[259]正座の野球部参加


タイトル:正座の野球部参加
掲載日:2023/07/13

シリーズ名:某学校シリーズ
シリーズ番号:27

著者:虹海 美野
イラスト:時雨エイプリル

内容:
究(きわむ)は野球の推薦枠で入学した高校二年生だ。
クラスはスポーツ推薦の生徒のみで、他の学科の生徒との交流はほぼない。
野球部の新たな副顧問の提案で、野球部はウエイト増量に励むことになった。
長身でウエイト増量もすぐにクリアした究は、勉強の優秀な生徒で構成された特別クラスの勇秀(ゆうしゅう)くんに、その体格を買われ演劇部での町奉行役を頼まれる。
快諾した究だが、勇秀くんに正座をできるようにと言われ……。



本文

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 秋、新学期を迎えてすぐの土曜日だが、中学三年の受験生や、その中学生を対象に説明会を開く高校は忙しい時期である。
 この辺りでは大きな高校として有名な某善位高校は、毎年相当数の生徒と保護者が説明会に訪れる。
 その説明会では、吹奏楽部の演奏に始まり、生徒会からの学校生活の紹介、職員による授業カリキュラムや設備、進学などの進路説明が配布された資料とスクリーンに映し出された内容をもとに進められる。
 そして、部活紹介に移ると、演劇部の公演中、ぴしりとした野球のユニフォーム姿の男子が、舞台横に並び、正座をしている。
 背筋を伸ばし、膝をつけるかかるく開く程度、脇は軽く開けるかつけるくらい、手は太ももと膝の間でハの字に。
 きちんとしたその居住まいは圧巻で、何も語らずとも、この学校の野球部員が礼儀正しいことが伝わってきたのだった。

 某善位高校は、一学年二千人を超える学校である。
 何棟もの校舎が建ち並び、図書館や陶芸棟、天文ドームなどもある。
 学科は理系、文系の普通科、成績優秀者の入れる学費免除の特待生クラスと、それに次ぐ授業料免除はないが特別カリキュラムで勉強に力を入れる特別クラス。
 最新のパソコンでの授業から、溶接、木工、陶芸に至るまでのカリキュラムが組まれた工芸科。
 そして、地元から全国に至るまでの生徒の集まるスポーツ推薦クラス。
 某善位高校には、広大な敷地内に様々なスポーツ用のコートが整備され、突出した運動能力を持つ生徒がその力を存分に発揮できるよう至れり尽くせりの設備が揃っており、遠方から入学した生徒のための寮も完備している。
 教師陣の人数も多く、職員室には奥の校長先生の席まで教員の長い机の列がおびただしく並んでいる。
 職員室には特進コースの生徒が勉強の質問に来るほか、部活のマネージャーがその日の予定確認に訪れたり、寮生活をしている部の生徒の当番が放課後に集めたクラスメイトの携帯電話を決められた保管場所に持って来たりしている。
 正門横の校舎には、幾つもの、全国出場や優勝、大会三位などのこの学校の生徒の健闘を讃えた垂れ幕が飾られている。
 そうした学校の野球部二年に馬戸究は在籍している。
 朝練のため、朝早くから自転車を走らせ、事前に登録している生徒が使用できる自転車置場まで自転車を押して入る際、校舎にたなびく垂れ幕を眩しい思いで見上げる。
 究はスポーツ推薦で入学し、スポーツ推薦クラスに入っているが、野球部は普通科や工芸科からの生徒も募集している。
 一方、スポーツ推薦クラスには、全員が寮生活の推薦メンバーで全国レベルの部も複数存在する。そうした部の生徒は平日でも試合で欠席することが多く、学校行事にはあまり参加していない。野球部はそこまでいかないが、文化祭では部での出店をやる以外、クラスで何をやるかといった話し合いも、クラス単位での参加もない。体育祭は出られる生徒だけ出られるように、団体戦だけの参加だし、修学旅行もない。
 スポーツ推薦入学した生徒がそうしたクラスに集められているのは、学校行事免除の部が多数あるからだ。
 自転車に鍵をかけ、学校名と部活名が入った大きなバッグを担いで歩いていると、「おはよう」と声をかけられた。
 顔を上げると、学部長先生だった。
 早朝練習でグラウンドを走っている時など、学部長先生が花の水やりをしているところを見かけたことはあるが、こうして対面するのは初めてであった。
「おはようございます」と究は野球部の習慣で帽子を取ってあいさつしようとし、今帽子を被っていないことに慌てた。
「ああ、立派なあいさつですね。馬戸くん」と学部長先生は究の名を呼んだ。
 これだけ大勢の生徒がいるのに、名前を知っている? と究は驚く。
「入学前の仮入部から、今日まで馬戸くんは一度も部活を休んでいないし、遅れたこともありませんね。なかなかできることではありません。立派です」
 にこやかに学部長先生はそう言うと、ゆったりとした足取りで立ち去った。
 究は暫し、その後ろ姿を見ていた。
 部は推薦クラスの中に於いては目覚ましい活躍をしていないが、あの先生はそうした部の一生徒のことまで見てくれているということか……。
 学費免除の特待生クラスから国立の大学に何名合格したとかいう話を朝礼で聞いても、いまいちわからない究ではあったが、同じスポーツ推薦クラスの生徒が都大会で優勝したとか、ベスト八に入ったとか、そういう報告を聞くたびに、どこか心もとなさを感じていた。皆が頑張っているのだから、その中で結果を出すのは並大抵のことではない、とわかりつつも、それでも結果を出し、誇らし気な顔で登校してくるクラスメイトに「おめでとう」を言うばかりであることに、最近少しばかり疲れてきていた。一年生の頃はまだまだ試合にもほど遠いという思いもあったが、二年になるとそう呑気にも考えていられない。それは究ばかりではないようで、最近では授業態度を注意される部活仲間も増えている。このままで大丈夫なのか……、そう思っているのは究だけではないようで、友達も同じようなことを時折口にすることがあった。そのたびに究は、「大丈夫だって」とまるでそうしたことを気にかけていない振りをした。
 究はもともと運動全般が得意な子どもだった。体格にも恵まれ、中学に入って給食か弁当の選択制になり、一般の生徒からはやや多いと言われる給食を当初は楽しみにしていたが、すぐにそれで足りなくなり、弁当持参に切り替えると、空腹を満たすためにどんどん大きくなる弁当箱に比例し、身長が伸び、中学卒業時には百八十センチを越え、今現在も身長は伸び続けている。
 勉強は手を抜けばそれだけ評価も下がったが、体育の成績に関しては、五段階評価で常に五、悪くとも四だった。
 中学時代は時折、体育の教師から自分が顧問をしている運動部に入らないかと声をかけられたが、究は地元のクラブチームに入っているので、とそれを断った。断る一方で、学校で放課後活動する友達が羨ましくもあった。
 それでも自分が頑張るのは野球だと、努力を続けていると、コーチから某善位高校はどうか、という話があった。
 設備は申し分ないし、スポーツ推薦のクラスで部活に没頭できる、そして自宅から通える。
 究のようなスポーツ推薦が主だが、それ以外の生徒も入部できる、門戸の広い部であることも、穏やかな究の性格に合っているのではないか、と。
 ようやく学校という場で、自分の得意なことができる、と究は嬉々としてその話を受けたのだった。
 そうして正式に某善位高校への入学が決まると、究は中学生は参加自由の朝練に毎日通い、顧問にもその運動能力を認められ、先輩にはかわいがられ、仲間もできた。これ以上の幸せがあるだろうか、と順風満帆の高校生活を迎えたはずだが、それが今、少し揺らぎ始めていた。


 これまで見てくれていた顧問の先生が高齢になったことと、今年、甲子園出場経験のある数学の先生が来たことで、その数学の先生が野球部の副顧問就任が決まった。
 数学の新任と聞いて、女子は浮足立っていたが、教室のテレビ画面で見た朝礼で現れた副顧問は、皆が思っていたようなスタイリッシュな髪型もしていないし、シュッとした顔つきもしていなかった。ただ、体つきはいかにもトレーニングを欠かさずに続けている人特有のしっかりとした線が、あまり似合っていないスーツの上からも覗えた。そして、朴訥とした口調からは、厳しい野球人生を送ってきた人だということが究には感じ取られた。
 教室内の体操部の女子からは、「期待外れ」、「残念な感じ」、「ちょっとださい」といった、随分と手厳しい評価をされており、その会話に笑いが起こった。
 まあ、確かにそうだな、と究は思いはしたが、これからの練習にこの副顧問が大きく関わることで、不安と期待が半々といったところだった。
 そうして迎えた放課後の練習で、顧問の先生がこれからは、副顧問に指導を任せ、自分は補助、相談役に徹すると宣言した。
 副顧問の先生は自身の出身高校、大学、教えている教科、かつての守備などを手短に話し、これからの練習は顧問の先生の指導を元に行うと言った上で、ひとつの課題を出した。
 それは、ウエイト増量だった。
 他校の生徒に比べ、この高校の野球部は全体的に身体が出来上がっていない、と言う。
 そのために、明日から昼食以外にも炭水化物、たんぱく質を主とした食料を持参することが義務付けられた。
 このことはすでに、部の保護者へメールで連絡済みだということも副顧問は付け加えた。
 この日の練習はいつものように基礎とバッティング、守備練習などを行った。
 下校する普通科の生徒がグリーンのネットの向こうに見える。
 そろそろ蒸し暑くなる頃で、汗がこめかみを伝う。
 声を出し、腰を落として守備練習に集中する。
 もし、野球をしていなかったら、別の景色が見えていたのかもしれない……。
 ふいにそう思った。
 これまで望んでやまなかった野球に集中する高校生活を二年目に迎え、気の緩みからか、新たな可能性を求める時期からか、そんなことを考え、再び練習に集中する。
 帰宅すると、台所のテーブルに真新しいタッパーが積まれ、隣にはスーパーで買ってきた食材が並んでいた。パックされた鶏肉や鮭やたらこ、ふりかけがある。明日からの通常の弁当に加えてのウエイト増量のための食材だとわかる。
 究は三人きょうだいの真ん中で、兄は理系の大学に進学し、妹は今中学二年生だ。
 母は昔から休日の野球の練習のため、弁当と水筒を準備し、究が低学年の間は送り迎えをしてくれていた。
 そしてその間、兄の塾と妹の習い事の送迎をし、こちらも必要とあれば弁当を用意していた。
 三人が三人、同じ日に用事があるわけではないので、母は子どもたちが小学校に上がった頃から休日というものがなく、それでも寝坊や手抜きをせずに子どもの面倒を見てくれ、三人をそれぞれ全力で応援してくれている。生活費や学費などは父のおかげで困らないと母は言っているが、自分の美容院や洋服の費用は長いこと後回しで、子どもたちの必要経費を捻出するためにパートにも出ていた。
 今回、新たな野球部の課題のため、朝の忙しい時間に用意する弁当が増えるわけだが、帰ってきた究に母はそうしたことは一切言わず、お父さんが帰ってくる前にお風呂済ませなさい、と言う。最近塾通いを始めた妹を迎えに行くため、母が風呂に入るのは深夜である。何度か究が迎えを申し出たが、そんな時間があるなら、庭で素振りでもしていなさいと言う。兄は大学生になり、バイトを始め、バイトがない日は友達と遊んでいて帰ってこない日も増えた。ようやく親の手から離れた、といったところだろう。そう考えると、バイトをしているわけでもなく、体格は立派になっている自分はなんとも不甲斐ない思いに駆られるのだが、母は大変だけど、好きでやってることだから子どもは気にする必要はない、と言い切るのだった。
 いつか恩返しがしたい、と思いながら、翌朝から究は昼食のほかに三つのタッパーに詰められた弁当を受け取り、登校したのだった。
 学校での朝練の後、すぐに究は一つ目のタッパーを開けた。たらこ、鮭、ふりかけの三つのおにぎりと、ささみフライを五分程度で平らげる。昼食もブロッコリーに茹でた鶏の胸肉を小さな弁当箱に詰めてくる女子は、「うわ」と究の食欲にやや後退した。「食べる? あと二つあるよ」と究はタッパーを見せ、女子は引きつった笑みで「いや、いいよ」と言った後、「野球部、大変だね。頑張って」と言ってくれた。「まあ、食べるのも野球も好きだから」と返す究の隣で、同じ野球部の友達は究と同じように持参したおにぎりを半分食べたところでラップに包み直して仕舞い、「もう腹いっぱい。どうしよう」とため息をついていた。全く食欲の衰えない究は、次の授業の空き時間、そして次の授業の空き時間、そして昼休みに従来の弁当を開けた。朝おにぎりを残していた友達は、ラップに包み直した食べかけのおにぎりを平らげた後、いつもの弁当はあまり食が進まない。友達に言わせると、朝からハードな練習をした直後は食が進まないし、何か食べてすぐの昼食ではまだ食欲がわかないのだと言う。究は全くそんなことはないので、勿体ないので友達の残した弁当を平らげた。
 連日そんな感じだったので、究はあっという間にウエイト増量の課題をクリアした。
 以前にも増して入念な基礎を行う部活の効果も相まって、ずいぶんと身体が立派に仕上がった。
 また打球も著しく伸び、守備についた時のスタミナ切れを感じることもなくなった。
 そしてある日、職員室の前を通りかかると、自習用の机で勉強していた男子学生に「あの」と声をかけられた。
「はい?」と究は立ち止まった。彼は演劇部の脚本担当の勇秀満だと名乗り、秋の学校見学会の演劇部での演目で、時代劇をやるのだが、そこで貫録ある町奉行の役が見つからないのだと言う。そこへ究を見かけ、その立派な体格から貫録十分の適役だと思ったのだそうだ。是非、劇に出てほしい、と勇秀くんは言う。高校に入ってから、あまり学校行事に参加していなかった究はまず断ろうという思いが過ったが、普通科の生徒の生活への思いを抱き始めた矢先であり、また演劇部という縁遠い存在が急に間近に迫ったことでの興奮もあった。
 究は「出たいんですけど、僕野球部で忙しくて、練習に出られないと思うんです」と正直に話した。
 秋の学校見学会は文化祭前の土曜日午前中に行われ、野球部も部活紹介のため出ることになっているので、練習は午後からの予定だ。そのため、当日に部の練習と重なる心配はないことも一応付け加えた。
 これに対し、勇秀くんは「では、台詞を極力少なくするというのでどうでしょうか。皆との練習が無理なら、僕が練習風景を動画に撮って後で送りますから、それを見て、僕と二人で短時間で打ち合わせをする、というのは」と、大層ありがたい提案をしてくれた。
「そういうことなら!」と究は快諾した。
「じゃあ、よろしくお願いします」と勇秀くんは礼儀正しく言い、その場でお互いの連絡先を交換した。
 そして別れ際、思い出したようにこう言った。
「あと、大したことではないですが、町奉行なので、お作法の基本と正座を学んでおいてください」


 正座は背筋を伸ばし、脇はつけるか、軽く開く程度。膝もつけるか、握りこぶし一つ分開くくらい。手は太ももの付け根と膝の間でハの字に。スカートは広げずにお尻の下に敷く。足の親指同士は離れないように。
 正座の仕方は、勇秀くんからの連絡で知った。
 夕食後、くつろいでいた和室で試しにやってみる。
「お兄ちゃん、親指同士、すごい離れてるよ」と、塾から帰った妹が究の後ろを狭そうに通りながら言いながら指摘し、向かいに座り、夕食を摂り始めた。
「そうか」と、親指同士をつける。
「なんか、膝がずいぶん離れてない?」と、同じく究の後ろを狭そうに通りかかった母が言う。
「そうか」
「ねえ、今度はずいぶん背が丸まってるけど、いいの?」と、妹が言う。
「……よくない」
 ここで究は立ち上がり、「素振りの練習してくる」と部屋を出た。
 夏の大会に向け、部では副顧問が部員の一挙一動に目を光らせていた。
 そうした中、ウエイト増量もあっという間にクリアし、打席での成績も守備もよい究は今年試合に出してもらえる可能性が高くなった。
 副顧問は、顧問の先生も部員一人一人を見てくれたが、それ以上にメンタル面を窺うのに加え、備えている身体能力、優れている点を詳細に見抜き、決められた基礎練習以外に、各々に合った指導も行った。
 究は動体視力が優れている点と、野球に向いた身体である点、飛距離はまだまだ伸びるだろうという点を伝えられた。
「ありがとうございます」と、究は上気した顔で頭を下げた。
 副顧問はバッティングの細かな調整も、迅速且つ丁寧に指導してくれる。
 もっと本格的に厳しい練習を、と究は思ったが、それを見抜いたように副顧問は、「今は基礎と自身の改善点に集中する。身体づくりの時期だから、無理は禁物だ」と説明した。
 究はその説明と自身の驚くほどの進歩に「ありがとうございます」と、帽子を取り、頭を下げた。
 目に見えて自身の実力が向上していく。
 こんなにも野球に打ち込めるのは、今回が最初で最後ではないか、という思いは、少し怖くもあった。
 つまり、究は初めてのプレッシャーを感じていた。
 そこへ、うっかり引き受けてしまった町奉行役。
 そして、正座の指導。
 今はそれどころではない、という本音が心のどこかにいつもある。
 その思いとは裏腹に、勇秀くんから、究の出番の箇所の台本が送付された。
 ざっと目を通し、本当に極力台詞を短くしてくれているのがわかる。
 究の演じる町奉行の台詞は、この役のこの台詞と、この役の台詞の次というふうに覚えておけばよいくらい、少なかった。
 送られた動画を見ると、先に送られてきた文面での正座の仕方に続き、演劇部の部員一人の正座風景が編集されていた。
 背筋を伸ばし、膝をつけ、脇は軽く開くか閉じる程度、足の親指同士もきちんとついており、手は太ももと膝の間にハの字で置かれている。
 和室で適当にした自身の正座とはだいぶ違うことはわかる。
 だが、まあ、これを参考に後日改めてやればいいだろうと、と究は携帯の液晶画面を閉じ、翌日の朝練に遅れぬよう早々に就寝した。


 夏の高校野球のトーナメント表が出た。
 初戦の相手高校は、某善位高校と対戦前に一試合あり、そこで勝利した方の学校だ。
 そして、次の対戦相手が難関だった。
 甲子園出場経験のある野球の名門と言われる学校だった。
 野球部はざわめいたが、副顧問の先生は落ち着いていて、皆が今日までウエイト増量や、毎日の練習を積んできたことに自信を持つことと、相手校の分析は副顧問がして、それをミーティングで教えるので、とにかく心配せずに練習を疎かにしないように、と締めくくった。
 来る試合では究はベンチ入りを果たし、代打で出場し、満塁からの得点につなげる貢献ができた。この一回きりで究の出場はそれ以降なかったが、ベンチから常に応援し、チームの勝利を願った。
 その願いが通じたというか、某善位高校は一回戦を突破した。
 二回戦で某善位高校に敗れた相手高校とも握手をして、お互いの健闘を讃えあった。
 そして、迎えた名門の高校との試合では、究はレギュラーメンバーとして名を呼ばれた。
 六回裏、某善位高校三点、名門の高校五点の時、雨が降り出した。
 打順が回ってくると、究は打席に立ち、副顧問に教えられた通り下半身の重心に注意しバッドを振った。
 二度ファウルボールを打ち上げ、そのたびに球場には期待と残念さの入り混じったざわめきが起こる。
 究は平常心を保つよう自分に言い聞かせる。
 ピッチャーは究より一つ上、三年生で、名門の学校に特待生で入学した人物だった。
『練習や、ミーティングで見た相手校の分析以外の余計なことは考えなくていい。いいか。気負い過ぎるな』
 あの時、澄んだ真摯な目を副顧問に向けていた。それは、究の隣も、前に座り、表情の見えない先輩たちの後ろ姿からも伝わってくるものだった。
 雨で遮られ始めた視界の先を、究は瞬きせずに見た。
 ストレートが投げ込まれる。
 心地良い音が響いた。
 野球部の家族や、高校の普通科の有志が来てくれているスタンドから歓喜の声がわく。
 遥か先のフェンスの向こう、芝生に白球が弾んで転がった。
 先輩と、ウエイト増量で苦労していた友達が次のベースを踏み、笑顔でこちらへ向かって来る。
 究は我に返り、一塁ベースを踏み、二塁、三塁と周り、ホームインを果たす。
 奇跡のような逆転劇だったが、そこから更なる逆転をされ、試合は某善位高校六点、名門の高校十二点の差での敗退となった。
 それでも、あの名門の高校のピッチャーからホームランを打った、ということが究の中ではとても大きく、また某善位高校の部員もあの名門の高校に一度は逆転したということは大きな興奮になった。試合に負けはしたが、部員一同、スタンド席も笑顔だった。一列になり、帽子を脱いで一礼したスタンドには、勇秀くんや、演劇部と思われる人が来てくれていた。そして、泣きながら笑顔で拍手をしている母を見つけた。無意識に目頭が熱くなる。友達に促され、究はもう一度小さく礼をし、球場を去った。
 普段朴訥としていた副顧問は「負けに関しての反省は次の勝利につなげる大きな材料と課題だ」と前置きした後に、「本当に毎日よく練習して、ここまで頑張った」と結んでくれた。
 夢の甲子園への道はここまでとなったが、翌日学校へ行くと、「ホームランおめでとう」と、何人ものクラスメイトに声をかけられ、一限目に現れた教師にもそのことで祝福された。
 この日ももちろん部活はあるが、昨日までの張り詰めた緊張からの解放感があった。


 そろそろ演劇部に顔を出そうと思い立ったのは、大会の二日後の部活が休みの日だった。
 野球部などの大所帯の運動部と、演劇部などの文化部は部室が離れているため、究は初めて訪れる場所だった。
 不慣れな場所で、究は工芸科の作業着姿の生徒を見かけ、「すみません、演劇部に行きたいんですけど」と声をかけてみた。
「ああ、この先」と、廊下の先を示してくれた。
「ありがとうございます」とお礼を言うと、「次の劇、参加するの?」と訊かれ、「まあ、ちょい役で」と答えると、「僕は舞台の大道具を少し手伝っているよ」と言う。
「あの、そういうのって、授業の一環とか、そういうのですか」と、普段自分のクラス以外での交流があまりない究は訊いてみた。
「いや、たまたま、作法と正座を学ばないといけないことがあって、その時に、演劇部の勇秀くんに世話になって、そこから……」
 知っている名前が出て、究は「僕も勇秀くん絡みで、演劇部に参加することになったんですよ」と話を続けた。
「ああ、そうなんだ。勇秀くん、忙しいのに、そういうところは抜かりないな……」
「忙しいって?」
 不思議そうに訊く究に、「勇秀くん、特別クラスなんだよ。僕もあんまり詳しくは知らないけど、放課後も小テストがあったり、休みの日も模試があったりで、一応部活は許可されているけど、すごく忙しいみたい。時間があれば放課後、職員室前の自習スペースで、先生に質問する場所を教科ごとに付箋を貼って待ちながら勉強して、演劇部の脚本も書いているんだよ。部活にも極力参加したいみたいで、休みの日に模試が終わると、昼食抜きでそのまま演劇部に行って、細かい指導をしているよ。勉強のできる人っていうのは、なんでもよくできるんだとは思ったけど、それにしても頑張ってるよ」と、時々自身の話に頷いたりしながら教えてくれた。
 ……そんなに大変だったのか。
 頻繁に送付される演劇部の練習風景と、最初に届いた正座の仕方についての説明。
 正座の説明は初日にざっと見て居間でやってうまくいかず、そのままにしていた。
 練習風景は、届いたことは確認しても、内容は全く見ていない。
「背筋を伸ばして。脇はつけるか、軽く開く程度。スカートはお尻の下に敷いて。手は太ももと膝の間でハの字に。親指同士離さない。膝はつけるか、握りこぶし一つ分、開くくらい」
 つい今しがた教えてもらった演劇部の部室からは、勇秀くんの正座指導の声が聞こえた。
「ああ、今日もやってる」
「え、正座を毎日しているってことですか?」と究が訊く。
「うん。発声とか柔軟と一緒にやっているらしいよ。舞台とか衣装が整っても、作法、立ち振る舞いが江戸の人でなれていないと駄目だって言ってた」
「……そうなんですか」
 究は俯き、演劇部の部室から遠ざかって行った。
 途中、渡り廊下で副顧問と出くわした。
 すぐに「こんにちは」としっかりしたあいさつをする。
「今日はどうした?」と訊かれ、究はついでにと、演劇部から出演を頼まれた旨を簡潔に説明した。
「報告が遅くなってすみません」
「いや、構わないよ。それより、演劇部の練習行かなくていいのか?」
「いや、あの、僕は町奉行の役で台詞も少なくしてもらったんですけど、正座だけはきちんとできるようにって言われてたんですけど、全然やっていなくて、なんか行きにくくて」
 つい、本音を言い、相手があの甲子園にも出た厳しい副顧問であることを思い出した。
「だったら、尚更、今から正直に言って、練習したらどうだ?」
「……え、はい……」
 怒鳴られる覚悟をしたが、至極真っ当な意見を淡々とした口調で伝えられ、究はやや遅れて頷いた。
「では、失礼します」と、演劇部へ再び行こうとする究を「馬戸」と副監督に呼び留められた。
「はい」と振り返ると、「それは野球部、一般生徒も見ていいのか?」と訊いた。
「秋の学校見学会でやる劇だそうなので、野球部も出ますし、最前列の席なんかは無理だと思いますけど、見る分には……」
「そうか」と副監督は笑って頷いた。


 どういうわけか、昼休みの演劇部には、野球部員と顧問、副顧問が集結していた。
「背筋を伸ばして。スカートの場合はお尻の下に敷くように。膝はつけるか握りこぶし一つ分開く程度。脇はつけるか、軽く開くくらいで。手は太ももの付け根と膝の間でハの字に。足の親指同士が離れないように。……それから、あまりきつければ足は崩してください」
 ウエイト増量し体格に恵まれた野球部員が並んで正座をする姿は壮観で、その最前列で究は正座の指導を受けている。
 副顧問のアイデアで、野球部の仲間が劇に出て正座を学ぶのであれば、野球部全員も、演劇部の上演中は体育館の端で正座をして観劇をしようということになったのだった。
 普段授業と部活の練習が一日の大半を占めていた野球部にとっては、珍しい機会であるし、究にとっては演劇部員の中に遅れて入るプレッシャーから解放されるとあって、お互いにとっていい案だといえた。
 勇秀くんも、副顧問の依頼を快く引き受けてくれ、代わりにこれからも、町奉行など貫録ある役どころがあれば、台詞を少なくし、練習は極力免除するので協力してほしいと言った。そして最後に、できれば副顧問の先生にお願いしたんです、と付け加え、野球部員は俯いたまま吹き出したいのを堪えた。
 正座の練習は、勇秀くんの勉強に合わせることもあり、一度などは職員室前にずらりと野球部員が正座し、一体何事かと驚かれたこともあったが、日々の成果が実を結んだ。もともと活動に力を入れている部などはあいさつを厳しく指導するのが通例だが、それに加え、正座もきちんとできるようになったことで、自然と所作なども丁寧になったと副顧問は上機嫌で、ほかの部でもやってみようかという話まで出ていると聞いた。
 こうして迎えた学校説明会での部活紹介で、究は町奉行役を務めた。
 厳しい勇秀くんは、時代背景や町奉行の仕事についての資料も究に送付してくれたが、申し訳ないが、それらは読み進める前に不思議と眠くなるばかりで、熟読には程遠かった。
 しかし、演劇部の女子が三人がかりで、町奉行の衣装を着つけてくれ、袴なるものを初めて穿いたこともあり、自然と究は自身が町奉行のような気分になっていった。舞台でも、究演ずる町奉行のお裁きをと膝をつく町人役の演劇部員を前に、堂々とした振る舞いで登場し、台詞は棒読みながらも、その恵まれた体格と豪華な衣装、そして特訓した正座や立ち振る舞いで存在感を発揮し、無事に出番を終えた。
 生徒会が気を利かせ、演劇部の次に野球部の紹介を入れてくれたため、劇が終わったステージにスクリーンを下し、そこについ今しがた町奉行で登場した究が試合でホームランを打った動画が映し出された。
 そして、舞台袖で正座をしていた野球部員と町奉行の衣装の究がステージに上がり、日ごろの練習についてや、顧問の先生が部員全員をきちんと見てくれていること、新たに入った副顧問の先生は細かな指導をしてくれること、そして何より部の雰囲気がよいことを挙げた。
 町奉行をした男子が野球部だったことと、同じ部の仲間の劇を野球部員みんなが見て応援するという流れから、部の風通しがよいことが十分に伝わったようだった。最後にはいつものように帽子を取り、一礼をし、舞台をおりた。この時、町奉行の髷のかぶりものを究が取ったことで、会場は笑いに包まれたのだった。


 普通科のクラスでは文化祭の出し物の決定や、当日に向けての準備が夏から本格的に開始されていた。
 工芸科では、発表する作品作りの仕上げに追われているらしい。
 学校内が浮足立った忙しさに包まれている中、スポーツ推薦のクラスでは、夏の大会後も皆各部の活動に精を出している。
 野球部では毎年出店をやるが、出店するのは唐揚げ屋で、その唐揚げも冷凍のものを毎年同じところから買っているので、大まかな仕事はもう心得ていた。
 演劇部は相変わらず忙しそうで、勇秀くんをたまに職員室前で見かけるが、いつも付箋を貼った教科書と参考書を積み上げた横でパソコンを開け、台本か何かを書いているようだった。
 なんとなく声をかけづらいが、世話になったこともあり、自販機でジュースを買ってそっと差し入れたりした。
 そんな時、勇秀くんははっと顔を上げ、「ありがとう」と言った。
 疲れた顔をしていても、とても充実している様子が伝わってくる。
 究は演劇部への参加はスポーツ推薦以外の生徒と関われるいい機会だった、と振り返る。
 演劇部の公演は、野球部の店番の時間を調整して見に行きたいと思った。
 こうして迎えた文化祭の日、究は午後一番の演劇部の公演までは店番を引き受けた。
「唐揚げ、五人分お願いします」と声がかかる。
「ありがとうございます」と声を張って顔を上げると、勇秀くんや、ほかの二年生が五人来てくれていた。五人は午後の公演のための宣伝で、段ボールで作ったプラカードを持っている。
「今日、午後から見に行くね」と究は言いながら、紙コップに入れた唐揚げを次々に渡し、隣の友達が会計をする。
「ありがとう。みなさんもよかったら来てください」と、店番の野球部のメンバーにも声をかけ、勇秀くんたちはほかの店を見に行った。
「すみません、唐揚げ、二人分お願いします」とまた声がかかる。
「ありがとうございます」と声を張り、二人分の唐揚げを手渡そうとし、「あれ、」と究は手を止める。
「確か」と言って、中学生男子二人の名字を確認した。
「覚えてくださってありがとうございます」と二人揃って頭を下げる。
「五月の部活体験、来てくれたよね?」と、究は訊く。
「はい、馬戸先輩には、自分が緊張してボールをうまく取れなかった時に、『大丈夫、大丈夫』って言ってもらって、本当に元気づけてもらいました」と一人が答え、もう一人は「自分は高校での生活を色々教えてもらって、とても参考になりました」と言う。
「この先輩、勉強はちょっと頼りないけど、ほかではいい人だから、入学したらどんどん頼るといいよ」と、会計をしながら話に加わったのは、ウエイト増量の際に究が残りの弁当を食べた友達だった。
「ぜひ、お願いします」と二人は言い、上気した顔でお辞儀をし、校舎の方へ向かって行った。
 こちらこそよろしくお願いします、と心の中で言い、究は二人を見送った。
 高校で、まだまだ学べることがありそうだ、と思った。


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