[208]正座フェロモン・夢好(ムスク)



タイトル:正座フェロモン・夢好(ムスク)
発行日:2021/010/01

分類:電子書籍
販売形式:ダウンロード販売
ファイル形式:pdf
ページ数:52
販売価格:200円

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容
 大正時代の女学生、咲和は、お行儀教室の若師範、一路(いちろう)にあこがれているが、正座が上手にできないのが悩みの種だった。
 ある日、亡き祖父の知り合いが持ってきた「ムスク」という香水を使ったら、正座を褒めてもらった。
 縁談の相手の書生、夢好(むすく・俳号)が訪ねてきて、「ムスク」を大学での研究のため分けてほしいという。
 
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本文

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第 一 章 ムスク

「お帰り。あなたが帰ってくると匂いでよくわかるわ」
 生垣のつるバラを切っていた母親が迎えた。
「そう? いい匂いよね。自分でもよくわかるわ。お祖父ちゃんの支那(中国)みやげの香水『ムスク』」
「清潔感のある香りだものね。知らないうちは、中国のじゃ香鹿っていう鹿の分泌物だっていうから、獣の匂いかなと思ってたけど」
 母親とおしゃべりしながら草履を脱いだ咲和は十七歳、大正時代の女学生だ。部屋へ行くと袴を脱いで女学生から普通の女の子に戻る。
「そうそう、今日、芝原のおじさんが、あなたに縁談を持ってきたのよ」
 居間にお茶を持ってきた母親が、書棚から写真を取り出してきた。咲和は大きなため息をついた。
「縁談……。こんなに花嫁に不向きな女の子をもらってくれる人なんているのかな。お料理もお裁縫もまるでダメ」
「俳人の書生をなさっていて、長曽我部学衛門さんですって」
「舌を噛みそうな名前の人ね」
 写真を見る気もしない。
 そこへ、玄関から女の子たちの声がした。
「咲和さん、帰ってらっしゃる?」
 咲和と母親は慌てて玄関に出た。
「美衣子さん、早苗さん、どうなすったの?」
「どうもこうも昨日のお作法教室で、咲和さん、大師範の先生から正座を褒めていただいてすごかったわよね」
「そんな、やっと叱られなくなっただけですよ」
「え、咲和。あなた、大師範に正座を褒められたの? あれほど努力しても、背筋が曲がってるって注意されてたのに?」
 母親が思わず聞いた。
「お母さん。だから、やっと皆さんに追いついただけ」
「咲和さん。ご謙遜。大師範の先生に褒められるなんて、まずないわ」
「それに、若師範の一路先生も驚いてらっしゃったわ」
 美衣子と早苗がはやしたてて言う。
「だから今日のお稽古は、咲和さんと一緒に行こうと思って」
「ええ? 私、今日はお稽古日じゃないんですけど」
「いいじゃない。私たちにも教えて下さいな」
「何をおっしゃってるの、皆さんの先生は萩島大師範と若師範先生で、私はただの生徒ですって」
 ふたりにやっと引き取ってもらって、咲和親子はホッとした。

 咲和は書斎に入った。お祖父ちゃんが使っていた部屋だ。お祖父ちゃんは何年も前に亡くなったが、支那で同行したという男性が訪ねてきて、「ムスク」という香水を預かっていたと言って、置いていったのだ。
 書棚に入っているウコン色の小瓶。そっと取り出して嗅いでみると、いい匂いだ。「ムスク」である。

第 二 章 夢好

 「ムスクの効能」
一、頭の中がすっきりする。
二、お肌がきれいになり、若返り効果も抜群。
三、異性にモテるようになる。

 手首につけてお作法教室に行ったら、いつもより気分が清々しく、すんなりと正座を大師範に褒めてもらった。
「はい、咲和さん、まっすぐお立ち下さい。なんだかよい香りがしますね。そのまま膝をついて。お着物の裾は膝の内側に手を添えて挟みこみ、かかとの上に静かに座って。両手は静かに膝の上に。そう、そうです! いつもよりずっときれいに背すじが伸びていますよ。今までで最高の正座です!」
「ありがとうございます、大先生」
 正座に及第点をもらうと、心から自信が湧いてきた。日に日に見違えるように自信を持ってなんでも行動できることに、自分でも驚いた。
 正座ばかりでなく女学校の成績が良くなり、はきはきと話ができるようになった。取り組んでいる勉強も面白くなってきた。
 外見も見違えるようにあか抜けて、決して目鼻立ちまで変わったわけではないのだが、瞳の輝きが違うと言われる。自分でも鏡を見てそう思う。
 そしてモテ始めた。人生初めてのことだ。
 今まで殿方と話したこともないというのに、トンビ(黒いマント風のコート)姿の男子高校生が声をかけてくる。
 聞きつけた女学生たちが、あの手この手で正座の上達めざそうと、咲和に正座を習おうとするが、咲和は謙遜して逃げ回っていた。

 正座の師範の若先生まで「ムスク」について教えてほしいと泣きついてくる始末だ。
「若先生、私、なぜ正座が褒められるようになったか、自分でも分からないのです。ただ、祖父の支那みやげの『ムスク』という香水をつけるようになっただけなんです」
 自分の前で正座してまで頼む若先生の一路に困って説明した。
「そう言わずに教えて下さい。実は、ここだけのお話、父親の大師範から、未だに正座の特訓を受けているんです。他の作法については大丈夫なんですが」
「そうなんですか。でも、本当に『ムスク』をつけただけなんです」
「じゃ、それを少し分けていただくことは……」
「それは……少しの分量しかないですし……」
「……ハジを忍んでお願いしてるのに、咲和さんて意外と冷たい方ですね」
 一路は顔を曇らせて、その場を立って向こうへ行ってしまった。
(あちゃ~~、怒らせた?)
(いつも落第点をとっていた私に優しく指導してくれた一路先生のご機嫌を損じてしまったかな? 茶道の時にも何気なく好みのお茶菓子や床の間の花を用意したり気をつかってくれるのに)
 咲和は反省した。
(正座が上達したのが「ムスク」のおかげかどうかも分からないけど、ケチってしまったかな~~~?)
 一路先生は、咲和の淡いあこがれの的なのだ。
 縁談に興味がないのは、そのせいもある。

 ところが、その日、女学校から帰宅すると縁談の相手が待っていた!
「長曽我部学衛門と申します。この度は、咲和さんが愛用されているという『ムスク』という香水を拝見したく、伺ってしまいました」
 縁談には一言もふれず、いきなりムスクのことを切り出した。
 白い襟無しシャツに、着物、袴を着た書生だ。年齢は二十代半ばだろうか。黒ぶちの丸メガネをかけている。
「あのう、もう一度お名前を」
「長曽我部学衛門で……」
 そこで青年は明るい顔になった。
「私は俳人の先生の門下生で、俳号は『夢好』というんですよ。だから、『夢好』と呼んでください。覚えやすいでしょう。咲和さんが『ムスク』を愛用して下さってるのも、何かのご縁かもしれません」
「え、え、夢好? むすくさん?」
「はい!」
(誠実そうな人だけど……いえいえ、私のあこがれは正座の一路先生だけ!)
 咲和の思いはあちこちをめぐった。

第 三 章 亡き母の正座姿

 数日後、再び夢好がやってきた。
 咲和が帰宅すると、玄関に大きな下駄が四足もそろえてある。
「お母さん、お客様?」
 彼を気に入った咲和の母親は、客間に四人の男子学生を入れてもてなしている。
「ああ、咲和、お帰り」
「おじゃましてます!」
 夢好はじめ、三人の学生がソファから立ち上がって咲和に大声で挨拶した。
「あのう……」
「咲和さん、今日はムスクを大学の研究に使わせていただきたく、お願いに上がりました。書生は俳人の先生の手伝いで、大学で麝香鹿の研究をしているのです」
 夢好が、立ち上がって言った。
「それで、この前も来られたんですね」
「はい。なにせ、麝香鹿の分泌するムスクは貴重品でして。人工のムスクを作れないかと研究しているのですが、支那に渡る旅費などない貧乏学生なもんですから。少しだけ研究用に貸していただけないかと」
「お願いします!」
 夢好のような襟なしシャツと袴姿と、学生服の大学生が、また大声で言った。
「……ほんの少ししかないので、困ります」
 小声で答えた。
 ムスクをつけ始めてから、毎日使用している。
「もしつけないで女学校やお作法教室に行ったら、以前の落第点ばかりとっている自分に戻りそうで怖いのです」
「ですから、同じものを人工的に作る研究をしているのです。そのための見本です」
「これと同じものを作る? そんなことができるのですか?」
「やってみなければわかりませんが。可能性は高いです」
 夢好は、ドンと胸を叩いた。

 大学生たちは、今日はいきなりのお願いなので引き下がって帰った。
(ムスクが人工的に大量に作れるようになったら、永遠に自信のある私でいられるってこと?)
 ドギマギする咲和だった。

 夕暮れの薄紫色が迫ってきた時、ふと気づくと、庭先にやっと開き始めた梅を見上げる夢好の姿があった。
「夢好さん……」
「ああ、咲和さん。帰り際に大きな梅の木を見かけて。立派な白梅ですね」
「はあ、樹齢はかなりいってると思います」
「亡き母は白梅が好きでした。梅もムスクに負けずいい香りがしますねえ」
「亡くなったお母さまが」
「ええ。行儀作法には厳しい母でした。特に正座の仕方。ああ、咲和さんはお作法教室で正座を褒められたんですって?」
「どうしてそれを」
「お母さんにお聞きしましたよ。お作法教室の萩島先生に褒められたって」
 にっこりして夢好はこちらを向いた。
(母さんたら、おしゃべりなんだから)
「そうだ。もし咲和さんがよろしかったら、褒められた正座を見せていただけませんか」
「え、どうして」
「ムスクの効能のあった正座を見てみたいのです。失礼ですが、母の正座と比較したいのです」
「お母さまの正座と」
 気恥ずかしく思ったが、座敷に上がってもらうことにした。
 夕暮れが濃くなったので、飴色の電灯を灯す。
 咲和は夢好の前で緊張して座敷に背すじを伸ばして立った。静かに畳の上に膝をつき、着物の裾に手を添えてお尻の下に敷く。かかとの上に座り両手は膝の上に置く。
「う~~む。まるで母の正座を見るようだ。凜として白百合のようだ」
「白百合だなんて」
「すみません。こんな大げさな言葉で、つい俳句の癖が出てしまって」
 夢好は頭をかいた。
「お母さまの正座姿、良い思い出になっていらっしゃるんですね」
 しみじみと穏やかな気持ちになる咲和だった。同時に夢好という風変わりな学生兼書生に温かい気持ちを感じた。

第 四 章 俳人のたまり場で

 小さな酒場の連なる路地に、ちょいと洒落た店がある。二階は自由に過ごせるサロンになっており、文人や俳人が自由にたむろして使っていた。
 アールデコ調のうなぎ模様の壁紙や、階段の手すりがパリ風で、窓枠も欧州の雰囲気だ。
 ゴブラン織りのソファがいくつも転がっていて、あちこちで数人が話したり、本を読んだり、紫煙をくゆらせていたりする。
 奥に、夢好と俳人の師匠がいた。
「ああ? 二週間休みがほしい?」
「はい。大学の実験で忙しくなりますので」
「誰か代わりを探してきてくれよ」
 俳人は不機嫌そうに言い渡した。
 隣のテーブルに見慣れない客が来た。ここに出入りする者とは種類が違う。上質の大島紬を着たお坊ちゃまとでも言おうか。夢好が何気なく注意していると、彼のところへハンチング帽をかぶった痩せた中年男が近づいてきた。咬みたばこを咬んでいる。
「作法教室の若先生かい」
(作法教室?)
 夢好の耳が大きくなった。作法教室という言葉から、咲和のことを思い出したのだ。
 大島紬の青年は、
「萩島です」
 と言って頷いた。
(萩島? どこかで聞いたな)
「まあ、座ってください」
 ハンチング帽の男は青年に椅子をすすめて自分も座った。
「こちらの商売にご興味をお持ちとか」
「はい。麝香鹿から採れるムスクを商っておられるとお聞きしましたので」
「しっ」
 ハンチング帽の男は、鋭く唇の前に指を立て、青年に顔を寄せた。
「大きな声は困りますな。今、麝香鹿の売買は禁止されているのです」
「そうでした」
「しかし、本物から人工的にムスクを作ることに成功した者がいましてね。信用できる方にだけお分けしようと思ったのですよ」
「人工ムスクを作ることに成功した?」
 思わず声が大きくなった。立ち聞きしていた夢好まで振り向いてしまった。
(どこの誰だ? 俺たちより先にそんな奴が?)
「どこの誰です、それは。人工ムスクを作ることに成功したなんて聞いたことがない」
 夢好も青年も同時に思った。ハンチング帽の男が、
「それは言えませんな。いや、ワシも知らないのですがな。ワシはただの仲買人ですから」
「……分かりました。それを私に売っていただけませんか?」
「値がはりますよ、萩島先生」
「いいのです。ぜひ、使ってもらいたい人たちがいる」
 ハンチング帽の男と青年の間で商談が進んでいく。
(あっ)
 夢好は思い出した。
(萩島って、咲和さんが通っているお作法教室の先生。その先生が得体のしれない男から、作ったムスクなんて買おうとしている!)
「いくらでも出しますよ、江端さん。うちで教えている正座がうまくできるようになって喜んでいる生徒がいるのです」
「へえ……、ま、代金さえきっちりいただけるのでしたら、何に使ってもらおうとかまいませんけどね」
 江端という男の紫煙が輪になってぷかぷかと天井向けてたゆたっていった。
 商談、成立したらしい。
(大変だ!)
 夢好は、慌ててサロンを飛び出した。
(咲和さん親子は、とてもムスクの効能を喜んでいるのに、あんないかがわしい男から信用できない品を家元の先生が買うだなんて! 人工ムスク第一号は、俺たちが作ろうとしている矢先に)
 勤め人や物売りが行きかう路上に、夢好はしばらく立ちすくんだ。
 次の瞬間、住宅街に向かって走り出した。

第 五 章 人工ムスク

「お願いしますっ」
「なにとぞ、なにとぞ!」
 学生たちが玄関で土下座した。
 咲和は、母親と顔を見合わせてから二階のお祖父さんの書斎へ上がっていき、すぐに降りてきた。手には大切そうに「ムスク」のウコン色の小瓶が握られている。
「はい、夢好さん。これを元に、ムスクをたくさん作って下さいね」
「恩に着ますっ」
 夢好たちは、もう一度、額を地面につけてお礼をした。
「研究に成功したら、あなた方に美しい正座の仕方をお教えさせてくださいな。その座り方は見苦しいですわよ。夢好さん以外の方」
「はいっ、いくらでも教わりますっ」
「夢好だけ、どうしてお稽古免除なんですか?」
 学生たちが、咲和と夢好を見た。
「だって、夢好さんの正座とお辞儀は文句のつけようがありませんもの。さすがお母さま直伝ですわね」
「直伝だとわかりましたか?」
 大照れに照れた夢好が顔をくしゃくしゃにした。
「人工ムスクの製造に成功してみせます!」

 一方、お作法教室の若師範、一路は、教室で弟子たちに購入したムスクを、少し利益を見込んで売り始めた。
「まあ、噂のムスクが手に入るなんて」
 弟子の女性たちは大喜びし、ムスクは連日飛ぶように売れる。在庫はたちまち無くなった。
 一路は初めての商売に味をしめ、更に人工ムスクを仕入れた。
「一路先生がムスクを売って下さるようになって助かったわね」
「本当。咲和さんだけしか手に入らないと思っていたのに、さすがだわ」
 弟子の女性たちが話しているのを聞いて、咲和は驚いた。
「あの、今のお話……」
「咲和さん、ご存じなかったの? 一路先生がムスクを売って下さっているの。おかげ様で私たち、お稽古が上達してモテるような気がしてきましたわ」
「なんですって? そんなはずは」
(人工ムスクは、夢好たちが大学で研究段階だ。まだまだ世の中に出回っていない。いったい誰が先に開発したのだろう?)
 一路師範のところへ飛んでいった。
「失礼します」
 障子を開けると、一路の部屋の床の間の前には、箱入りのムスクの小瓶が山積みにされていた。三百個はあるだろうか。
 一路も中のひとつを手にとって、香りを嗅いでいるところだった。
「ああ、咲和さん」
「若先生、これはどういうことですか? 人工ムスクですよね」
「そうだけど、君の持ってる本物と同じ効果があるよ。頭がすっきりして、周りの女性にモテるような。正座も親父に褒められるようになったしね」
「本物と同じ効果? 大丈夫なんですか。製造元は?」
「えっと、どこだっけ。僕、そういうのに詳しくないから。サロンで集まる人から紹介してもらって買ったんだけど」
「……」
 咲和は開いた口がふさがらなかった。
(販売元も製造元も分からない品をサロンで紹介してもらった人から買った? 人の肌につける品を?)
 弟子の男性が入ってきた。
「ああ、小切手用意してくれた? このムスク代金」
 その額面がチラと目に入ったので、咲和の眼がよけい飛び出た。
(私の学費、一年分じゃないの)
「一路先生!」
「これでもっと仕入れて、地方の弟子にもムスクを使ってもらうんだ」
 一路の嬉しそうな顔を見て、咲和は何も言えなかった。

第 六 章 弟子たちの異変

 ある日、お作法教室の弟子のひとりに、手足にかゆみが出た。あっという間に全身にじんましんができ始める。
「ああ、どうしよう、ぶつぶつがこんなに」
「私もだわ。こんなに赤くなってかゆいわ」
 弟子のほとんどが言い出した。
 症状の出ていない弟子が、
「もしかして、一路先生から人工ムスクを買って使われた?」
 じんましんで苦しんでいる弟子たちが、顔を見合わせた。
 部屋の入口で立ったまま一部始終を見ていた咲和は、足がすくんでしまった。
「とにかくお医者様へ行きます!」
 ひとりが飛び出していくと、後に何人も続いた。

 診察の結果、香水のせいだろうということだった。やはり人工ムスクが原因だったのだ。
 大師範は、息子のしでかしたことに烈火のごとく怒った。
「大切なお弟子さんたちに、いかがわしい香水を売るとは、なんたることだ!」
 怒鳴り声がお稽古の部屋まで聞こえてきた。
「お父さん、私はお弟子さんたちに、正座を上手になってもらいたくて……。生き生きしてもらいたくて。その一心だったんです~~」
「それにしては、高額で売っていたそうじゃないか!」
「あ、あ、申し訳ありませんっ」
 若師範が庭に飛び降りて、土下座している。

 じんましんの症状の出たお弟子さんたちは、かんかんに怒っている。
「こんな香水を売りつけるお作法教室、もうやめさせていただきます!」
「弟子をこんな目にあわせる師範なんて、とんでもないわ」
 やめていく人が続出した。
「この責任はお前にとってもらうからな、一路!」
 大師範は、自分の部屋に閉じこもってしまい、お稽古部屋にひとり取り残された若師範はくずおれた。
 障子の陰から咲和が見つめていた。
 人工ムスクをたくさん売ろうとしていた一路に、かなり幻滅していたが、見放された姿を見ると哀れに思う。

 咲和は、翌日、夢好の大学の研究室を訪ねた。
 薄暗い校舎だ。裏側は幹の太い木がならんでいて、よけいに陰湿だ。
 古い床板がギシギシ鳴る。長い廊下を進んでいくと、ようやく「生物研究室」の札を見つけた。
 木製の扉だ。男性の話す声がする。
 咲和はそっとノックしようとした、その時に……大声と共に、どやどやと大柄な男ばかり数人とそれに混じって夢好も出てきた。
「その人工ムスクとやらを作った輩を探し出そう」
「早くやめさせなければムスクの心象が悪くなるではないか!」
「夢好、お前、俳人さんのサロンで、怪しいやつを見かけたんだろ、何か手がかりは」
 男が振り向いた時、夢好は、咲和に気づいて立ち止まった。
「咲和さん」
 咲和は頭を下げた。
「おお、先日はどうも、おじゃましまして」
 友人たちは、呆気にとられた。
「このお嬢さんは? 夢好の? ?」
「本物のムスクの持ち主だ。俺が無理言って、お借りしてるんだよ」
「ええっ、本物のムスクの!」
 友人たちは態度をただして咲和に頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげさまで俺たちの研究が進んでいます!」
「ありがとうございます!」
 咲和はもごもごした。
「いえ、あの、たまたま祖父の知り合いが、先日届けて下さったので……」
「お祖父さまのお知り合いがですかっ! お祖父さまは、もしかして支那でお仕事をされていたのでしょうか」
 夢好の友人たちが目を輝かせて咲和を取り囲む。
「祖父は昔に亡くなっています。生前、支那で仕事をしていたことがあって、香水に加工したムスクを知人が預かっていたそうです」
「夢好、お嬢さんとはどうやって知り合ったんだ?」
「遠縁の叔父が縁談の相手にと。偶然、ムスクを持っていることを叔父から聞き――だな――」
「縁談の相手だと―――!」
 男たちは叫んだ。夢好の後の方の言葉は聞いていない。
「お前にはもったいなさすぎる美人さんだぞ!」
 咲和は、真っ赤になった。
(夢好さんてば、いきなりうちにやってきてムスクのことにだけ一生懸命に尋ねたから、私のことを訳が分かっていないと思っていたら――ちゃんと縁談の相手だってことは分かってたのね)
「オホン、そんなことより、人工ムスクのことだろうが」
 夢好が咳払いして話を変えた。
「そうだった! 咲和さん、今、お作法教室にうかがおうとしていたんですよ。人工ムスクの騒ぎがあったって聞いたので」
「もう、お耳に入ったんですか」
「そりゃ、もう。作法教室の若師範が人工ムスクを生徒さんに売ったそうですね。生徒さんたちにじんましんが出たとか」
「そこまでご存じで」
「私、偶然に人工ムスクの売買人と若師範が取引しているのを目撃したんですよ」
「ええっ」
「売買人はいかにも怪しげな男でした。あの時、無理やりにでも止めてさせておけば、今回のことは回避できたと思うと、我ながら情けない。今から若師範に連絡先を聞きに行くところでした」
 彼らは行こうとしたが、夢好が振り向き、
「で、咲和さんは何のご用でここへ?」

第 七 章 ハンチング帽の男

「じんましんのお弟子さんたちに効く漢方薬を教えていただこうと思ったのです」
 咲和は神妙な顔つきだ。
「このままではお作法教室は、つぶれてしまいます」
 しかし、それは難しいことだった。西洋医学でも、人工ムスクによって出たじんましんは、なかなか治まらない。
 夢好たちも、徹夜で実験を繰り返し、なんとか漢方を探そうとするがうまくいかない。
「咲和さん、若先生と取引していた男を捕まえたい。何か分かったことがあったら、僕に知らせてほしい」
「わ、分かりました」

 すっかりひと気のなくなったお作法教室に、咲和は久しぶりに行ってみた。
 お屋敷には、女中や住み込み弟子の姿もめっきり少なくなり、着物をだらしなく着くずした一路が、無精ひげを生やして座敷で昼間から酒を飲んでいた。
「若先生……」
「う? ひゃっく」
 咲和の声に、うなだれていた顔を上げた一路が、完全に酔っぱらっていた。
「どいつもこいつも出ていけ! 親父もしばらく別荘へ行くなんて言って、もう帰ってこないだろう。これだけ、お弟子さんにじんましんをこさえてしまって大騒ぎになったんじゃなあ」
 お酒のついた口元をぐいと腕で拭く。
「一路先生! しっかりなさって下さい」
 咲和が肩を貸して彼の部屋に連れていき、布団を敷いて寝かせた。
「凜とした正座をなさる一路先生はどこへ行ってしまったの」
 座敷へ戻った咲和の頬を涙が伝った。
 そこへ、いきなり廊下の電話室のベルが鳴った。咲和が涙をぬぐいながら出てみる。
「もしもし、萩島作法教室です」
 交換手から替わったのは、中年男の声だった。
「萩島さんかい?」
「主人は今、休んでおりますが」
「女中さんかい。じゃあ、俺は江端ってんだ。またかけるって伝言頼んだぜ」
 男はそれだけ言って電話を切った。
 あ、と目を見開いた咲和は、ふところから手帳を取り出して、大急ぎで受話器を上げた。
 交換手がつないだ。
「もしもし、夢好さん? 『江端』という名前に覚えはありませんか?」
「江端ねえ。……江端!」
 電話の向こうで夢好がひらめいた気配がした。

 夢好ひとりがお作法教室へやってきた。
 出迎えた咲和とふたりで待っていると、寝床から一路が起きてきた。夢好を見て、
「あんたは?」
「勝手におじゃましております。咲和さんの知人の者です。少し待たせていただいています」
「何をだね」
 電話室のベルが鳴った。咲和が飛んでいって受話器を取った。
「若師範、お電話です。江端さまとおっしゃる方から」
「えばた……江端だと?」
 若師範は走っていき、急いで電話に出た。
 電話室の手前の壁に、咲和と夢好は張り付いて耳をすませた。
「ああ、ああ、そうだ。その人工ムスクの副作用を鎮める漢方を教えてやろうってんだよ」
 咲和と夢好は、顔を見合わせた。
「やっぱり、サロンで出会ったハンチング帽の男、江端だったんだ。人工ムスクを高額で売りつけ、お弟子さんたちにじんましんをできさせたのも、あの男の仕業だ」
 咲和もうなずく。
「今度はどうやら」
「うん。人工ムスクの副作用を消す漢方を売りつけてきたんだ。多分、最初からセットで用意してあったんだ」
「どうしよう、また師範が高額で買わされちゃうわ」
 電話室へ飛びこもうとした咲和を、夢好が引き留めた。
「待って。江端っていう男を捕まえるために待つんだ」

第 八 章 正座フェロモン

 ほどなく、びっくりするくらい早くハンチング帽をかぶった江端が作法教室へやってきた。
「善は急げってやつだな」
 出迎えた若師範は、大喜びしている。
「君、本当なんだな、じんましんの引っ込む漢方薬があるって」
「本当ですとも。あのムスクはたまに合わない人がいるので、ご迷惑をかけましたね、萩島さん」
「売ってほしい! お弟子さんや大師匠もカンカンなんだ。勘当されるだろう」
「ご安心下さい。このトランクいっぱいに入ってますよ」
「おお!」
 江端がトランクを開けようとした時、咲和が玄関口に正座して、その手を押さえた。
「何をするんだね、君」
「若師範。買ってはダメです。これもインチキの薬に決まってます。じんましんはもっとひどくなりますよ」
「お嬢ちゃん、商売の邪魔しちゃ困るね!」
 ハンチング帽の江端がギロリと睨んだ。
 負けずに咲和は、トランクの上に力強く乗っかって正座した。素早かった。背筋をまっすぐにし、着物の裾を膝の内側に折りこんで正座を決めた。
「若師範にこれ以上、いかがわしいものは売らせません」
 咲和の目力と正座の清々しさが周りの者に伝わる。
 思わず江端はひるんだ。
「絶対、売らせませんよ。あなたには、人工ムスクで大勢の人を苦しめた罪で警察へいってもらいます」
「なんだと」
 男は無理やり、咲和の身体の下にあるトランクを持ち上げようとしたが、びくとも動かない。
 夢好は、ハッとした。
(男の力を半減させているもの、つまり咲和のびくともしない正座を作り出しているもの――『正座フェロモン』だ!)
 少しムスクを使用しただけの人でも、正座がきれいにできたり、頭がすっきりしたりするのだから、長く使っていた咲和は、『正座フェロモン』を自分で分泌できるようになっているのだ。
 それはムスクが人間の強い思いと能力と融合して初めて作り出せるフェロモンなのだ! 対峙する人間の能力を半減できるとピンと来た。

 押しても引いてもトランクはビクともしない。ついに江端が諦めて逃げ出そうとした時、教室の周囲に張り込んでいた警察官たちが、一斉に飛び出してきて抑えこんだ。夢好が首尾よく通報しておいたのだった。
 江端は手錠をかけられ、咲和が正面から正座した。
 相手を睨みつけ、膝をつけて着物の裾を膝の内側に折りこみ、かかとの上に座る。
「さあ、白状しなさい。人工ムスクはどこでどのように作っていたのか」
「わ、わかりましたよ……」
 江端はすべて白状した。

「ムスクって奥が深いんですね」
 自宅の縁側でやっとくつろいだ咲和が、お茶をひと口味わって言う。
「正座も奥が深いよ。ムスクと混じるとすごいフェロモンができるとは―――」
 夢好も隣に座っていた。
「いくらムスクが奥深いからと言って、基本の正座ができていなければ力は発揮しないでしょう。やはりお稽古を重ねることが大切なのですわ」
「うむ。うむ。その通りだ」
「これから、じんましんに効く本物の漢方を夢好さんに作っていただかないといけませんね」
「うん、頑張ります。若先生のためにも、お作法教室を復活しないとね。咲和さんの『正座フェロモン』の威力を知ったら、すぐにお弟子さんたちが戻ってきそうだ」
「ええ。信じましょう」
 縁側で正座しながら夕暮れの白い梅を眺めた。
「夢好さん、若先生のためにっておっしゃいましたね。ライバルなのに?」
「ライバルというと?」
「その……こ、恋のライバルですわよ。今はライバルでなくなりましたけれど」
 頬を赤く染めて白梅を見る咲和につられて夢好も真っ赤になった。

 一か月後、夢好たちは、人工ムスクからじんましんに効く薬を作り出した。

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