続ける。
「私は、この学校のこの良さを変えたくないですし、これからもこの学校を私のように好きで入学する人がいてほしいと願っています」
キクミがヒマリを見て頷き、言葉を継ぐ。
「そこで私たちは、生徒会に相談に行きました。会長のユイコ先輩は、問題提起の次には、それをどうやってわかってもらえるか、どう努力するかということについての重要性を指摘されました」
キクミから語られた『ユイコ先輩』という名前に教室内はざわめき、話の先を待つ真剣な眼差しが三人に向けられ始める。
「私たちは、まず、この学校の日本文化に関する授業を存続してもらうところから働きかけたいと思っています。そのために、理事長先生が視察に来られるタイミングで、我が一年が素晴らしい正座の所作をお見せし、このカリキュラムの存続を理事長先生自ら望まれるようにしたいと考えています。ユイコ先輩にご相談した時に、この学校の先生方も学校を変えることに一つ返事ということはなかっただろうとお聞きしたことからも、現在の決定事項が覆されるのは難しいと思いますが、学校を変えることについて理事長先生にお話を伺える機会があればいいなと今の時点では考えています」
キクミがそこまで言い、確認を取るようにヒマリとサヤを見て頷き合う間、教室内はしばしの静寂に包まれる。
「どうでしょうか? 賛同していただけますか? もちろん、反対意見もお願いします」
ヒマリが言うと、「賛成です」と言う声が上がり、拍手が起こった。
「大丈夫ですか? 雰囲気に押されて反対したいけど、言えない人、いませんか?」
サヤがクラスメイトを順番に見て問いかける。
「卯地木さん、お茶とかお花と着付けが嫌いって人は、ほかの女子校だって」
「そうだよ、この学校の傍に女子校あと二校あるんだから」
そんな声に、ヒマリも緊張が解け、「ありがとうございます」とお礼を言った。
5
クラスの承認は得られた。
次は一年生にこの提案を広げる段階だ。
ヒマリたちの学校は各学年六クラスずつだ。三人で翌日の放課後手分けして、他のクラスの一年生の賛同を求めに行くことにする。事前に各クラスの担任と学級委員に許可をとっておこうと言ったのはサヤで、やはりこういう時に頼りになる。許可を取りに行くのは三人一緒にした。高校入学前からこの高校の文化祭や体育祭にサヤはお姉さんに会うために来ていたので、学校の先生とのやり取りもヒマリやキクミに比べ、慣れている。物腰は穏やかに、要件はしっかりと。簡単なようで、意外と難しいのだが、サヤはそのあたりのさじ加減を心得ている。職員室でその様子を見ていた担任からは「なあに? 自分のクラスの時は予約なしだったのに」と笑いながら指摘されたのだった。
授業が終わると、三人はそれぞれの教室の前で待機し、「どうぞ」と各クラスの学級委員に迎えられ、中に入る。
体育で合同だったり、廊下ですれ違ったりする子はいるけれど、ほとんどが話したこともない子のクラスで説明するのは勇気が必要だったが、前日にクラスでの説明を行ったことと、生徒会長のユイコ先輩の姿勢を間近に見たこととでヒマリなりに学んだことも多かった。
説明はそれなりにうまくできたと思う。
ただ最後に「私のクラスでは賛同を得られましたが、ほかのクラスへの強制はしていませんし、今すぐお返事いただけなくてもいいです。反対ご意見がありましたら、私の方までお願いします」とつけ加え、「今日はお時間を取っていただき、ありがとうございました」と締めくくった。
やはり自分のクラスでの説明の時ほど好意的ではなかった。
何人かは面倒くさそうにしていたし、卒業した後のことだから、と思っている子もいるようだった。
それは仕方がないと思う。
同じ四月に入学したほかのクラスの子から突然、自分たちの卒業後の共学化、カリキュラム変更の反対のために、正座をきれいにしましょうと言われても、戸惑うのも正直なところだろう。
それぞれ二クラスずつの説明を終え、三人は廊下で顔を合わせた。
「どうだった?」とヒマリが訊くと、やはり二人とも自分のクラスほどうまくはいかなかったようだが、サヤは「こんなもんでしょう」と割り切り、「次はお作法の時間の正座だね」と前を向く。
今回の件で、ヒマリは少しだけ中学校が懐かしくなった。
中学校は公立で、男の子の人数が女の子より少し多かった。
クラスの委員長は大抵が男の子で、意見を求める時に男の子は少し女の子に遠慮した姿勢で「どうですか」とか「意見はありますか」とか訊く。女の子が委員や班長をやっていると、ふざけている男の子や我関せずの男の子に手を焼いて「真面目にやって」とか「ねえ、訊いてる?」とイラつくのが毎回の構図だ。
そういう要素のない今の学校は入学後のホームルームも常に円滑で、団結力がある。仲のいいグループはすでに出来上がっていて、その一方でどのクループにも入らない子も何人かいるけれど、実習や実験の時は自然とお互いが働きかけて、うまくいっている。「あの子はああいう感じ」というのが、グループで付き合うのが好きな子も、一人の時間を大切にする子にも尊重されている印象がある。その安心感がヒマリは好きだった。もっと言えば、これもこの高校を選んだ理由だった。品があって、意志をしっかりと持つ校風があって、個性も尊重される……。学校見学会の時にも、休み時間に一人で分厚い本を開いて何かを調べている先輩も、中庭でバレーボールをしている先輩もいて、ヒマリはそのどちらにも憧れたのだった。
しかし、いかんせん女の子というのは男の子に比べて処世術に早い時期から長けている分、こういうある意味「よそ者」の登場には警戒する。それはヒマリも同じだと思うし、共感もする。仕方のないことだと思いながら、中学校の頃は、こういう「よそ者」の話を聞く時、いい意味でも悪い意味でも無関心でいることの多い男の子の存在というのは、話をする側にとってもされる側にとってもいてくれるとありがたいものなのかも知れなかった。
そんなことを考える自分は慣れないことを始めて少し疲れているんだ、とヒマリは自覚する。
6
お作法、お花、お茶の時間は週に一度定められた枠でローテーションで行われる。つまり、それぞれの授業は三週間に一度ということだ。
そのお作法の授業が明日だった。そして、次のお作法の時間には理事長先生の視察が行われる予定だ。たった一回。その不安はかなり大きい。しかし、事前に説明したのだから、みんな息抜きの時間のようには捉えていないはずだ。そう思いたい。
普段なら気楽に迎えるはずのこのお作法の時間に、ヒマリはただならぬ緊張を抱いていた。どうかみんな、上手にできるようになってと願う。
お作法の先生が正座の指導を開始する。
和室に集まった生徒たちに、「まずは背筋を伸ばしてみましょう」と先生は言った。
「いいですね。スカートは広げずにお尻の下に敷いてください」
ここで何人かがスカートを直した。
「膝はつけるか、握りこぶしで一つ分くらい開けてください。足の親指は触れるくらいか、重ねるように。親指同士が離れないように注意してくださいね。肘は垂直に。手は太ももの付け根と膝の間に『ハ』の字で」
先生の指示に従い、正座を改める。
「いいですね、みなさん、とてもお上手ですよ」
先生はそう言って褒めてくださった。
まだまだ序盤の授業で、先生も生徒のやる気を引き出すために褒めてくださっているのはわかってはいたが、それでも先生の現時点でのクラスの状態に合格点をくださっている様子を見ると、ヒマリたちの計画はかなり順調な滑り出しという気がした。
しかし、である。
次第に背筋が前傾姿勢になり、足の親指をもぞもぞさせたりするクラスメイトが目立ち始めた。
理事長先生が視察に来られる日程はわかっているものの、お作法の時間の開始直後に来てくださるとは限らない。むしろ、受験を前にした三年生の授業や、英語を母国語とする外国人の先生による授業、さまざまな楽器を揃えている音楽での合奏の授業が視察の際に優先される気がする。
高校見学の時にも確か上階での授業を見学し、お昼前の見学終盤に一階に位置する和室を見学した記憶がある。この日はお花の授業で、ちょうど授業も終わる間際、それぞれの生徒さんの作品が完成したところが見られた。
授業が開始されてまだ二十分弱。それで三分の一ほどのクラスメイトが正座に限界を感じている。これでは次のお作法の時、理事長先生が視察に来られるここから更に二十分後はどんな状態になっていることやら……。
ヒマリは気が重くなってきた。
かくいうヒマリ自身もまだそれほど正座には慣れていない。
7
「ねえ、大丈夫かな」
ヒマリが言うと、キクミが「私も同じこと思った」と神妙な顔で頷く。
「どうする?」
そう半ば独り言のように言うヒマリにサヤは、「あとはお花とお茶の時間にどれだけ正座の方もできるようになるかだと思う」と言う。
「あんまり強制するような言い方すると、収集つかなくなるかも知れない。時間がないから、逆に様子見でいった方が無難だよ」とつけ加える。
「そうだよね」とヒマリは頷いた。
ただ、お作法の時間があった日の昼食時、「今日の正座、きつかったよね」、「私、正座開始した直後に足崩したくなった」、「姿勢とか後半本当にひどかったよ」、「知ってる。後ろから見てた」等々の笑いながらの会話が聞こえてきて、ヒマリはさすがに怒りを感じていた。
キクミが目で『抑えて』と言っているのがわかる。
だから、口には出さなかった。
けれど、態度には出ていた。
話している数人のグループの方を見て、目が合った瞬間に逸らしてしまった。
嫌な態度を取ったのはわかっていたけれど、ホームルームでお願いした時のヒマリの気持ちや、この日の正座指導にかけていた切実さが全く伝わっていない、或いは軽んじられていることを許せなかった。
「ヒマリ、何?」とそのグループに訊かれた。
『何でもない』とは言えなかった。
「この前のホームルームでの話で、同意してもらえたと思ってたんだけど、違ったのかな?」
「え、何だっけ? あの今の学校存続のお願いをするって話? 同意したけど?」
「そのために、ちゃんとしたところを理事長先生にも見てもらいたいから、お作法の次の時間にちゃんと正座できるよう、できれば今日の授業、もっと真面目に受けてほしかった」
棘のある言い方はしていなかった。
本心だけを言った。
だけど、本心だからこそ仲がこじれることはある。
「ヒマリが言いたいことは、ホームルームの時にわかっているよ。だけどさ、同意したってことと、もうこれで自分たちの願いはこっちにまかせていいっていうのは違うよね。いつの間にか、同意したことが、ヒマリの言うこと聞くって解釈されているみたいで嫌だ」
「そんなこと言ってないけど」
周囲もただならぬ雰囲気を感じて箸を止める。
「ヒマリ、もうそのへんにしなよ」とサヤが間に入り、ヒマリに言い返した子の仲間も「もうやめなよ」となだめる。
「同意してもらったのに、嫌な思いをさせてごめんね」とキクミが謝る。
どうして謝るの? と言いたかったけれど、サヤに目で制されてそこは我慢する。
「同意したのはいいけど、それ以上色々言われるなら、同意したことも撤回するようになるかも」
そう言われ、場がしん、としたのだった。
8
誰かがバシッと言ってくれないかな、とヒマリは思った。
ユイコ先輩のような人があの場でヒマリの思いを言ってくれたなら、きっと違ったと思う。もう一度生徒会室に相談に行こうか、と考え、留まる。
言い出したのはヒマリ自身だ。
それにユイコ先輩は、こういう周囲とのうまくいかない部分も含めて努力した人だ。その努力をしないで頼ろうというのは都合が良すぎるし、ユイコ先輩がそんな自分を受け付けてくれるとも思えない。
どうしたらいいか、と悩む。
学校が終わり、掃除当番のキクミとサヤと別れ、一人校門を出る。
「どうしたの? あれからうまくいっている?」
ふいに声をかけられ、視線を上げると生徒会の先輩だった。ユイコ先輩と一緒に頑張ったという先輩だった。
弱音を吐くつもりはなかったが、つい、「周囲に協力してもらうのって難しいですね」とこぼした。
「それはそうだね」と先輩は頷く。
「先輩たちの時は、どうでした? あ、お話してもらえる範囲でもちろんいいんですけど……」
「やっぱり、ユイコはハッキリしているから、賛成側の意見が圧倒的でも、すぐにはうまくいかなかったよ。しかも、私たちの時は先輩たちは反対意見だったからね。結構大変だった。自分たちは校則守って我慢したのにって」
「それで、どうしたんですか?」
「それはさ、『協力してください』って頼んだ次を考えるんだよ。わかる?」
「それが、今日つい、きつい言い方して最悪な方向に……」
「うん、それ含めて学べることなんだけどね、あんまりに困っているみたいだから教えてあげると、次は一緒に頑張ればいいんだよ。横並びで仲間の一人として同じ視線でさ」
「一緒に頑張る……、ですか」
「そう。簡単でしょ?」
「一緒に頑張ってくれない時は、どうしたらいいですか?」
「どうして頑張れないか、どうしたら頑張れるかを考えてみたら?」
先輩はそう言うと「ごめん、今日これから予備校だから、先に行くね」と小走りに行ってしまった。
ヒマリは先輩の後ろ姿に「お時間取ってすみません。ありがとうございました」と声を張った。
そして、先輩の言葉を反芻する。
あっさりと、難しい言葉を使わずに教えてくれた内容は、ただ「はい、わかりました」と請け負えない重さがあることにヒマリは気づいていた。
9
先輩からの助言は、翌日キクミとサヤに伝えた。
二人は「そうだよね」と頷く。
三人が話しているのを、昼食時にもめたグループの子たちが遠まきに見ている。
今ここで話しに行っても、うまくいかない気がした。
何となく、気まずい雰囲気のまま一週間が過ぎ、次の和室での授業はお花だった。初回はお道具の確認や先生のお話で、それをみんなが正座をして聞く。
今日もヒマリは背筋を伸ばし、できる限りきれいな正座を心がける。
途中、この前すぐに姿勢の悪くなった子がまた背を曲げそうなのに気づき、ヒマリは自身の背筋を意識して伸ばす。心の中で、少しでいいから頑張って、と応援する。
その子の隣にいるサヤが、「姿勢をよくした方が、意外と足も辛くないよ」と穏やかに、そして同一線上の立場で助言していた。サヤはお姉さんがいることから、ほかの子よりもこの学校に馴染みがある。正座に関しても、もともとおうちのしつけできちんとできるはずだった。けれど、敢えて同じ立ち位置でそう言うことで、相手の気分を損ねず、自身も反感を買うことなく、そして求めた協力をクリアしていた。
キクミも「足の親指、離れてきてるよ」と、前の子の崩れ始めた正座に気づき、足指をふざけるような軽い口調で触る。
お花の先生が授業の終わりしな、「このクラスのみなさんは、ずいぶん正座がお上手ですね。来週から生け花も始めますので、そちらも楽しみにしています」と締めくくった。
教室を出る時、ヒマリは先週の昼食中に口論になった女の子に「この前、ごめんね」と謝罪された。
「ううん、こっちが言い方きつかったから」
慌ててヒマリも自分の非を詫びると、キクミとサヤや、ほかのクラスメイトもその周囲に来た。
「また協力、してくれるの?」とヒマリが訊くと、謝罪した子やその周囲のクラスメイトも頷く。
「一緒に頑張ろう」とサヤが間を取り持ってくれる。
「ありがとう。まだ自信ないけど、頑張るね」
「私だって、最初のバスケの授業でグループに迷惑かけるって思った時、フォローしてもらったよ」とサヤが言う。
「うちらの学校は、誰かが苦手でも得意な人がそれをフォローして一緒に頑張って、全員ができるようになるんだよね。そこがすごく好き」とキクミが言う。
考えてみれば、キクミはどちらかと言うと、内向的な性格で人前に立つことはあまり好きではなかった。そのキクミが今回ヒマリの案に協力してくれて、生徒会に同行し、ホームルームやほかのクラスでの説明まで頑張ってくれたのは、友情とともに、この学校の良さを絶やしたくなかったのだと思う。
10
正座については初回のお作法よりはだいぶ良くなった。翌週のお茶の授業では、初回のお作法の授業から考えると、かなりいい仕上がりにはなってきている。
自宅でも正座するようにしているという子も出てきた。
けれど、やはり我慢していても足がしびれてしまう子もいるし、それは仕方がない。
とうとう理事長先生が視察に来る日になった。
教室に向かう途中、ヒマリは多くの子に「頑張ろうね」と声をかけられ、驚いたことに、選択授業の終わったユイコ先輩たちがお作法の教室の前で待っていてくれ、激励してくれた。
「今回のことは、なかなか覆せないとは思うけど、私は入学してすぐの一年生が今の学校を大切に思って友達と頑張ること自体がこの学校にすごくプラスになると信じている。これから生徒会の力が必要になれば協力します。成功を祈っています」
その言葉に涙ぐむ子もいた。
かくして、お作法の時間が始まった。
みんな集中して正座をし、先生の話を聞く。前回より丁寧に正座について学び、先生が一人一人の姿勢などを見ていく。
気づくとチャイムが鳴っていた。
理事長先生は? と我に返ると、サヤがヒマリに目配せした。
理事長先生は後ろから授業を見ていたようだ。
「今日は理事長先生も見学にいらしてくださいました。先生、今年の一年生の生徒さんはとても努力家です。二度目の授業でここまで正座のできた学年はないですよ」とお作法の先生がおっしゃる。
理事長先生は拍手をし、「素晴らしいですね」と頷く。
「ヒマリ」と前回の授業の後にもめたグループの子たちが、『今だよ』というふうに頷く。
「理事長先生」とヒマリは立ち上がった。
「はい、どうしましたか?」
理事長先生は柔和な笑顔で応じる。
「私はこの学校ならではの女子校の校風にひかれ入学しました。個性も団結も尊重され、努力を認めてもらえる女子校です。お作法やお花、お茶の授業もあるのでこの高校にしました。私たち卒業後、この高校は共学になり授業内容も大きく変わると聞いています。どうか、もう一度ご検討願えないでしょうか」
一気に言い切り、膝から力が抜けそうになる。
理事長先生はヒマリの話に頷き、「あなたのような生徒さんを今年も迎えられて嬉しいですよ」と言った。そして「男女共学、授業内容の変更は予定通り行います」と断言する。
「以前からこの高校の在学生の保護者から、息子さんがいるのだけれど、できればこの高校に入れたかったという声がありました。この高校の個性と団結両面の尊重は、男の子にも共通すると思いませんか? 一人でいるのも好きだし、みんなでも頑張りたい、そういう生徒さんへの門戸をもっと広くしたいというのは、前理事からの願いでもあったんですよ」
ヒマリは黙ってそれを聞く。
「あと、気にされているお作法やお花、お茶の授業は共学になっても続行の予定です」
「えっ」と周囲の子が声を上げる。
「男の子には必要ないと思っていましたか? そういった概念を変えるだけでも私は共学は意義があると考えています。みなさんが愛してくださるこの学校に入学したいと考える男の子の生徒さんを、近い将来私たちは迎え、今いるみなさん同様に応援したいと考えているのですよ」
理事長先生は「では、みなさんの今後に期待しています」と言って退席されたのだった。
11
ほかのクラスの子たちがみんな、ヒマリたちの話を聞いて正座をはじめとするお作法やお花、お茶の時間に努力してくれていたこと、生徒会役員が事前にヒマリたちの意見を理事長先生に伝えてくれていたこと、そして共学になってからは月に一度に回数の減らされることも検討されていたお作法、お花、お茶の時間を現在のサイクルで続行するよう働きかけたのは理事長先生であることは、後になって知った。
『共学になっても、国公立受験対策授業ができてもこの学校の良さは変わらない』とヒマリが心から思うようになったのは、三年間の高校生活を通してで、二年、三年になってからは、共学開始時に在学する後輩たちからの相談時にも必ずそう伝えた。
懐かしい高校時代をヒマリは一人思い出す。
次の駅で小さな子二人の手を両手でそれぞれに引いて乗車する女性がいた。先ほど乗車し三人掛けのシートに座っていた男の子たちが車両を出て、小さな子二人と女性は空いたシートに座った。
次の下車駅でホームに立ったヒマリは、隣の車両から降りる男の子三人を見た。
彼らは、女性が席を譲られても断ることまで想定して、暗黙の了解で下車する振りをして隣の車両に移ったのだ。
無邪気に花を手にじゃれあうようにして歩く三人をヒマリは目を細めて見送った。