[254]座郎(すわろう)じいさん、正座の音を聞く


タイトル:座郎(すわろう)じいさん、正座の音を聞く
掲載日:2023/04/19

著者:海道 遠
イラスト:よろ

内容:
 家電量販店のデジタル機器カウンター係のキナコは、毎日のようにパソコン教室代わりに操作方法を尋ねてくる座郎(すわろう)じいさんと孫息子に困っていた。
 しかも背の高いスツールからよく落ちるので、苦手な上司に願い出て大型椅子を自腹で購入して正座してもらうことに。
 キナコのお作法教室の若葉師匠が、カウンターの上でペットのうさぎ、みたらしに香箱座りをさせる。師匠は以前から「正座の音」とは? という課題をお弟子さんたちに出題していた。



本文

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第一章 デジタル機器売場

「やっと分かりましたよ、ありがとう、おねえさん!」
 茶色のビロードとグレーのツイードのハンチング帽をかぶり、歯が少々足りない口元でにっこり笑い、小さな円形のスツールから下りたのは、座郎じいさんだ。
 小柄な座郎じいさんにとって、カウンターに並べられているスツールは少々高い位置にある。
 床に着地する時、足を滑らせた。
「あ、お客様!」
 サポートカウンター係のキナコは慌てたが、じいさんの連れの青年が受け止めた。
「座郎祖父ちゃん! 危なかったなあ」
「おお、平気平気。ありがとよ。判太(はんた)」
 孫の青年に支えられて、ノートパソコンを小脇に抱えて帰っていく。ふたりの後ろ姿を見送りながら、キナコは、どっと疲れを感じた。
「どしたの、キナコ。まだ午前中だけど、そんなに疲れた?」
 声をかけたのは同期入社のアマミだ。キナコと同じ接客係のピンクのベストスーツを着ている。
「あのおじいちゃんと青年のコンビよ。毎日来られるでしょう?」
「そんなにパソコンやスマホの調子が良くないのかな?」
「調子の問題じゃないの。基本の操作方法が分からないから、うちの量販店に来られるのよ。アドレスの登録方法とか、メールの送受信だとか、コピペの方法だとか」
「ええ? じゃあ、パソコン教室の代わり?」
「そういう感じなの」
 キナコは肩をすくめた。
「付き添いの青年は二十代に見えるけど、教えてあげられないのかしら?」
「お孫さんのようだけど、どうやら、彼も相当なメカオンチみたいで……」
「あちゃ~~!」
 アマミは、おでこに手を当てて上を向いた。
「でも、何回も来られること以外は言葉遣いや態度も丁寧だし、いいお客様なのよ。だから困るんだけど……」
「キナコは人がいいからねえ」
「それより、さっきも見てたでしょ? ここのカウンターのスツール、高齢の方には少し高いから危ないのよ」
「見た見た。落ちて怪我でもされたら大変なことになるよね」
「昨日もバランス崩して、フロアじゅうに響き渡る音で倒れたのよ」
「こっちの家具売り場にも聞こえたわ。怪我がなくて幸いだったわね……」
「鈴木課長に言ったって、店内設備を変えるのは簡単にいかないでしょうしねえ。それどころか『質問だけのお客の相手などするんじゃない!』って言われてるの」
「う~~ん。さっきも鈴木課長、こっちを睨んでたもんね」
 鈴木課長は販売課の上司で、いつもブルー系のストライプのネクタイを締めていて部下には辛口で、キナコには少し苦手な人だ。
「アマミ。私が週に一回、お作法教室に通ってるの、知ってるでしょう? そこの師匠に愚痴をこぼさせてもらうことにするわ」
「それがいいわね」

 第二章 正座の音

 通い始めて三年くらいになるだろうか?
 キナコの通うお作法教室は閑静な住宅街にあり、緑豊かな庭が若葉師匠の自慢だ。庭木が、町の騒音を吸い取ってくれるのだそうだ。
 師匠はいつも座敷で「正座の音」に耳をすませている。
 キナコには「正座の音」の意味が分からない。正座に行きつくまでの、「正座の所作の音」なら分かる。
 廊下を歩いてくる時の衣ずれの音、座っていた姿勢から背すじを伸ばして立ち上がる時の衣ずれの音、床に膝をつき、着物や衣類に手を添えてお尻の下に敷いて、かかとの上に座る所作などからも細かい音が聞き取れる。
 しかし「正座の音」となると、深く考えれば考えるほど分からない。
 師匠は、やや年配の女性だが「正座の音」を理解しているようだ。弟子たちに「言葉では教えないから感じ取ってください」と言うばかりだ。
 キナコを含め、弟子たちは永遠の課題を出されたようなものだ。
 若葉師匠に、キナコは座郎じいさんのことを相談してみた。
「まあ、そんなことが……」
 若葉師匠は黒々とした結い髪を傾けて、
「私もデジタル機器はほとんど使いこなせませんが、カウンター席のスツールが問題のようね。キナコさん、明日の昼間、ご職場へおじゃましていいかしら?」
「えっ?」
 キナコは両目をくりくりした。
(そうだった! 師匠は思い立ったら「即!」の方だってことを忘れてた!)
 座敷の隅に置かれているケージの中では、若葉師匠の愛するペットのうさぎの『みたらし』が、藁(わら)をシャキシャキ頬ばっていた。

第三章 若葉師匠が店へ

「こんにちは!」
 キナコの勤務する量販店へ、本当に若葉師匠がやってきた。
 お稽古の時とは違い、カジュアルなパンツルックで黒髪も肩に下ろしているので、キナコはおどおどしてしまった。
「ふうん、これね。カウンターのスツールは」
 師匠はスツールの小さな背もたれに触れてみたり、自分で座ってみたりした。
「確かにご高齢の方には、危ないかもしれないわね。いくら床に接続されているとはいっても、身長が低めの方は背伸びしなきゃ席につくことはできないし」
 しばらく考えこみ、
「低い方のカウンターに二脚だけ、大型のソファを取りつけていただくよう、上司の方に申し出てみてはいかがかしら? キナコさんからお聞きした座郎さんのためだけでなく、すべてのご高齢の方のために。大きなソファなら正座することもできるわ」
「ソファの上で正座ですか?」
 思わずキナコは問い直した。
 鈴木課長に新しい設備を申し出るだけでも、かなりな勇気が必要なのに、ソファの上で正座までするように若葉師匠が言い出すとは思っていなかった。
「正座すれば『正座の音』を聞き取れて、心が穏やかになれて、教えていただくことも覚えやすいはずですよ」
(出た! 若葉師匠お得意の「正座の音」が!)

第四章 お人よし

 その日の午後、あきらめながらも、キナコは鈴木課長に大きな椅子の設置を申し出てみた。
「君い、この経営難に、そんなことが会議にかけられると思うのかね?」
 ひと言で蹴られてしまった。
「ええい、こうなったら!」
 キナコは自腹を切って、大きな椅子を購入することにした。
「キナコ、ボーナス一回分が全部なくなるくらいの値段でしょう、大きな椅子って。買ってから設置する許可が下りなかったらどうする気よ?」
 家具売場担当のアマミが冷静な意見を言った。
「設置の許可はどうにか取ったわ。鈴木課長だって、お客様から怪我人を出したくなんかないでしょうから」
「やれやれ、あんたってば本当に義理堅いというか、なんというか」
「若葉師匠が費用の半分、持ってあげるって」
「まあ、お師匠さんまでお人よしなのね」

第五章 ソファで正座

 新しい椅子が設置された日に、若葉師匠が確かめにやってきた。
 背中にプラスチック製の大きな楕円形のリュックを背負っていて丸い窓から覗いてるのは……黒いつぶらな瞳をキラキラさせている。
 座郎じいさんと孫の青年も、またもやスマホの質問にやってきた。
「おや、判太。見てみろ、デカい椅子があるぞ」
 若葉師匠が座郎さんたちに歩み寄った。
「初めまして。私、キナコさんの通っているお作法教室の若葉と申します。こちら正座用の椅子なんですよ。まるでマッサージ機みたいな豪華なお品ですね」
「おお、初めまして。微笑多(ほほえんだ)といいます。正座用の椅子ですと? わざわざ、この上に正座するんですか」
 キナコがいつもより丁寧な口調で、
「今までの椅子ですと、落ちられた時に危ないですから二脚だけですが、ご用意させていただきました」
「おお、いつものおねえさん! それはありがとう。しかし、正座とは?」
「私が見本をお見せしますね」
 キナコは椅子に向かって膝で登り、方向転換してスカートをお尻の下に敷き、正座した。四角い椅子の座面にぴったり納まった。背もたれもたっぷりあり、サイドには腕を置く場所もあるので、安定感がある。
「へえ~~、おねえさん、上手だね。うちの祖父ちゃんのためにありがとう」
 孫息子の判太が初めてお礼を言った。
「はい、お客さま、どうぞお座りください」
 座郎じいさんは椅子の上に膝で乗り、よっこらしょと方向転換して正座した。
「正座するのは久しぶりだな。背もたれが大きくて、どこかの社長になった気分だ」
 嬉しそうに椅子を回転させてみた。
 若葉師匠は「ホホホ」と笑い、
「正座、お上手ですよ。ところで微笑多さんでしたね。動物はお好きですか?」
「何ですか? 藪から棒に。動物なら大好きですぞ。馬や牛から犬、猫、ヤギにアヒルに、ツバメももちろん」
「ツバメ?」
「わしゃ、スワロウ(座郎)ですからな。ハッハッハ」
 一同は黙りこんだ。判太がボソッと、
「祖父ちゃん、皆さんが困ってるだろ。ダジャレは家の中だけにしといてくれよ」

第六章 みたらし初出勤

 若葉師匠が、背負っていた楕円形のリュックから何かを抱えてカウンターの上に置いた。
「おや、うさぎだ」
 ミドリ色のハーネスを着けたベージュのうさぎを見て、座郎じいさんたちは珍し気に見つめた。うさぎは前足と後ろ足を胴の下に隠して四角くなって座っている。
「おりこうね、みたらし。しばらくそうやって香箱座り(こうばこすわり)しているのよ」
 若葉師匠がみたらしに言い聞かせた。
「師匠、みたらしちゃんを置いていくんですか」
「ええ。火曜日と木曜だけね。課長さんから許可はいただきました。というわけで、キナコさん、みたちゃんの世話をお願いするわね」
「ええっ」
 いきなり言われてキナコは戸惑った。師匠のお宅で、ワラの餌くらいはあげているが、一日じゅう世話をしたことはない。あの頑固な鈴木課長にまで話をつけるなんて、師匠の抜け目のなさに呆然とするばかりだ。
 若葉師匠は自信満々に、
「この子の香箱座りを見ていると、美しい正座ができること請け合いです。視覚から正座のカタチを座郎さんに刷りこむのです」
 座郎じいさんは、
「はあ……? 座るうさぎを見ていれば、正座がきれいにできるようになるとな?」
「はい。ですから微笑多さんにも、この量販店にはなるべく火曜と木曜に来ていただきたいのです。香箱座りは、言わば『うさぎの正座』です。正座をなされば椅子から落ちる心配も少なくなくなります。私もみたらしが出勤している間、寂しいけどガマンしますから」
 若葉師匠はハンカチを目元にあて、カウンターの上にちょこんと置かれているみたらしを抱きしめて、ツヤツヤの背中に頬ずりした。
「みたちゃん、週に二回だけ、ここでお座りするのよ。寂しいでしょうけど、キナコおねえさんがご飯やおやつをくれますからね」
(勝手にどんどん決まっていくんですけど……)
 若葉師匠の暴走に巻きこまれていくキナコと座郎さんたちだ。
「座るうさぎを見て、きれいな正座ができて、椅子ごと転ばなくなってゆっくりパソコンの説明が聞ける。それから、その他には何かあるんだろうか?」
 首をかしげる座郎じいさんに、これぞとばかり、続けようとした若葉師匠が、
「はい! 正座が美しくできれば、『正座の音』が――うぐっ」
 話そうとしたとたん、キナコが師匠の口元をふさいだ。
「師匠、ぼちぼち行きましょう。これ以後は、おいおいに」
「そうね。今日は、みたちゃんの初出勤だけね」

第七章 うさぎと正座

 若葉師匠の一発ぶちたい正座論議のタイトルは、キナコにはお見通しだ。
【正座が美しく整うと、正座の音が聞こえます】だ。
「座郎さんに、それをお教えなさりたいんですよね? 師匠」
「さすが、キナコさん、分かってるじゃない!」
 無邪気な少女のように師匠の顔が輝いた。
「……私は課題だけで、答えは永遠に分かりそうもありませんが」
「座郎さんなら、答えを出してくれるかもしれないと思ってね」
「座郎さんが?」
「メカオンチで困っておられるようですけど、古来の正座の奥義(おうぎ)とかには勘が鋭いかもしれませんよ」
「へえ。お洒落な、ちょいワルおやじって感じしかしませんけど?」
「そう? 正座のルーツって大昔の中国からだと言われているのよ。座郎さんって、白い着物に着替えさせて杖でも持たせたら、仙人って感じがしませんか?」
「座郎さんが仙人?」
 キナコは思わず吹き出したが、
「師匠、この続きはまた教室でお願いします」
 おしゃべりしているとアマミがやってきた。カウンターに座っているうさぎを見つけて、
「わあ、可愛い! うさちゃんじゃないの!」
「そうなの。今週から週に二日だけ出勤することになったのよ。正座の若葉師匠のとこのうさぎちゃん。みたらしちゃんていうの。女の子よ」
「みたちゃんね~~!」
 さっそく抱っこされたみたらしは、黒い眼をくりくりさせている。
「アマミ。動物が好きなのね。私と一緒にみたちゃんのお世話してくれない?」
 キナコが顔の前で合掌した。
「いいわよ。仕事の合間なら」
「わあ、良かった!」
 若葉師匠は、アマミにも「宜しくお願いします」と言って、帰っていった。

第八章 うさぎの波紋

 しかし! キナコとアマミは、好きなだけで、うさぎの習性もよく知らず世話なぞ安請け合いするものではないと、すぐに思い知った。
 カウンターの上で、いきなりバッタンコと倒れたみたらしを見て、
「きゃあ、みたちゃんが気絶したわ!」
「大丈夫、うさぎはこういう寝方するのよ」
「だってほら、目を開けたままよ」
「うさぎは目を開けたまま、眠るの。師匠のところでもいつもそうよ」
 お茶碗はひっくり返してカウンターの上にフードがばらまかれるわ、ところかまわず、パチンコ玉のようにウン〇はどんどんするわ、ご機嫌の悪い時には思いきり床を足踏みして「ダンッ☆」と鳴らすわで、ふたりともパニックだ。
「君たち! うさぎのことは許したが、カウンターの上は常に清潔に!」
 鈴木課長の声が飛んできた。キナコは鬼の形相になって辺りをピカピカにした。

 しばらくして、座郎じいさんの孫息子の判太くんが再びやってきた。
「あら、微笑多さんのお孫さん。何か忘れ物でも?」
「いや、違うんです」
 判太くんは、いつもお祖父ちゃんに付き合いで店員の説明を静かに聞いていて、あんまり存在感がないのに、今ははっきり言いたい事がありそうな顔をしている。
「お作法の先生は?」
「若葉師匠なら、さっき帰られましたが」
「そうですか……」
 判太くんは諦めて戻りかけたが、また振り向いた。
「さっき師匠が言おうとされていたことって、『正座の音』のことじゃないんですか?」
 キナコはやっと戻ったカウンターの内側から飛び出してきた。
「どうしてそれを?」
「うさぎを連れてこられたからです」
「みたちゃんと何か?」
「ボク、大学で中国史を専攻してるんですが、昔の中国ではすでに正座が行われていて……」
「日本独自の座り方じゃなかったの?」
「最近の研究から、紀元前に帝国時代が始まった頃には、貴族も一般庶民も生活の中で正座していたという記録があったという内容の論文が発表されています。――うさぎを側に置いて」
「なんですって?」
 キナコは判太とみたらしを交互に見た。
 判太はいつもとは別人のように生き生きと話している。
(判太さんの話してることって、若葉師匠の大好きな「正座の音」というテーマに近いじゃない! それに、昔の中国でのうさぎのことまで、なんて偶然!)
 それと判太の元気よさに呆気にとられた。

第九章 古代中国で

 数日後、キナコは判太を若葉師匠の教室へ案内する。
 判太の言った「正座についての論文」のことを聞きたかったからだ。それと、帝国時代の中国で正座する時にうさぎを置いていたという習慣についても、もう一度、判太からしっかり聞きたい。
(お店の椅子を買うのに自腹切ったり、お客様を若葉師匠に引きあわせようとしたり、私、何をやってんだろう?)
(でも「正座の音」って何のことだか気になるんだもんね)

 若葉師匠は、キナコと判太をお座敷に通してゆっくり話を聞き、落ち着いた口調で答えた。
「その昔、中国ですでに正座が行われていたという論文は知っています。でも、うさぎについては知りませんでした」
 判太は初めて訪れるお作法教室に少々固くなりながらも、自分の大好きな中国史についての話題に瞳がキラキラしている。
「ボクが読んだ論文では、耳の良いうさぎを飼って様子を観察することにより、庶民は憲兵に当たる検非違使(けびいし)という役人が、民家の周りを巡回する足音に気づくために飼っていたということです。貴族もまた、検非違使の気配が近くにないか警戒するためです」
「臣下や民家の周囲を巡回といいますと?」
「支配者が、少しでも臣下や民が自分の批判を言っていないか監視していたのです。疑われた者は、すぐに身を拘束されて検非違使庁に連れて行かれます」
「まあ……。帝国時代の中国って、そんなに恐ろしい国だったのね」
 キナコと若葉師匠の表情は強張った。
「そうなんです。ところで、若葉師匠がうさぎを飼っておられるのは『正座の音』というのと何か関係が?」
 今度は判太が質問した。
「私がみたらしを飼い始めたのは、生徒さんたちが帰られた後に静かになって寂しいからですよ。『正座の音』の課題は、私の師匠から出された問題なんです。偶然にも正解かしら? と思うようなヒントには気づきましたけどね」
 キナコが乗り出した。
「じゃあ、師匠は『正座の音』の正解をご存知なのですね?」
「正解ねぇ……、正解と言えるかどうか、ただ見当をつけただけのことですよ」
「それは、いったい?」
 キナコと判太は、ごくりとツバを飲みこんで師匠の答えを待つ。
「だめだめ。他の生徒さんたちより先に、あなた方に言うわけにいかないじゃないの」
 照れ笑いしながら、若葉師匠は答えを言うのを引き延ばした。
 出されたお抹茶を、仰いで飲み干した判太は、
「若葉師匠、ボクを弟子入りさせてくださいっ」
 正座して、ガバっと頭を下げて言った。よほど若葉師匠の答えが聞きたいらしい。

第十章 座郎じいさんとうさぎ

 翌日、キナコが出勤すると朝礼前だというのに、カウンターの前に社員に混じって、座郎じいさんの姿があった。
 キナコを見つけるなり血相変えて走り寄り、
「は、判太のやつ、朝起きたら姿が見えないんだ! あんた、何か知らんかね? あいつがいないことには、ここの説明がさっぱり分からんのだ!」
「判太さんがおられない?」
 キナコはスマホを取り出し、若葉師匠にメールしてみた。
『微笑多判太さんが、そちらに見えてませんか?』
 若葉師匠の返信を読んでから、
「座郎さん、判太さんは若葉師匠のお作法教室におられます。弟子入りされたんです」
「弟子入りだって? ワシは何も聞いてませんぞ。ちょっと電話、変わってください」
 キナコからひったくるようにスマホを受け取るなり、
「おねえさん、電話するにはどうすればよいんでしたっけ?」
「あ、ここの箇所にタッチするんです」
 座郎じいさんは言われた通りにした。
「お作法教室の先生! ちょっと孫に変わってもらえませんか?」
 少し間があり――、
「おお、判太! 若葉師匠さんに弟子入りしたんだと? 朝早くからおじゃまするとは、どういうことだ」
『だって、大学行く前に少しでも正座の修行したかったんだもん』
「ワシの付き添いはどうなる?」
『空いてる時にな』
「そ、そんなっ、判太!」
『じゃ、お稽古が始まるから、またな』
「判太!」
 判太は電話を切ったらしい。
 朝礼とラジオ体操の終わったキナコは、口元をひん曲げている座郎じいさんに、温かいお茶を心をこめて淹れた(いれた)。
「座郎さん、こちらに正座なすってお茶でも一服いかがです? 分かりにくい点は、私ができるだけゆっくり説明させていただきますよ」
 座郎じいさんは新しい大型椅子に昇り、向きを変えてモゴモゴと正座した。
 若葉師匠のお弟子さんが、みたらしを運んできたので、受け取ったキナコが、カウンターの上に抱っこしてきた。今日は火曜日なのだ。
「よいしょっと」
 みたらしは、顔をクシクシするなど身づくろいしてから、おとなしく香箱座りした。
「ハイ、みたちゃんもスタンバイOKです」
 座郎じいさんはお茶を味わった。みたちゃんの頭も撫で終わると表情を和らげて、脇に抱えていたノートパソコンを開く。
「じゃあ、ファイルの保存の仕方だが――」

第十一章 大型椅子で正座

 みたらしが量販店のカウンターに「香箱座りの勤務」について、一か月。
 週に二回、おりこうに香箱座りして、時々、お客さんからなでてもらったり写真に撮られたりして、けっこう人気者になっている。
 みたらしが香箱座りしていることによって、座郎じいさんがデジタル機器の説明を理解しやすくなったかどうかは分からないが、カウンターに本物のうさぎがいると和やかな雰囲気になった。
 キナコは、座郎じいさん以外の高齢の方にも、大型椅子での正座の所作を説明している。
 まず、椅子の付近に緋色の毛氈を敷き、畳の時と同じ所作をやってみせる。
「まず、背すじを真っ直ぐに立ちます。毛氈の上に膝をつき、女性でスカートの方はお尻の下に敷いて、かかとの上にゆっくり座ります。両手はお膝の上に静かに置きます。――この所作を立ち上がるのは危険なので省略して、大型椅子の上でしていただきます」
 高齢の方々は、キナコのお稽古通りに座ってみて、カウンターでゆっくり話していくのだった。

第十二章 仙人ぽい

 一方、若葉師匠の教室では、判太くんに正座の稽古が終わるとふたりで『正座の音』論議を楽しんでいた。
「中国の仙人ぽい座郎さんは、『正座の音』について何かご意見なさらないの?」
 若葉師匠の質問に、判太は飲みかけのお茶を吹いてしまった。
「祖父ちゃんが、中国の仙人ぽい? ちょいワルおやじなら分かりますけど」
「ちょいワルは失礼ですわよ。ちょいイケにしてあげてください」
 若葉師匠は苦笑してから、
「それに、仙人の威厳と風格を十分備えておいでですわ。きっとみたちゃんの香箱座りから何かを感じておられるはず」
「そうですかねぇ」
 判太くんは、正座の歴史と所作以外には興味がない。

第十三章 うさぎの足ダン

 ある日、みたらしの姿が見えなくなった。ハーネスから抜け出して行方不明になったのだ。
 お迎えに来た若葉師匠やキナコたちは大騒ぎして探し回る。
「どこへ行っちゃったのかしら。いつも勤務の時間の間はちゃんと香箱座りか、バタン寝してるのに……」
 カウンターの下、数十メートルを探し回ったがいない。アナウンスしてフロアの店員全員に探してもらったが見つからない。
「どうしよう、みたちゃん、どこ?」
 鈴木課長がやってきた。
「少し前に、うさぎに接近していたお客さんがいた。中年の男性だが」
「本当ですか!」
「別の日に多分、同じ男性から質問されたんだ。『うさぎの足ダンッ☆の習性を利用して、番犬ならぬ番うさぎの電化製品が作れないものかな?』と言っていたが、冗談だと思って真に受けなかったんだ」
「うさぎの足ダンッ☆の習性なんて知ってる人は、うさぎを飼ったことないといないですよ。私もみたちゃんに会うまで知らなかったんですから。ねえ、アマミ?」
 キナコがアマミに言うと、彼女もうなずいた。
「それは、みたちゃんをAIロボットにするってこと?」
 真っ青になった若葉師匠である。
「師匠、落ち着いてください! みたちゃんをロボットにできるわけありませんよ」
「だって、サイボーグとかあるじゃない……」
「師匠、それはSFの世界だけですよ。今の科学力では不可能です」
 キナコは若葉師匠のメカオンチぶりが想定外だと、よおく分かった。

第十四章 発見!

「みたちゃ~~ん! みたちゃん、どこ~?」
「みたちゃんの大好きなリンゴがありますよ~~」
「若葉お母さんもお迎えに来てますよ~~」
 午後八時を回ったが、みたらしはまだ見つからない。
 皆が腰を曲げたり、四つん這い(よつんばい)になったりしてフロアじゅう探している間、座郎じいさんは、いつものカウンター席に正座して目をつむってじっとしていた。
「祖父ちゃんも探してくれよ。祖父ちゃんのために若葉師匠が連れて来てくれた、みたらしちゃんだよ?」
 判太が勧めたが、座郎じいさんは瞑想にふけってでもいるように、じっと目を閉じたままだ。
 やがて午後十九時を回り、店内には客の姿は無くなり、めっきり静かになった。
 その時! 座郎じいさんの目が開いた。
「皆さん、ちょっとお静かに!」
 みたらしを呼ぶ声を止めた。再び目を閉じて耳をすませてから、
「いつものおねえさん、おられるかな」
 キナコを呼んだ。
「この近くにロッカーのような場所はあるかね?」
「従業員の着替え用のロッカーは、別のフロアですが、アクセサリーなど小物の在庫の物入れは、このカウンターの裏側にあります」
「アクセサリー?」
 怪訝(けげん)な顔になった。
「祖父ちゃん、スマホの充電器とかスタンドとか小物のことをアクセサリーっていうんだよ」
 判太が答え終わる前に、
「そこだ! その物入れの中に、うさぎがいる!」
「ええっ?」
 キナコ、判太はじめ、若葉師匠たちはカウンターの裏側に突撃した。物入れの小さな扉が並んでいる。キナコとアマミが順番に開けていくと、――いた! みたらしが!
「みたちゃん!」
 みたらしは、充電器を梱包したケースをかじり、コードを何本もかみ切って、それらの山のてっぺんに香箱座りをしていた。
「みたちゃん、こんなところにいたのね」
 コードとケースの残骸の山をかき分けて、若葉師匠が抱っこする。
「大丈夫? いくら狭いところが好きだからって、こんなところに入りこんだの? お腹が空いたでしょう」
 鈴木課長も駆けつけてきた。
「いつものカウンターに連れて行ってあげなさい。エサを用意しておいたから」
「ええっ、課長が?」
 てっきり、みたらしがかじったりしたアクセサリーをすべて弁償するように言われると思ったキナコは、拍子抜けした。

第十五章 うさぎの声

 みたちゃんは皆に見守られて、やっとカウンターの上でご飯をもらった。
「座郎さん、どうして、みたちゃんの居場所が分かったんですか?」
「うさぎの正座の音が聞こえたからさ」
 座郎じいさんは、椅子を反転させながら、白髪の眉を下げてにっこりした。
「な、なんですって?」
「『正座の音』が聞こえたのか、祖父ちゃん!」
 判太が皆を代表して、一番に聞いてくれた。
「ああ、うさぎの正座特有の音というより、声がな」
「そ、それは、どんな?」
「前から、ワシの向かい側で香箱座りとやらをしている時の小さな声だ。クウクウ……みたいな感じの」
「それは、うさぎが甘えている時の声ですわ!」
 若葉師匠が叫ぶように言った。
「みたらしが知らないところへ紛れこんでしまって、助けを呼んで甘えた声を、座郎さんが聞き取ってくださったのは――、座郎さんも、椅子の上で正座して耳と心の耳まで研ぎ澄ませてくださったからですわ!」
 若葉師匠は興奮していた。
「師匠、それはいったい?」
 キナコが尋ねる。
「キナコさん、あくまで私の推測よ。『正座の音』って、正座している本人から発する音というよりも、感じる音だと思うの。正座することによって瞑想状態に入って聞き取る音。それが『正座の音』だと思うのよ」
「座郎さんが正座していて、皆が聞き取れないみたちゃんの甘える声を聞き取ったんですね!」
 一同、座郎じいさんに尊敬の眼差しを向けた。

第十六章 弟子入り志願

 若葉師匠は、冷えたフロアに、着物姿のまま隙のない正座をした。三つ指ついて、頭を下げてから座郎じいさんを見上げた。
「どうぞ、私を弟子にしてください」
「で、弟子? ワシが若葉師匠に何を教えるんですか?」
「『正座の音』の聞き取り、お見事です。感銘を受けました。やはり思ったとおり、座郎さんは中国の仙人さまのような神通力をお持ちのようです」
 座郎じいさんはごま塩頭をかきかき、
「うさぎの声に気がついただけですよ。ワシには神通力などありはしません。あっはっは」
「ロッカーにいるみたらしを言い当ててくださるなんて、『正座の音』の件ばかりでなく、まるで超能力のようでしたよ」
 そこへ、鈴木課長が慌ててやってきた。
「若葉師匠が、微笑多さんに弟子入りされるのなら、私は若葉師匠に弟子入りをお願いしたいと思います」
 ぎくしゃくした動作でフロアに正座して頭を下げた。
 若葉師匠は、
「鈴木課長さん。私が座郎さんに弟子入りをお願いしたことと、貴方が私に弟子入りされることと、どう関係があるんですの?」
「そ、それはですね……」
 鈴木課長は額にどっと吹き出した汗をハンカチでぬぐった。
 キナコも首をかしげていると、アマミが耳うちした。
「キナコ、鈴木課長は若葉師匠に気があるのよ。だから座郎じいさんに取られまいと、弟子入り志願したんだわ」
「なんですって? 鈴木課長が?」
「みたちゃんが、変な男にロボットにされそうなでたらめな噂まで作ったのも、若葉師匠の気を引きたかったんだわ、きっと」
 アマミの目は、確信を持っていた。
「だから、みたちゃんをカウンターに置くことを許したのね! アマミ、あんたってこういうことには鋭いわねえ」
「ふふふ。とはいえ、この三角関係はどうなることか予測がつかないけどね」
 カウンターの上では、みたらしが皆のおしゃべりを聞いているのかいないのか、どっしり落ち着いて居眠りしていた。香箱座りをして――。


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